(4)モンテッソーリが「メソッド」を書き上げる100年ほど前のこと。19世紀初頭のイギリスで、ある詩人が、一つの詩を完成させた。詩人の名はウィリアム・ワーズワス。
ワーズワスは、1770年にイギリスの湖水地方に生まれる。幼い頃に、母と父を続けて亡くし、兄弟姉妹とともに親戚の後見のもとに育つ。大学はケンブリッジに進む。当時のケンブリッジで学問の中心となっていた、天文学、幾何学、古典学、経験論哲学、神学などを学び、学位を取得。大学時代は、革命の大波にのまれるフランスを通り、アルプスへ旅行した。大学を出てからも、詩作を続ける。妹のドロシーと、同じく詩人のサミュエル・コールリッジと交流しながら、湖水地方で場所を変えて暮らした。スイス、ドイツ、イギリス国内など各地を旅しながら、取り巻く自然から感じ取ったことから内省し、詩にした。
ワーズワスについて知ろうと思い、「対訳 ワーズワス詩集 イギリス詩人選(3)」(山内久明編/岩波文庫、1998)を借りてくる。この本にはモンテッソーリが好きだったという詩も収録されていた。詩が完成したのは、1804年。題は「幼少時の回想から受ける霊魂不滅の啓示」。204行からなる長い詩である。次のような題詞が添えてある。「子どもこそおとなの父、願わくは一日一日が、生来の自然への敬虔な心で結ばれるように。」。
詩は、次のように始まる。「かつては牧場も森も小川も/大地も、目に映るありとあらゆる光景が/私にとって/天上の光に包まれて見えた、/夢の中の栄光と瑞々しさに包まれて見えた。/だが今はかつてとは異なる。/どちらを向いても/夜であれ昼であれ/もはや今、かつて見えたものを見ることはできない。」。子どもの頃には、自然に包まれて見えていた何か栄光に満ちたものが、今は見えなくなった。見えるのは、ただ美しい自然の要素だけ。月や、星や、陸や、海。鳥のさえずり、崖を落ちる滝の音、牧童たちの声は、歓びの歌。五月は幼子が母親の腕の中で伸びあがる。それらはすべて聞こえているけれど、あの栄光に満ちた幼き日々の感性はどこへいってしまったのか。
詩人は言葉を紡ぐ。人の誕生は、眠りと忘却から始まる。生まれ出る魂は、生命の星、一度は没した星、遥かかなたからきた星。星の故郷は神。天上は幼子を包み込む。成長していく少年を牢獄のような暗い影が包み込むが、少年は、光を見つけ、それがどこから射し込むかを知る。若者は旅を強いられるが、自然の司祭が、光輝く景色を見せながら、ともに歩んでくれる。大人になると、そうした光は消え失せて、もう、日常の光に融け込んでいる。
目の前の6歳の子どもが、自分で描いた絵を散らばらせ、自分が生まれ落ちた世界を観察し、模倣しながら、一心に成長しようとする姿に、詩人は心打たれる。けれども、ほどなく幼い子どもの魂は、現世の重荷を背負い、慣習がのしかかってくる。
詩人が感謝し、賞賛するのは、祝福に満ちた子ども時代そのものではない。感謝し、賞賛するのは、子どもにだけ見える感覚と、その目の前に見えている物。まだ、その秩序が分からず、自分のものになっていない世界で抱く不安は、高貴な本能である。あの原初の感覚。影のように捉え難い感覚に感謝し、賞賛しよう。その感覚が、この世の光すべての源。
詩人の内面を漂っていた思考は、再び、周囲の自然へのまなざしに戻る。かつて輝いていたものが永遠に消え失せたとして、それがどうしたというのだ。草に見た輝き、花に見た栄光を、そこにある強さを、原初の共感を思い返して見つけるのだ。かつての共感は、永遠にありつづけるのだから。「私は心の奥底で自然の力を感ずる。/私は一つの歓びを失ったが/より恒常的な自然の支配のもとで生きる。/私は幾筋ものせわしく流れ下る小川を愛す、/小川のように足どりも軽やかだった昔にもまして」。子ども時代の栄光の感覚を失ったとしても、人生を経た大人には、新たな報償がある。これまで生きるよすがとなった人々の、心の優しさ、歓び、そして怖さのお蔭で、慎ましく咲く花でさえ、しばしば、涙よりも深い感動を私にもたらしてくれるのだ——こうして、長い詩は終わる。私にとってとくに大事な要素を追うと、このような要約になるのだが、詩全体の深みは、全文を読まなくては味わうことができない。
ワーズワスが生きたのは、産業革命を経て、各地が都市化していった時代。失われていく各地の農村風景を憂いつつ、湖水地方の自然を生涯にわたり愛した。晩年、湖水地方に鉄道敷設の計画が公表されると、自然環境を保護するという観点から反対した。




