暑い日は、北欧(下)

7月22日。愛知県美術館に「スウェーデン絵画 北欧の光、日常のかがやき」展を見に行った。昨年、東京の美術館でこの展覧会は開催していて、行きたいなと思ったのだが、会期中に東京へ行く機会がなかった。今年の春、愛知芸術文化センター地下の情報コーナーでチラシを見つけて、早めにチケットを購入した。

名古屋を含む東海地方には、美術館が多い。関東で開催した展覧会が巡回してくることはよくある。京都や大阪など関西方面へ行くのもそれほど遠くない。美術展が好きであれば、名古屋は便利な都市だと思う。群馬に行ったとき、宇都宮美術館で開催していた「ライシテから見るフランス美術」展が、しばらく経って三重県立美術館にやってきた。こちらもチラシで知って見てきたのだが、巡回する会場は、どのようにして決まるのだろうか。

さて「スウェーデン絵画」展である。日中の気温が、40度近くまで上がるという予報だったからか、正午過ぎの美術館は混んでおらず、見るのにちょうど良い人の入りだった。

画家たちの目を通して、スウェーデンやフランスのかつての風景、農村地帯での暮らしが伝わる展示だった。19世紀、スウェーデン出身の画家たちは、パリで勉強し絵画の技法を学んだ。日本人の画家たちも移り住んだ、パリ近郊のグレ=シュル=ロワン村に滞在した人たちもいた。けれども、その頃から隆盛を迎える印象派の画家たちとは、深い交流は無かったそうだ。言葉が通じず、同じスウェーデン出身の画家同士で仲が良かったからということもその理由にあったらしい。彼らは絵画の先進国フランスで技法を学んだが、その後は、故郷のスウェーデンに帰り、スウェーデンらしい絵画の制作に取り組んだ。

コローの絵にも少し似ているなと思った、湖を描いた風景画は、日常、人の生活のそばにある風景が、そのまま美しいことを教えてくれる。フランスのセーヌ河畔のリンゴの花は、白くほんのり輝いて、白い花がこのように見える時間はあるなと思った。北欧では、日没後と夜明け前に辺り一面が青い光に包まれる現象が長く続く。北欧的モチーフとしてよく描かれるそうで、独特な青色なのだろう。日没の風景画を観ると、太陽が沈んだばかりで地平線があかく、残光が青灰色の雲と混ざり、雲の下側もあかい。その絵を眺めていると、冬の夕暮れに、散歩に出かけたとき見かける空に似ている気がした。

スウェーデン国立美術館で、スウェーデンのABCと紹介される3人の画家がいる。自分が観たり、考えたりしていることとも重なり合う絵だったので、覚えておこうと思った。

一人目は、アンデシュ・ソーン。彼の出身地であるダーラナ地方は、スウェーデンでも、とくに歴史や伝統に根差した生活をしていた地方。フランスから戻ったソーンは、ダーラナに住む人々の暮らし、舞踏、音楽などを描いた。展示されていたリュートを弾く女性の絵は印象的で、着ている民族衣装は、何か象徴的な明るい赤色だった。

二人目は、ブリューノ・リリエフォッシュ。リリエフォッシュは鳥をよく観察して描いた画家。カケス、モズ、ダイシャクシギなど数点の鳥の絵が展示されていた。波間に漂うケワタガモは、繰り返し描いた海鳥。冬に知多半島の海に来るカモたちを思い出す。19世紀から20世紀は、鳥の生態を観察し、生息地や渡りの中継地の環境保護を訴えた人たちが各地にいた。リリエフォッシュのように、鳥たちにインスピレーションを得た表現者も多い。

三人目は、カール・ラーション。1989年に出版された水彩画集「ある住まい」がよく知られている。この水彩画集は、ラーション一家が実際に住んだ田舎の家を描いたもの。自然をモチーフにした家具や、植物を飾る器。慎ましくありながらも、暮らしの中に美を取り入れるという姿勢は、世界的に注目された。ダイニングでは、子どもたちも一緒に食卓を囲んだ。それは、大人と子どもが分けられていた時代において珍しいことだった。ラーションを絶賛したのは、同国の社会運動家であるエレン・ケイ。女性や子どもの権利について多数の著作を残し、母性について研究するとともに、子どもの自然な成長を重んじる教育の重要性を説いた。モンテッソーリとも共通するところがありそうだが、どうなのだろう。

美術館を出る。エレベーターで降りてきて屋外に出る。オアシス21のプランターに生えるコヒロハハナヤスリは全体が黄色っぽくなり、くったり倒れていた。地下鉄に乗って、熱田神宮伝馬町駅で降り、地上へと階段を上がると、もわっとした強烈な暑気。10年後に最高気温45度の名前がついていないと良いけれどと思いながら、足早に家に帰った。

 

 

暑い日は、北欧(上)

7月も後半になり、毎日、暑い日が続く。東海地方では、日中の最高気温が40度を超す場所が何か所も出てきている。今年、最高気温40度以上の日は、酷暑日と名づけられた。10年ほど前、よく聞いていたラジオの音楽番組で、35度以上の日が猛暑日という名前になったという話をしていた。イギリス出身のラジオDJは、毎日暑すぎると言いながら、テンション高く「MOSHO-BI!!(モショビッ!!)」と連呼し、発音がちょっと英語に似てるね、と笑っていた。これだけ暑ければ、そんなテンションにもなるよな、と笑いながら聞いていたのだが、年々気温は上がり続け、さらに5度高い日の名前まで出来てしまった。

夜でも暑いので、気分だけでも涼しくなれそうな本はないだろうかと、本棚を探す。まだ読めていない本の中から「北欧の小さな旅 ラップランド幻想紀行」(小谷明/東京書籍、1995)を読み始める。ラップランドとは、スカンジナビア半島の北部、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、一部ロシアにまたがる地域を指す。トナカイを放牧して暮らすラップ人(ラップという言葉が「追われた」という意味をもつため、現在は現地の人たちが用いるサーミと呼ぶ)を訪ねた旅のエッセイ。著者が撮影した写真は、ありのまま、きれいである。雪におおわれた大地、赤い毛糸が鮮やかな民族衣装、海辺の暮らしや風景。列をなすトナカイ。サーミの人たちがトナカイに橇を引かせる姿は、サンタクロースの原型となったと言われるそうだが、それも頷ける。実際そうなのかどうかは、よく分かっていないようだ。読み終わる頃には、脳内の暑気が、少しだけ抜けた気がした。

北欧というと、スウェーデン、フィンランド、ノルウェーに、デンマークを加えた4か国を指すのが一般的だと思う。北欧4か国は、児童文学作家を数多く輩出している。

「長くつ下のピッピ」の作者、アストリッド・リンドグレーンは、スウェーデンの作家。子どもの権利と個性を尊重するという作家としての姿勢が、世界的に評価されている。リンドグレーンの物語に出てくる子どもたちは、元気である。

コロナウィルスによる社会変化が起こる少し前、リンドグレーンの翻訳をされている方の講演を聞きに行った。海外の児童文学が好きな方たちに根強い人気を誇るリンドグレーンの作品。よく知られた先人の翻訳があるだけに、プレッシャーもあるが、なるべく現代の子どもたちにも分かるように翻訳されるそう。スウェーデンに行くと、高山植物が低地にあることを楽しそうに話されていて、100人くらい入っていた会場の雰囲気も和やかだった。

スウェーデンの東隣りの国フィンランドは、ムーミンの国である。リンドグレーンと同時代の作家、トーベ・ヤンソンが生んだムーミン・トロールは、第二次世界大戦中、雑誌の風刺画に描かれたことに始まる。ファンタジーでありながらも北欧の景色が目に浮かび、登場人物たちの発言や行動はそれぞれに個性的で、大人であっても楽しく読める。

スウェーデンの西隣りの国、ノルウェー。1990年代に「ソフィーの世界」が、世界中で翻訳されたヨースタイン・ゴルデルは、ノルウェーの作家である。私は西洋哲学をもとに書かれた物語である「ソフィーの世界」よりも、その後に発表された「アドヴェント・カレンダー」の方が好きだった気がする。12月に入って、クリスマスまでの24日間、毎日一つずつ窓を開けていくアドヴェベント・カレンダー。古びたカレンダーと出会った少年と、窓を開けるごとに語られる不思議な少女の物語。ただ、ほとんど忘れてしまっているので、機会を見つけて、もう一度、読んでみようかなと思っている。

最後に、スウェーデンと海峡をはさんで隣合う国、デンマーク。デンマークといえば、アンデルセン。19世紀の初頭に生まれ、「人魚姫」「裸の王様」「マッチ売りの少女」といった数々の童話は、世界中で読まれている。

国際アンデルセン賞は、1953年に創設された世界初の子どもたちが読む文学の作者に贈られる賞。世界的に栄誉ある文学賞にもちなむアンデルセンは特別な作家なのだろう。

日本は、19世紀後半、明治の世になる。その頃、日本には童話や児童文学がまだ無く、子どもが読む物語が渇望されていたときに、アンデルセンが紹介された。数々の文学者に大きな影響を与え、新美南吉は、日本のアンデルセンになることを願った。アンデルセンの物語は文学者だけでなく、表現者にも大きなインスピレーションを与えた。いわさきちひろは生涯にわたり、アンデルセンの物語の水彩画をたくさん描いた。<下に続く>

 

アミメカゲロウ、カゲロウのこと

7月のある日のこと。数日間、安定しない天気が続いていたのだが、その日は少し晴れていたので、朝、歩きに行くことにした。家の玄関を出て、すぐ隣の学校の塀に、昆虫が止まっていた。「おや、ウスバカゲロウだ……」と思い、近づく。この辺りにウスバカゲロウが生息するような雑木林はないので、知多半島から持ち帰った土に、幼虫か繭が紛れ込んでいたのだろう。近づいて翅をよく見ると、いつも見ているウスバカゲロウと様子が違う。翅脈がはっきりしていて、よく見ると茶黒い部分がある。腹部はまだら模様が目立つ。歩きに行くのをやめて、家に戻り、図鑑で確認したところ、カスリウスバカゲロウだった。

水のきれいな川に棲み、幼虫が水生昆虫であるカゲロウに対して、ウスバカゲロウやクサカゲロウの仲間は、アミメカゲロウ目に分類される。身近な昆虫が掲載されている手持ちのポケット図鑑でウスバカゲロウの仲間を調べてみると、載っているのは4種。ウスバカゲロウ、コウスバカゲロウ、ホシウスバカゲロウ、カスリウスバカゲロウである。

ウスバカゲロウ、コウスバカゲロウは、よく見かける。なぜかというと、この両種の幼虫、つまりアリジゴクは、すり鉢状の巣をつくる。知多半島でも知多市の日長神社、常滑市の多賀神社や高砂山公園、美浜町、南知多町など、数え始めたらきりがないほど、アリジゴクの巣は見ている。アリジゴクが繭をつくり、ウスバカゲロウになって雑木林にあらわれるのは、梅雨の終わり頃から。巣のある場所を確認しておけば、夏に出会える。

一方、ホシウスバカゲロウ、カスリウスバカゲロウの幼虫は、アリジゴクであることは同じだが、徘徊性で巣をつくらない。幼虫と出会ったことは、これまでに一度もない。成虫はどうかというと、カスリウスバカゲロウを見たのは、今回が初めて。ホシウスバカゲロウは、これまでに数回出会っている。場所は、南知多町と阿久比町。ホシウスバカゲロウは翅にもやっとした斑がある。

アミメカゲロウ目の他の種を見てみると、クサカゲロウの仲間も図鑑には4種の記載がある。ヨツボシクサカゲロウ、クサカゲロウ、カオマダラクサカゲロウ、アミメクサカゲロウ。一番よく見かけるのは、ヨツボシクサカゲロウ。顔に四つの黒い斑があることが名前の由来だそうだが、小さすぎて、肉眼では見えない。印象としては、翅脈があおく、飛んでいると、翡翠のようなきれいな色をしている。カオマダラクサカゲロウは、ヨツボシクサカゲロウとよく似ているが、小さい。アミメクサカゲロウは、ヨツボシクサカゲロウよりも大きく、翅の幅が広いので、見分けがつく。クサカゲロウ中のクサカゲロウを見たことがないのは、なんとなく寂しいのだが、生息する場所が他種とは異なるのだろうか。

ウスバカゲロウ、クサカゲロウの仲間以外の種を見てみると、スカシヒロバカゲロウは、南知多町の雑木林で出会った。腹部が黄色くて、翅にうっすらと斑が入る。図鑑の解説によると、「ヒロバカゲロウ類の幼虫は湿ったコケなどから見つかっているが、詳しい生態などはよくわかっていない」そうだ。ツノトンボは、常滑市で出会った。ヘビトンボ、センブリ、カマキリモドキは、知多半島では今のところ見かけていない。

昨年、天白渓でカゲロウを見た。目の前をふわりと小さな虫が飛んでいて、目で追うと3本の長い尾が見えた。カゲロウというと、知多半島では、南知多町にクロタニガワカゲロウが生息している小川がある。きれいな川に棲んでいるイメージがあるので、名古屋にもカゲロウがいるのだなと印象に残った。

今年の2月、名古屋市環境科学調査センターの研究調査発表会に参加した。藤前干潟に漂着するマイクロプラスチックの調査など、研究員の方たちによるいくつかの発表が行われるなか、とくに聞きたかったのは、「生き物で水環境を測る」をテーマとした発表である。

名古屋市では、河川の水質を評価するのに、微生物が水の汚れを食べて分解するときに消費する酸素の量を測るBOD調査と同時に、水に棲む生きものを調べて水環境を評価する取り組みも行っている。名古屋市の環境白書を見ると、今回の調査で見つかった水生生物が記載されている。カゲロウ目は、27種(同定されているものは22種)。たくさんいることに驚きつつ、市内の河川がきれいになってきていることに、安心した。庄内川がとくに、BOD、生き物による水環境の評価ともに高かったそうだ。さらに良くしていくための課題は、まだたくさんあるだろうが、こうした調査報告が聞けるのは、嬉しいものである。

 

 

ルーツ・オブ・ソルト(下)

年魚市潟(あゆちがた)は、かつて、熱田の南から知多半島の付け根にかけて広がっていた干潟。万葉集にも詠われている。「年魚市潟潮干にけらし知多の浦に朝こぐ舟も沖による見ゆ」「桜田へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る」。桜田は、名古屋市南区に地名が残る。年魚市潟は、名古屋市緑区の鳴海の宿では、鳴海潟とも呼ばれていた。

知多半島の塩田というと、三河湾側の東浦町での塩づくりがよく知られている。平安時代から知られた生道塩(いくじしお)の産地とされ、江戸時代には知多半島と西三河の境である境川沿いに塩田が広がっていた。対岸の吉浜との渡しがあった藤江にも塩田があったが、西三河と同じように東浦町の塩田も、19世紀から20世紀へと流れる時代において、水田になっていった。

伊勢湾側はどうかというと、東海市にも海沿いに塩田があったようだ。鳴海から知多半島西側の海沿いを通って南知多町大井に至る、常滑街道という道がある。常滑街道沿いの横須賀にある諏訪神社には、「年魚市潟潮干にけらし~」の江戸時代の歌碑があるが、すぐそばの地名に高横須賀塩田とある。江戸時代、干潟と塩田の風景に心惹かれた人が、さらに1000年の昔に、同じように年魚市潟の風景に心惹かれた万葉歌人の歌を残したいと思ったのだろう。境内に祀られている香良洲(からす)神社も干潟に縁のある神社。

熱田区、南区、緑区、東海市。年魚市潟がどれだけ広かったかが、よく分かる。忘れてはいけないのは、荒立つ波の海ではなく、穏かに波が寄せ、満干を繰り返す潟ということ。現在、日本全国を見渡しても、広い干潟が見られる場所は、ごくわずかである。

塩付街道は、御器所辺りから南下する。熱田台地から見ると、真東になる。この街道は、笠寺台地と呼ばれる緩やかな台地の上にある。笠寺台地には、旧石器時代に始まり、弥生時代から古墳時代にかけて大きなムラが栄えた見晴台(みはらしだい)遺跡がある。名古屋市見晴台考古資料館では、遺跡の成り立ちや、市内の遺跡の発掘情報などを知ることができる。

見晴台からもう少し南下したところ、笠寺台地の縁にある星崎が街道の終点であり、塩の道としては始点となる。塩付街道は、この星崎周辺の村々に暮らす人たちが、年魚市潟でつくった塩を伊那谷に運ぶための道なのである。

江戸時代の尾張名所図会に「星の宮」として描かれている星宮社は、星崎の旧村社である古い社。創建年代は、よく分かっていないようだが、飛鳥時代とも言われるそうだ。尾張名所図会をよく見ると、社の裏手の小高い丘に「イナツチヲキナノ社」と記されている。イナツチヲキナは、伊奈突智老翁と書くそうで、名古屋市の公式ウェブサイトには、「縁起によればこの地に塩づくりを教えた人である」と説明されている。

伊那は、伊奈とも書く。文字から素直に考えたら、「伊奈から来た土のことをよく知る翁」ということではないだろうか。つまり、江戸時代に名所図会に描かれるほど、美しく広大な塩田風景のルーツとなった製塩技術をこの土地の人びとに伝えたのは、伊那谷から来た人だったと考えられる。自然の恩恵をかたちにする技術を、土地の人びとに伝授した人が、感謝の気持ちとともに神社に祀られるというのは、越前に紙漉きの技術を伝えた岡太(おかもと)神社の川上御前をはじめ、各地によく見られる。

そうなると、伊那谷には塩水から塩をつくる技術があったということになるが、思い出されるのは、大鹿村の塩。大鹿村のある中央構造線の谷には、塩水が湧き出る場所がいくつもある。近隣の遺跡からは、製塩土器も発掘されている。

ここまでが、フィールドワークと資料から見えてきた事柄をつなぎ合わせて考えた、塩についての思索である。古の海と山の民について考えられることは他にもあるが、筋道を立てて書くには、もう少し確認が必要になるので、そろそろ終わろうと思う。

なぜ老翁が星崎にやってきたのか、いつやってきたかは、私には知る由も無いけれど、思うのは、山と海の民の交流に主従関係は無かったのではないだろうか。自然の理をよく知っていて、村が豊かになる仕事を生み出してくれた山に住む人びとへのお礼から始まったのが塩の道だったのではないかと思う。争いに明け暮れた為政者の栄枯盛衰は、後世まで饒舌に語られるけれども、多くを語らない善意による交流が忘れ去られていくのは、世の常。そのような古の善意の欠片を、足を使って拾い集め、つなぎ合わせてみる。すると、語り継がれる歴史に寄り添う人間本来の精神文化が、浮かび上がるのではないだろうか。

 

 

ルーツ・オブ・ソルト(中)

今年の2月。ざぜん草を見るために嵯峨坂の自生地を訪ねた後、昨年、時間が足らず入ることが出来なかった飯田市考古資料館を、あらためて訪ねることにした。

飯田市考古資料館は、上郷(かみさと)地区にある。この周辺は、縄文時代から弥生時代の遺跡が密集しており、今も新しい発見が続いている。また、5世紀後半~6世紀前半にかけて造られた前方後円墳、帆立貝形古墳は、飯田古墳群として史跡指定されていて、全国の流れに違わず、この地にもヤマト王権による政治支配が及んでいたことが想像される。

古墳群が造られた時代の以前はどうかと言うと、4~5世紀の遺跡では、東海地域との繋がりが強いとされる前方後方墳が、3基確認されている。多くの墓は方形区画で盛り土が低いものであるため、弥生時代の暮らしがそのまま続いていたと考えられている。

展示室に入り、目を引くのは、野底山(のそこやま)で発見されたヒノキの古木。年輪年代法の結果、弥生時代のものということが分かっていて、近づくと、ほのかに匂いがする。弥生人も嗅いだヒノキの匂いを嗅ぎながら、伊那谷に人が住み始めたのは、いつからだろうと思う。答えはすぐに、展示解説が教えてくれた。3~5万年前。つまり旧石器時代からである。

飯田山本では、竹佐中原(たけさなかはら)遺跡、石子原(いしこばら)遺跡という旧石器時代の遺跡が隣り合って見つかっている。二つの遺跡は、同じ旧石器時代の遺跡なのだが、成立していた時代が異なる。それは、石器の材料となっている石の違いから分かる。石子原遺跡から見つかった石器は、赤石山脈の石が使われている。赤石山脈は、少し離れた天竜川を越え、伊那山地も越えた、さらに先。遺跡付近では採取できない。天竜川近辺から持ってきたのだろうと考えられている。一方、竹佐中原遺跡は、出土する石器の傾向によって遺跡Ⅰ、遺跡Ⅱと分類される。Ⅰの石器には遺跡から少し南に下った阿知川で採取されたと考えられる、ホルンフェルス(変成岩の一種)という石が使われている。Ⅱはより進んだ石器文化で、Ⅰでは見られない黒曜石を用いた局部磨製の石器や、石器を研いだ砥石も見つかっている。

人類が日本列島に至り定着するまでの流れを大まかに整理してみると、現生人類の祖先、ホモ・サピエンスの最も古い化石は、20万年前のものである。アフリカで暮らしていた人類は、5~6万年前に一部の集団がアフリカを出る。ユーラシア大陸を東進した人類は、大陸の端にたどり着く。最終氷期に海水面が低下したため、シベリアから地続きになっていた日本列島に入り定着したのは、およそ3万年前とされている。石器を改良しながら、狩猟採集を続けた人類は土器を作るようになり、その模様から縄文人と呼ばれ、日本独自の文化を生み出していった。集落を作り、貝塚を形成し、集団生活を営んでいた縄文人は、3000年ほど前に日本列島にやってきた弥生人たちとも交流を始める。そして文化や技術が混ざり合い、狩猟採集と稲作、両方からの恵みを享受する生活様式が確立されていく。

下伊那地域では、約5000年前、縄文中期の大規模集落や、拠点集落が数多く見つかっている。弥生時代の遺跡も含めると、約550か所。天竜川流域は河岸段丘なので、川のそばの低位段丘には弥生遺跡が分布しているなど、土地を活かした集落形成が見て取れる。

つまり、伊那谷という土地は、日本列島に人類が定着した最初期から人の営みがあり、現在に至るまで、脈々と暮らしがつながっている地域。縄文人・弥生人のルーツという点は、諸説あるだろうが、土地に常に人がいて、他地域と交流しながら、独自の文化を築き上げた土地であることは確かだろう。椋鳩十が魅かれた山の民・山窩についても、考古学的観点から考えてみると、どのような人々だったのか、より具体的に見えてくるかもしれない。

江戸時代、尾張・三河で作られた塩は、山間部の文化圏である伊那谷に運ばれていた。人びとの交流が始まったのは、いつ頃からなのだろう。知多半島の小桝遺跡、西三河の南霞浦遺跡で塩がつくられていた頃から、伊那谷にも運ばれていたのだろうか。

名古屋と伊那谷をつなぐ塩の道を、運ぶときと逆向きに辿ってみる。伊那谷から足助までは、平谷、根羽、稲武を通る。根羽、稲武は古代、西三河の加茂郡に含まれていたそうなので、西三河は、ずいぶん広かったようだ。足助からは、巴川沿いには進まず、山の裾へ下りていくと、力石に出る。矢作川沿いを豊田市の中心地である挙母まで行き、濃尾平野を西へと進む。名古屋市天白区の平針を通って、天白川をわたり、観察会をしている八事裏山、音聞山を越えると川名に出る。塩の道は、ここで塩付(しおつけ)街道と交わる。〈下に続く〉

 

 

ルーツ・オブ・ソルト(上)

塩について考え始めたのは、いつ頃からだろう。記憶の糸を手繰ってみる。

5~6年前、南知多町内海のつぶて浦で、磯の生きものの観察会をしていたとき、岩場の潮溜まりで、6~7センチくらいの棒状の土器の欠片を拾った。観察会に参加されていた方に、「製塩土器じゃないですか」と教えてもらい、知多半島では古代、海岸で塩づくりが行われていたことを知った。

東海市郷土資料館には、「知多式」と呼ばれる製塩土器が展示してある。見つけた土器の欠片を持って資料館を訪ねると、「きれいな状態ですね」と言われ、製塩土器や塩づくりのことを教えてくださった。拾った土器の欠片は、ろうとのような形をしている製塩土器の椀の下の棒状部分。棒状の部分があることで、砂地に土器を差し込んで安定させた。つぶて浦のすぐそばには、古墳時代から平安時代にかけての小枡(こます)遺跡があり、須恵器や製塩土器が、多数見つかっている。知多の海岸でつくられた塩は、奈良の都に税として納めるために運ばれていた。つぶて浦では、製塩土器の一部がよく見つかるそうだ。拾った土器は、日付を記した袋に入れて保管してある。

昨年の春、西尾市にある吉良饗庭塩(あいばじお)の里を訪ねることにした。その頃は、塩の道について調べていて、尾張・三河から伊那谷へつながる塩の道は、いくつかあることを知った。ただ、それよりもまず、そもそも塩は、海沿いのどこら辺で、どのようにして作られ、伊那谷まで運ばれて来るのだろうと思い、塩づくりについて知ることができる資料館を探していたところ、西三河の海沿いにあるこの施設を見つけたというわけである。

西尾市までは、まず新堀川をわたり、南区へ入り、国道23号線に乗る。星崎、大高、豊明を通過すると、西三河に入る。刈谷市、知立市、安城市を通過して、矢作川をわたると西尾市。伊那谷方面から続く三河山地の果て、幡豆(はず)山塊がすぐそばに見える。小山の緑を眺めながら田んぼの広がる道を行くと、海が見えてきて、塩の里があった。

西尾市の市域は広く、この辺りは、旧吉良町になる。吉良というと、吉良上野介が思い浮かぶ。一緒に来た方と話をしていると、「赤穂浪士の討ち入りも塩が原因でしたよね」と言われ、なるほどと納得する。赤穂は、瀬戸内の塩の産地。現在の自治体名で言うならば、兵庫県赤穂市。瀬戸内の塩づくりの起源は古く、弥生時代の藻塩(もしお)焼き(藻塩法とも言い、海藻を利用して塩をつくる)に始まる。知多半島で出土する知多式製塩土器も、形状からルーツは瀬戸内の製塩土器とされている。弥生から古墳時代へと時代が下るにつれて、製塩技法は伝播し、北は北陸、東では知多半島、渥美半島に伝わったというのが定説である。

西三河では、塩は入浜式(いりはましき)と呼ばれる塩田でつくられていた。入浜式塩田は、江戸時代に考案された大規模な塩田による塩づくり方式。潮の干満を利用し、海水を塩田に取り込む。潮が引き、水分が乾くと、塩の結晶が砂に付着する。その砂をオシエブリ、カキエブリと呼ばれる道具でつぼにかき集める。かき集めた砂に海水を掛けて、より濃い海水を採り、煮詰めると、塩ができる。入浜式は、潮の干満が一定で穏やかだからできる。三河湾、伊勢湾などの内海に面した地域は入浜式だが、波の荒い遠州灘沿岸では揚浜式(あげはましき)塩田になる。揚浜式は、人力で海から海水を汲み上げてきて、塩田に海水を撒く。

吉良でつくられた塩は伊那谷にも運ばれていた。山間地へと運ぶためには、矢作川、矢作古川を利用する。上流の巴川流域の平古あたりまで運び、陸路で、飯田街道の宿場である足助に運び、稲武、根羽を通って、阿智、そして飯田へと運ばれた。

江戸時代に各地で繁栄した塩田だが、明治後半から昭和の初めにかけて、全国の塩田が整理、廃止された。米の生産を増やすため、各地の塩田は水田へと姿を変えていった。

この辺りの古代の塩づくりはどうだったのか考えてみる。現在の矢作川下流域、碧南市にある南霞浦(みなみかほ)遺跡では製塩土器が見つかっている。遺跡は6~7世紀、古墳時代のものと考えられており、知多半島と渥美半島の土器の特徴があらわれているそうだ。知多、渥美の人びとと交流しながら、より良い塩づくりを模索していたのだろうか。矢作川の流路は、江戸時代に現在の流路に変更されていて、それ以前の海へ至る流路というのは、ずいぶん複雑だったようで、昔の河道跡が調査されている。その頃から川を使って山間地域にも塩が運ばれていたのだろうか。〈中に続く〉

 

 

伊那谷をめぐる(八) 座禅草、花木、片栗(下)

4月5日。今年も喬木村の阿島祭りの季節がやってきた。3月になると、今年はどうしようかと考える。春は、いろいろすることが多くなってくるので、気ぜわしい。今年はやめておこうかなと思いながらも、半ばを過ぎてくると、やっぱり行こうと思い到る。

一年が巡って、今年もやってきた春。五穀豊穣、商売繫盛、無病息災、家内安全。地域に暮らす子どもたちの健やかな成長祈願。古くから土地に息づくお祭りは、さまざまな意味をもつけれども、大きく言えば「季節を祝う」ということなのだと思う。春には、春の祭り。夏には、夏の祭り。秋には、秋の祭り。冬には、冬の祭り。季節ごとのお祭りを自分の暮らす地域で想い描けるということは、とても、心に豊かなことだと思う。

午前中、喬木村に行く前に、飯田市梅ケ久保にあるカタクリの里を訪ねることにした。飯田インターを下りて、いつもとは反対方向である山側に折れる。この秋に登ろうと思っている飯田のシンボル・風越山(1535メートル)と、その手前の虚空蔵山(1130メートル)を右手に見ながら、笠松山(1261メートル)の麓を目指す。道は分かりやすく、道中案内も立ててあり、インターを下りて10分ほどで到着した。途中、枝垂れ桜がきれいに咲いていた。こちらに来ると、枝垂れ桜をよく見かける。伊那谷の桜は、全体的に少しクリームがかった、落ち着いた色合いをしている気がする。

開花時期を調べずに来たため、咲いているのか不安だったけれど、「終わった花もあるけれど、またたくさん咲いていますよ」とのこと。木道を歩くと、数千株のカタクリの花が咲きそろっていた。見事で楽しくなる。花は、やや赤みのかかった紫色だが、おぼろげな色。裏側が白いため、染めた花弁の色が裏に滲んだようにも見える。

しゃがんで花を観ていると、「アリがいるよ」と呼ばれた。行ってみると、胸部の赤い大きなアリが、忙しそうに歩いていた。そういえば、似たようなアリをハナノキ湿地のそばの畑沿いで見たな、と思い出す。そちらのアリは、赤い胸部が尖っていた。帰ってから調べてみると、カタクリの里で見たのは、ムネアカオオアリ。湿地のそばで見た尖っていたのは、トゲアリ。トゲアリは、朽木、枯れ木などに巣を作るムネアカオオアリなどの巣に、一時的に寄生するらしい。ムネアカオオアリにとっては天敵だ。巣を作らずに集団移動するアミメアリという種もいるし、社会性を持つと、それに従い、集団独自の行動様式が生まれる。

カタクリの里は、約1ヘクタールと広い。林縁の植物を観察しながら、傾斜を上がる。伊那谷では見慣れてきたシダの仲間、トウゲシバ、マンネンスギ、ヒカゲノカズラ。3月の訪問地では咲いていなかった、ショウジョウバカマ。一緒に来ている小学生の男の子が「スミレがあった」と教えてくれたので、行ってみる。名古屋や知多半島では見かけない種類。ほとんど白に近い、淡い藤色の花を横から見ると、距が細長く、赤紫色がよく目立つ。茎や萼、葉の葉脈や裏側が、赤みがかっている。調べてみると、ゲンジスミレのようだ。ゲンジスミレは、長野に多いスミレの仲間で、ほかには、東北、関東、中国、四国地方に隔離分布する。

なぜ遠く離れた土地に分布しているのかは分かっていない。スミレの種子散布というと、弾けて飛ぶほかに、アリによる散布が知られている。普通に考えたら、一か所から周辺に広がっていくと思うが、アミメアリのような移動性のアリが運んでいったのだろうか。そもそも満遍なくあったが、何かしらの理由で、今あるところにだけ残ったのかもしれない。分布している土地だけに共通する地質があるのだろうか。「源氏菫」という、どこか文学にも近そうな種名も相まって、気になる存在になってくる。

木では、キブシの花が咲いていた。シダの上に散っていた黄色い花は、ダンコウバイ。この木の花も丘陵地に春を告げる。ハナノキも花が咲いていた。花穂が風に揺れるハンノキの枝には、少し大きな鳥が止まっていた。「ギャッ」と鳴いて飛んだので、カケス。

ゆっくり観ているうちに、時間を大幅に超えていることに気づく。川面に棚引く鯉のぼりと、川向うの桜を見ながら、急ぎ足で下りる。入り口に戻ると、自然愛護会の方々が、一つ一つ育てた鉢植えを販売していた。タンチョウソウ、イカリソウ、オキナグサ。植木鉢を見て、みな話が弾む。カタクリも花が咲くまで、7年かかる。時間をかけて花を増やしていくには、土地の自然に深い親しみが無ければできない。名残惜しいが、喬木村へ出発。正面に見える伊那山地の麓から、明るいお囃子の音が聞こえた気がした。

 

 

伊那谷をめぐる(七) 座禅草、花木、片栗(中)

ハナノキは、カエデ科の樹木である。3月になると湿地の周辺で、若葉の出る前に、赤い花を咲かせる。花のあとにできる種子はプロペラ状。くるくると風にのって分布を広げる。秋になると、イロハモミジなど、ほかの楓の仲間と同じように紅葉する。

ハナノキのルーツはとても古い。祖先種であるブラウンカエデの化石が、約1300万年前の地層から見つかっている。1300万年前というと、地質学的には新生代第三紀にあたる。現在、私たちが生きている時代は、新生代第四紀。恐竜がいたのは、新生代の一つ前の時代である中生代。第三紀は、恐竜が絶滅して長い年月が経ち、地球全体が暖かくなり、被子植物が大地を緑にし、ほ乳類が繫栄し始めた時代。北極周辺で繁栄していた祖先が、繰り返し訪れた氷河期を乗り越えて、形を変え、北米、日本で生き残った。

ハナノキは日本固有種であり、恵那山周辺の長野、愛知、岐阜に自生地が集中している。愛知県では県の花になっているが、自生地は少ない。武豊町の自然公園にもハナノキはたくさん生えているのだが、ずいぶん昔に人が移し入れたものが増えたのだろう。

伊那谷の自生地は、飯田市、阿智村、阿南町に広がる。以前、飯田市美術博物館を訪ねたとき、ミュージアムショップに並んでいた「ハナノキ湿地の自然史 赤き楓のシンフォニー」(2008)という展覧会図録が目に留まった。ハナノキの紅葉と裏表紙には花の写真。地の色も赤い、真っ赤な装幀の図録。この図録の印象はとても強く、毎年ハナノキを見に行きたいなと思いつつも、春は訪ねる場所も多く、機会に恵まれなかった。そろそろ行ってみようと思い、この春に飯田市山本周辺のハナノキ湿地の一つを訪ねてみることにした。

2月、まずは場所を確認するため、ザゼンソウを観に行く前に立ち寄ることにした。目印の付けられた駐車場に車をとめて、周辺を歩いてみる。湿地にはどこから入るのだろうと思いながら、植林されたヒノキの道を歩いていく。道をしばらく進むと、目の前に山並みが開けた。伊那谷で観察していると、どこを歩いても、急に目の前が開けて、山並みが見える場所がある。河岸段丘による起伏に富んだ地形は、風景を絵にしている。

なだらかな崖をコケがおおっている。前日まで雨が降っていたこともあり、葉の開いたコケがきれいだ。ハイゴケ、シラガゴケの仲間は見て分かる。地衣類のコアカミゴケもある。昨年の冬、足助で訪ねた、農村舞台のある諏訪神社の石垣も、ハイゴケ、シラガゴケ、コアカミゴケが目立っていたなと思い出す。少し歩くと、シダの仲間であるマンネンスギがあった。杉の葉によく似ている。そばには、ヒカゲノカズラの群落もあった。

入るところが分からなかったため、駐車場まで引き返す。戻って周辺をきょろきょろ見ていたら、100メートルほど先の道路沿いに入口があった。ずいぶん先まで歩いてしまったけれども、周辺散策だけでも十分満足したので、移動することにした。立ち去り際、ほんのり黄色いチョウが眠たそうに飛んでいたので、写真に撮り、帰ってから確認すると、スジボソヤマキチョウだった。伊那谷らしい昆虫と出会えたので、嬉しくなる。

3月24日。あらためてハナノキ湿地を訪ねた。気温も上がり、生きものも本格的に動き出していて、スジグロシロチョウ、コツバメが飛んでいた。ハナノキは、ほぼ満開。赤い花がよく見える。少し後に満開となる桜の趣とは、だいぶ違う。自然に流れる時間に身を任せられなければ、美しさに気づくのは難しそうである。季節によって、場所によって、時間の流れが異なるのなら、それぞれの季節に咲く花々に、心を重ねられるようにありたい。

ちょうど保全活動をされている方たちが来て作業をされていたので、車でお弁当を食べていたら、「見ていってください」と声を掛けてくださった。道路から谷へ下る。背の高いハナノキを見上げながら、雄木と雌木のこと、ハナノキの分布のこと、湿地の植物のことなどを教えてもらった。定期的に観察会もされているそうなので、ちょうど良い機会があったら参加してみたいと思った。雑木林を歩くと、思った以上に広いことが分かり、ルリタテハ、テングチョウ、オナシカワゲラなど春の虫たちがいて、気持ちの良いところだった。

家に帰って、あらためて図録を読み直していたら、滋賀県東近江市には、聖徳太子お手植えといわれるハナノキの古木があると書いてあった。伊那谷をめぐっていると、聖徳太子の碑をよく見かける。もしかしたら、1400年前、伊那谷を訪ねた聖徳太子が、ハナノキの美しさに魅かれ、幼木を持ち帰って植えたのかもしれないなと想像した。〈下に続く〉

 

 

伊那谷をめぐる(六) 座禅草、花木、片栗(上)

お彼岸に墓参りに行くと、手を合わせて、舎利礼文を唱える。これまで何回も唱えているし、短いので、これだけは最初から最後まで正確に覚えている。そういえば舎利礼文というお経のことをよく知らないなと思い、少し調べてみると、曹洞宗の開祖である道元が、火葬の際に唱えていた経文で、曹洞宗では重要視されているそうだ。

以前、曹洞宗の僧侶の方に「HANAYASURI」をお渡ししたところ、「座禅を組んでいるような気持ちになりました」と、感想をいただいたことがあった。だからということでは無いのだけれども、一度、ザゼンソウを観に行きたいなと思っていた。

伊那谷は、ザゼンソウが自生する地域である。ミズバショウなどと同じサトイモ科の植物で、雪国に生育する。冬が終わる頃、芽を出すときに発熱し、周囲の雪を融かす。自生地は日本海側に多く、長野では北部の高原に多い。伊那谷は、自生地の南限とされる。

2月下旬。飯田市の天然記念物に指定されている「嵯峨坂のざぜん草自生地」を訪ねるため、伊那谷へと向かった。2月に伊那谷を訪ねるのは初めてで、中央道を走っていると、伊那山地の向こうに雪をかぶった南アルプスが、大きく、眺められた。

嵯峨坂のざぜん草自生地は、飯田市虎岩という地域にある。虎岩は、和紙の里がある下久堅の隣の地域。飯田山本から三遠南信自動車道に入り、久堅インターで下りる。県道83号を右折。そのまま進むと喬木村第二小学校があり、もう少し先に行くと九十九谷森林公園がある。遠山郷に行くならば、途中で折れて、山道を進む。何度も来ているので、だいぶこの辺りの道を覚えてきた。右折して少し行くと、縄文時代の竪穴住居が復元されている北田遺跡があり、すぐに「嵯峨坂ざぜん草自生地」の道標があった。道標の方に折れる。山沿いの道をしばらく進み、谷あいの棚田に沿って急坂を上がる。目的地に到着。

棚田沿いには砂利の敷かれた駐車場があり、イスとテーブルが置かれた休憩所もある。置いてあったパンフレットをもらい、自生地を目指す。自生地は、もう少し上ったところにあるようだ。林縁の坂道を歩くと、周辺の植物を楽しめるようにされていて、植物の名前が書かれた札が立ててあった。「山葵沢」という札があったが、ワサビも生えるのだろうか。

白い枯れ草がおおう湿地沿いを林の端まで上ると、ここから、ざぜん草自生地。林床の湿地に、木道と物流に使うプラスチックのパレットが敷かれている。パレットは歩きやすかったが、木道は年季が入っていた。ザゼンソウが出ていないか、注意深く、湿地に目を向ける。芽出しはあるが、仏炎苞は見つからない。どうやら来るのが早すぎたかなと諦めかけていたら、一つだけ瑞々しい仏炎苞が出ていた。周りに雪は無いが、湿った土と落ち葉の間から出たばかりのザゼンソウは、黄金色にも見える緑色だった。ほっとして、数枚写真を撮り、林を出る。湿地と棚田の先に山並みが見えた。ウグイスの声を聞きながら、しばらくの間、のんびりする。駐車場のハナノキの枝に、越冬明けのヒメアカホシテントウがいた。少し触ると、まだ重そうな足取りで、もぞもぞ下へと移動していった。

3月下旬。山本の湿地を訪ねたあと、虎岩のザゼンソウはどうなっただろうと思い、訪ねてみた。一カ月前とは違い、大きくなった赤茶色の仏炎苞が出ていた。頭を出しているものもあれば、ほとんど埋まっているものもある。座禅を組み始めたばかりの修行僧も、時間が経ち、禅師の風格。株数は、数十ほどだろうか。

めだか池ではメダカが泳ぎ、テーブルでは、ルリタテハが翅を広げていた。たまたま来ていた方に話しかけると、この自生地の管理をされている方々のお一人だった。立ち話をしていると、虎岩の文化財施設である旧瀧澤医院の管理人でもあるそうで、「よければ観て行きませんか」と言ってくださった。せっかくなので、お言葉に甘えて案内していただくことにする。旧瀧澤医院は、明治時代の医師である瀧澤清顕が建てた擬洋風建築の病院。瀧澤清顕は、当時から白内障の手術を多数手掛けるほど、医師としての腕はよく知られ、美濃、三河、遠江からも頼ってくる人がいた。それぞれの街道が通る伊那谷は、来るのにも適していただろう。現在は、全国からお医者さんが、興味をもって訪ねて来るそう。資料の調査が進めば、これからその人柄も含めて知られていくだろう。立派な石垣を組んでまで虎岩に病院を作った理由に、絶えず湧き出る泉の存在がある。下久堅に和紙の里ができたのも、水と地形が理由の一つにある。自然の恵みに着目した先人が多い地域なのだなと実感した。〈中に続く〉

 

 

シエル・ブラン

歯医者からの帰り道。地下鉄の駅に向かって歩いていた。大通りの交差点では、お昼御飯を食べに行くのか、買いに行くのか、仕事着姿の人たちや近隣の大学生が信号待ちをしていた。見上げれば、高速道路の高架。近くには、改装中の国際会議場がある。この辺りは、気にしなければ、土も見つけられない都市部だが、街路樹の根元を見ると、銅板のツリーサークルの隙間にスミレが咲いていた。見るからに小さなスミレ。たぶん、ヒメスミレだろうと思い、近づいて確認する。葉の縁が軽く波打っている。距(きょ。花弁の中で前に垂れる唇弁の後方部分)を横から見ると、根元だけがややピンク色だが、白い。ヒメスミレで良さそうだ。ヒメスミレを最初に認識したのは、岩滑の八幡社の石垣だったなと思い出す。

毎年3月になると、「そろそろスミレが咲く時期だ」と、路傍に目がいく。今年も3月半ば頃から見かけるようになった。スミレは、とても種類が多い。それだけで分厚い図鑑ができるほどである。最初はどのスミレを見ても、同じように見える。スミレの花があることに気づけるようになると、今度は、どれも違う種のような気がしてくる。そうこうしながらも、毎年調べてきたからか、生活圏と観察場所で出会うスミレは、大体見分けられるようになってきた。覚えては忘れ、忘れては覚えてという繰り返しは、虫の音を覚えるのに似ている。

まず先に、有茎種(茎が地上に出ている)であるタチツボスミレの仲間だが、タチツボスミレ、ナガバノタチツボスミレ、ニオイタチツボスミレは見かけている。だが、タチツボスミレの仲間は種間交雑が多いようなので、とりあえずタチツボスミレの仲間としておく。

地上茎の無い、無茎種のスミレの仲間では、春先、最初に見つけるのは、マキノスミレ。花は赤紫色で、距がピンク色になる。葉の裏や葉柄は、赤みがかっている。まだ昆虫が動き出す前から咲き出すものもある。東海地方は、マキノスミレとシハイスミレの分布が交わる場所とされているが、これまで歩いてきた観察地で見かけるのは、マキノスミレがほとんど。シハイスミレは、よく似ているが、葉の形が異なる。

濃紫色のスミレは、植物体の大きい順に、スミレ、ノジスミレ、ヒメスミレ。そのうち、スミレ、ノジスミレは、距も花弁と同じ濃い紫色をしているが、ヒメスミレは距が白い。スミレとノジスミレの違いは、葉を見ると分かりやすい。スミレには、葉柄に目立つ翼(よく。柄から張り出している部分)があるが、ノジスミレは無い、もしくは目立たない。スミレは道路端でも野路でも、一塊になって生えている印象がある。葉も大きく、立ち上がる。

白いスミレは、紫色のスミレに比べて、見かけることが少ないので、出会ったときのことを記してみる。まずは、フモトスミレ。観察を始めたばかりの頃、大谷の高砂山公園で見たのが最初だった。葉脈の白さが目立つ葉に、ピンクに色付いた距。雑木林の道沿いに点々と咲く小さな花を探して、下を向いて歩いた。春がやってくるごとに、フモトスミレのある雑木林は見つかり、今では数か所で確認している。武豊自然公園には、フモトスミレのほかにニョイスミレ(ツボスミレとも)も咲く。ほとんど歩く人のいない湿気のある坂道で、葉を繁らせて、小さな白い花を一斉に咲かせている。

名古屋市内では、西味鋺の新地蔵川沿いを歩いて、小学校側から慈恩橋を越えたあたりに、白いスミレがたくさん咲く。シロスミレという種があったなと思い調べてみたが、シロスミレは分布と生育地が、この路傍と一致しない。葉には翼があるので、スミレの白花というのがあるのかなと思っていたら、アリアケスミレに白花があるそうだ。スミレとアリアケスミレの違いは花の色なので、このスミレもアリアケスミレで良いだろう。熱田神宮にはヒゴスミレがある。5裂した葉が特徴。この花は、ここでしか見たことが無い。

すべてではないと思うが、知多半島、名古屋でよく見かけるスミレは、大体これくらい。淡紫色で、早春に人家の近くで咲くコスミレは、まだ見かけていない。

カモのいなくなった堀川を渡り、地下鉄に乗って、熱田神宮伝馬町駅で降りる。地上に上がり空を見ると、白かった。ほのかに水色が見える部分もあるが、ほぼ真っ白。空が白くても、白い雲が分かるのは、陰影があるから。当たり前と言えばそうなのだが、陰影があると立体的に見える。空が白いと、街路樹のコブシは目立たない、だいぶ散ってきた。そういえば、観察会をしている天白渓も「白い天(そら)」だなと思いついたところで、家に着いた。

翌朝、白かった空は暗く灰色の雲に覆われて、待望の雨が降っていた。