パンセ・コティディエンヌ 4

(4)モンテッソーリが「メソッド」を書き上げる100年ほど前のこと。19世紀初頭のイギリスで、ある詩人が、一つの詩を完成させた。詩人の名はウィリアム・ワーズワス。

ワーズワスは、1770年にイギリスの湖水地方に生まれる。幼い頃に、母と父を続けて亡くし、兄弟姉妹とともに親戚の後見のもとに育つ。大学はケンブリッジに進む。当時のケンブリッジで学問の中心となっていた、天文学、幾何学、古典学、経験論哲学、神学などを学び、学位を取得。大学時代は、革命の大波にのまれるフランスを通り、アルプスへ旅行した。大学を出てからも、詩作を続ける。妹のドロシーと、同じく詩人のサミュエル・コールリッジと交流しながら、湖水地方で場所を変えて暮らした。スイス、ドイツ、イギリス国内など各地を旅しながら、取り巻く自然から感じ取ったことから内省し、詩にした。

ワーズワスについて知ろうと思い、「対訳 ワーズワス詩集 イギリス詩人選(3)」(山内久明編/岩波文庫、1998)を借りてくる。この本にはモンテッソーリが好きだったという詩も収録されていた。詩が完成したのは、1804年。題は「幼少時の回想から受ける霊魂不滅の啓示」。204行からなる長い詩である。次のような題詞が添えてある。「子どもこそおとなの父、願わくは一日一日が、生来の自然への敬虔な心で結ばれるように。」。

詩は、次のように始まる。「かつては牧場も森も小川も/大地も、目に映るありとあらゆる光景が/私にとって/天上の光に包まれて見えた、/夢の中の栄光と瑞々しさに包まれて見えた。/だが今はかつてとは異なる。/どちらを向いても/夜であれ昼であれ/もはや今、かつて見えたものを見ることはできない。」。子どもの頃には、自然に包まれて見えていた何か栄光に満ちたものが、今は見えなくなった。見えるのは、ただ美しい自然の要素だけ。月や、星や、陸や、海。鳥のさえずり、崖を落ちる滝の音、牧童たちの声は、歓びの歌。五月は幼子が母親の腕の中で伸びあがる。それらはすべて聞こえているけれど、あの栄光に満ちた幼き日々の感性はどこへいってしまったのか。

詩人は言葉を紡ぐ。人の誕生は、眠りと忘却から始まる。生まれ出る魂は、生命の星、一度は没した星、遥かかなたからきた星。星の故郷は神。天上は幼子を包み込む。成長していく少年を牢獄のような暗い影が包み込むが、少年は、光を見つけ、それがどこから射し込むかを知る。若者は旅を強いられるが、自然の司祭が、光輝く景色を見せながら、ともに歩んでくれる。大人になると、そうした光は消え失せて、もう、日常の光に融け込んでいる。

目の前の6歳の子どもが、自分で描いた絵を散らばらせ、自分が生まれ落ちた世界を観察し、模倣しながら、一心に成長しようとする姿に、詩人は心打たれる。けれども、ほどなく幼い子どもの魂は、現世の重荷を背負い、慣習がのしかかってくる。

詩人が感謝し、賞賛するのは、祝福に満ちた子ども時代そのものではない。感謝し、賞賛するのは、子どもにだけ見える感覚と、その目の前に見えている物。まだ、その秩序が分からず、自分のものになっていない世界で抱く不安は、高貴な本能である。あの原初の感覚。影のように捉え難い感覚に感謝し、賞賛しよう。その感覚が、この世の光すべての源。

詩人の内面を漂っていた思考は、再び、周囲の自然へのまなざしに戻る。かつて輝いていたものが永遠に消え失せたとして、それがどうしたというのだ。草に見た輝き、花に見た栄光を、そこにある強さを、原初の共感を思い返して見つけるのだ。かつての共感は、永遠にありつづけるのだから。「私は心の奥底で自然の力を感ずる。/私は一つの歓びを失ったが/より恒常的な自然の支配のもとで生きる。/私は幾筋ものせわしく流れ下る小川を愛す、/小川のように足どりも軽やかだった昔にもまして」。子ども時代の栄光の感覚を失ったとしても、人生を経た大人には、新たな報償がある。これまで生きるよすがとなった人々の、心の優しさ、歓び、そして怖さのお蔭で、慎ましく咲く花でさえ、しばしば、涙よりも深い感動を私にもたらしてくれるのだ——こうして、長い詩は終わる。私にとってとくに大事な要素を追うと、このような要約になるのだが、詩全体の深みは、全文を読まなくては味わうことができない。

ワーズワスが生きたのは、産業革命を経て、各地が都市化していった時代。失われていく各地の農村風景を憂いつつ、湖水地方の自然を生涯にわたり愛した。晩年、湖水地方に鉄道敷設の計画が公表されると、自然環境を保護するという観点から反対した。

 

 

パンセ・コティディエンヌ 3

(3)「モンテッソーリ・メソッド」と呼ばれる教育法は、1900年代、イタリア・ローマの貧民街であるサン・ロレンツォで確立される。19世紀後半、急速に近代都市化していくローマでは、アパートやビルが次々と建てられ、空き地が無くなるほどだった。サン・ロレンツォにもビルの建設計画があったのだが、計画がとん挫し、ビルは骨格だけが残された。残されたビルは、犯罪者たちの隠れ家となり、貧しい人々が何千人と住むようになる。巨大なスラム街となったサン・ロレンツォは、ローマの恥と言われるようになってしまう。

それらのビルやアパートを銀行家グループが買い取り、都市再生計画が始まる。ビルの経営者は、水回りを整え、風通しを良くした。ビルの住人には、職のある夫婦を選んだ。そうした家族が地域の人口を支える要素になると考えた。住民たちは、修復されたアパートに移り住み、生活を始めた。しかし、経営者たちを悩ませる問題があった。住民たちの子どもである。就学前の子どもたちは、両親が働きに出ている間、ビル内を自由に駆け回り、思いつく限りのいたずらをしたのだ。手を焼いた経営者たちは、子どもを一か所に集めて、一日中閉じ込めておけばよい、という結論に達する。空っぽの部屋を一室設け、子どもたちを監視する女性を一人雇えばいい。この計画の適役と考えられ、選ばれたのが、マリア・モンテッソーリだった。当時、子どもの精神障害に関する専門家として、国際的な名声を得ていたモンテッソーリは、この計画に大きな可能性を感じ、承諾した。子どもたちの部屋は、「子どもの家(Casa dei Bambini)」と名づけられ、1907年に開所式が行われた。

モンテッソーリが「子どもの家」で目的としたことは、子どもの行動をよく観察し、自分のことは自分でできるようにする、自立させることだった。体操、草木や動物の世話、みんなで食べる昼食の準備や盛り付け。服にボタンやレースを付けることを学び、掃除をし、洗濯する。それも自ら進んでその仕事をし、仕事をしたことに充足感を得られるように。感覚教具として知られるようになる教具はすでにあったが、使っているところを観察しながら、子どもたちが興味を持つものは何かを突き詰め、改良が加えられていった。

「子どもの家」は評判を呼び、同年にサン・ロレンツォで二つ目の「子どもの家」ができる。国内に着々とモンテッソーリの学校は増えていった。飛躍となったのは、チッタ・ディ・カステッロでの集まりである。フランチェッティ男爵は、当時、イタリア南部の後進地域における農地改革運動を指導していた。夫人は領地内の農民の子どもたちのために小学校をつくろうとしていた。二人はモンテッソーリに出会うと、同じ信念を持っていることを確信し、支援を申し出るため、別荘に招く。アンナ・マッケローニ、アンナ・フェデーリといったモンテッソーリを生涯にわたり支えた助手であり、友人たちも同席した。

チッタ・ディ・カステッロで、モンテッソーリは最初の養成コースを教える。自らモンテッソーリ・スクールを開校する修了生もあらわれた。フランチェッティ夫妻は、モンテッソーリの仕事を大いに助け、モンテッソーリに本を書くよう勧めた。モンテッソーリは、すぐに自分の仕事や思想をまとめた「子どもの家における幼児教育のための科学的教育法」(以下、「モンテッソーリ・メソッド」)を書き上げる。この本は、英語に始まり、フランス語、スペイン語、ドイツ語、ロシア語、ポーランド語、ルーマニア語、デンマーク語、オランダ語、日本語、中国語に翻訳される。数年後には20か国語以上に翻訳され、世界中で読まれるようになる。そして、さまざまな批評がなされた。ローマの「子どもの家」には、世界中から見学者が訪れ、「メソッド」について尋ねる手紙が、たくさん届くようになった。

1909年、「モンテッソーリ・メソッド」がアメリカで紹介されると、1910年代の初めに大きな運動が起こる。しかし、その勢いは数年で衰え、その後50年近く忘れ去られる。衰退した理由の一つは、アメリカ社会に適合した形でメソッドを広めたい支援者たちと、モンテッソーリ・メソッドは、ヨーロッパ各国でもなされているように、そのまま受け入れられなくては認められない、モンテッソーリ本人との考え方の対立だった。最終的にモンテッソーリは、自身の目の届かないところでメソッドだけが独り歩きすることを拒んだ。

この部分のことについて、今のところ明確な自分の考えは持ち合わせていないが、現代に通じるテーマだと思う。少し時間を置いて、文化、社会、歴史、宗教なども包み込む、ヨーロッパやアメリカの自然観を知ってから、あらためて考えてみたい。

 

 

暑い日は、北欧(下)

7月22日。愛知県美術館に「スウェーデン絵画 北欧の光、日常のかがやき」展を見に行った。昨年、東京の美術館でこの展覧会は開催していて、行きたいなと思ったのだが、会期中に東京へ行く機会がなかった。今年の春、愛知芸術文化センター地下の情報コーナーでチラシを見つけて、早めにチケットを購入した。

名古屋を含む東海地方には、美術館が多い。関東で開催した展覧会が巡回してくることはよくある。京都や大阪など関西方面へ行くのもそれほど遠くない。美術展が好きであれば、名古屋は便利な都市だと思う。群馬に行ったとき、宇都宮美術館で開催していた「ライシテから見るフランス美術」展が、しばらく経って三重県立美術館にやってきた。こちらもチラシで知って見てきたのだが、巡回する会場は、どのようにして決まるのだろうか。

さて「スウェーデン絵画」展である。日中の気温が、40度近くまで上がるという予報だったからか、正午過ぎの美術館は混んでおらず、見るのにちょうど良い人の入りだった。

画家たちの目を通して、スウェーデンやフランスのかつての風景、農村地帯での暮らしが伝わる展示だった。19世紀、スウェーデン出身の画家たちは、パリで勉強し絵画の技法を学んだ。日本人の画家たちも移り住んだ、パリ近郊のグレ=シュル=ロワン村に滞在した人たちもいた。けれども、その頃から隆盛を迎える印象派の画家たちとは、深い交流は無かったそうだ。言葉が通じず、同じスウェーデン出身の画家同士で仲が良かったからということもその理由にあったらしい。彼らは絵画の先進国フランスで技法を学んだが、その後は、故郷のスウェーデンに帰り、スウェーデンらしい絵画の制作に取り組んだ。

コローの絵にも少し似ているなと思った、湖を描いた風景画は、日常、人の生活のそばにある風景が、そのまま美しいことを教えてくれる。フランスのセーヌ河畔のリンゴの花は、白くほんのり輝いて、白い花がこのように見える時間はあるなと思った。北欧では、日没後と夜明け前に辺り一面が青い光に包まれる現象が長く続く。北欧的モチーフとしてよく描かれるそうで、独特な青色なのだろう。日没の風景画を観ると、太陽が沈んだばかりで地平線があかく、残光が青灰色の雲と混ざり、雲の下側もあかい。その絵を眺めていると、冬の夕暮れに、散歩に出かけたとき見かける空に似ている気がした。

スウェーデン国立美術館で、スウェーデンのABCと紹介される3人の画家がいる。自分が観たり、考えたりしていることとも重なり合う絵だったので、覚えておこうと思った。

一人目は、アンデシュ・ソーン。彼の出身地であるダーラナ地方は、スウェーデンでも、とくに歴史や伝統に根差した生活をしていた地方。フランスから戻ったソーンは、ダーラナに住む人々の暮らし、舞踏、音楽などを描いた。展示されていたリュートを弾く女性の絵は印象的で、着ている民族衣装は、何か象徴的な明るい赤色だった。

二人目は、ブリューノ・リリエフォッシュ。リリエフォッシュは鳥をよく観察して描いた画家。カケス、モズ、ダイシャクシギなど数点の鳥の絵が展示されていた。波間に漂うケワタガモは、繰り返し描いた海鳥。冬に知多半島の海に来るカモたちを思い出す。19世紀から20世紀は、鳥の生態を観察し、生息地や渡りの中継地の環境保護を訴えた人たちが各地にいた。リリエフォッシュのように、鳥たちにインスピレーションを得た表現者も多い。

三人目は、カール・ラーション。1989年に出版された水彩画集「ある住まい」がよく知られている。この水彩画集は、ラーション一家が実際に住んだ田舎の家を描いたもの。自然をモチーフにした家具や、植物を飾る器。慎ましくありながらも、暮らしの中に美を取り入れるという姿勢は、世界的に注目された。ダイニングでは、子どもたちも一緒に食卓を囲んだ。それは、大人と子どもが分けられていた時代において珍しいことだった。ラーションを絶賛したのは、同国の社会運動家であるエレン・ケイ。女性や子どもの権利について多数の著作を残し、母性について研究するとともに、子どもの自然な成長を重んじる教育の重要性を説いた。モンテッソーリとも共通するところがありそうだが、どうなのだろう。

美術館を出る。エレベーターで降りてきて屋外に出る。オアシス21のプランターに生えるコヒロハハナヤスリは全体が黄色っぽくなり、くったり倒れていた。地下鉄に乗って、熱田神宮伝馬町駅で降り、地上へと階段を上がると、もわっとした強烈な暑気。10年後に最高気温45度の名前がついていないと良いけれどと思いながら、足早に家に帰った。

 

 

暑い日は、北欧(上)

7月も後半になり、毎日、暑い日が続く。東海地方では、日中の最高気温が40度を超す場所が何か所も出てきている。今年、最高気温40度以上の日は、酷暑日と名づけられた。10年ほど前、よく聞いていたラジオの音楽番組で、35度以上の日が猛暑日という名前になったという話をしていた。イギリス出身のラジオDJは、毎日暑すぎると言いながら、テンション高く「MOSHO-BI!!(モショビッ!!)」と連呼し、発音がちょっと英語に似てるね、と笑っていた。これだけ暑ければ、そんなテンションにもなるよなと苦笑いしながら聞いていたのだが、年々気温は上がり続け、さらに5度高い日の名前まで出来てしまった。

夜でも暑いので、気分だけでも涼しくなれそうな本はないだろうかと、本棚を探す。まだ読めていない本の中から「北欧の小さな旅 ラップランド幻想紀行」(小谷明/東京書籍、1995)を読み始める。ラップランドとは、スカンジナビア半島の北部、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、一部ロシアにまたがる地域を指す。トナカイを放牧して暮らすラップ人(ラップという言葉が「追われた」という意味をもつため、現在は現地の人たちが用いるサーミと呼ぶ)を訪ねた旅のエッセイ。著者が撮影した写真は、ありのまま、きれいである。雪におおわれた大地、赤い毛糸が鮮やかな民族衣装、海辺の暮らしや風景。列をなすトナカイ。サーミの人たちがトナカイに橇を引かせる姿は、サンタクロースの原型となったと言われるそうだが、それも頷ける。実際そうなのかどうかは、よく分かっていないようだ。読み終わる頃には、脳内の暑気が、少しだけ抜けた気がした。

北欧というと、スウェーデン、フィンランド、ノルウェーに、デンマークを加えた4か国を指すのが一般的だと思う。北欧4か国は、児童文学作家を数多く輩出している。

「長くつ下のピッピ」の作者、アストリッド・リンドグレーンは、スウェーデンの作家。子どもの権利と個性を尊重するという作家としての姿勢が、世界的に評価されている。リンドグレーンの物語に出てくる子どもたちは、元気である。

コロナウィルスによる社会変化が起こる少し前、リンドグレーンの翻訳をされている方の講演を聞きに行った。海外の児童文学が好きな方たちに根強い人気を誇るリンドグレーンの作品。よく知られた先人の翻訳があるだけに、プレッシャーもあるが、なるべく現代の子どもたちにも分かるように翻訳されるそう。スウェーデンに行くと、高山植物が低地にあることを楽しそうに話されていて、100人くらい入っていた会場の雰囲気も和やかだった。

スウェーデンの東隣りの国フィンランドは、ムーミンの国である。リンドグレーンと同時代の作家、トーベ・ヤンソンが生んだムーミン・トロールは、第二次世界大戦中、雑誌の風刺画に描かれたことに始まる。ファンタジーでありながらも北欧の景色が目に浮かび、登場人物たちの発言や行動はそれぞれに個性的で、大人であっても楽しく読める。

スウェーデンの西隣りの国、ノルウェー。1990年代に「ソフィーの世界」が、世界中で翻訳されたヨースタイン・ゴルデルは、ノルウェーの作家である。私は西洋哲学をもとに書かれた物語である「ソフィーの世界」よりも、その後に発表された「アドヴェント・カレンダー」の方が好きだった気がする。12月に入って、クリスマスまでの24日間、毎日一つずつ窓を開けていくアドヴェベント・カレンダー。古びたカレンダーと出会った少年と、窓を開けるごとに語られる不思議な少女の物語。ただ、ほとんど忘れてしまっているので、機会を見つけて、もう一度、読んでみようかなと思っている。

最後に、スウェーデンと海峡をはさんで隣合う国、デンマーク。デンマークといえば、アンデルセン。19世紀の初頭に生まれ、「人魚姫」「裸の王様」「マッチ売りの少女」といった数々の童話は、世界中で読まれている。

国際アンデルセン賞は、1953年に創設された世界初の子どもたちが読む文学の作者に贈られる賞。世界的に栄誉ある文学賞にもちなむアンデルセンは特別な作家なのだろう。

日本は、19世紀後半、明治の世になる。その頃、日本には童話や児童文学がまだ無く、子どもが読む物語が渇望されていたときに、アンデルセンが紹介された。数々の文学者に大きな影響を与え、新美南吉は、日本のアンデルセンになることを願った。アンデルセンの物語は文学者だけでなく、表現者にも大きなインスピレーションを与えた。いわさきちひろは生涯にわたり、アンデルセンの物語の水彩画をたくさん描いた。<下に続く>

 

アミメカゲロウ、カゲロウのこと

7月のある日のこと。数日間、安定しない天気が続いていたのだが、その日は少し晴れていたので、朝、歩きに行くことにした。家の玄関を出て、すぐ隣の学校の塀に、昆虫が止まっていた。「おや、ウスバカゲロウだ……」と思い、近づく。この辺りにウスバカゲロウが生息するような雑木林はないので、知多半島から持ち帰った土に、幼虫か繭が紛れ込んでいたのだろう。近づいて翅をよく見ると、いつも見ているウスバカゲロウと様子が違う。翅脈がはっきりしていて、よく見ると茶黒い部分がある。腹部はまだら模様が目立つ。歩きに行くのをやめて、家に戻り、図鑑で確認したところ、カスリウスバカゲロウだった。

水のきれいな川に棲み、幼虫が水生昆虫であるカゲロウに対して、ウスバカゲロウやクサカゲロウの仲間は、アミメカゲロウ目に分類される。身近な昆虫が掲載されている手持ちのポケット図鑑でウスバカゲロウの仲間を調べてみると、載っているのは4種。ウスバカゲロウ、コウスバカゲロウ、ホシウスバカゲロウ、カスリウスバカゲロウである。

ウスバカゲロウ、コウスバカゲロウは、よく見かける。なぜかというと、この両種の幼虫、つまりアリジゴクは、すり鉢状の巣をつくる。知多半島でも知多市の日長神社、常滑市の多賀神社や高砂山公園、美浜町、南知多町など、数え始めたらきりがないほど、アリジゴクの巣は見ている。アリジゴクが繭をつくり、ウスバカゲロウになって雑木林にあらわれるのは、梅雨の終わり頃から。巣のある場所を確認しておけば、夏に出会える。

一方、ホシウスバカゲロウ、カスリウスバカゲロウの幼虫は、アリジゴクであることは同じだが、徘徊性で巣をつくらない。幼虫と出会ったことは、これまでに一度もない。成虫はどうかというと、カスリウスバカゲロウを見たのは、今回が初めて。ホシウスバカゲロウは、これまでに数回出会っている。場所は、南知多町と阿久比町。ホシウスバカゲロウは翅にもやっとした斑がある。

アミメカゲロウ目の他の種を見てみると、クサカゲロウの仲間も図鑑には4種の記載がある。ヨツボシクサカゲロウ、クサカゲロウ、カオマダラクサカゲロウ、アミメクサカゲロウ。一番よく見かけるのは、ヨツボシクサカゲロウ。顔に四つの黒い斑があることが名前の由来だそうだが、小さすぎて、肉眼では見えない。印象としては、翅脈があおく、飛んでいると、翡翠のようなきれいな色をしている。カオマダラクサカゲロウは、ヨツボシクサカゲロウとよく似ているが、小さい。アミメクサカゲロウは、ヨツボシクサカゲロウよりも大きく、翅の幅が広いので、見分けがつく。クサカゲロウ中のクサカゲロウを見たことがないのは、なんとなく寂しいのだが、生息する場所が他種とは異なるのだろうか。

ウスバカゲロウ、クサカゲロウの仲間以外の種を見てみると、スカシヒロバカゲロウは、南知多町の雑木林で出会った。腹部が黄色くて、翅にうっすらと斑が入る。図鑑の解説によると、「ヒロバカゲロウ類の幼虫は湿ったコケなどから見つかっているが、詳しい生態などはよくわかっていない」そうだ。ツノトンボは、常滑市で出会った。ヘビトンボ、センブリ、カマキリモドキは、知多半島では今のところ見かけていない。

昨年、天白渓でカゲロウを見た。目の前をふわりと小さな虫が飛んでいて、目で追うと3本の長い尾が見えた。カゲロウというと、知多半島では、南知多町にクロタニガワカゲロウが生息している小川がある。きれいな川に棲んでいるイメージがあるので、名古屋にもカゲロウがいるのだなと印象に残った。

今年の2月、名古屋市環境科学調査センターの研究調査発表会に参加した。藤前干潟に漂着するマイクロプラスチックの調査など、研究員の方たちによるいくつかの発表が行われるなか、とくに聞きたかったのは、「生き物で水環境を測る」をテーマとした発表である。

名古屋市では、河川の水質を評価するのに、微生物が水の汚れを食べて分解するときに消費する酸素の量を測るBOD調査と同時に、水に棲む生きものを調べて水環境を評価する取り組みも行っている。名古屋市の環境白書を見ると、今回の調査で見つかった水生生物が記載されている。カゲロウ目は、27種(同定されているものは22種)。たくさんいることに驚きつつ、市内の河川がきれいになってきていることに、安心した。庄内川がとくに、BOD、生き物による水環境の評価ともに高かったそうだ。さらに良くしていくための課題は、まだたくさんあるだろうが、こうした調査報告が聞けるのは、嬉しいものである。

 

 

ルーツ・オブ・ソルト(下)

年魚市潟(あゆちがた)は、かつて、熱田の南から知多半島の付け根にかけて広がっていた干潟。万葉集にも詠われている。「年魚市潟潮干にけらし知多の浦に朝こぐ舟も沖による見ゆ」「桜田へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る」。桜田は、名古屋市南区に地名が残る。年魚市潟は、名古屋市緑区の鳴海の宿では、鳴海潟とも呼ばれていた。

知多半島の塩田というと、三河湾側の東浦町での塩づくりがよく知られている。平安時代から知られた生道塩(いくじしお)の産地とされ、江戸時代には知多半島と西三河の境である境川沿いに塩田が広がっていた。対岸の吉浜との渡しがあった藤江にも塩田があったが、西三河と同じように東浦町の塩田も、19世紀から20世紀へと流れる時代において、水田になっていった。

伊勢湾側はどうかというと、東海市にも海沿いに塩田があったようだ。鳴海から知多半島西側の海沿いを通って南知多町大井に至る、常滑街道という道がある。常滑街道沿いの横須賀にある諏訪神社には、「年魚市潟潮干にけらし~」の江戸時代の歌碑があるが、すぐそばの地名に高横須賀塩田とある。江戸時代、干潟と塩田の風景に心惹かれた人が、さらに1000年の昔に、同じように年魚市潟の風景に心惹かれた万葉歌人の歌を残したいと思ったのだろう。境内に祀られている香良洲(からす)神社も干潟に縁のある神社。

熱田区、南区、緑区、東海市。年魚市潟がどれだけ広かったかが、よく分かる。忘れてはいけないのは、荒立つ波の海ではなく、穏かに波が寄せ、満干を繰り返す潟ということ。現在、日本全国を見渡しても、広い干潟が見られる場所は、ごくわずかである。

塩付街道は、御器所辺りから南下する。熱田台地から見ると、真東になる。この街道は、笠寺台地と呼ばれる緩やかな台地の上にある。笠寺台地には、旧石器時代に始まり、弥生時代から古墳時代にかけて大きなムラが栄えた見晴台(みはらしだい)遺跡がある。名古屋市見晴台考古資料館では、遺跡の成り立ちや、市内の遺跡の発掘情報などを知ることができる。

見晴台からもう少し南下したところ、笠寺台地の縁にある星崎が街道の終点であり、塩の道としては始点となる。塩付街道は、この星崎周辺の村々に暮らす人たちが、年魚市潟でつくった塩を伊那谷に運ぶための道なのである。

江戸時代の尾張名所図会に「星の宮」として描かれている星宮社は、星崎の旧村社である古い社。創建年代は、よく分かっていないようだが、飛鳥時代とも言われるそうだ。尾張名所図会をよく見ると、社の裏手の小高い丘に「イナツチヲキナノ社」と記されている。イナツチヲキナは、伊奈突智老翁と書くそうで、名古屋市の公式ウェブサイトには、「縁起によればこの地に塩づくりを教えた人である」と説明されている。

伊那は、伊奈とも書く。文字から素直に考えたら、「伊奈から来た土のことをよく知る翁」ということではないだろうか。つまり、江戸時代に名所図会に描かれるほど、美しく広大な塩田風景のルーツとなった製塩技術をこの土地の人びとに伝えたのは、伊那谷から来た人だったと考えられる。自然の恩恵をかたちにする技術を、土地の人びとに伝授した人が、感謝の気持ちとともに神社に祀られるというのは、越前に紙漉きの技術を伝えた岡太(おかもと)神社の川上御前をはじめ、各地によく見られる。

そうなると、伊那谷には塩水から塩をつくる技術があったということになるが、思い出されるのは、大鹿村の塩。大鹿村のある中央構造線の谷には、塩水が湧き出る場所がいくつもある。近隣の遺跡からは、製塩土器も発掘されている。

ここまでが、フィールドワークと資料から見えてきた事柄をつなぎ合わせて考えた、塩についての思索である。古の海と山の民について考えられることは他にもあるが、筋道を立てて書くには、もう少し確認が必要になるので、そろそろ終わろうと思う。

なぜ老翁が星崎にやってきたのか、いつやってきたかは、私には知る由も無いけれど、思うのは、山と海の民の交流に主従関係は無かったのではないだろうか。自然の理をよく知っていて、村が豊かになる仕事を生み出してくれた山に住む人びとへのお礼から始まったのが塩の道だったのではないかと思う。争いに明け暮れた為政者の栄枯盛衰は、後世まで饒舌に語られるけれども、多くを語らない善意による交流が忘れ去られていくのは、世の常。そのような古の善意の欠片を、足を使って拾い集め、つなぎ合わせてみる。すると、語り継がれる歴史に寄り添う人間本来の精神文化が、浮かび上がるのではないだろうか。

 

 

ルーツ・オブ・ソルト(中)

今年の2月。ざぜん草を見るために嵯峨坂の自生地を訪ねた後、昨年、時間が足らず入ることが出来なかった飯田市考古資料館を、あらためて訪ねることにした。

飯田市考古資料館は、上郷(かみさと)地区にある。この周辺は、縄文時代から弥生時代の遺跡が密集しており、今も新しい発見が続いている。また、5世紀後半~6世紀前半にかけて造られた前方後円墳、帆立貝形古墳は、飯田古墳群として史跡指定されていて、全国の流れに違わず、この地にもヤマト王権による政治支配が及んでいたことが想像される。

古墳群が造られた時代の以前はどうかと言うと、4~5世紀の遺跡では、東海地域との繋がりが強いとされる前方後方墳が、3基確認されている。多くの墓は方形区画で盛り土が低いものであるため、弥生時代の暮らしがそのまま続いていたと考えられている。

展示室に入り、目を引くのは、野底山(のそこやま)で発見されたヒノキの古木。年輪年代法の結果、弥生時代のものということが分かっていて、近づくと、ほのかに匂いがする。弥生人も嗅いだヒノキの匂いを嗅ぎながら、伊那谷に人が住み始めたのは、いつからだろうと思う。答えはすぐに、展示解説が教えてくれた。3~5万年前。つまり旧石器時代からである。

飯田山本では、竹佐中原(たけさなかはら)遺跡、石子原(いしこばら)遺跡という旧石器時代の遺跡が隣り合って見つかっている。二つの遺跡は、同じ旧石器時代の遺跡なのだが、成立していた時代が異なる。それは、石器の材料となっている石の違いから分かる。石子原遺跡から見つかった石器は、赤石山脈の石が使われている。赤石山脈は、少し離れた天竜川を越え、伊那山地も越えた、さらに先。遺跡付近では採取できない。天竜川近辺から持ってきたのだろうと考えられている。一方、竹佐中原遺跡は、出土する石器の傾向によって遺跡Ⅰ、遺跡Ⅱと分類される。Ⅰの石器には遺跡から少し南に下った阿知川で採取されたと考えられる、ホルンフェルス(変成岩の一種)という石が使われている。Ⅱはより進んだ石器文化で、Ⅰでは見られない黒曜石を用いた局部磨製の石器や、石器を研いだ砥石も見つかっている。

人類が日本列島に至り定着するまでの流れを大まかに整理してみると、現生人類の祖先、ホモ・サピエンスの最も古い化石は、20万年前のものである。アフリカで暮らしていた人類は、5~6万年前に一部の集団がアフリカを出る。ユーラシア大陸を東進した人類は、大陸の端にたどり着く。最終氷期に海水面が低下したため、シベリアから地続きになっていた日本列島に入り定着したのは、およそ3万年前とされている。石器を改良しながら、狩猟採集を続けた人類は土器を作るようになり、その模様から縄文人と呼ばれ、日本独自の文化を生み出していった。集落を作り、貝塚を形成し、集団生活を営んでいた縄文人は、3000年ほど前に日本列島にやってきた弥生人たちとも交流を始める。そして文化や技術が混ざり合い、狩猟採集と稲作、両方からの恵みを享受する生活様式が確立されていく。

下伊那地域では、約5000年前、縄文中期の大規模集落や、拠点集落が数多く見つかっている。弥生時代の遺跡も含めると、約550か所。天竜川流域は河岸段丘なので、川のそばの低位段丘には弥生遺跡が分布しているなど、土地を活かした集落形成が見て取れる。

つまり、伊那谷という土地は、日本列島に人類が定着した最初期から人の営みがあり、現在に至るまで、脈々と暮らしがつながっている地域。縄文人・弥生人のルーツという点は、諸説あるだろうが、土地に常に人がいて、他地域と交流しながら、独自の文化を築き上げた土地であることは確かだろう。椋鳩十が魅かれた山の民・山窩についても、考古学的観点から考えてみると、どのような人々だったのか、より具体的に見えてくるかもしれない。

江戸時代、尾張・三河で作られた塩は、山間部の文化圏である伊那谷に運ばれていた。人びとの交流が始まったのは、いつ頃からなのだろう。知多半島の小桝遺跡、西三河の南霞浦遺跡で塩がつくられていた頃から、伊那谷にも運ばれていたのだろうか。

名古屋と伊那谷をつなぐ塩の道を、運ぶときと逆向きに辿ってみる。伊那谷から足助までは、平谷、根羽、稲武を通る。根羽、稲武は古代、西三河の加茂郡に含まれていたそうなので、西三河は、ずいぶん広かったようだ。足助からは、巴川沿いには進まず、山の裾へ下りていくと、力石に出る。矢作川沿いを豊田市の中心地である挙母まで行き、濃尾平野を西へと進む。名古屋市天白区の平針を通って、天白川をわたり、観察会をしている八事裏山、音聞山を越えると川名に出る。塩の道は、ここで塩付(しおつけ)街道と交わる。〈下に続く〉

 

 

ルーツ・オブ・ソルト(上)

塩について考え始めたのは、いつ頃からだろう。記憶の糸を手繰ってみる。

5~6年前、南知多町内海のつぶて浦で、磯の生きものの観察会をしていたとき、岩場の潮溜まりで、6~7センチくらいの棒状の土器の欠片を拾った。観察会に参加されていた方に、「製塩土器じゃないですか」と教えてもらい、知多半島では古代、海岸で塩づくりが行われていたことを知った。

東海市郷土資料館には、「知多式」と呼ばれる製塩土器が展示してある。見つけた土器の欠片を持って資料館を訪ねると、「きれいな状態ですね」と言われ、製塩土器や塩づくりのことを教えてくださった。拾った土器の欠片は、ろうとのような形をしている製塩土器の椀の下の棒状部分。棒状の部分があることで、砂地に土器を差し込んで安定させた。つぶて浦のすぐそばには、古墳時代から平安時代にかけての小枡(こます)遺跡があり、須恵器や製塩土器が、多数見つかっている。知多の海岸でつくられた塩は、奈良の都に税として納めるために運ばれていた。つぶて浦では、製塩土器の一部がよく見つかるそうだ。拾った土器は、日付を記した袋に入れて保管してある。

昨年の春、西尾市にある吉良饗庭塩(あいばじお)の里を訪ねることにした。その頃は、塩の道について調べていて、尾張・三河から伊那谷へつながる塩の道は、いくつかあることを知った。ただ、それよりもまず、そもそも塩は、海沿いのどこら辺で、どのようにして作られ、伊那谷まで運ばれて来るのだろうと思い、塩づくりについて知ることができる資料館を探していたところ、西三河の海沿いにあるこの施設を見つけたというわけである。

西尾市までは、まず新堀川をわたり、南区へ入り、国道23号線に乗る。星崎、大高、豊明を通過すると、西三河に入る。刈谷市、知立市、安城市を通過して、矢作川をわたると西尾市。伊那谷方面から続く三河山地の果て、幡豆(はず)山塊がすぐそばに見える。小山の緑を眺めながら田んぼの広がる道を行くと、海が見えてきて、塩の里があった。

西尾市の市域は広く、この辺りは、旧吉良町になる。吉良というと、吉良上野介が思い浮かぶ。一緒に来た方と話をしていると、「赤穂浪士の討ち入りも塩が原因でしたよね」と言われ、なるほどと納得する。赤穂は、瀬戸内の塩の産地。現在の自治体名で言うならば、兵庫県赤穂市。瀬戸内の塩づくりの起源は古く、弥生時代の藻塩(もしお)焼き(藻塩法とも言い、海藻を利用して塩をつくる)に始まる。知多半島で出土する知多式製塩土器も、形状からルーツは瀬戸内の製塩土器とされている。弥生から古墳時代へと時代が下るにつれて、製塩技法は伝播し、北は北陸、東では知多半島、渥美半島に伝わったというのが定説である。

西三河では、塩は入浜式(いりはましき)と呼ばれる塩田でつくられていた。入浜式塩田は、江戸時代に考案された大規模な塩田による塩づくり方式。潮の干満を利用し、海水を塩田に取り込む。潮が引き、水分が乾くと、塩の結晶が砂に付着する。その砂をオシエブリ、カキエブリと呼ばれる道具でつぼにかき集める。かき集めた砂に海水を掛けて、より濃い海水を採り、煮詰めると、塩ができる。入浜式は、潮の干満が一定で穏やかだからできる。三河湾、伊勢湾などの内海に面した地域は入浜式だが、波の荒い遠州灘沿岸では揚浜式(あげはましき)塩田になる。揚浜式は、人力で海から海水を汲み上げてきて、塩田に海水を撒く。

吉良でつくられた塩は伊那谷にも運ばれていた。山間地へと運ぶためには、矢作川、矢作古川を利用する。上流の巴川流域の平古あたりまで運び、陸路で、飯田街道の宿場である足助に運び、稲武、根羽を通って、阿智、そして飯田へと運ばれた。

江戸時代に各地で繁栄した塩田だが、明治後半から昭和の初めにかけて、全国の塩田が整理、廃止された。米の生産を増やすため、各地の塩田は水田へと姿を変えていった。

この辺りの古代の塩づくりはどうだったのか考えてみる。現在の矢作川下流域、碧南市にある南霞浦(みなみかほ)遺跡では製塩土器が見つかっている。遺跡は6~7世紀、古墳時代のものと考えられており、知多半島と渥美半島の土器の特徴があらわれているそうだ。知多、渥美の人びとと交流しながら、より良い塩づくりを模索していたのだろうか。矢作川の流路は、江戸時代に現在の流路に変更されていて、それ以前の海へ至る流路というのは、ずいぶん複雑だったようで、昔の河道跡が調査されている。その頃から川を使って山間地域にも塩が運ばれていたのだろうか。〈中に続く〉

 

 

伊那谷をめぐる(八) 座禅草、花木、片栗(下)

4月5日。今年も喬木村の阿島祭りの季節がやってきた。3月になると、今年はどうしようかと考える。春は、いろいろすることが多くなってくるので、気ぜわしい。今年はやめておこうかなと思いながらも、半ばを過ぎてくると、やっぱり行こうと思い到る。

一年が巡って、今年もやってきた春。五穀豊穣、商売繫盛、無病息災、家内安全。地域に暮らす子どもたちの健やかな成長祈願。古くから土地に息づくお祭りは、さまざまな意味をもつけれども、大きく言えば「季節を祝う」ということなのだと思う。春には、春の祭り。夏には、夏の祭り。秋には、秋の祭り。冬には、冬の祭り。季節ごとのお祭りを自分の暮らす地域で想い描けるということは、とても、心に豊かなことだと思う。

午前中、喬木村に行く前に、飯田市梅ケ久保にあるカタクリの里を訪ねることにした。飯田インターを下りて、いつもとは反対方向である山側に折れる。この秋に登ろうと思っている飯田のシンボル・風越山(1535メートル)と、その手前の虚空蔵山(1130メートル)を右手に見ながら、笠松山(1261メートル)の麓を目指す。道は分かりやすく、道中案内も立ててあり、インターを下りて10分ほどで到着した。途中、枝垂れ桜がきれいに咲いていた。こちらに来ると、枝垂れ桜をよく見かける。伊那谷の桜は、全体的に少しクリームがかった、落ち着いた色合いをしている気がする。

開花時期を調べずに来たため、咲いているのか不安だったけれど、「終わった花もあるけれど、またたくさん咲いていますよ」とのこと。木道を歩くと、数千株のカタクリの花が咲きそろっていた。見事で楽しくなる。花は、やや赤みのかかった紫色だが、おぼろげな色。裏側が白いため、染めた花弁の色が裏に滲んだようにも見える。

しゃがんで花を観ていると、「アリがいるよ」と呼ばれた。行ってみると、胸部の赤い大きなアリが、忙しそうに歩いていた。そういえば、似たようなアリをハナノキ湿地のそばの畑沿いで見たな、と思い出す。そちらのアリは、赤い胸部が尖っていた。帰ってから調べてみると、カタクリの里で見たのは、ムネアカオオアリ。湿地のそばで見た尖っていたのは、トゲアリ。トゲアリは、朽木、枯れ木などに巣を作るムネアカオオアリなどの巣に、一時的に寄生するらしい。ムネアカオオアリにとっては天敵だ。巣を作らずに集団移動するアミメアリという種もいるし、社会性を持つと、それに従い、集団独自の行動様式が生まれる。

カタクリの里は、約1ヘクタールと広い。林縁の植物を観察しながら、傾斜を上がる。伊那谷では見慣れてきたシダの仲間、トウゲシバ、マンネンスギ、ヒカゲノカズラ。3月の訪問地では咲いていなかった、ショウジョウバカマ。一緒に来ている小学生の男の子が「スミレがあった」と教えてくれたので、行ってみる。名古屋や知多半島では見かけない種類。ほとんど白に近い、淡い藤色の花を横から見ると、距が細長く、赤紫色がよく目立つ。茎や萼、葉の葉脈や裏側が、赤みがかっている。調べてみると、ゲンジスミレのようだ。ゲンジスミレは、長野に多いスミレの仲間で、ほかには、東北、関東、中国、四国地方に隔離分布する。

なぜ遠く離れた土地に分布しているのかは分かっていない。スミレの種子散布というと、弾けて飛ぶほかに、アリによる散布が知られている。普通に考えたら、一か所から周辺に広がっていくと思うが、アミメアリのような移動性のアリが運んでいったのだろうか。そもそも満遍なくあったが、何かしらの理由で、今あるところにだけ残ったのかもしれない。分布している土地だけに共通する地質があるのだろうか。「源氏菫」という、どこか文学にも近そうな種名も相まって、気になる存在になってくる。

木では、キブシの花が咲いていた。シダの上に散っていた黄色い花は、ダンコウバイ。この木の花も丘陵地に春を告げる。ハナノキも花が咲いていた。花穂が風に揺れるハンノキの枝には、少し大きな鳥が止まっていた。「ギャッ」と鳴いて飛んだので、カケス。

ゆっくり観ているうちに、時間を大幅に超えていることに気づく。川面に棚引く鯉のぼりと、川向うの桜を見ながら、急ぎ足で下りる。入り口に戻ると、自然愛護会の方々が、一つ一つ育てた鉢植えを販売していた。タンチョウソウ、イカリソウ、オキナグサ。植木鉢を見て、みな話が弾む。カタクリも花が咲くまで、7年かかる。時間をかけて花を増やしていくには、土地の自然に深い親しみが無ければできない。名残惜しいが、喬木村へ出発。正面に見える伊那山地の麓から、明るいお囃子の音が聞こえた気がした。

 

 

伊那谷をめぐる(七) 座禅草、花木、片栗(中)

ハナノキは、カエデ科の樹木である。3月になると湿地の周辺で、若葉の出る前に、赤い花を咲かせる。花のあとにできる種子はプロペラ状。くるくると風にのって分布を広げる。秋になると、イロハモミジなど、ほかの楓の仲間と同じように紅葉する。

ハナノキのルーツはとても古い。祖先種であるブラウンカエデの化石が、約1300万年前の地層から見つかっている。1300万年前というと、地質学的には新生代第三紀にあたる。現在、私たちが生きている時代は、新生代第四紀。恐竜がいたのは、新生代の一つ前の時代である中生代。第三紀は、恐竜が絶滅して長い年月が経ち、地球全体が暖かくなり、被子植物が大地を緑にし、ほ乳類が繫栄し始めた時代。北極周辺で繁栄していた祖先が、繰り返し訪れた氷河期を乗り越えて、形を変え、北米、日本で生き残った。

ハナノキは日本固有種であり、恵那山周辺の長野、愛知、岐阜に自生地が集中している。愛知県では県の花になっているが、自生地は少ない。武豊町の自然公園にもハナノキはたくさん生えているのだが、ずいぶん昔に人が移し入れたものが増えたのだろう。

伊那谷の自生地は、飯田市、阿智村、阿南町に広がる。以前、飯田市美術博物館を訪ねたとき、ミュージアムショップに並んでいた「ハナノキ湿地の自然史 赤き楓のシンフォニー」(2008)という展覧会図録が目に留まった。ハナノキの紅葉と裏表紙には花の写真。地の色も赤い、真っ赤な装幀の図録。この図録の印象はとても強く、毎年ハナノキを見に行きたいなと思いつつも、春は訪ねる場所も多く、機会に恵まれなかった。そろそろ行ってみようと思い、この春に飯田市山本周辺のハナノキ湿地の一つを訪ねてみることにした。

2月、まずは場所を確認するため、ザゼンソウを観に行く前に立ち寄ることにした。目印の付けられた駐車場に車をとめて、周辺を歩いてみる。湿地にはどこから入るのだろうと思いながら、植林されたヒノキの道を歩いていく。道をしばらく進むと、目の前に山並みが開けた。伊那谷で観察していると、どこを歩いても、急に目の前が開けて、山並みが見える場所がある。河岸段丘による起伏に富んだ地形は、風景を絵にしている。

なだらかな崖をコケがおおっている。前日まで雨が降っていたこともあり、葉の開いたコケがきれいだ。ハイゴケ、シラガゴケの仲間は見て分かる。地衣類のコアカミゴケもある。昨年の冬、足助で訪ねた、農村舞台のある諏訪神社の石垣も、ハイゴケ、シラガゴケ、コアカミゴケが目立っていたなと思い出す。少し歩くと、シダの仲間であるマンネンスギがあった。杉の葉によく似ている。そばには、ヒカゲノカズラの群落もあった。

入るところが分からなかったため、駐車場まで引き返す。戻って周辺をきょろきょろ見ていたら、100メートルほど先の道路沿いに入口があった。ずいぶん先まで歩いてしまったけれども、周辺散策だけでも十分満足したので、移動することにした。立ち去り際、ほんのり黄色いチョウが眠たそうに飛んでいたので、写真に撮り、帰ってから確認すると、スジボソヤマキチョウだった。伊那谷らしい昆虫と出会えたので、嬉しくなる。

3月24日。あらためてハナノキ湿地を訪ねた。気温も上がり、生きものも本格的に動き出していて、スジグロシロチョウ、コツバメが飛んでいた。ハナノキは、ほぼ満開。赤い花がよく見える。少し後に満開となる桜の趣とは、だいぶ違う。自然に流れる時間に身を任せられなければ、美しさに気づくのは難しそうである。季節によって、場所によって、時間の流れが異なるのなら、それぞれの季節に咲く花々に、心を重ねられるようにありたい。

ちょうど保全活動をされている方たちが来て作業をされていたので、車でお弁当を食べていたら、「見ていってください」と声を掛けてくださった。道路から谷へ下る。背の高いハナノキを見上げながら、雄木と雌木のこと、ハナノキの分布のこと、湿地の植物のことなどを教えてもらった。定期的に観察会もされているそうなので、ちょうど良い機会があったら参加してみたいと思った。雑木林を歩くと、思った以上に広いことが分かり、ルリタテハ、テングチョウ、オナシカワゲラなど春の虫たちがいて、気持ちの良いところだった。

家に帰って、あらためて図録を読み直していたら、滋賀県東近江市には、聖徳太子お手植えといわれるハナノキの古木があると書いてあった。伊那谷をめぐっていると、聖徳太子の碑をよく見かける。もしかしたら、1400年前、伊那谷を訪ねた聖徳太子が、ハナノキの美しさに魅かれ、幼木を持ち帰って植えたのかもしれないなと想像した。〈下に続く〉