揖斐谷、春日谷で考える(下)

春日の森の文化博物館の駐車場に着き、車の外に出ると、少し変わった模様の四花弁の白い花が咲いていた。平地では見かけない。なんだろうと思いながら、写真に撮る。駐車場から文化博物館までは少し距離があるが、ところどころで、その花が咲いていた。

真っすぐ奥へと続く、森の文化博物館のアプローチ。ああ、こういう造りだったなと、7年前に来たときのことを思い出す。苔の生える地面には、アプローチに沿って彫刻が置いてある。それらの作品は、春日村出身の彫刻家・藤原市三郎が造ったもの。市三郎は、1919(大正11)年に炭焼き、養蚕、薬草を生業とする両親のもとに生まれ、学校を卒業した後は、岐阜県庁に勤めた。戦争が始まると、野戦郵便隊員としてビルマへ派兵される。当地でイギリス軍の捕虜になるが、ビルマの人々の暮らしや花や動物をハガキに描いて、家族に送った。終戦後は復職するものの、すぐに退職。春日村のお茶・薬草の販売店、看板屋で生計を立てながら芸術の道を歩む。植物の雄しべや雌しべ、蝶や尺取虫の蛹を観察し、その生態からインスピレーションを得て作品づくりをしたという人物である。

椋鳩十作品にも登場する遠山犬や、薩摩犬のように、この地方にも古くから山に生きる日本犬がいた。美濃柴犬といい、やはり猟師たちとともに、ウサギやキジを狩る猟犬として飼育されていたが、戦中の混乱期に食糧難や伝染病の影響で数が激減する。市三郎は、絶滅の危機から美濃柴犬を守るため、自宅で何頭も育てていたそうだ。

柴犬とは少し違う感じの犬の彫刻が玄関のそばにあったので、近くで見ようとアプローチを下りると、苔の地面に、ハナヤスリが生えていた。これはコヒロハハナヤスリだろう。コヒロハハナヤスリと、雑種とされるコハナヤスリとの違いを、もう少し正確に理解しておかないといけないなと思いながらも、またハナヤスリに出会えて嬉しくなる。

館内の展示は、大きく変わっていなかった。ブナの森、村の民話、炭焼き小屋、薬草、そして、お祭り。広い展示室ではないが、村の生活や大切にしてきたものがよく分かる展示である。前回来たときには見落としていたが、鉄を精錬するときに出る不純物の多い塊・鉄滓(てっさい)が見つかっていることから、鋼精錬の技術集団が春日に暮らしていたのではと考えられているそうだ。製鉄には、大量の木炭が必要なので、春日村では炭焼きが発展した。かつては炭焼きの村と称されるほど、炭生産の多い土地だった。

揖斐谷と春日谷のことが分かってくると、自然の材を人の知恵によって活用し、暮らしを豊かにしていた地域なのだなと感心する。土地に生える木で生活用具や道具をつくる。コウゾやミツマタを使い、紙を漉く。養蚕で糸をつくり、機で織って衣服などをつくる。さまざまな野草を薬にする。棚田もあるので、米もつくっていたし、古くは稗や粟もつくっただろう。加えて、狩猟、漁労、採集。鉄は村の暮らしに直結したわけではないかもしれないが、山を知る人々が暮らす土地だったから出来たのだろう。これだけ自然と人の生活をつなげ、活かし、地域での生産がなされている土地は珍しい気がする。

展示を見終わって博物館の職員の方と少しお話したところ、シカが山野草を芽生えから食べてしまうそうだ。「長野でも問題になっています。希少な高山植物が食べられてしまうそうで」と話す。現代の山の問題は、地域を問わない共通性がある。

博物館を出て、アプローチを歩く。そばを粕川の支流が流れているので、水の音がよく聞こえる。歩いていると、いきなり虫が飛び付いてきて、服に止まった。びっくりして見ると、カワゲラである。体が黄色いので、ヤマトカワゲラかなと思ったが、少し様子が違う。帰ってから調べてみると、渓流に生息するフタツメカワゲラの仲間だった。

駐車場に戻り、もう少し植物を観察する。仕事が終わった職員の方がやってきて、何を見ているんですかと話しかけられた。四花弁の白い花のことを聞いてみると、アケボノソウですねと教えてくださった。これだけはシカが食べないから、あちこち生えているそうだ。

最後に、前回来たときに見た太鼓踊りが奉納される六社神社を訪ねた。16時半をまわり、だいぶ暗くなってきて、仰ぐほどの杉の木のもと、幽遠な雰囲気が漂う。石段を上がり、薄暗がりに地面を見ると、またハナヤスリが生えていた。コヒロハハナヤスリでよさそうである。それにしても今日一日で、ハナヤスリの生育地リストが急に増えたなと不思議な気持ちになる。ハナヤスリの調査も兼ねて、またそのうちに訪ねよてみようと思った。

 

揖斐谷、春日谷で考える(中)

三輪神社から揖斐川沿いの国道417号線を山の方へと向かう。しばらく走ると、道の駅「星のふるさとふじはし」に到着。そのまま道を進めば奥いび湖があり、徳山ダムがある。県境である冠山トンネルを越えると、福井県池田町に入る。その先は越前市がある。山を抜けて和紙のふる里を過ぎると武生盆地。かつては徒歩で山道を歩いていくしかなかったことは容易に想像できる。現在は、車で一時間ほど走れば越前まで行ける。

道の駅に着いたのはお昼時で、日帰り温泉に来た人たちや、行楽の家族、年配のご夫婦、バイクでツーリング中の人たちなど、にぎやかだった。目的地の徳山民俗資料収蔵庫は昼休憩中だった。入ることができるのは13時から。屋台でおにぎりを買ってきて、ロビーに置いてあった少し懐かしい感じのするアップライト・ピアノの前で食べながら待つことにした。

収蔵庫の入口には徳山村のかつての生活の様子や水が溜まっていく過程が、写真パネルで展示されていた。受付にいた職員の方が声を掛けてくださったので収蔵庫の中に入る。

ここに収蔵されているのは、国の重要民俗文化財である徳山の山村生産用具5890点。その一つ一つが木製の棚に丁寧に分類されて並べられている。狩猟の用具、漁労の用具、生活のための用具。農具や鋸。紙漉きの道具も漉き舟や干し板があった。他には、養蚕が盛んだったので、養蚕用具や紡織用具も収蔵されていた。そうした用具の一つずつには使用された木の名前が記してある。思い出してみると、地元で使われていた用具をひと揃え置いてある展示はよく見かける。それはそれで当時の生活が伝わり、素朴でよいのだけれども、この収蔵庫の量と保存状態のきれいさは圧巻である。ずっと見ていたくなる。

用具に使われている樹種は多様である。代表的なのは、トチノキ。他の木では、クリ、スギ、ヒノキ、ブナ、ケヤキ、ミズナラ、ミズメ、ホオノキ、カツラ、サワグルミ、シナノキ、クロモジ、マンサク、サクラ、イタヤカエデなど。曲げ物の代りとなるケヤキの樹皮は、一年のうちでもごくわずかな時期にしか取ることができない。木に水が一番よく上がってくる6月頃。根から枝葉へと運ばれる水が、樹皮との間に層をつくり、うく。そうすると樹皮が幹から離れやすくなり、きれいに樹皮をはぎ取ることができる。木材だけでなく、藁も用途によって数種類あるわらじや雪靴など、さまざまな用具に使われた。

広い収蔵庫内をひと通り歩いたが、紙漉きの様子を具体的に伝える展示は見あたらなかった。帰ってから調べてみると、滋賀との県境にある坂内(さかうち)村に坂内民俗資料館があり、ここは和紙の生産が盛んだったので、紙漉きの部屋が保存されているそうだ。けれども、現在も資料館があるのかどうかは、よく分からなかった。

坂内での紙の生産は、美濃和紙よりも早くから行われていて、こちらから美濃へと和紙の製造方法は伝播していったと言われている。地図を確認してみる。越前から伝わってきたとしたら、徳山経由で南下したということだろう。坂内よりも西から入ってきたとしたら、滋賀方面の紙漉きの里から伝わったということになる。徳山では、坂内の北にあるホハレ峠を越えて、昭和の頃まで近江の托鉢僧がやって来ていたという話なので、交流はかなりあっただろうが、近江方面で現在も伝わる和紙の里を知らない。となると、そもそも紙漉きの発祥が坂内ということなのだろうか。雪深い土地の苛酷な環境下で漉かれた美しい紙が、その製造技術とともに越前や美濃へと伝わったということなのかもしれない。

徳山村のルーツは旧石器時代に遡る。1万年前のナイフ形石器が見つかっており、黒曜石製のものも出土している。縄文遺跡は多数見つかっている。土器の系統は、北陸系、瀬戸内系、東海系、信濃系が混在。さまざまな土地から人が集まってきたことが分かる。同じように旧石器から縄文にかけて人が暮らしていた伊那谷では、天竜川沿いに弥生、古墳時代の遺跡が見つかっているが、徳山では、弥生前期の遺跡が見つかってはいるが、古墳時代の遺跡は無く、人が暮らしていたという明確な証拠はそこで一旦、途絶える。

江戸時代以前は、木を伐り倒すということは、決してしなかったそうだ。木の一部を生活の材とした。そうした話から思い浮かぶのは、山の民という言葉。弥生以降の明らかな人の営みが残っていなくても、人々はそこに暮らし続けていたのではないだろうか。かつての山の暮らしに想いを馳せ、職員の方にお礼を言い、外に出る。早くも傾き始めた陽射しのもと、行楽日和の道の駅を後にして、春日村へと向かった。<下に続く>

 

 

揖斐谷、春日谷で考える(上)

揖斐(いび)川。学校で習う東海地方の川というと木曽三川が代表的であるが、三川のうち一番西側を流れる川が揖斐川である。「揖」は「ゆう」とも読む。漢字の意味は、会釈する(胸の前で手を組んでするお辞儀のこと)、あつめる。「斐(ひ)」は、うるわしい、うつくしい、あやがあるといった意味をもつ。三川の河口は伊勢湾。愛知と三重の県境を海へと流れ出る。川の水が流れ出すところはどこか考えてみると、岐阜・長野に広がる山々に行きつく。

三川のうち、もっとも東側を流れる木曽川を遡ってみる。愛知と岐阜の県境、恵那・中津川、中央アルプスの伊那谷とは反対側にあたる御嶽山のふもとを北上し、諏訪湖の西にある鉢盛山が水源になる。諏訪湖は、伊那谷を流れる天竜川の水源。伊那谷、美濃、三河山地の接点・恵那山の西には名古屋市内を流れる庄内川の水源がある。三川の中央を流れる長良川は、岐阜市内、美濃市を通り、郡上・白鳥の北、大日ヶ岳が水源。揖斐川は、濃尾平野の西の果ての養老山地のふもとを通って大垣へと上り、揖斐川町から山へと入る。徳山ダムのさらに先、福井との県境に聳える冠山が水源地となる。

10月12日、揖斐川町に行くことにした。春に、熱田の「紙の温度」で、長年、竹紙(ちくし)を作られていた先生の講座があった。竹の活用については以前から関心があった。竹を漉くのは難しいと思われがちだが、「難しく考えず、まずはやってみてください」と気さくにお話され、紙漉きの工程や竹の特徴など、とても勉強になった。その中で、揖斐川町に昔の紙漉きの道具が保存されているというお話があった。興味を引かれて、すぐに行ってみようと思ったのだが、なかなか身動きが取れないまま、夏が終わってしまった。秋になり、せっかく思い立ったのだから年内には行っておこうと、数日前に決めて、バタバタと熱田を出発した。

揖斐川町に行くのは、2回目。前回は、7年前になる。当時「HANAYASURI」を作り始めて間もない頃で、毎回特集テーマを決めていた。そのときのテーマは「薬になる植物と人の営み」だった。春日村は伊吹山地にある。伊吹山には280種に及ぶ薬用効果のある植物があり、伊吹百薬として知られた。谷あいの集落である春日村は全国でも有数の薬草の産地で、江戸時代の本草学者・飯沼慾斎(いいぬまよくさい)がフィールドワークを行い、植物採取した土地。1856年から62年にかけて飯沼慾斎が著した全20巻の大著「草木図説」は、後進の植物研究者に大きな影響を与えた。明治に入ると増訂版が出版され、その第三版は、牧野富太郎が手掛けている。せっかくなので、春日村も再び訪ねることにした。

最初に揖斐川町の平地にある三輪神社を訪ねた。揖斐川総鎮守の古い社で、この土地で水田を開発し農耕に従事した三輪族という人々に縁のある神社。晴れて快い日で、車を降りると、参拝している人たちが数組いた。手水舎には、白、オレンジ、黄色の花々が浮かべてあった。拝殿でお詣りし、参詣順路に沿って歩く。祭礼の日には、子ども歌舞伎があるそうで、境内に歌舞伎舞台があった。そばには、さざれ石がある。さざれ石は「君が代」にも詠われる石だが、揖斐川町が原産。知多半島でも、こちらから持って来られた石を見かける。前回訪ねた時には、さざれ石のある公園も訪ねた。山地の奥まった場所だったが、舗装された道を行くので、秘境を訪ねるような感じではない。日が傾き始めた時間帯だったので、斜陽に川の水面がきらきら光り、水の音と鳥の声が響いていたのを覚えている。

三輪神社は、うさぎに縁のある神社である。うさぎというと因幡の白兎。因幡の白兎というと大黒様。うさぎをなでて、大黒様にさわり、石の階段を上がる。上がってみると、地面がきれいに苔むしていた。足もとを見ると、フユノハナワラビが生えていた。いくつも生えているので、自然と足もとに目がいく。ふと燈籠の下にハナヤスリの群落を見つけた。よく見ると葉が細いので、ハマハナヤスリだろう。なかなか出会えないと思っていたハナヤスリの仲間と出会えた。境内には他にもいくつかハナヤスリの群落があった。ハマハナヤスリは最初のものだけで、他は、名古屋でもよく見かけるコヒロハハナヤスリかコハナヤスリ。しばらく観察して地面から顔を上げると、アサギマダラがひらひら飛んできた。移動の最中だろうか。木々の合間を小型のヤンマが飛んでいる。クサヒバリの音が樹上に聞こえた。

神社のそばにある池を観察して駐車場に戻ってくると、毛並みのきれいなネコが欠伸していた。青い目のハチワレ。裏山に続く道を歩いても楽しそうである。また来たい場所だなと思いながら、山あいの道の駅に隣接する徳山民俗資料収集庫へ向けて出発した。<中に続く>

 

 

矢勝川の鳴く虫

観察会が近づくと、大体十日くらい前から天気予報をチェックしはじめる。当日の前後が晴れマークになっていれば、おおむね開催できる。判断が難しいのは、台風が来ているときと、曇りに雨マークが付いているとき。なるべく直前まで開催することを考えるのだけれども、早めに中止した方が、参加する方たちが予定を変更しやすいということもある。今年は夏を通して、台風の発生、本州への影響が多かった。それと、降るときと止むときの予測がつきにくい長雨。思い返すと、昨年、「雷が鳴るのを最近聞かないね」と話していたけれども、今年は何回も激しい雷を聞いた。年のはじめには、雨がまったく降らず、春先にはダムが渇水状態になっていた。今は、都市部の排水が追い付かないほどの大雨。

9月4日。鳴く虫の観察会の前日。予報は、曇りときどき雨だった。悩んだ結果、雨が降る可能性もあるし、雨が止んでも、この後、数日以上雨マークが続いているので、湿度も高くなるだろう。鳴いている虫の数も少ないだろうと、延期の連絡をメールした。

ところが翌日は、気温も下がって涼しく、少し風のある絶好の観察会日和となってしまった。残念。しばらく落ち込んだが、決めてしまったので仕方がない。鳴く虫の観察会は、今月20日と23日に開催するので、今度こそ、すっきり秋晴れになると良いなと思う。

気持ちを切り替えて、この日は、20日に開催する矢勝川での鳴く虫の観察会の下見をすることにした。矢勝川では昨年の下見のときに、タイワンクツワムシの音を聞いている。その確認も兼ねて、日が暮れる頃、半田市に向かった。

車を降りると、すっかり夜。童話の森から、アオマツムシが「リーリーリーリー」とにぎやかに鳴いているのが聞こえる。記念館西側の道路の向かいの草むらで「ジャッ、ジャッ」と大きめの音が聞こえた。タイワンクツワムシ。こんなにすぐに聞こえるとは思わなかった。タイワンクツワムシは、局所分布する。いる場所にはいるのだが、その場所を中心に広がりをもって生息しているわけではなく、狭い範囲にかたまって生息している。大きさはクツワムシと同じくらいか、やや大きくて、褐色。知多半島では、阿久比の田んぼにそれなりの数がいるほか、数か所、生息地がある。名古屋では、天白川沿いにいるそうだ。ちなみに、熱田にはいない。これだけ早く出会えたということは、もう少しいるだろうと、矢勝川沿いを歩くと、民家の隣りの茂みや、川沿いの茂みなどでガシャガシャ鳴いていた。

観察会で歩くコースには、思った以上にたくさんの鳴く虫がいた。代表的なコオロギ類であるエンマコオロギ、ミツカドコオロギ、ツヅレサセコオロギ、ハラオカメコオロギ。それらと姿は似ているが、初夏から鳴く音が聞こえるタンボコオロギ。童話の森だけでなく、ハンノキでも盛んに鳴いているアオマツムシ。「チン、チンチロリン」と鳴くマツムシは、アオマツムシとはまったく別の種。木の上ではなく、草むらで鳴いている。スズムシは、盛夏に鳴くので、9月は生を終える時期。この日は、音のかすれたスズムシが一頭だけ鳴いていた。「ルーーーー」と断続的に鳴くカンタンもいくつか聞くことができ、姿形はほとんど同じだが、「ビーーー、ビーー、ビーーー」と切れながら鳴くヒロバネカンタンの音も聞こえた。ヒロバネカンタンは歩きながら鳴く。とても小さなヒバリモドキ科のコオロギでは、春から聞くことができるキンヒバリと、シバスズ、ヒゲシロスズがいた。

キリギリスの仲間はというと、まずは「シリリリッ」と鳴くヒメギス。田んぼ近くの草むらなどにいて、初夏に茶黒いからだの幼虫をよく見かける。ササキリの仲間では、ホシササキリとウスイロササキリが鳴いていた。「シャッ、シャッ、」と切れながら鳴き始め、「シャシャシャシャ……、シャーツ、シャーツ、シャーツ」と終わる、鳴き方に一連の流れがあるセスジツユムシ。「ジーーーー」と大きい音で鳴く虫の仲間は、いくつかいるのだが、ここではクビキリギスとクサキリが鳴いていた。コオロギでもキリギリスの仲間でもない、ケラも田んぼ近くの地面で「グルーーー」と低い音を立てていた。記念館敷地内の木の上で、アオマツムシに負けじと鳴いていたカンタンをいれて、この日聞こえた虫の音は、22種。

昨年、一昨年に童話の森や矢勝川周辺で聞いて、この日は聞けなかった虫がいる。それら(キリギリス、マダラスズ、ヤブキリ、オナガササキリ、ハタケノウマオイ)を足すと、27種。この矢勝川周辺が多様性のある鳴く虫環境であることが分かった。20日、今よりも秋めいた矢勝川では、何種類の虫の音が聞こえるだろうか。月はきれいだろうか。

 

 

パンセ・コティディエンヌ 4

(4)モンテッソーリが「メソッド」を書き上げる100年ほど前のこと。19世紀初頭のイギリスで、ある詩人が、一つの詩を完成させた。詩人の名はウィリアム・ワーズワス。

ワーズワスは、1770年にイギリスの湖水地方に生まれる。幼い頃に、母と父を続けて亡くし、兄弟姉妹とともに親戚の後見のもとに育つ。大学はケンブリッジに進む。当時のケンブリッジで学問の中心となっていた、天文学、幾何学、古典学、経験論哲学、神学などを学び、学位を取得。大学時代は、革命の大波にのまれるフランスを通り、アルプスへ旅行した。大学を出てからも、詩作を続ける。妹のドロシーと、同じく詩人のサミュエル・コールリッジと交流しながら、湖水地方で場所を変えて暮らした。スイス、ドイツ、イギリス国内など各地を旅しながら、取り巻く自然から感じ取ったことから内省し、詩にした。

ワーズワスについて知ろうと思い、「対訳 ワーズワス詩集 イギリス詩人選(3)」(山内久明編/岩波文庫、1998)を借りてくる。この本にはモンテッソーリが好きだったという詩も収録されていた。詩が完成したのは、1804年。題は「幼少時の回想から受ける霊魂不滅の啓示」。204行からなる長い詩である。次のような題詞が添えてある。「子どもこそおとなの父、願わくは一日一日が、生来の自然への敬虔な心で結ばれるように。」。

詩は、次のように始まる。「かつては牧場も森も小川も/大地も、目に映るありとあらゆる光景が/私にとって/天上の光に包まれて見えた、/夢の中の栄光と瑞々しさに包まれて見えた。/だが今はかつてとは異なる。/どちらを向いても/夜であれ昼であれ/もはや今、かつて見えたものを見ることはできない。」。子どもの頃には、自然に包まれて見えていた何か栄光に満ちたものが、今は見えなくなった。見えるのは、ただ美しい自然の要素だけ。月や、星や、陸や、海。鳥のさえずり、崖を落ちる滝の音、牧童たちの声は、歓びの歌。五月は幼子が母親の腕の中で伸びあがる。それらはすべて聞こえているけれど、あの栄光に満ちた幼き日々の感性はどこへいってしまったのか。

詩人は言葉を紡ぐ。人の誕生は、眠りと忘却から始まる。生まれ出る魂は、生命の星、一度は没した星、遥かかなたからきた星。星の故郷は神。天上は幼子を包み込む。成長していく少年を牢獄のような暗い影が包み込むが、少年は、光を見つけ、それがどこから射し込むかを知る。若者は旅を強いられるが、自然の司祭が、光輝く景色を見せながら、ともに歩んでくれる。大人になると、そうした光は消え失せて、もう、日常の光に融け込んでいる。

目の前の6歳の子どもが、自分で描いた絵を散らばらせ、自分が生まれ落ちた世界を観察し、模倣しながら、一心に成長しようとする姿に、詩人は心打たれる。けれども、ほどなく幼い子どもの魂は、現世の重荷を背負い、慣習がのしかかってくる。

詩人が感謝し、賞賛するのは、祝福に満ちた子ども時代そのものではない。感謝し、賞賛するのは、子どもにだけ見える感覚と、その目の前に見えている物。まだ、その秩序が分からず、自分のものになっていない世界で抱く不安は、高貴な本能である。あの原初の感覚。影のように捉え難い感覚に感謝し、賞賛しよう。その感覚が、この世の光すべての源。

詩人の内面を漂っていた思考は、再び、周囲の自然へのまなざしに戻る。かつて輝いていたものが永遠に消え失せたとして、それがどうしたというのだ。草に見た輝き、花に見た栄光を、そこにある強さを、原初の共感を思い返して見つけるのだ。かつての共感は、永遠にありつづけるのだから。「私は心の奥底で自然の力を感ずる。/私は一つの歓びを失ったが/より恒常的な自然の支配のもとで生きる。/私は幾筋ものせわしく流れ下る小川を愛す、/小川のように足どりも軽やかだった昔にもまして」。子ども時代の栄光の感覚を失ったとしても、人生を経た大人には、新たな報償がある。これまで生きるよすがとなった人々の、心の優しさ、歓び、そして怖さのお蔭で、慎ましく咲く花でさえ、しばしば、涙よりも深い感動を私にもたらしてくれるのだ——こうして、長い詩は終わる。私にとってとくに大事な要素を追うと、このような要約になるのだが、詩全体の深みは、全文を読まなくては味わうことができない。

ワーズワスが生きたのは、産業革命を経て、各地が都市化していった時代。失われていく各地の農村風景を憂いつつ、湖水地方の自然を生涯にわたり愛した。晩年、湖水地方に鉄道敷設の計画が公表されると、自然環境を保護するという観点から反対した。

 

 

パンセ・コティディエンヌ 3

(3)「モンテッソーリ・メソッド」と呼ばれる教育法は、1900年代、イタリア・ローマの貧民街であるサン・ロレンツォで確立される。19世紀後半、急速に近代都市化していくローマでは、アパートやビルが次々と建てられ、空き地が無くなるほどだった。サン・ロレンツォにもビルの建設計画があったのだが、計画がとん挫し、ビルは骨格だけが残された。残されたビルは、犯罪者たちの隠れ家となり、貧しい人々が何千人と住むようになる。巨大なスラム街となったサン・ロレンツォは、ローマの恥と言われるようになってしまう。

それらのビルやアパートを銀行家グループが買い取り、都市再生計画が始まる。ビルの経営者は、水回りを整え、風通しを良くした。ビルの住人には、職のある夫婦を選んだ。そうした家族が地域の人口を支える要素になると考えた。住民たちは、修復されたアパートに移り住み、生活を始めた。しかし、経営者たちを悩ませる問題があった。住民たちの子どもである。就学前の子どもたちは、両親が働きに出ている間、ビル内を自由に駆け回り、思いつく限りのいたずらをしたのだ。手を焼いた経営者たちは、子どもを一か所に集めて、一日中閉じ込めておけばよい、という結論に達する。空っぽの部屋を一室設け、子どもたちを監視する女性を一人雇えばいい。この計画の適役と考えられ、選ばれたのが、マリア・モンテッソーリだった。当時、子どもの精神障害に関する専門家として、国際的な名声を得ていたモンテッソーリは、この計画に大きな可能性を感じ、承諾した。子どもたちの部屋は、「子どもの家(Casa dei Bambini)」と名づけられ、1907年に開所式が行われた。

モンテッソーリが「子どもの家」で目的としたことは、子どもの行動をよく観察し、自分のことは自分でできるようにする、自立させることだった。体操、草木や動物の世話、みんなで食べる昼食の準備や盛り付け。服にボタンやレースを付けることを学び、掃除をし、洗濯する。それも自ら進んでその仕事をし、仕事をしたことに充足感を得られるように。感覚教具として知られるようになる教具はすでにあったが、使っているところを観察しながら、子どもたちが興味を持つものは何かを突き詰め、改良が加えられていった。

「子どもの家」は評判を呼び、同年にサン・ロレンツォで二つ目の「子どもの家」ができる。国内に着々とモンテッソーリの学校は増えていった。飛躍となったのは、チッタ・ディ・カステッロでの集まりである。フランチェッティ男爵は、当時、イタリア南部の後進地域における農地改革運動を指導していた。夫人は領地内の農民の子どもたちのために小学校をつくろうとしていた。二人はモンテッソーリに出会うと、同じ信念を持っていることを確信し、支援を申し出るため、別荘に招く。アンナ・マッケローニ、アンナ・フェデーリといったモンテッソーリを生涯にわたり支えた助手であり、友人たちも同席した。

チッタ・ディ・カステッロで、モンテッソーリは最初の養成コースを教える。自らモンテッソーリ・スクールを開校する修了生もあらわれた。フランチェッティ夫妻は、モンテッソーリの仕事を大いに助け、モンテッソーリに本を書くよう勧めた。モンテッソーリは、すぐに自分の仕事や思想をまとめた「子どもの家における幼児教育のための科学的教育法」(以下、「モンテッソーリ・メソッド」)を書き上げる。この本は、英語に始まり、フランス語、スペイン語、ドイツ語、ロシア語、ポーランド語、ルーマニア語、デンマーク語、オランダ語、日本語、中国語に翻訳される。数年後には20か国語以上に翻訳され、世界中で読まれるようになる。そして、さまざまな批評がなされた。ローマの「子どもの家」には、世界中から見学者が訪れ、「メソッド」について尋ねる手紙が、たくさん届くようになった。

1909年、「モンテッソーリ・メソッド」がアメリカで紹介されると、1910年代の初めに大きな運動が起こる。しかし、その勢いは数年で衰え、その後50年近く忘れ去られる。衰退した理由の一つは、アメリカ社会に適合した形でメソッドを広めたい支援者たちと、モンテッソーリ・メソッドは、ヨーロッパ各国でもなされているように、そのまま受け入れられなくては認められない、モンテッソーリ本人との考え方の対立だった。最終的にモンテッソーリは、自身の目の届かないところでメソッドだけが独り歩きすることを拒んだ。

この部分のことについて、今のところ明確な自分の考えは持ち合わせていないが、現代に通じるテーマだと思う。少し時間を置いて、文化、社会、歴史、宗教なども包み込む、ヨーロッパやアメリカの自然観を知ってから、あらためて考えてみたい。

 

 

暑い日は、北欧(下)

7月22日。愛知県美術館に「スウェーデン絵画 北欧の光、日常のかがやき」展を見に行った。昨年、東京の美術館でこの展覧会は開催していて、行きたいなと思ったのだが、会期中に東京へ行く機会がなかった。今年の春、愛知芸術文化センター地下の情報コーナーでチラシを見つけて、早めにチケットを購入した。

名古屋を含む東海地方には、美術館が多い。関東で開催した展覧会が巡回してくることはよくある。京都や大阪など関西方面へ行くのもそれほど遠くない。美術展が好きであれば、名古屋は便利な都市だと思う。群馬に行ったとき、宇都宮美術館で開催していた「ライシテから見るフランス美術」展が、しばらく経って三重県立美術館にやってきた。こちらもチラシで知って見てきたのだが、巡回する会場は、どのようにして決まるのだろうか。

さて「スウェーデン絵画」展である。日中の気温が、40度近くまで上がるという予報だったからか、正午過ぎの美術館は混んでおらず、見るのにちょうど良い人の入りだった。

画家たちの目を通して、スウェーデンやフランスのかつての風景、農村地帯での暮らしが伝わる展示だった。19世紀、スウェーデン出身の画家たちは、パリで勉強し絵画の技法を学んだ。日本人の画家たちも移り住んだ、パリ近郊のグレ=シュル=ロワン村に滞在した人たちもいた。けれども、その頃から隆盛を迎える印象派の画家たちとは、深い交流は無かったそうだ。言葉が通じず、同じスウェーデン出身の画家同士で仲が良かったからということもその理由にあったらしい。彼らは絵画の先進国フランスで技法を学んだが、その後は、故郷のスウェーデンに帰り、スウェーデンらしい絵画の制作に取り組んだ。

コローの絵にも少し似ているなと思った、湖を描いた風景画は、日常、人の生活のそばにある風景が、そのまま美しいことを教えてくれる。フランスのセーヌ河畔のリンゴの花は、白くほんのり輝いて、白い花がこのように見える時間はあるなと思った。北欧では、日没後と夜明け前に辺り一面が青い光に包まれる現象が長く続く。北欧的モチーフとしてよく描かれるそうで、独特な青色なのだろう。日没の風景画を観ると、太陽が沈んだばかりで地平線があかく、残光が青灰色の雲と混ざり、雲の下側もあかい。その絵を眺めていると、冬の夕暮れに、散歩に出かけたとき見かける空に似ている気がした。

スウェーデン国立美術館で、スウェーデンのABCと紹介される3人の画家がいる。自分が観たり、考えたりしていることとも重なり合う絵だったので、覚えておこうと思った。

一人目は、アンデシュ・ソーン。彼の出身地であるダーラナ地方は、スウェーデンでも、とくに歴史や伝統に根差した生活をしていた地方。フランスから戻ったソーンは、ダーラナに住む人々の暮らし、舞踏、音楽などを描いた。展示されていたリュートを弾く女性の絵は印象的で、着ている民族衣装は、何か象徴的な明るい赤色だった。

二人目は、ブリューノ・リリエフォッシュ。リリエフォッシュは鳥をよく観察して描いた画家。カケス、モズ、ダイシャクシギなど数点の鳥の絵が展示されていた。波間に漂うケワタガモは、繰り返し描いた海鳥。冬に知多半島の海に来るカモたちを思い出す。19世紀から20世紀は、鳥の生態を観察し、生息地や渡りの中継地の環境保護を訴えた人たちが各地にいた。リリエフォッシュのように、鳥たちにインスピレーションを得た表現者も多い。

三人目は、カール・ラーション。1989年に出版された水彩画集「ある住まい」がよく知られている。この水彩画集は、ラーション一家が実際に住んだ田舎の家を描いたもの。自然をモチーフにした家具や、植物を飾る器。慎ましくありながらも、暮らしの中に美を取り入れるという姿勢は、世界的に注目された。ダイニングでは、子どもたちも一緒に食卓を囲んだ。それは、大人と子どもが分けられていた時代において珍しいことだった。ラーションを絶賛したのは、同国の社会運動家であるエレン・ケイ。女性や子どもの権利について多数の著作を残し、母性について研究するとともに、子どもの自然な成長を重んじる教育の重要性を説いた。モンテッソーリとも共通するところがありそうだが、どうなのだろう。

美術館を出る。エレベーターで降りてきて屋外に出る。オアシス21のプランターに生えるコヒロハハナヤスリは全体が黄色っぽくなり、くったり倒れていた。地下鉄に乗って、熱田神宮伝馬町駅で降り、地上へと階段を上がると、もわっとした強烈な暑気。10年後に最高気温45度の名前がついていないと良いけれどと思いながら、足早に家に帰った。

 

 

暑い日は、北欧(上)

7月も後半になり、毎日、暑い日が続く。東海地方では、日中の最高気温が40度を超す場所が何か所も出てきている。今年、最高気温40度以上の日は、酷暑日と名づけられた。10年ほど前、よく聞いていたラジオの音楽番組で、35度以上の日が猛暑日という名前になったという話をしていた。イギリス出身のラジオDJは、毎日暑すぎると言いながら、テンション高く「MOSHO-BI!!(モショビッ!!)」と連呼し、発音がちょっと英語に似てるね、と笑っていた。これだけ暑ければ、そんなテンションにもなるよなと苦笑いしながら聞いていたのだが、年々気温は上がり続け、さらに5度高い日の名前まで出来てしまった。

夜でも暑いので、気分だけでも涼しくなれそうな本はないだろうかと、本棚を探す。まだ読めていない本の中から「北欧の小さな旅 ラップランド幻想紀行」(小谷明/東京書籍、1995)を読み始める。ラップランドとは、スカンジナビア半島の北部、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、一部ロシアにまたがる地域を指す。トナカイを放牧して暮らすラップ人(ラップという言葉が「追われた」という意味をもつため、現在は現地の人たちが用いるサーミと呼ぶ)を訪ねた旅のエッセイ。著者が撮影した写真は、ありのまま、きれいである。雪におおわれた大地、赤い毛糸が鮮やかな民族衣装、海辺の暮らしや風景。列をなすトナカイ。サーミの人たちがトナカイに橇を引かせる姿は、サンタクロースの原型となったと言われるそうだが、それも頷ける。実際そうなのかどうかは、よく分かっていないようだ。読み終わる頃には、脳内の暑気が、少しだけ抜けた気がした。

北欧というと、スウェーデン、フィンランド、ノルウェーに、デンマークを加えた4か国を指すのが一般的だと思う。北欧4か国は、児童文学作家を数多く輩出している。

「長くつ下のピッピ」の作者、アストリッド・リンドグレーンは、スウェーデンの作家。子どもの権利と個性を尊重するという作家としての姿勢が、世界的に評価されている。リンドグレーンの物語に出てくる子どもたちは、元気である。

コロナウィルスによる社会変化が起こる少し前、リンドグレーンの翻訳をされている方の講演を聞きに行った。海外の児童文学が好きな方たちに根強い人気を誇るリンドグレーンの作品。よく知られた先人の翻訳があるだけに、プレッシャーもあるが、なるべく現代の子どもたちにも分かるように翻訳されるそう。スウェーデンに行くと、高山植物が低地にあることを楽しそうに話されていて、100人くらい入っていた会場の雰囲気も和やかだった。

スウェーデンの東隣りの国フィンランドは、ムーミンの国である。リンドグレーンと同時代の作家、トーベ・ヤンソンが生んだムーミン・トロールは、第二次世界大戦中、雑誌の風刺画に描かれたことに始まる。ファンタジーでありながらも北欧の景色が目に浮かび、登場人物たちの発言や行動はそれぞれに個性的で、大人であっても楽しく読める。

スウェーデンの西隣りの国、ノルウェー。1990年代に「ソフィーの世界」が、世界中で翻訳されたヨースタイン・ゴルデルは、ノルウェーの作家である。私は西洋哲学をもとに書かれた物語である「ソフィーの世界」よりも、その後に発表された「アドヴェント・カレンダー」の方が好きだった気がする。12月に入って、クリスマスまでの24日間、毎日一つずつ窓を開けていくアドヴェベント・カレンダー。古びたカレンダーと出会った少年と、窓を開けるごとに語られる不思議な少女の物語。ただ、ほとんど忘れてしまっているので、機会を見つけて、もう一度、読んでみようかなと思っている。

最後に、スウェーデンと海峡をはさんで隣合う国、デンマーク。デンマークといえば、アンデルセン。19世紀の初頭に生まれ、「人魚姫」「裸の王様」「マッチ売りの少女」といった数々の童話は、世界中で読まれている。

国際アンデルセン賞は、1953年に創設された世界初の子どもたちが読む文学の作者に贈られる賞。世界的に栄誉ある文学賞にもちなむアンデルセンは特別な作家なのだろう。

日本は、19世紀後半、明治の世になる。その頃、日本には童話や児童文学がまだ無く、子どもが読む物語が渇望されていたときに、アンデルセンが紹介された。数々の文学者に大きな影響を与え、新美南吉は、日本のアンデルセンになることを願った。アンデルセンの物語は文学者だけでなく、表現者にも大きなインスピレーションを与えた。いわさきちひろは生涯にわたり、アンデルセンの物語の水彩画をたくさん描いた。<下に続く>

 

アミメカゲロウ、カゲロウのこと

7月のある日のこと。数日間、安定しない天気が続いていたのだが、その日は少し晴れていたので、朝、歩きに行くことにした。家の玄関を出て、すぐ隣の学校の塀に、昆虫が止まっていた。「おや、ウスバカゲロウだ……」と思い、近づく。この辺りにウスバカゲロウが生息するような雑木林はないので、知多半島から持ち帰った土に、幼虫か繭が紛れ込んでいたのだろう。近づいて翅をよく見ると、いつも見ているウスバカゲロウと様子が違う。翅脈がはっきりしていて、よく見ると茶黒い部分がある。腹部はまだら模様が目立つ。歩きに行くのをやめて、家に戻り、図鑑で確認したところ、カスリウスバカゲロウだった。

水のきれいな川に棲み、幼虫が水生昆虫であるカゲロウに対して、ウスバカゲロウやクサカゲロウの仲間は、アミメカゲロウ目に分類される。身近な昆虫が掲載されている手持ちのポケット図鑑でウスバカゲロウの仲間を調べてみると、載っているのは4種。ウスバカゲロウ、コウスバカゲロウ、ホシウスバカゲロウ、カスリウスバカゲロウである。

ウスバカゲロウ、コウスバカゲロウは、よく見かける。なぜかというと、この両種の幼虫、つまりアリジゴクは、すり鉢状の巣をつくる。知多半島でも知多市の日長神社、常滑市の多賀神社や高砂山公園、美浜町、南知多町など、数え始めたらきりがないほど、アリジゴクの巣は見ている。アリジゴクが繭をつくり、ウスバカゲロウになって雑木林にあらわれるのは、梅雨の終わり頃から。巣のある場所を確認しておけば、夏に出会える。

一方、ホシウスバカゲロウ、カスリウスバカゲロウの幼虫は、アリジゴクであることは同じだが、徘徊性で巣をつくらない。幼虫と出会ったことは、これまでに一度もない。成虫はどうかというと、カスリウスバカゲロウを見たのは、今回が初めて。ホシウスバカゲロウは、これまでに数回出会っている。場所は、南知多町と阿久比町。ホシウスバカゲロウは翅にもやっとした斑がある。

アミメカゲロウ目の他の種を見てみると、クサカゲロウの仲間も図鑑には4種の記載がある。ヨツボシクサカゲロウ、クサカゲロウ、カオマダラクサカゲロウ、アミメクサカゲロウ。一番よく見かけるのは、ヨツボシクサカゲロウ。顔に四つの黒い斑があることが名前の由来だそうだが、小さすぎて、肉眼では見えない。印象としては、翅脈があおく、飛んでいると、翡翠のようなきれいな色をしている。カオマダラクサカゲロウは、ヨツボシクサカゲロウとよく似ているが、小さい。アミメクサカゲロウは、ヨツボシクサカゲロウよりも大きく、翅の幅が広いので、見分けがつく。クサカゲロウ中のクサカゲロウを見たことがないのは、なんとなく寂しいのだが、生息する場所が他種とは異なるのだろうか。

ウスバカゲロウ、クサカゲロウの仲間以外の種を見てみると、スカシヒロバカゲロウは、南知多町の雑木林で出会った。腹部が黄色くて、翅にうっすらと斑が入る。図鑑の解説によると、「ヒロバカゲロウ類の幼虫は湿ったコケなどから見つかっているが、詳しい生態などはよくわかっていない」そうだ。ツノトンボは、常滑市で出会った。ヘビトンボ、センブリ、カマキリモドキは、知多半島では今のところ見かけていない。

昨年、天白渓でカゲロウを見た。目の前をふわりと小さな虫が飛んでいて、目で追うと3本の長い尾が見えた。カゲロウというと、知多半島では、南知多町にクロタニガワカゲロウが生息している小川がある。きれいな川に棲んでいるイメージがあるので、名古屋にもカゲロウがいるのだなと印象に残った。

今年の2月、名古屋市環境科学調査センターの研究調査発表会に参加した。藤前干潟に漂着するマイクロプラスチックの調査など、研究員の方たちによるいくつかの発表が行われるなか、とくに聞きたかったのは、「生き物で水環境を測る」をテーマとした発表である。

名古屋市では、河川の水質を評価するのに、微生物が水の汚れを食べて分解するときに消費する酸素の量を測るBOD調査と同時に、水に棲む生きものを調べて水環境を評価する取り組みも行っている。名古屋市の環境白書を見ると、今回の調査で見つかった水生生物が記載されている。カゲロウ目は、27種(同定されているものは22種)。たくさんいることに驚きつつ、市内の河川がきれいになってきていることに、安心した。庄内川がとくに、BOD、生き物による水環境の評価ともに高かったそうだ。さらに良くしていくための課題は、まだたくさんあるだろうが、こうした調査報告が聞けるのは、嬉しいものである。

 

 

ルーツ・オブ・ソルト(下)

年魚市潟(あゆちがた)は、かつて、熱田の南から知多半島の付け根にかけて広がっていた干潟。万葉集にも詠われている。「年魚市潟潮干にけらし知多の浦に朝こぐ舟も沖による見ゆ」「桜田へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る」。桜田は、名古屋市南区に地名が残る。年魚市潟は、名古屋市緑区の鳴海の宿では、鳴海潟とも呼ばれていた。

知多半島の塩田というと、三河湾側の東浦町での塩づくりがよく知られている。平安時代から知られた生道塩(いくじしお)の産地とされ、江戸時代には知多半島と西三河の境である境川沿いに塩田が広がっていた。対岸の吉浜との渡しがあった藤江にも塩田があったが、西三河と同じように東浦町の塩田も、19世紀から20世紀へと流れる時代において、水田になっていった。

伊勢湾側はどうかというと、東海市にも海沿いに塩田があったようだ。鳴海から知多半島西側の海沿いを通って南知多町大井に至る、常滑街道という道がある。常滑街道沿いの横須賀にある諏訪神社には、「年魚市潟潮干にけらし~」の江戸時代の歌碑があるが、すぐそばの地名に高横須賀塩田とある。江戸時代、干潟と塩田の風景に心惹かれた人が、さらに1000年の昔に、同じように年魚市潟の風景に心惹かれた万葉歌人の歌を残したいと思ったのだろう。境内に祀られている香良洲(からす)神社も干潟に縁のある神社。

熱田区、南区、緑区、東海市。年魚市潟がどれだけ広かったかが、よく分かる。忘れてはいけないのは、荒立つ波の海ではなく、穏かに波が寄せ、満干を繰り返す潟ということ。現在、日本全国を見渡しても、広い干潟が見られる場所は、ごくわずかである。

塩付街道は、御器所辺りから南下する。熱田台地から見ると、真東になる。この街道は、笠寺台地と呼ばれる緩やかな台地の上にある。笠寺台地には、旧石器時代に始まり、弥生時代から古墳時代にかけて大きなムラが栄えた見晴台(みはらしだい)遺跡がある。名古屋市見晴台考古資料館では、遺跡の成り立ちや、市内の遺跡の発掘情報などを知ることができる。

見晴台からもう少し南下したところ、笠寺台地の縁にある星崎が街道の終点であり、塩の道としては始点となる。塩付街道は、この星崎周辺の村々に暮らす人たちが、年魚市潟でつくった塩を伊那谷に運ぶための道なのである。

江戸時代の尾張名所図会に「星の宮」として描かれている星宮社は、星崎の旧村社である古い社。創建年代は、よく分かっていないようだが、飛鳥時代とも言われるそうだ。尾張名所図会をよく見ると、社の裏手の小高い丘に「イナツチヲキナノ社」と記されている。イナツチヲキナは、伊奈突智老翁と書くそうで、名古屋市の公式ウェブサイトには、「縁起によればこの地に塩づくりを教えた人である」と説明されている。

伊那は、伊奈とも書く。文字から素直に考えたら、「伊奈から来た土のことをよく知る翁」ということではないだろうか。つまり、江戸時代に名所図会に描かれるほど、美しく広大な塩田風景のルーツとなった製塩技術をこの土地の人びとに伝えたのは、伊那谷から来た人だったと考えられる。自然の恩恵をかたちにする技術を、土地の人びとに伝授した人が、感謝の気持ちとともに神社に祀られるというのは、越前に紙漉きの技術を伝えた岡太(おかもと)神社の川上御前をはじめ、各地によく見られる。

そうなると、伊那谷には塩水から塩をつくる技術があったということになるが、思い出されるのは、大鹿村の塩。大鹿村のある中央構造線の谷には、塩水が湧き出る場所がいくつもある。近隣の遺跡からは、製塩土器も発掘されている。

ここまでが、フィールドワークと資料から見えてきた事柄をつなぎ合わせて考えた、塩についての思索である。古の海と山の民について考えられることは他にもあるが、筋道を立てて書くには、もう少し確認が必要になるので、そろそろ終わろうと思う。

なぜ老翁が星崎にやってきたのか、いつやってきたかは、私には知る由も無いけれど、思うのは、山と海の民の交流に主従関係は無かったのではないだろうか。自然の理をよく知っていて、村が豊かになる仕事を生み出してくれた山に住む人びとへのお礼から始まったのが塩の道だったのではないかと思う。争いに明け暮れた為政者の栄枯盛衰は、後世まで饒舌に語られるけれども、多くを語らない善意による交流が忘れ去られていくのは、世の常。そのような古の善意の欠片を、足を使って拾い集め、つなぎ合わせてみる。すると、語り継がれる歴史に寄り添う人間本来の精神文化が、浮かび上がるのではないだろうか。