和紙と風景(下)

藤井達吉の随筆に端を発した、和紙の産地への訪問。昨年、「知多半島をめぐる」の写真を竹和紙にプリントして写真展を開いたことで、注目していた和紙であるが、徐々に自分のなかで、自然と寄り添う重要な伝統産業であるという実感を持ち始めてきた。引き続き、7月上旬に岐阜の美濃和紙の里を訪ねることにした。

越前市に行った時と同じように、都市高速から一宮に向かう。名神高速道路に入り、すぐに東海北陸自動車道へと進む。岐阜の山中、郡上八幡やひるがの高原に向かう道路で、さらに進むと白川村、そして富山へと至る。美濃和紙の里会館がある美濃市は、山地に入っていく入口あたりに位置する。美濃市の隣りは刃物の町として知られる関市だが、この二市の位置は少し複雑だ。関市は、長良川のいくつかの支流が合流する平地が市の中心。そこから東側は、津保川上流の谷あいを市域とする。西側は、しばらく武儀川沿いが市域となるが、武儀川上流は途中から山県市になる。さらに山をはさんで北側の谷あい、板取川の流れる洞戸地区も関市になり、「モネの池」と呼ばれる名所がある。板取川も長良川の支流で、板取川と長良川が合流するあたりが美濃市の中心地になる。古い町で紙屋が軒を並べる。板取川の流れは、関市から美濃市に入り長良川と合流し、再び関市を流れる。このあたりを車で走っていると、川のある風景はよく似ていて、気づかないうちに、市をまたいでいるのだ。

今の時期は、すでに鮎釣りが解禁されている。板取川沿いを走っていると、ターコイズとラピスラズリの中間といった色合いの川に入って、釣りをしている人が見えた。長良川の小瀬鵜飼も今がシーズンだ。爽やかな夏の風景を走りながら、美濃和紙の里会館に到着した。

美濃和紙は、1300年の歴史を誇る。中でも伝統的な製法や用具などの条件を満たしたものは「本美濃紙」と呼ばれる。2014年、ユネスコの無形文化遺産に島根県浜田市の「石州半紙」と埼玉県小川町と東秩父村の「細川紙」とともに「和紙:日本の手漉和紙技術」として登録された。ずいぶん前に、京都から山陰本線を鈍行に揺られて、数日間かけて旅したことがある。島根では宍道湖のある松江で宿泊し、翌日、大田市の石見銀山を訪ねた。その頃はまだ、ユネスコの世界遺産に登録申請している最中で、静かな町の至るところに、たくさんの幟が立っていたのを想い出す。浜田市はそこから、さらに西にあり、柿本人麻呂が人々に紙漉きの技術を伝えたとされるそうだ。

群馬県とのほぼ県境に位置する埼玉県の小川町や東秩父村には、まだ縁が無い。ただ、本を読んでいて偶然知ったのだが、生糸貿易で知られる明治の実業家であり、茶人でもあった原富太郎(三渓)の義理の祖父、善三郎の出生地がこのあたりにある。豪商の生まれで、和紙が村々で作られていた江戸末期、近隣の村に和紙を買い付けに行き、町へ持って行って売ることで商売を覚えたという。和紙の産地や、石材の産地に囲まれた環境に育ったことが、富岡製糸場を経営するという、後の縁に結びついたのかもしれない。

さて、和紙と一概に言っても、出来上がるまでの工程には土地ごとの特色がある。美濃和紙は、楮の黒皮を剝いで白皮にしたあと、自然による漂白と、不純物を取り除く目的で、板取川の清流にさらした。現在は、各工房の水槽でさらすそうだ。越前ではどうなのだろう。山あいの集落で、近くに清流が無いから、昔から、工房に水槽を作ってさらしていたのだろうか。もう一つは、漉いた紙を干す際に使う一枚板の素材。越前では、イチョウの板を用いるが、美濃はトチノキの板。使われる木材が異なるというのも面白い。展示の最後には、和紙を作るための道具がどのように作られているのか、映像で紹介されていた。美濃には、和紙を作るための道具を作る職人も、みな暮らしているそうだ。土地全域で環境を考え、自然の恵みをどのように活かしていくか考えながら、人々が繋がっている。かつては、それぞれの和紙の里に、土地ならではの自然を活かした工夫があったのだろう。だが、紙漉きを継承していくのは大変なようで、ラックには他地域の伝統工芸士募集のチラシが差してあった。

和紙産地の訪問は、生活を取り巻く自然を観察し、理解しながら、人が仕事を営むという、これからの時代を考えていくためのヒントが、たくさん詰まっていた。「自然を減らし過ぎずに、巡らせながら、何を、どのように活かし、人の生活を支える仕事にするのか」。日本が世界に誇る紙漉きの文化について、あらためてしっかりと知っていくことは、きっと、この問いに対する答えに繋がっていくはずだ。

 

 

和紙と風景(中)

6月下旬、少し足を伸ばして、越前市に行くことにした。目的地は三か所。「ちひろの生まれた家」記念館、梅花藻の自生地、そして越前和紙の里である。

福井県は、学生の頃に友人が住んでいた金沢を訪ね、京都に向かう途中、電車で通過したことがある程度。朝から家を出発し、都市高速で一宮へ抜けて、名神自動車道に入る。琵琶湖のほとり、米原から京都とは反対側に向かう、北陸自動車道に入る。道路の向こう側には青い田んぼが広がる。その先には伊吹山。岐阜の山々が平野へと広がっていくところを、ぐるっと回り込むように、日本海側へと向かっていることを実感する。長浜から余呉湖のほとり、賤ヶ岳を通過すると、福井県。敦賀ジャンクションを金沢方面へと進む。こちらも同じように田んぼが広がっている。路傍では高架下から伸びたネムノキが満開だ。やがて、眼下に、日野川が見えてきた。名古屋から走ること、2時間ちょっと。越前市に到着した。

武生の古い町並みは、飯田の町と雰囲気が、なんとなく似ていた。町が山に囲まれ、築何年だろうかと考える古い家々が並ぶ。高い建物は見あたらない。新しい住宅も多くない。懐かしさの漂う町。そういった町に実際に住んだことは無いのに「懐かしい」と思うのは、日本映画が好きだったからだろうか。それとも、長い年月、町に住む人々の移ろいを見てきた家々の記憶が、町を訪ねる人のルーツに働きかけるからだろうか。

「ちひろが生まれた家」記念館は、越前箪笥の職人町であるタンス通りのそばにあった。古い町屋がきれいに残されている。入館料を支払い、二階の企画展示を見て、町家を奥へと進む。廊下に、いわさきちひろの母・文江について、パネルで説明がされていた。文江は、奈良高等女学校で学んだ後、武生に出来たばかりの高等女学校に、博物、家事の教師として赴任した。聡明で面倒見も良く、女学生の憧れの的だったそうだ。ちひろが生まれ、東京へ引っ越すときには、その功績に、町長から感謝状が贈られた。後年、武生を訪ねた時の写真に、二人が写っていた。お母さんの眼は、若々しく輝いていて、隣のちひろは、お母さんのそばで、ちょっと恥ずかしそうに座る子どもの眼をしていて、印象的だった。

昼食をとって、梅花藻の自生する治佐川に向かう。広がる田園の道を走り、到着すると、カメラを水路に構えている人がいた。周りは工場。水路では、鮮やかな緑の梅花藻が緩やかな流れに揺れていて、白い梅に似た花が水面に顔を出していた。ここは、トゲウオの仲間の淡水魚、トミヨの生息地でもあるそうだ。トゲウオの仲間は、きれいな水に棲み、水草を利用して巣をつくり、産卵する。川を覗いてみたが、トミヨは見つけられなかった。

越前和紙は、五箇と呼ばれる五つの集落で作られている。産地としての特徴は、多くの産地の場合、清流に沿って工場が分散しているが、越前は狭い谷あいに工場が集中している。ほとんどが家人が営む少人数の製紙工場。専業なので、一年中、和紙が作られている。

もう一つは、和紙の種類が豊富ということ。紙の文化博物館では、実際に越前和紙が展示されている。書道や日本画に使われる画仙紙。懐紙などに使われる檀紙。はがきや封筒に使われる紙や出版に使われる印刷用紙。模様の付いた鳥の子紙は、襖紙などに用いられるが、これらの模様紙もとても種類が多く、「漉き掛け」「漉き入れ」「落水」「孔雀」「飛雲」など模様を出すための技法に名前がついている。日本銀行券、いわゆる、お札も越前和紙の技法が採用されているそうだ。

紙漉きを生業にしていた古い家屋を活かした、卯立の工芸館に入る。風格のある木造家屋。土間を上がると、畳に紙で作られたマットが敷いてある。乗ると、しっかりしていて丈夫。紙の印象が変わる。売店のトレイも紙製。手に取って軽くノックすると、コンコン、と固い反応。作業場では、若い伝統工芸士の方が、紙漉きの工程を見せてくれた。これまでにも説明の書かれたパネルや本も読んだが、実際の工程を目の前で見ると、よく分かる。簀桁を繊維と「ねり」の入った水に漬け、持ち上げる。繰り返すと、その度に白さが増す。漉くときは、その透明度で紙の厚さを見極めるそう。0.1ミリの単位で漉き分けるという。

最後に、越前和紙の由縁である紙祖神・川上御前を祀る岡太神社・大瀧神社を訪ねた。杉の樹高がとても高い。複雑な造りの社の縁の下を覗くと、アリジゴクの巣があった。干上がった池の低木には、モリアオガエルの泡のような卵塊。白い新鮮なものと、茶色がかり、濁ったもの。池の水は張り直すのだろうか。そんなことを考え、帰路についた。<下に続く>

 

 

和紙と風景(上)

5月上旬、豊田市にある小原和紙のふるさとを訪ねた。きっかけは一冊の本。少し前に、編み物・手芸の先生をしていた祖母の書棚に一冊の本を見つけた。濃い緑色の表紙をした薄手の冊子で「藤井達吉随筆集」と書いてあった。碧南市に、この人の名前を冠した現代美術館がある、ということは知っていて、パラパラとめくっていると、「芸術を志す者は、よく自然を見つめることが大切」という意味合いの言葉が書いてある。興味が湧いて、調べてみると、小原和紙を復活、普及させたことで知られる工芸家とのことだった。

旧小原村は矢作川の上流域にある。途中、笹戸温泉近くでカヌーをしている森下さんたちを訪ねる。矢作川の水はきれいで、強い陽射しを受けて川面が輝いている。風も心地よいので、カヌーを操り、瀬や淵を見極めながら川を下るのは、とても気持ちが良さそうだ。石をひっくり返すと、カワゲラの幼虫がいた。近くでは、翅が褐色のカワトンボが休んでいた。

笹戸から小原までは、車で10分ほどである。山あいの田んぼを横目に見ながら、走る。到着し、駐車場に車を止めて、雑木林が隣接する敷地を歩くと、和紙の原料となる木々が植えてあった。楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)。コウゾは、これまでも観察地で、よく出会っている。知多半島では、植大で観察会をしたとき、車を止めた草むらのそばにコウゾが生えていた。名古屋市内の雑木林でも見かける。クワ科の木で、葉が、桑の葉によく似ている。雌雄異株で、初夏、赤紫色の花火のような雌花を付ける。ミツマタは、枝が三つに分かれて伸びるので、「みつまた」と呼ばれるが、あまり出会っていない。市内では植物園に植えられている。飯田市の麻績神社の近くでも栽培されているのを見かけたが、知多半島では見かけない。生育環境として適していないのかもしれない。

小原和紙美術館に入る。建物は、昔は町ごとにあった広い公共施設が思い出されて、懐かしく感じた。一階では、全国各地の和紙の見本を見ることができる。和紙の産地は、現在、知られているだけでも70か所を越える。かつては、もっと多かったのだろう。日本文化は和紙産業とともに脈々と繋がって来た、と思えてくる。ちなみに、現在、和紙産業の中心で、全国に知られる三大和紙とされているのは、岐阜の「美濃和紙」、福井の「越前和紙」、高知の「土佐和紙」である。

二階では、常設展示がされていて、藤井達吉の工芸作品を見ることができた。展示説明には、旅の多かった生涯や、戦中、縁のあった小原村に疎開し、村人たちと交流したこと、戦後になり、村に小原総合芸術研究会を作り、廃れかけていた小原和紙を使った工芸品をつくることを勧め、工芸家たちを育てたことなどが記されていた。素朴な展示から、村の人たちが藤井達吉を慕っていたことが伝わってきた。

美術館を出て、和紙工芸体験館に立ち寄り、陽が傾き始めた道を駐車場へと引き返す。周辺には雑木林を歩く遊歩道が作られていて、崖に沿ってツツジの花が咲いていた。ゆっくり時間をかけて歩くと気持ちよさそうな場所。駐車場のヒトツバタゴは満開で真っ白だった。その傍の水路に、また、カワトンボがいた。矢作川で出会ったものよりも、翅が透き通っていて、赤い縁紋が目立つ。翅の縁は、うすく褐色がかっていた。

5月下旬、熱田神宮のそばにある、紙の専門店「紙の温度」で和紙に関するセミナーがあるということを店頭で知り、勉強しに行くことにした。家を出るのが遅くなってしまい、小雨のなか、時間ギリギリに到着すると、部屋は40人ほどの聴衆で満席だった。

「和紙と洋紙の違い」をテーマに、技術顧問をされている先生のお話が始まる。まずは、紙の歴史から話が進んでいく。江戸時代の職人は、献上のため紙の製法は教えられたが、使用目的は知らされず、漉いた紙を何に使うのか知らなかったこと。明治時代に入り、献上が無くなったため、和紙を作る地域が減ったこと。紙の製法についても、和紙と洋紙の違いを、丁寧に説明される。和紙を漉くときに「ねり」をつけるために使われるのはトロロアオイやノリウツギだが、美男蔓(サネカズラ)を使おうとした時代があったこと。18世紀に発明され広く使われていた、繊維を分散、叩解する機械、ビーダーのこと。ご自身の豊富な経験をもとに話をされるので、自分の日々の見聞と重なり合って深く伝わる。和紙は、使用目的をもたない「自然紙」、洋紙は、使用目的に合わせた「人工紙」というまとめで、充実した2時間のセミナーは終了した。<中に続く>

 

一を聞いて十を知る

「一を聞いて十を知る」ということわざがある。もともとは「論語」に記された故事から来ている。孔子の弟子である子貢が、同じくらいの年の別の弟子・顔回について、「自分は顔回には及びません。顔回は一つを聞いて、十を知ることが出来ますが、私は一を聞いて二を知る程度です」と述べた事に由来するそう。物事の理解が早い人を指す言葉として用いられている。学校の国語の授業などでも取り上げられるので、一般的によく知られていることわざだと思う。

このことわざについて、自分なりに考えてみる。まず、一つの話を聞いて、十の事柄を理解できる人というのは、たしかに頭の回転が良い人のように思える。大まかにかみ砕くと、ある人の話を聞いただけで、自分の体験や、頭の引き出しに閉まってある、さまざまな知識が反応し、繋がり合い、さらなる思索の肥やしになる、というようなことだろう。少し前から、タイパ(タイム・パフォーマンス)という言葉を耳にするようになった。物事の時間的な効率の良し悪しを指す言葉である。そのタイパの良さを、知識を増やす、体験や経験を重ねるといった、個人の成長に関する事柄に対しても求める風潮が一部にある。一を聞いて十を知ることができれば、これ以上のタイパは無い。

もう少し、考えてみる。私たち世代(1980年生まれです)の多くの人は、何かを知りたいと思ったとき、まず、インターネットを活用して調べると思う。上の世代の方たちには、辞書にあたる、図鑑にあたるという方も多数いる。インターネットは、情報収集の利便性という意味では、とても優れている。観察や撮影をしていて、知らない生きものや花を見つけたときは帰ってから調べるのだが、「図鑑にあたった方が良いのだけれど」と思いつつも、名前を知る程度だったら、インターネットで調べてしまう。ただし、そこから興味が発展して、生息環境や開花時期、同定のポイントなど、より詳しく調べる場合は図鑑にあたる。一方で、図鑑に記されている内容が、まだ乏しいものは、インターネットで調べられる記事や資料を頼りにして、考える。どちらが「より優れている」という話ではなく、どのような情報を信頼して使うか、だと思う。

前述したタイパについては、私たちが当たり前にインターネットを活用するようになった時期を経て、動画やSNSが登場・流行して出来た言葉、価値観だろう。社会全体で、情報交換のスピードが上がり、何かにつけて素早く、とりあえずの結論を求められるようになった。あらゆる事柄が一見、複雑なように見える現代である。一つの事柄を理解するのに時間をかけてはいられない。できるだけ早く物事を理解しないと、話についていけなくなる。そんな焦燥感が言葉の拡大を助長しているんじゃないかと思うが、違うかもしれない。ほとんどの人は、そんなややこしい事は考えていないと思うので、考え過ぎは承知の上である。

考えが大分逸れてしまったので、戻すと、日常的には、「一を聞いて一を知る」で十分だと私は思う。社会生活を送っていれば、新聞を読んだり、人と話をしたり、毎日さまざまな話題に触れる。その一つ一つから、いちいち十を知っていたら、頭が疲れる。なので、十とは言わず、三~四を知ることが出来るような内容であっても、特に考えず、そのままにしておく。私は、学生でも社会に出たての若者でもないので、短期間で、たくさんの情報を取り込む必要は無い。普通に生活している大人たちは、おおむね、「一を聞いて一または二を知る程度に留めておく」にしているんじゃないかと思っている。

さて、ここまで読んで頂いて、もう気づかれていると思うが、このエッセイはただの言葉遊び。頭の体操のようなもので、とくに意味がある訳ではない。

最後に、せっかく始めた言葉遊びなので、もう少しだけ考えたことを書くと、このことわざで注目されるのは、「十を知る人」の理解力だが、より大事なのは、「十を知らせることが出来る一を言える人」の存在だと思っている。受け手の理解力だけが問われるのは、フェアじゃない。その人の一つの話で、誰もが十を知れずとも、聞いている人が五~六、知る事ができる、そんな一を言える大人が数多くいることが良い社会だと思う。もちろん、聞き手も言う人任せでは無く、五~六を知る準備が必要だろう。

一を言うために、十も二十も言葉を重ねる現代。本当に大切な「一」を言える人が身近に思い当たる人は、幸せな環境に生きていると思う。

 

名古屋、野歩き(二)矢田川

矢田川は、瀬戸市の海上の森と呼ばれる山が水源となる、赤津川を源流とする。赤津川は尾張旭市で瀬戸川と合流し、矢田川に名前が変わる。矢田川は、名古屋市守山区と東区の区境を流れ、北区に入る。観察会をしている西味鋺付近で庄内川と沿うようになり、合流。その先、庄内川は清須市、大治町との境を流れながら中川区に入り、西側を流れる新川とともに伊勢湾に至る。新川側河口にはラムサール条約湿地でもある藤前干潟がある。

5月下旬、来月の西味鋺観察会の下見のため矢田川にやって来た。矢田川とは縁があり、市内で最初に観察会をしたのは、東区にある木ヶ崎公園そばの河川敷で、毎年秋に開催している「鳴く虫の観察会」。その後、西味鋺観察会が始まってからは、主にふれあい橋付近で草花を観察したり、水辺の広場で草むらの昆虫を捕まえたり、川に入って水生生物を探したり。来るたびに、都会にありながらも、空が開けた場所だと思う。以前、地元の方に教えてもらったのだが、もともと川は、もう少し南を流れていたが、頻繁に氾濫し、洪水被害が多かったため、工事によって、庄内川と沿う現在の流れに流路を変更した。

庄内川方面から、ふれあい橋を渡って堤防を歩き、いつも観察会をする河川敷に下りる。オオキンケイギクが咲いている。オオキンケイギクは毎年、問題にされるほどさまざまな場所でよく咲いているが、今年は、一層よく見かける。一昨年前に見つけたセイヨウヒキヨモギは今年も咲いていた。近くにセイヨウヒキヨモギによく似た、白と淡い紫の花があった。セイヨウヒキヨモギに白花があるのかな、と思ったのだが、調べてみると、ヒサウチソウという別種。1982年に名古屋市で最初に見つかり、現在は全国に分布を広げている。昨年、一旦刈られたクズは、再び旺盛につるを伸ばし始めていた。赤紫色に光る上翅をもつ甲虫、フェモラータオオモモブトハムシを見つけたのは、この場所。昨年のハイライトの一つとも思える出会いだった。観察会に参加している小学生の子が、クズの根元につく虫こぶを探したそうだが、今年は見つかるだろうか。そろそろ、成虫があらわれる時期である。

モンシロチョウの舞う川べりで荷物を下ろし、水に入る準備をする。川に入り、長靴に水が入らないよう、水位を見ながらゆっくりと歩く。川の流れはそれほど速くない。草の茂る岸の下あたりに網を差し入れて、がさがさと揺すりながら、砂ごとすくい上げる。網の中で、ぴちぴちとはねる川エビ。ヌマエビか、スジエビか。すぐには見分けがつかない。体長1・5センチほどのひょろっとしたヤゴと、もう少し大きい3センチほどのヤゴがいる。どちらもハグロトンボのヤゴである。見つかった生きものは他に、アメンボ(オオアメンボ?)と、おそらくヨシノボリと思われる小魚。昨年いた、コヤマトンボやアカネのヤゴは、まだ見つからなかった。数日前に、観察会に来ている子どもたちが参加した河川事務所主催のガサガサ調査では、テナガエビやカニがすくえたそうで、この日も、生きてはいなかったが大小のカニと、テナガエビの透きとおる脱け殻が見つかった。

少し下流の砂州に行くと、濃紺の木の実がつぶれて色がついていたので、上を見ると、桑の実がたくさんなっていた。熟していない赤い実と、すっかり濃い色の実。木からは鳥の声もしたが、何の鳥かは分からなかった。川と砂州を歩き、上下流を行き来する。川に沿って岸に生えている草花を見ると、ユウゲショウ、セイヨウアブラナ、ヒルガオなどの花が咲いていた。あまり見たことのないカヤツリグサがあったので、引き抜いて持ち帰り、調べてみると、イヌクグという種。ハマスゲと同じように、もともとは海岸性の植物なのだそう。

1時間半ほど川にいて、この日の観察を切り上げることにした。水のペーハーを調べていた先生に聞くと、水質はアルカリ性で、きれいだった。けれども、生きものは少ない。その理由は何だろう。探るために、もっと上流も訪ねてみようと思う。最後に魚を捕るための仕掛けを入れる場所を確認し、岸に上がった。帰り際、河川敷に一本、単独で生えるどんぐりの木陰に、自転車を止めて、寝そべっている人がいた。涼風が吹き、気持ち良さそうだ。のどかな河原の風景を見て、爽やかな心持ちのまま、川を後にした。

2週間後、川の仕掛けにはテナガエビが入っていたと連絡を頂いた。ハグロトンボのヤゴは、熱田まつりの日の夕方に羽化した。川に放すため、翅がすっかり乾き飛ぶことが出来たのを確認し、籠に入れる。しばらくして、花火の音が祝福するように鳴った。

 

 

名古屋、野歩き(一)

以前、長く編集の仕事をされている方に「HANAYASURI」を数冊お渡ししたところ、後日メールで感想をいただいた。「HANAYASURI」の内容と編集方針を読んで、地球環境に対する現代の矛盾を指摘して頂いた文章の中で、こんな言葉が印象的だった。「野歩きでの発見のように、あらかじめ計画されていない世界のなかで、意外な発見がある暮らしがふつうになれば、消費も抑えられるし、結果的に、地球環境に優しい世界になるはずなのに」。

今年から、名古屋のまだ緑が残っている場所を歩いてみる、というテーマを掲げた。地図を見ながら市内で緑が残っている場所を考える。人口220万人を超える大都市。住んでいると、あまり大都市を感じることがないのだが、東京23区、大阪市、横浜市に次いで人口が多い。西日本と東日本を、さまざまな側面において繋ぐ役割をもつ土地、とも言える中部。名古屋は、その経済的拠点都市。経済拠点となる都市周辺の宅地開発は、1970年代、高度経済成長期以降、変わらず続いている。名古屋も御多分に洩れず、である。

名古屋に残っている緑地について調べてみると、まず、私たちの拠点である熱田には熱田神宮の森がある。熱田区は2つの大きな国道が交わる交通の要所だが、神宮の森や高座結御子神社の森、断夫山古墳、白鳥古墳など、市内中心部にしては、まだ緑が残っている。ほかの地域を見ると、大きく緑が残っているのは東部丘陵と呼ばれる一帯。東部丘陵の緑は市内東部の南北にわたって残っている。北から見ていくと、守山区には東谷山と小幡緑地がある。昨年末に参加させて頂いた、ある研究会では、東谷山周辺の植生は絶滅が懸念される植物が見つかるなど、全体的に回復傾向にあるとのお話だった。一方で、小幡緑地の雑木林や田んぼのある一区画は、宅地開発の計画が進んでおり、そこを拠点に自然の観察をされている方たちが土地の稀少性を訴え、一部が残されることになった。少し南に下ると、千種区、名東区、天白区、昭和区と4区にまたがる、東山がある。ここには丘陵地を活かして市の植物園が整備されている。これだけ広大な面積を活かした公立の植物園は大都市では他に類を見ないそうだ。周辺には「一万歩コース」と名付けられ、東山の森の林縁を歩ける遊歩道があり、もともと名古屋や近郊に住む人々の身近にあった自然環境を感じることができる。名東区の東の端には猪高緑地がある。塚ノ杁池をはじめとする大小いくつかのため池があり、緑地の自然を守る取り組みも長い。地形を活かして、毎年、田植えもされている。市内南東部の天白区、緑区には、天白公園、相生山緑地、新海池公園、大高緑地、熱田神宮の摂社である氷上姉子神社といった、大小の緑地や森が点在する。

東部丘陵以外では、庄内川・矢田川流域に河畔林がまばらに残っている。また、街中の神社を訪ねてみると、小面積でも、市の特別緑地保全地区に指定されている雑木林を見かける。保全地区は立ち入ることができないところもあるが、周囲と境内を歩くだけでも、どのような木々が森をつくっているかが分かる。アラカシやシラカシ、シイ、アベマキなど森を育む糧となるドングリの木。エノキ、ケヤキ、クスノキなど人の暮らしのそばにある木。モチノキ、ヤマモモなど鳥が実をついばむ木。サカキ、ヒイラギ、マサキなど神事に縁のある木。周囲はアスファルトに覆われた道路。この小さな森を求めて、鳥がやってくる。だが小さな森は、カラスのねぐらになっていたり、体が大きく喧しいヒヨドリに小鳥たちが委縮していたり。点在する神社の森をつなぐ緑が、もっと増えると良いのだけれど、と歩きながら考える。市内で獣の生息地は、おそらくわずかだろうが、ある地域にはキツネが定住しているという話も聞く。人間優先の大都市でも、強かに生きる場所を見つけているのだろう。

大都市に暮らす身としては、安定した都市生活が営まれながらも、そこを十分な生息場所としていた昆虫や魚、は虫類や両生類、鳥や獣も一緒に生きられる環境を、どうすれば取り戻せるだろうと想う。昨年、名古屋市は、政令市として初となる「ネイチャーポジティブ宣言」を表明した。2030年までに自然環境の損失を食い止め、回復軌道に乗せることを掲げる。ネイチャーポジティブの理念が、早急にたくさんの人々に伝わり、損失を無くし、回復へと向かう取り組みが、積極的に実行されることを期待している。

 

奈良に漂う(下)

奈良に来る少し前に、入江泰吉記念奈良市写真美術館が編纂した「回顧 入江泰吉の仕事」(光村推古院、2015)を読んだ。未発表作品から代表作まで367点の写真が収録されており、写真家の仕事と生涯を辿ることができる、とても良い本だった。その中で「白毫寺村」という地名がたびたび登場し、なんとなく気になっていた。お寺があるのだろうということは分かるが、読み方も分からなかったので、調べてみると「びゃくごうじ」と読む。「白毫」とは、仏の眉間に生える白い巻き毛のことで、仏像では丸いふくらみで表現される。仏教美術では如来と菩薩につく、とのことだった。

新薬師寺を後にして、奈良盆地の東の端を南北に通る「山の辺のみち」を歩く。この道は奈良市から南の天理市、桜井市に至る。その先には万葉のふる里である飛鳥(明日香村)があり、今の時期は古より桜の名所として知られる、吉野の山が連なる。

白毫寺に至るまでの道を歩く。すぐそばの山並みは木々の新緑がパッチワーク状に色が重なり、青空を背景にして、目にやさしい。新緑は日に日に色を変えていくので、この時期にしか、この美しさを楽しむことはできない。白毫寺の集落に入っていく。観光客とも町の人ともすれ違わない、閑かな道。土塀をもつ民家が多く、ところどころ大きく崩れている。そこに新しい住宅も混ざっているため、崩れている壁は目立つ。お寺への看板があらわれたので、指示に従い、道を折れると、先に山を上る石段が見えた。石段に向かって歩いていると、鳥の鳴き声がして、目の前を二羽が過った。止まった民家の瓦屋根を見ると、青い色の羽にえんじ色のお腹。もう一羽は、灰色がかった茶色。イソヒヨドリのつがいだった。

白毫寺は高円山の山麓にある。石段を上った境内からは市街地が一望できた。椿の木が多く、「五色椿」と呼ばれる樹齢450年の木にも花が咲いていた。初夏を思わせるあたたかな陽光。ゆっくりと境内を散策する。小径に並ぶ石仏を眺め、本堂、宝蔵に入った。小一時間いて、立ち去る前に最奥にある万葉歌碑を見に行った。「高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに」。笠金村という人が詠んだ万葉の歌。白毫寺は秋になると萩の花が境内を彩る。この石碑を揮毫したのは国文学者である犬養孝。1200か所にのぼる万葉ゆかりの地を訪ねて歩き、各地の万葉の風土を守ることに生涯をかけた人物だった。

高畑に戻り車を動かして、写真記念館の駐車場に止めた。記念館に入ると、若手写真家の企画展と、入江泰吉の写真を紹介する展示「塔のある風景」の垂れ幕が目に飛び込む。階段を下りて、受付で入館料を支払い、展示室に入る。天井の高い広い展示空間に並ぶ「塔」の写真。写真のサイズは大きく、一点一点がゆとりをもって、展示されている。大仏殿の塔や室生寺の塔。奈良大和路を歩き続けた写真家が、四季折々に向けたまなざしが垣間見える。のんびりと、緩やかに鑑賞の時間が流れていく。若手写真家の企画展示を見て、図書室では棚に並ぶ古今東西たくさんの写真集を手に取る。これだけ写真集が揃う施設は稀である。

一般展示室では地元写真家の方たちが作品を発表していた。住所と名前を書くと、「写真を撮られているんですか?」と聞かれたので、知多半島で写真を撮っていることを話す。展示を見ると、女性のグループで、奈良を中心に写真を撮っているようだ。名古屋とは違う関西らしい商店街の雰囲気や、昨日訪ねた奈良公園の様子が見ていて楽しい。石見の神楽舞の写真を撮っている方もみえたので、自身のテーマをもとに各地で撮影しているのだろう。話しかけてくださった方は、すぐに検索したそうで、新美南吉の話や、詩の話、地域を決めて写真を撮ることなどの話をした。ふと思いついて「いろんなところで、『鹿に注意!』という看板を見たんですけれど、奈良公園以外でも出会うんですか?」と聞いてみると、少し笑いながら「どこにでもいます。春なので今はよく動いていると思います」。生きものとの共存共生を思うが、それだけ看板が多いということは、つまり、シカによる人への被害、経済的な被害も甚大なのだろう。来訪者アンケートを書いて、お礼を言い、部屋を出る。最後に学芸員の方に「in the pen.」を寄贈して、館を出ると、夕方の4時になろうとしていた。

帰りは、山を越えて三重県に至る県道で山添村まで行き、名阪国道に入った。伊賀上野、亀山、鈴鹿、四日市とインターの出口看板を見て、帰宅時で渋滞している伊勢湾岸道路の東海インターで下りる。いつも観察や撮影から帰る時間と同じ時刻に家に着いた。

 

奈良に漂う(上)

毎日生活をしていて、新聞や雑誌、本の表紙、商品のパッケージやインターネットの記事など、見ない日は無い、と言っても過言ではないほど、写真は身近に溢れている。しかし、ある有名な写真とともに「撮った人を知っていますか?」と聞かれると、なかなか、名前が思い浮かばないのではないだろうか。何かで知った写真家の名前を覚えていたとして、その写真家が撮った一枚を具体的に思い浮かべることも、やはり、なかなか難しいと思う。

日本全国を見渡しても、写真家を取り上げた公立の記念館や美術館は多くない。すぐに思い浮かぶのは、酒田市の土門拳記念館、鳥取県伯耆町の植田正治写真美術館、石元泰博フォトセンターを常設している高知県立美術館などがある。現在、写真を使った表現活動をしている人たちの作品を取り扱うギャラリーは、大都市、とくに東京に集中している。その一方で、かつて人々に愛された写真家たちの記念館は、大都市に近いとはとても言い難い、各地方の市町村にある印象だ。

奈良の仏像や風景写真を撮影した写真家・入江泰吉(1905~92)。奈良市には8万点を超す写真のほとんどを所蔵している入江泰吉記念奈良市写真美術館がある。終戦前の大空襲で焼け野原となった大阪から、出身地の奈良に戻り、生涯にわたり奈良大和路の写真を撮り続けた。それらの写真は、多くの書籍や観光用のポスターに使われ、古都・奈良のイメージを創り出し、人々の心に沁み込ませた。ただ、あまりにも広く用いられたため、現代では「ポスター写真」と揶揄されることもあるが、そのような言葉で括ってしまう感性が私には、よく分からない。間違いなく、「地域」を撮ったパイオニアの一人である。

4月、初夏を思わせるような日が続いていた。3月半ばから一ヶ月ほど慌ただしくしていたので、少し休息をとろうと思い、朝から車で奈良に向かった。目的地は入江泰吉旧居と写真美術館である。新名神高速道路を使い、滋賀県の草津から京都府へ入り、宇治の山々を越えると山城盆地に至る。開けた盆地を南に下り木津川を越える。途中、国立国会図書館関西館に立ち寄り、平城京跡を眺めて、奈良市街地に着いた時には、2時を過ぎていた。

外国人観光客で賑わう、ならまちは通らずに、近鉄奈良駅から北に歩く。奈良女子大学や県立美術館のある辺りを東へと折れる。東大寺の西の端、水門町と呼ばれる地区に旧居はあった。カメラを手に持った観光客が行き来する往来から瓦葺きの木戸をくぐり、庭へと入る。靴を脱ぎ、母屋に上がり、入館料を支払う。往来の喧騒は聞えなくなっていた。畳敷きのそれぞれの部屋は、どこにいても家の横を流れる水路のせせらぎが聞こえてくる。部屋に飾られた写真や、書棚にぎっしりと並ぶ所蔵本を眺めていると、鳥の声もよく聞こえてくる。家の建っている環境が、中にいても感じられて、とても心地よい。飾られた小さな額に写る写真家の表情は穏やかで、同時代に同じように仏像を撮影した土門拳を「剛」とするならば、入江泰吉は「柔」という言葉が合う気がする。ソファーに座って、76歳の時に発表した大型本の写真集「花大和」(保育社、1976)を1ページずつ、めくっていく。晩年は野に咲く花の写真を撮っていたそうだ。時代が流れても変わらない花の姿がきれいだった。母屋を後にして、庭を歩くと、スミレやムラサキケマンの花が咲いて、ネコノメソウはもう種子ができており、ウラシマソウは、まだ仏炎苞があらわれていなかった。

翌日、写真美術館に立ち寄る前に、周辺を歩くことにした。写真美術館があるのは春日大社の南側、新薬師寺や鏡神社などの寺社がある、高畑という地区。付近のコインパーキングに車を止めて歩き始める。閑静な住宅地の路地を歩く観光客はわずかで、青空の下、桜の花びらが風に舞っている。周辺の民家は石垣と土塀で囲まれている家が多く、その隙間ではスミレやヒメウズの花が咲いていた。

十年以上前に一度、訪ねたことがある新薬師寺の本堂に入る。本尊の薬師如来坐像は大らかではあるが、しっかりと意志を持った表情に見える。周囲には護衛する十二神将立像が囲んで並ぶ。それぞれの像は干支を象徴している。自分の干支である申の立像の前に立ってみる。兜をかぶり、両手で払子を持った立像がこちらを見ていた。観る者を鼓舞するように武具を持ったほかの立像とくらべて、一見地味でもある立ち姿に、自分の進む道を問われているような気がした。<下に続く>

 

 

ブログの内容について

月刊「HANAYASURI」休刊にともない、当面のあいだ、本ブログで以下の内容を更新していきます。

〇観察会情報=カテゴリー「イベントのお知らせ」

〇四季折々の知多の自然のこと=カテゴリー「SCENE in the pen.」

〇エッセイ=カテゴリー「エッセイ」

更新の頻度は時期によって変わりますが、観察会情報は下旬~翌月上旬にかけて、エッセイは1日頃と15日頃の更新を予定しています。ブログ版エッセイは、観察会やイベントなどで配布するプリント版から選んで掲載していきます。また、2022年にvol.72で中断していた「SCENE in the pen.」を再開します。知多半島における身近な自然の魅力を写真とともにお伝えしていきます。相地透ポートフォリオも更新していきますので、よければ覗いてみてください。引き続き、自然や文学について、楽しみながら考えていこうと思います。