和紙と風景(中)

6月下旬、少し足を伸ばして、越前市に行くことにした。目的地は三か所。「ちひろの生まれた家」記念館、梅花藻の自生地、そして越前和紙の里である。

福井県は、学生の頃に友人が住んでいた金沢を訪ね、京都に向かう途中、電車で通過したことがある程度。朝から家を出発し、都市高速で一宮へ抜けて、名神自動車道に入る。琵琶湖のほとり、米原から京都とは反対側に向かう、北陸自動車道に入る。道路の向こう側には青い田んぼが広がる。その先には伊吹山。岐阜の山々が平野へと広がっていくところを、ぐるっと回り込むように、日本海側へと向かっていることを実感する。長浜から余呉湖のほとり、賤ヶ岳を通過すると、福井県。敦賀ジャンクションを金沢方面へと進む。こちらも同じように田んぼが広がっている。路傍では高架下から伸びたネムノキが満開だ。やがて、眼下に、日野川が見えてきた。名古屋から走ること、2時間ちょっと。越前市に到着した。

武生の古い町並みは、飯田の町と雰囲気が、なんとなく似ていた。町が山に囲まれ、築何年だろうかと考える古い家々が並ぶ。高い建物は見あたらない。新しい住宅も多くない。懐かしさの漂う町。そういった町に実際に住んだことは無いのに「懐かしい」と思うのは、日本映画が好きだったからだろうか。それとも、長い年月、町に住む人々の移ろいを見てきた家々の記憶が、町を訪ねる人のルーツに働きかけるからだろうか。

「ちひろが生まれた家」記念館は、越前箪笥の職人町であるタンス通りのそばにあった。古い町屋がきれいに残されている。入館料を支払い、二階の企画展示を見て、町家を奥へと進む。廊下に、いわさきちひろの母・文江について、パネルで説明がされていた。文江は、奈良高等女学校で学んだ後、武生に出来たばかりの高等女学校に、博物、家事の教師として赴任した。聡明で面倒見も良く、女学生の憧れの的だったそうだ。ちひろが生まれ、東京へ引っ越すときには、その功績に、町長から感謝状が贈られた。後年、武生を訪ねた時の写真に、二人が写っていた。お母さんの眼は、若々しく輝いていて、隣のちひろは、お母さんのそばで、ちょっと恥ずかしそうに座る子どもの眼をしていて、印象的だった。

昼食をとって、梅花藻の自生する治佐川に向かう。広がる田園の道を走り、到着すると、カメラを水路に構えている人がいた。周りは工場。水路では、鮮やかな緑の梅花藻が緩やかな流れに揺れていて、白い梅に似た花が水面に顔を出していた。ここは、トゲウオの仲間の淡水魚、トミヨの生息地でもあるそうだ。トゲウオの仲間は、きれいな水に棲み、水草を利用して巣をつくり、産卵する。川を覗いてみたが、トミヨは見つけられなかった。

越前和紙は、五箇と呼ばれる五つの集落で作られている。産地としての特徴は、多くの産地の場合、清流に沿って工場が分散しているが、越前は狭い谷あいに工場が集中している。ほとんどが家人が営む少人数の製紙工場。専業なので、一年中、和紙が作られている。

もう一つは、和紙の種類が豊富ということ。紙の文化博物館では、実際に越前和紙が展示されている。書道や日本画に使われる画仙紙。懐紙などに使われる檀紙。はがきや封筒に使われる紙や出版に使われる印刷用紙。模様の付いた鳥の子紙は、襖紙などに用いられるが、これらの模様紙もとても種類が多く、「漉き掛け」「漉き入れ」「落水」「孔雀」「飛雲」など模様を出すための技法に名前がついている。日本銀行券、いわゆる、お札も越前和紙の技法が採用されているそうだ。

紙漉きを生業にしていた古い家屋を活かした、卯立の工芸館に入る。風格のある木造家屋。土間を上がると、畳に紙で作られたマットが敷いてある。乗ると、しっかりしていて丈夫。紙の印象が変わる。売店のトレイも紙製。手に取って軽くノックすると、コンコン、と固い反応。作業場では、若い伝統工芸士の方が、紙漉きの工程を見せてくれた。これまでにも説明の書かれたパネルや本も読んだが、実際の工程を目の前で見ると、よく分かる。簀桁を繊維と「ねり」の入った水に漬け、持ち上げる。繰り返すと、その度に白さが増す。漉くときは、その透明度で紙の厚さを見極めるそう。0.1ミリの単位で漉き分けるという。

最後に、越前和紙の由縁である紙祖神・川上御前を祀る岡太神社・大瀧神社を訪ねた。杉の樹高がとても高い。複雑な造りの社の縁の下を覗くと、アリジゴクの巣があった。干上がった池の低木には、モリアオガエルの泡のような卵塊。白い新鮮なものと、茶色がかり、濁ったもの。池の水は張り直すのだろうか。そんなことを考え、帰路についた。<下に続く>