一枚の写真から(下)

6年後、病床の南吉から作品の取り扱いを託された聖歌は、戦争が終わると、すぐに南吉の童話集を刊行し始める。1948年には、疎開先の岩手から日野に引っ越して、散逸していた書簡、日記、原稿なども積極的に収集し始める。56年に大日本図書の教科書編集委員になり、「ごんぎつね」を推薦。初めて教科書に掲載される。

南吉がまだ東京にいた頃、聖歌は北原白秋の弟・北原鐵雄が社長を務める出版社・アルスに勤めていた。日野市郷土資料館が編纂した「たきびの詩人 巽聖歌資料集 一」(2020)には、1933~34年に、聖歌がつけていた日記が載っている。この日記は、アルスでの業務日誌で、日々の業務内容が端的に記されていて、毎日忙しく仕事をしていたことが、よく分かる。紙の発注や経理なども担当していたため、取引先の名前や取引額、用紙や部数など、出版に必要な具体的な数字や現実的な言葉が記されている。当時、南吉は学生だったが、聖歌は社会人だったのだなと、当たり前のことを実感する。

南吉作品を世に出すと決めてからの奔走ぶりからして、元来、聖歌は編集者気質なのだろう。編集者の仕事は、ただ文章を読んで本にすることではなく、出すべき本を出版するために、些細なことでもきちんと考えて手を抜かないことだと思う。千春たち家族の協力もあって、南吉の作品は、世の中で広く読まれるようになっていく。

聖歌が南吉に関して編集に携わった主な本は、1960年「新美南吉童話全集(全3巻)」(大日本図書)、62年「墓碑銘 新美南吉詩集」「新美南吉の手紙と生涯」(ともに英宝社)、65年から「新美南吉全集(全8巻)」(牧書店)、71年「新美南吉 十七歳の作品日記」(牧書店)など。もちろん南吉の仕事だけでなく、児童詩や作文教育の発展に寄与する仕事をいくつも掛け持っている。全国の学校から依頼されて、校歌の作詩も数多く手掛けた。

聖歌は、1973年の春に亡くなる。全集を刊行したときに新聞記事などを切り抜いていたスクラップ帳には、「南吉よ 遅い春だったなあ けれど おれはこれで せいいっぱいだったんだよ 四十年秋 花咲ける日の南吉へ」と記されていた。

聖歌が亡くなり、しばらくして、親しい友人たちから巽聖歌全集を作る声が挙がる。準備も進められたが、出版不況のあおりを受けて全集刊行は困難となってしまう。その前段階として、詩と短歌をまとめた「巽聖歌作品集(上・下)」と、別冊の回想録が制作された。没後50年が過ぎ、全集制作再開の機運が、再び高まっていくとよいな、と思う。

作品集で詩の部分を担当したのは、聖歌の活動を友人として支えた、清水たみ子。上野公園の写真に写る女性で、彼女もまた、2010年に亡くなるまで、生涯にわたり、詩・童謡などを発表し、戦後の児童文学界の発展に貢献した。90年に発表された詩集「かたつむりの詩」(かど創房)に収録された詩には、聖歌や南吉と重なるものが感じられる詩も多い。小さな生きものたちも登場する。詩を作るために大切な事柄を、自然と共有していたのだろう。80年から刊行が始まる「校定 新美南吉全集(全12巻、別冊2巻)」(大日本図書)にも貢献。雑誌のインタビューでは、ハキハキと物を言う千春と南吉はとても気があっていた、というエピソードを、楽しげに語っている。

聖歌の没後、千春は悲しみに暮れる。「野村千春展」図録に寄せられた文章で、長女の中川やよひさんは、このように回想している。「昭和48年に父を亡くして、母は自分の絵も人生も終わったと思い、先が分からなくなっておりました時にも中川一政先生に『千春の絵が本当の絵だよ』と励ましていただき『絵を描くことは生きること、生きることは絵を描くこと』として自負をし、死ぬまで筆を持ち続けることが出来たのだと思います」。毎年、春陽会と創立時から参加している女流画家協会展に出品し続けた。

土とともに、花の絵も描いていた千春であるが、亡くなった年の春陽会展に出品された絵は「吾亦紅と女郎花」だった。一見、花なのかどうかも分かりづらい、地味ではあるが昔から親しまれているワレモコウと、華やかで女性的なオミナエシ。千春の絵では、方々に大胆に伸びるワレモコウが、寄り添うオミナエシを包み込んでいるように見える。オミナエシの別名には、想い草というものもあるそうだ。

2000年12月12日、千春は、91歳で逝去する。聖歌の誕生日と同じ日に、巡り合わせのように、天国へと旅立っていった。

 

 

一枚の写真から(中)

12月26日のことは日記にも書かれている。野村家で原稿整理を手伝う南吉。年末の帰省は、中央線で帰ろうと思っていると話すと、それなら実家に泊っていったらいいと千春は南吉に提案する。日記の記述から想像すると、そんな感じである。「手袋を買いに」を書き上げて、実際に雪景色を見たいと思い、中央線で帰ると言ったのだろうか。それとも、これから訪ねる信州の雪景色を想って、物語が浮かび上がってきたのだろうか。

南吉は、翌日未明に東京を出発し、中央線に揺られて長野に至る。千春の先生でもある彫刻家の家に挨拶にいき、実家の武居家で一泊する。

東京に戻ってから、「赤い鳥」の投稿仲間であり、蒲郡に住む、歌見誠一に手紙を書く。その手紙には、帰省中に訪ねられなかったこと、雑誌の創刊を考えていたが、とん挫したことなどとともに、信州で体験した、冬の雪国の美しさが綴られていた。「白樺と、粉雪と、からまつと、谷底の人家と、あらし(山から木をすべり落とす道)と、そりと、下駄のスケートと、諏訪湖の波音と、山の星の美しさと、太いつららの灰色の空と――限りなく美しい高原の冬に、心を針のようにとがらし、感じ、悲しみ、わびぬれ、よろこび、明るみ、私は渡鳥のようないたいたしく小さい魂をともして、旅したのでした」。

1934(昭和9)年1月、野村七蔵と千春の長男・圦彦がうまれる。その知らせを聞いた南吉は、どのような想いだったのだろう。家族のように親しくする二人のあいだに生まれた男の子である。だが、2月。聖歌とともに出席した、宮沢賢治を追悼する集まりの9日後に、南吉は最初のかっ血をし、療養のため一時的に、岩滑に帰ることになる。

ふたたび東京に戻ってからの日記は、断片的に書かれていて、1935(昭和10)年の記述は3月13日から始まる。「長い間、私は日誌を怠ってきた。その間、私は、つけなければいけないと、常に、心の中でいってきた。そして、それをつけないでいる自分を、非難してきた。私がそのように、日記を重大視するのは、一つは功利的な目的のためである。それは、将来私が、小説を書くとき、私の日記が、なにかの役にたつようにと思うがためである。もう一つの理由は、日記をつけることによって、そうでもしなければ、一瞬の火花のように私の心の上に咲いて、すぐ忘却の闇に消滅する、かずかずの思想の断片を、私の意識にはっきりとのぼせ、さらにそれによって、私の生活に意義づけようとすることである(中略)。私は近ごろ、もっと真実を、せめて自分だけにでも言いたいと思っている(後略)」。

このあと、身辺の細かなエピソードや自身の悩みを日記に綴っているが、4月16日に一旦止まる。止まる直前は、家庭生活や結婚のことを考えている。再開するのは、6月5日。全集口絵の写真の話に戻ると、この年の春陽会の会期は、4月28日~5月20日。上野公園で写真を撮ったのは、この、日記が書かれていない期間である。

野村夫妻に誘われて、上野公園の春陽会展を訪ねる。晴れた公園では、親たちに連れられた子どもたちが遊んでいる。1歳になった男の子は、聖歌が手を引いていたのだろうか。千春がおんぶしていたのだろうか。春陽会は、従来の洋画の会とは一線を画し、画家個人の考えや表現を重んじて、十年ほど前に創立した。展示された400点の絵は、南吉の目に、どのように映っただろう。ゆっくりと会場を歩きながら、千春の絵を探す。飾られていたのは、雪国の絵。一年前の冬に南吉も訪ねた長野の絵である。どれくらいの時間、その絵を観ていたのだろうか。彼らはきっと、絵について、楽しげに言葉を交わしたのだろう。

このあと、南吉は一気に20篇ほどの幼年童話を書き上げる。「ひとつの火」「飴だま」「デンデンムシノカナシミ」などである。南吉は、どんなことを想って、小さな子どもたちが読むための物語を書いたのだろうか。再開後の日記は、子ども時代の思い出から始まる。

私は南吉の作品や日記すべてに目を通してはいないし、なんとなくの想像でしかないのだが、芸術家、文学者になるための物語創作ではなく、子どものために物語を書くことを、本質的な意味で意識したのは、このときだったのではないだろうか。

翌年、東京外国語学校を卒業。東京土産品協会に勤め先が決まる。卒業直前に起きた二二六事件の現場は、聖歌と見に行ったそうだ。世間に戦争の足音が聞こえ始めていた。

東京で働き始めた南吉であったが、10月に二度目のかっ血。千春の献身的な看病によって小康状態になった南吉は、四年半暮らした東京を去り、岩滑に帰郷した。<下に続く>

 

一枚の写真から(上)

巽聖歌が編集に携わった「新美南吉全集」(牧書店、1965)の第7巻の口絵に、一枚の写真が載っている。1935(昭和10)年の春、南吉が聖歌たちと一緒に、上野の東京府美術館へ春陽会展を観にいった時のものである。公園の芝生にしゃがんで座る、5人の大人と1人の男の子。聖歌は、優しい表情で男の子の腕をとって、抱っこしている。男の子は、1年前に生まれた聖歌の長男である。南吉は、写真の左端、聖歌の隣りに座って、柔らかな表情をしている。学生服に外套を羽織り、ハンチング帽をかぶって、眼鏡を掛けている。ほかの3人は、聖歌の妻である野村千春、千春の妹の夫である周郷博、童謡雑誌「チチノキ」などで聖歌や南吉とは同人仲間である、清水たみ子。写真は白黒だけれども、後ろでは子どもたちが芝生の上で遊んでいるので、天気のよい日だったのだろう。

巽聖歌の本名は、野村七蔵という。男の子の母親である千春は、長野の諏訪湖近くの出身(現在の岡谷市)。諏訪の高校を卒業した後、画家になることを目指して上京し、春陽会洋画研究所で、中川一政に師事していた。

この日、東京府美術館に展示されていた千春の絵の題は「雪景」。2009年に長野で開催された回顧展「野村千春展」(八十二文化財団)の図録に載っている。場所は、ふるさと岡谷の村だろうか。家にも地面にも、雪が積もり、家々はにぶい土色で描かれている。後に春陽会では二人目の女性会員となるが、その作風は力強く、ためらうことなく、暗い色を使う。2023年、夫妻が暮らしていた日野市で、巽聖歌の特別展が開催されたときには、「丘の上の日野ヂーゼル」という絵が展示されていた。戦後しばらくして、日野で暮らし始めたころの家の周りの風景を描いているのだが、画面の大半は、黒や茶褐色の土や畑である。絵の前に立つと荒々しい質感に驚くが、その中にぽつぽつと色が見える。中川一政は、暗さの中に銀や青や黄色を散りばめる千春を、色彩家(コロリスト)と高く評価したそうだ。

南吉の日記にも千春は登場し、最初は千春さん、結婚してからは、奥さんと呼んでいたことが分かる。聖歌に宛てて書いた数々の手紙でも、春陽会や絵のことに、よく触れていて、南吉が東京を去ったあとも、家族のように仲が良かったことが伝わってくる。

千春の絵に、ストーブを前にして座る二人の青年を描いた「ストーブをかこむ(若い人たち)」という作品がある。座る青年は、南吉をモデルにしている。後年、長女の中川やよひさんが、「どっちが南吉なの?」と聞くと、「どっちもよ」と言って、笑ったそうだ。

1932(昭和7)年に、南吉は上京した。聖歌は、遠くからやってくる弟のような南吉のために、わざわざ学校に通いやすい場所に家を借り、一緒に暮らし始める。4か月後、聖歌と千春が結婚することになり、二人を気づかった南吉は学校の寮に移る。幾たびか住むところを替えるが、野村家には頻繁に顔を出し、家族同様の生活を送っていた。

南吉は、自分の文学を理解し、相談できる兄のような聖歌と、地方から芸術家になるために上京し、熱心に絵の勉強をする千春に、この上ない刺激を受けていたことだろう。志半ばにして、地元に帰らなくてはならなくなった南吉は、東京で暮らしていた頃が、自分がもっとも良かった時代と回顧する。何もかもが真新しく、自分と同じような将来を想い描く仲間たちに囲まれた青春時代が、最良の時代と思えるのは、現代でもそれほど変わらないような気がする。多くの時代に日記を残した南吉だが、東京時代の日記は、完全には見つかっておらず、断片的である。上京した年の日記は、見つかっていない。残っているものには、上京して2年目、1933(昭和8)年の日記がある。この年の12月、男の子がうまれる、ひと月前の千春のことが、日記に書かれている。「小雨の中を巽のとこへ行った。奥さん一人が、生まれてくる赤ん坊の着物やふとんを拵えていた。真赤な着物がうつむいた若い奥さんの顔に映えていた。自分の体内から生まれてくる赤ん坊の為に用意をする気持ちは一体どんなものであろうかと思った。外套のボタンをつけて貰って帰った」。

同じ月に、南吉はある物語を書き上げる。「手袋を買いに」である。雪の降る夜に、子狐が手袋を買いに街へ行く。母狐は、人間は危ないから、手袋を買うときにはこちらの手を出しなさいと言い、子狐の片手を人間の手に変える。心温まるお話でもあり、人と動物の関係についても考えさせられる。書き上げたとされる日は、12月26日。クリスマスの翌日。「手袋を買いに」は、南吉の物語の中で、もっとも翻訳されている物語でもある。<中に続く>

 

SCENE in the pen. 088

“Grasshopper with buzzing sounds”

It is now early summer and firefly season. Some time after sunset, I went to the rice fields and saw more 20 fireflies flying around. A very intense grasshopper noise was heard, along with a chorus of many frogs. The species that appear in autumn are often encountered. It was pleasing to find that the species that appear in early summer have not yet been lost. [JUNE 2025]

Xestophrys javanicus

 

ヘイケボタルがあらわれる田んぼのそばで、耳に痛いほどの激しさで鳴いていたのは、シブイロカヤキリ。カヤキリが秋に鳴くのに対し、シブイロカヤキリは、晩秋に羽化してすぐ越冬し、春から初夏にかけて鳴きます。

 

SCENE in the pen. 087

“Caterpillars on privet tree”

In spring, one of the trees that flowers in the woods is the privets. There are “border privets” and “Japanese wax-leaf privets” in this woods. The wax from these trees was used to make candles. Were they also used in the region? On this day, the larvae of the moth that feed on privet leaves were found on the branches. Its adults have eye-patterned wings and its English name is “owl moth”.  [May 2025]

Brahmaea japonica

 

イボタノキは、春に雑木林で白い花を咲かせます。木から取れる蝋は、ロウソクの原料などに用いられたそうです。イボタノキやネズミモチを食草とするイボタガは、独特な翅の模様をもつ大型の蛾で、春を告げる蛾とも呼ばれます。英語では、オウル・モスと言います。

 

ヘイケボタルの観察会

今年度の「ヘイケボタルの観察会」は、以下の日程で行います。ヘイケボタル(写真)は田んぼなどにあらわれる身近なホタルですが、環境の変化で、生息地が激減しています。現在、知多半島で観察できる場所は、ごくわずかです。深夜に光るヒメボタルとは異なり、日没後、30分~1時間ほどで飛翔発光します。緑色の光が風にのって田の水面をすーっと流れる様子は幻想的です。夜の観察会となりますが、年に一度のホタルの季節、是非ご参加ください。観察会に初めて参加される方もお待ちしております。

 

〇日程/2025年6月7日(土)

〇時間/19:00集合~20:30頃、終了予定

〇集合場所/美浜町奥田・恋の水神社駐車場 地図はこちら

※自動車の場合は、知多半島道路「美浜IC」を下りて、信号を右折します。総合公園のテニスコートを過ぎた先にある「日本福祉大学」の看板が指す方へ左折してください。2~3分進み、次の信号を左折すると、恋の水神社に着きます。電車の場合は、名鉄「知多奥田」18:43着の電車でお越しいただけましたら、迎えに行きます。

〇費用/無料

〇その他/トイレは神社にあります。歩きやすい靴でお越しください。飲み物などは各自ご用意ください。やぶ蚊の対策をお願いします。メモを取る場合は、筆記用具をご用意ください。

★予定の変更など/開催日の前に、予定の変更など、ご連絡をする事があります。その場合は、お申し込みいただいたメールアドレスにご連絡しますので、お手数ですが、当日の前に一度メールをご確認ください。よろしくお願い致します。

 

お申し込みはこちら

 

6月・7月の観察会スケジュール

6月の観察会スケジュールのお知らせです。上半期の観察会も終盤になりました。7月、8月は、観察会はお休みです。近年、夏場の気温上昇は体に厳しく、昼間、野外での観察会は、開催がなかなか難しくなりました。「猛暑日」という言葉も出来てからしばらく経ち、すっかり定着しました。日中の外出が厳しくなる季節を前に、身近な自然の観察を、目一杯、楽しみましょう。たくさんのご参加をお待ちしております。

 

<6月の観察会スケジュール>

「ヘイケボタルの観察会」

日時:6/7(土) 19:00~20:30

場所:美浜町奥田の田んぼ

◇ヘイケボタルは、田んぼなどにあらわれて、人の生活にとても身近なホタルでした。近年、知多半島では、その自生地が激減しています。まだ残る、ヘイケボタルのいる田んぼを観察します。

内容の詳細はこちら

 

「磯の生きものをみる」

日時:6/15(日) 13:30~15:30

場所:南知多町内海・つぶてヶ浦

◇2年ぶりに、磯の観察会を開催します。観察地・つぶてヶ浦での、この日の干潮時刻は、14時半頃です。浜辺には岩礁があらわれて、岩場にタイドプールが出来ます。カニや小魚など、そこに棲む生きものの様子を観察します。

※内容の詳細は、6月上旬に掲載します。

 

「第27回西味鋺観察会」

日時:6/21(土) 10:00~12:00

場所:西味鋺コミュニティセンター

◇矢田川・水辺の広場で、水生昆虫や小魚など川に暮らす生きものの観察をします。生きものを持ち帰って飼育したい方は、網と持ち帰り用の袋やかごをご用意ください。

※参加のお申し込みは、mail@hanayasuribooks.comにご連絡ください。

 

<7月の観察会スケジュール>

「第10回 椋鳩十を読む会」

日時:7/19(土) 13:00~16:30

場所:昭和生涯学習センター・美術室

◇奇数月第三土曜日に開催している「椋鳩十を読む会」。今回で10回目となります。課題図書は、「椋鳩十と戦争:生命の尊さを動物物語に」(多胡吉郎/書肆侃侃房)です。当日は資料を使って、作家の人生を追いながら、課題図書について話します。その他、椋鳩十の絵本の読み聞かせ、歌の練習を予定しています。

※内容の詳細は、6月下旬に掲載します。

 

想い出のニュースペーパー

朝起きてまずすることというのは、そう変わるものではない。たとえば、私は目が悪いので、朝起きてしばらくすると、コンタクトレンズを入れる。歯を磨く、食事をする、着替える、コンタクトレンズを入れるなどと並ぶ、毎朝の習慣の一つに、新聞を読む、がある。

私自身は、新聞との距離感がだいぶ近く、日常的なのだが、最近、読んだニュースによると、30代以下だけでなく、同世代の40代でも新聞から情報を得る人よりも、インターネットから情報を得る人の方が多かった。10代の終わりから20代の前半にかけて、自分が所属する社会に関する情報を一番必要とする時期に、インターネットが発展し始め、ニュースを掲載するサイトが登場した。当時のことを思い出してみると、積極的に新聞をとっていた人は少なかった気がする。ちなみに、SNSから情報を得るという人の割合は、下の世代が、かなり多く、テレビから得るという人の割合は、上の世代が、やや多かった。

もう少し思い出してみると、就職したり、結婚したり、子どもが生まれたり、という生活の変化があった人と会ったときに、「新聞、とってる?」と聞かれたことが何度かあった。大きな生活の変化があると、先の見通しを立てるため、生活に必要なものと削れるものを真剣に考えないといけなくなる。20代だった私たちが、まず、切り詰めることを考える選択肢の一つが、新聞だった。あとから聞くと、「結局とってるよ」という人もいたけれど、社会的な情報はインターネットからとればよい、と考えた人は、かなりの数いたのだろう。

新聞との付き合いを、思い出してみる。子どもの頃から、床に新聞を広げて、スポーツ欄なんかを読んでいて、中学、高校と上がるにつれて、社会面なども読むようになった。大学に進学し、一人暮らしを始めるときも、新聞はとるつもりだった。たまたま、アパートに荷物を運んでいる最中に通りがかった新聞屋さんと、その場で契約した。基本的には3カ月契約。3カ月目が近づくと、集金の人が、「また3カ月お願いできませんかね?」と言って、洗剤やなんやかんやと持ってくる。卒業して、しばらく経ち、そうしたやり取りも面倒になり、半年や一年でとるようになった。

その頃は、新聞を切り抜くことは、今に比べると、ほとんど無かった。あとからまとめて読みたい連載記事くらい。ただ、9・11同時多発テロ、近鉄バファローズ優勝など印象的な出来事があった日の新聞は、残っている。今は、和紙のことなど、自分が今、考えていることに直接関わる記事。たしかにそうだなと共感したコラム。これまでに知り合った方々が関わっている記事。投稿されたきれいな絵や、小中学生の作文を切り抜くこともある。切り抜くほどでも無いかな、というものは、スマホで撮っておく。

そんな毎日の付き合いである新聞だが、常にしっかり読んでいるのかというと、そんなことは無くて、見出しだけ、ぱっぱと読むだけのこともある。その方が、多いと思う。

学生の頃から、地方新聞も好きだった。友人たちと旅行に出掛けると、朝起きて、旅館のロビーに置いてある、その地域の新聞を読む。一人で読んでいると、旅館の人に声を掛けられて、世間話することもあった。帰省するときには、東京駅でスポーツ新聞を買って、新幹線の中で読んでいたし、新聞は夕刊の方が文化面が充実していることが多いので、アパート近くの駅のキオスクに、80円の夕刊を買いに行っていた時期もあった。仕事を探しているときに、業界紙というものがあることを知り、木材業界の日刊紙に応募したことも、そういえば、あった。

日本の離島についての記事を中心に書いている「離島経済新聞(リトケイ)」に興味を持ったことがあったり、語学学習のために丸善で英字新聞を買ったり、今はフランス在住の日本人が読むタブロイドを読んでいるし、自分はつくづく新聞が好きなのだなと実感する。他の情報媒体がどれだけ発展しても、新聞への信頼が揺らぐことは、今後も無いと思う。

最後に、新聞が好きな人ならきっと楽しめる映画を一つ。「クライマーズ・ハイ」(監督・原田眞人/2008)という、日航機墜落事故を題材にした小説を映画化した作品がある。物語の舞台は1980年代なので、今の時代には、合っていないかもしれないけれど、これは物語。私は、この映画に登場する記者たちの熱量に、頼もしさを覚える。

新聞じゃないとだめなんだ、という人たちが書いて作る。だから、新聞じゃないとだめなんだ、という読者が生まれるのだと思う。

 

 

「初夏の観察会」のお知らせ

「初夏の観察会」のお知らせです。昨年、「夏の観察会」を行った武豊町自然公園を歩いて、初夏の様子を観察します。5月に入ると自然公園の松林では、ハルゼミが鳴き始めます。雑木林の内外を飛ぶチョウの種類も多く、生きもののにぎやかなシーズンとなります。林内の特徴的な場所を訪ね、そこに生える樹木を知り、やってくる昆虫や、花などを観察します。(写真は、タイサンボク。5月撮影)

 

〇日程/2025年5月25日(日)

〇時間/13:30集合~15:30頃、終了予定 ※場合によっては30分ほど延長することもあります。余裕をもってご参加ください。

〇集合場所/武豊町自然公園・駐車場 地図はこちら

※自動車でお越しの場合は、直接、駐車場にお越しください。名古屋方面からは、知多半島道路「武豊IC」で下りて頂き、インターの信号を右折します。すぐに、「嶋田」の信号を右折します。そのまま道なりにまっすぐ2キロほど進むと、武豊町運動公園があります。「武豊運動公園前」の信号を右折して、しばらく進んでいただき、知多半島道路を渡る高架を越えると、右手に駐車場があります。

※電車でお越しの場合は、最寄りが「富貴」駅になります。13:13着の電車(河和行き、急行)でお越しいただけましたら迎えに行きますので、その旨お知らせください。駅からは車で7~8分ほどです。

〇費用/無料

〇その他/観察会の前に、昼食をとられる方は、各自ご用意ください。トイレは自然公園内の展望広場にあるほか、富貴駅と、途中の運動公園駐車場にもあります。長い距離を歩きながらの観察となります。歩きやすい靴でお越しください。帽子、飲み物など、暑さ対策をお願いします。蚊が出ている可能性がありますので、対策をお願いします。メモを取る場合は、筆記用具をご用意ください。

★予定の変更など/開催日の前に、予定の変更など、ご連絡をする事があります。その場合は、お申し込みいただいたメールアドレスにご連絡しますので、お手数ですが、当日の前に一度メールをご確認ください。よろしくお願い致します。

 

終了しました。ご参加いただき、ありがとうございました。