椋鳩十を読む会・5月

奇数月第3土曜日に開催している「椋鳩十を読む会」。椋鳩十の文学作品を読み解きながら楽しく活動しています。今回は、以下の内容で行います。

〇日程/2025年5月17日(土)13:00~16:30

〇場所/昭和生涯学習センター・視聴覚室

〇アクセス/名古屋市営地下鉄「御器所」駅下車。2番出口を出て、御器所ステーションビルを右折し真っすぐ5分ほど歩くと着きます。有料駐車場有り(1回300円)。

地図はこちら → 昭和生涯学習センターの場所

〇参加費/大人500円、子ども(小学生以下)250円 ※資料代、会場代に使用

〇内容/①話題「7月、9月の鳩十会について」 ②歌の練習1 ③課題図書「あらしをこえて」 ④歌の練習2

〇備考/・「あらしをこえて」は、ツバメのお話です。「椋鳩十の小鳥物語」(理論社)に収録されています。・歌の練習は、前半・後半に分けて、これまでに覚えた曲と新しい曲を歌います。楽譜の無い方は、当日お渡しします。・初めての方もお気軽にご参加ください。

 

参加のお申し込みは、mail(at)hanayasuribooks.com(相地透)までご連絡ください。

 

観察会「海浜植物の花をみる」のお知らせ

浜辺が海浜植物の緑でおおわれる季節になってきました。今年も5月恒例の観察会「海浜植物の花をみる」を開催します。観察地である常滑市の海岸は、ハマダイコン、ハマヒルガオ、ハマボウフウ、コウボウムギ、コウボウシバなど海浜植物の貴重な自生地です。それらの花と、そこにやってくる生きものを観察します。(写真は、ハマヒルガオ。4月撮影)

〇日程/2025年5月6日(火・祝)

〇時間/13:30集合~15:30頃、終了予定 ※場合によっては30分ほど延長することもあります。余裕をもってご参加ください。

〇集合場所/常滑市・名鉄「蒲池」駅前

※自動車の場合は、とこなめ市民交流センター駐車場(地図はこちら)に、車をとめてください。名古屋方面からは、国道155号の「午新田」を右折し、「蒲池駅入口」の信号手前の坂道を、左折して上がってください。駅までは、徒歩3分ほどです。電車の場合は、13:15着の電車があります。

〇費用/無料

〇その他/観察会の前に、昼食をとられる方は、各自ご用意ください。トイレは、駅にあります。歩きやすい靴でお越しください。暑さが予想されますので、日よけ、飲み物などの対策をお願いします。メモを取る場合は、筆記用具をご用意ください。

★予定の変更など/開催日の前に、予定の変更など、ご連絡をする事があります。その場合は、お申し込みいただいたメールアドレスにご連絡しますので、お手数ですが、当日の前に一度メールをご確認ください。よろしくお願い致します。

 

参加のお申し込みはこちら

 

5月・6月の観察会スケジュール

5月の観察会スケジュールのお知らせです。立夏を過ぎると、生きものの動きは、ますます活発になります。5月は、海と雑木林の初夏の様子を観察します。6月は、ホタルの観察会と磯の生きものの観察会を予定しています。これから夏に向けて、日中の気温が上がっていきます。体調管理に気をつけて、さまざまな場所の自然を観察しましょう。

 

<5月の観察会スケジュール>

「海浜植物の花をみる」

日時:5/6(火・祝) 13:30~15:30

場所:常滑市小林町

◇毎年、立夏前後に観察しているこの浜は、貴重な海浜植物の自生地です。ハマヒルガオをはじめ、花が多く咲くこの季節に、海風を感じながら、草花、木の花、そこにやってくる昆虫などを観察します。

内容の詳細はこちら

 

「第9回 椋鳩十を読む会」

日時:5/17(土) 13:00~16:30

場所:昭和区・昭和生涯学習センター視聴覚室

◇奇数月第三土曜日に開催している「椋鳩十を読む会」。今回の課題図書は、ツバメのお話「あらしをこえて」。「椋鳩十の小鳥物語」(理論社)に収録されています。また、ピアノに合わせて、少し長めに歌の練習をします。

内容の詳細はこちら

 

「初夏の観察会」

日時:5/25(日) 13:30~15:30 ※時間変更の場合あり

場所:武豊町・自然公園

◇5月は、自然公園の生きものが、にぎやかな季節。新美南吉の作品にも登場するハルゼミの音や、夏の到来を告げるホトトギスの音を聞きながら、雑木林を散策します。

※5月上旬に内容の詳細を掲載します。

 

<6月の観察会スケジュール>

「ヘイケボタルの観察会」

日時:6/7(土) 18:30~20:30

場所:美浜町(※予定)

◇ヘイケボタルは、田んぼなどにあらわれて、人の生活にとても身近なホタルでした。近年、知多半島では、その自生地が激減しています。まだ残る、ヘイケボタルのいる田んぼを観察します。今年はヒメボタルの観察会はお休みです。

 

「磯の生きものをみる」

日時:6/15(日) 13:30~15:30

場所:南知多町・つぶてヶ浦

◇2年ぶりに、磯の観察会を開催します。干潮時にあらわれる岩礁や、タイドプールの生きものを観察します。

 

「第27回西味鋺観察会」

日時:6/21(土) 10:00~12:00

場所:西味鋺コミュニティセンター

◇矢田川・水辺の広場で、水生昆虫など生きものの観察をします。

※6月の観察会の詳細は、5月下旬以降に掲載します。

 

SCENE in the pen. 085

“Sea hare”

The beach was low tide and reefs were appearing. There were no crabs or small fish yet, probably because it was early in the season. There was a sea hare under the surface of the churning water. When it senses danger, it spouts a lot of purple liquid to blind its enemies. At this time, it appeared as laid back as a cow resting on a pasture. [April 2025]

Aplysia kurodai

 

潮が引いてあらわれた岩礁にいた、アメフラシ。刺激すると、目をくらますために紫色の液体を出します。たまごは、黄色く細い麺状の卵塊で、夏場に岩礁を歩いていると見かけます。

 

SCENE in the pen. 084

“White dead-nettle”

When I’ve visited to the temple located in the forests of Minami-chita, there were flowers of the white dead-nettles in the bushes under the cliff. In Japanese, they are called “Odoriko-so”. Odoriko means dancers. [April 2025]

Lamium album var. barbatum

 

雑木林に自生するオドリコソウ。街中でもよく見かける春の野草、ヒメオドリコソウよりも明らかに植物自体も花も大きいです。

 

藤江の南吉、設楽の南吉(下)

新東名高速道路を走り、新城インターを降りて、豊川沿いに設楽町を目指す。途中からは支流の海老川沿いの方が、道路が整っており、そちらに進む。天気は晴れていたので、鳳来寺山方面へ向かう道路は、車が多かった。周囲の山を見ると、木々の新芽の淡い色合いがきれいで、そのあいだに、山桜のうす紅色が入る。パッチワークのような景色を横目に見ながら、トンネルをくぐる。抜けると、道路はふたたび、豊川と交わる。この辺りから、田峯(だみね)地区になる。郵便局のそばから、山道に入り、植林された杉の木に囲まれた山道を進む。ぐねぐねとした山道を走りながら、この道で合っているのだろうか、という一抹の不安が生まれ出したとき、空が明るく開けて、茶畑のある集落にたどり着いた。

田峯は、豊川の水源地である段戸山に包まれた地域。古くから茶葉を生産しており、田峯茶として販売されている。「だみねテラス」という休憩所に車を止めて、食事をする。郷土館まではもうすぐなので、駐車場の目の前にある田峰観音を歩いてみることにした。

少し急な石段を上って行くと、杉の大木があり、樹皮をコケや地衣類が覆っている。濃淡のある緑や、青灰色のまらだ模様を眺めていると、糸の塊のようなものが付着していた。サルオガセだった。標高が高めの森の木に着生する地衣類で、知多半島をめぐっていても、見かけることは無い。そんなところからも、普段観察している場所とは、環境が異なることを実感する。木の根元には、とうが立たったフキが、たくさん花を咲かせていた。

石段を上りきると、右手に寄棟の屋根の舞台が目に入った。田峰観音には「雪を降らせた観音様」という伝承があり、例大祭では、田楽とともに地狂言が奉納されるそうだ。さらに奥に行くと、入母屋の休み処がある。中に入ると、狂言や歌舞伎が描かれた、絵馬や額が所狭しとかけられている。見上げると、格天井になっていて、色褪せてはいたが、美しい花鳥画が描かれていた。目を奪われて、しばらくの間、佇む。美術館では見ることができない、土地に寄り添った芸術の美を見上げながら、地域の文化を後世に繋いでいくことの意味を想った。どのように残し、伝えていくのか。

田峯地区をあとにする前、閉校になったばかりの小学校に立ち寄った。近くの田んぼには水が張られて、強い風で水面が揺れている。田んぼからは、シュレーゲルアオガエルのコロコロとした声が聞こえた。ほかのカエルたちの声も混ざっている。静かな山の小学校に春を告げていた。小川沿いのヒメコブシは満開で、強風を受けて桃色の花びらが、閃いていた。

奥三河郷土館に到着する。曲線の屋根がきれいな、明るい木造の資料館だった。エントランスから、二階に上がると「南吉のあるいたしたら」のパネル展示がされていた。かつて豊橋と設楽を結んでいた豊橋鉄道・田口線のこと。鳳来寺山賢居院に滞在した時に作った、17の俳句のこと。塩津温泉を舞台に書かれた未完の小説「山の中」のこと。「山の中」の執筆についての苦悩を友人にあてて書いた手紙も展示されていた。物語の描写をもとに、南吉がたどっただろう道のりが、地図に線で示されているので、とても分かりやすい。山あいの駅を降りて、集落を散策しながら山奥の温泉を訪ねる、そんな南吉の姿が浮かび上がってくる。それにしても、地図を残しておくこと、写真を残しておくことは、とても大事だと実感する。暮らしている土地への想いのこもった眼と、地道な取り組みが、後世に文化をつないでいくのだろうと、ここでも感じた。

馴染みの無い奥三河の山中にいても、南吉の自然に寄り添う姿は変わらない。俳句には、兜虫、蝉時雨、葱の花、赤蟻、黄金虫といった言葉が並ぶ。そして、普段は出会うことができない声に感動したのだろう、仏法僧の句は、7つ作っていた。展示の終わりに、「山の中」の一節が紹介されていた。「蛍が渓流のこちらにも、底のあたりにも、向うの岸と思われる闇にも光っている。飛びながら光るのもあれば、じっとすわっている光もある」。ゲンジボタルは、今でも渓流の上を光りながら舞うのだろうか。

企画展示を見終わった後は、奥三河の自然や歴史、文化について、たくさんの収蔵品が並べられた、見ごたえのある常設展示を見て、郷土館を出た。せっかく来たので、隣接する道の駅にも立ち寄る。美味しそうだな、と思って手に取ったカレー粉の製造元を見ると、「名古屋市北区西味鋺」と書いてあった。地域は人の縁でつながる。

 

 

藤江の南吉、設楽の南吉(上)

この半年ほど、半田を訪ねることがあると、近所に南吉の記念碑を見つけることが多かった。たとえば、かつてはカブトビールの工場だった、半田赤レンガ建物のそばには、住吉神社と、宮池という池がある。池のほとりには、「一年生たちとひよめ」に登場する、カイツブリ(ひよめ)の歌の碑が立てられている。亀崎を訪ねたときには、神前神社の春祭りである潮干祭で、海の中に山車を曳き下ろす会場となる浜のそばに、「煙の好きな若君の話」の碑を見つけた。ほかにもあって、半田市は南吉の町なのだなと、あらためて実感する。

2月に東浦町の中央図書館を訪ねた。目的は、南吉が学生(半田中学)時代の友人である久米常民にあてた手紙についてまとめた本、「南吉さんから常民さんへ 六通の手紙」を読むため。郷土資料は、その土地に行かなければ読むことが出来ないことも多い。だが、訪ねる時間はかかっても、図書館には地域ごとの特色があらわれるので、その土地に暮らしている人たちが、どのようなことを大切にしているのかが少し分かり、それもまた楽しい。

久米常民は、東浦町藤江出身の国文学者である。万葉集の誦詠歌としての性格を追求することを研究の柱とした。また、江戸時代の僧、良寛の歌を注釈した。南吉の日記には四年時に初めて名前が登場する。六通の手紙の内容からも、良き友人でありながら、同じように文学の道を先に見る、良きライバルでもあったことが分かる。

南吉は、16歳の4月に、常民の住む藤江の村を童謡で描いている。「藤江の村は/遠いだナ/藤江の村は/坂ばかり/坂から坂へ/白い道/段々下って/行ったらナ、/小さな家が/あるばかり、/お背戸にむくれん/花ばかり。/藤江の村は/小いだナ」。坂の多い村に咲く木蓮の花。のんびりとした春の風景が浮かんでくる。

半田中学を卒業し、二人は疎遠になっていくが、心の抽斗には、若き日に文学論を交わし合った想い出が、ずっと、しまわれていたのだろう。後年、久米常民は、南吉の創作活動の素晴らしさを認めて、このように語っている。「筆者は、文学の研究が、その創作と同じ意義と価値をもつようにさせたいと願ってきた。その念願は、まだ遂げられているとは言えない。(中略)筆者は文学の研究で、まだ少しがんばってみるぞ。(中略)君とライバル関係はまだ終わっていないぞと叫びたい気持ちでいっぱいである」。

この本は、郷土の本ではあるが、東浦町中央図書館ホームページにある「よむらび電子図書館」にアクセスすると、誰でも読むことができる。レイアウトやデザインもきれいで、読んでいて楽しい本なので、もう少し手に入りやすいとよいなあと思う。

4月4日。暦では、清明となる日。辞書によると「清明」の意味は、「清く明らかなこと。また、そのさま」とあり、二十四節気としての意味合いでは、「このころ、天地がすがすがしく明るい空気に満ちるという」(デジタル大辞泉より)とのことである。名古屋の桜は、この日、満開になった。家の前のスミレも、紫の花が満開だ。土曜日の西味鋺観察会では、新地蔵川の水面をツバメが飛んでいた。身の回りの自然の変化を丁寧に観察していると、昔から使われている言葉の意味が、生活に馴染んでくる。

この日は、足を伸ばして、奥三河の設楽町まで行くことにした。三河山地の山あいの土地は、「奥三河」と呼ばれ、大まかに三川の水系からなる。「三河」の由来にもなっている、矢作川と豊川(もう一つは、乙川とされる)。そして、静岡の遠州灘へと流れる天竜川。同じ地域ではあるが、この三川に沿って、文化や自然の様子が変わる。例としては、奥三河の民俗芸能である、花祭を伝承する土地は、天竜川水系だけなのだそうだ。

奥三河の北は、飯田市や喬木村のある南信州の伊那谷。伊那谷へと続く路は、三河では伊那街道と呼ばれる。伊那谷では、三河へと続く路なので、三州街道と呼ばれる。同じ路ではあるが、人々の生活に合わせて、名前が変化する。

設楽町の手前には、新城市があり、信仰の山でもある鳳来寺山が聳える。「ぶっぽうそう」と鳴くことで知られる猛禽類、コノハズクの生息地でもある。南吉は、1938(昭和13)年、25歳の時、勤め始めたばかりの安城高等女学校の研修で、夏の10日間、鳳来寺山賢居院に滞在した。今年の2月から、奥三河郷土資料館では「南吉のあるいたしたら」という企画展示がされていて、終わる前に、観に行くことにしたのだった。<下に続く>

 

 

SCENE in the pen. 083

“Spring snow”

In March there is snow in the fields and on the street. Thunberg’s meadowsweet has many small and white flowers on its branches. They are beautiful, like snow falling out of season. Most of ones we see are planted, but the native ones grow along the banks of mountain streams. [March 2025]

Spiraea thunbergii

 

街路や公園にも植えられており、春になると白い花が咲くユキヤナギ。雑木林と隣接する公園などでよく見かけます。ホシミスジの食草の一つです。

 

漢字と風景(下)

話は一旦、丈山苑を訪ねた日に戻る。

安城市の丈山苑をあとにして、油ヶ淵を見ながら、車を碧南方面へと走らせる。目的地は藤井達吉現代美術館。常設展示は、第4期で「いただきます! 収穫の秋」をテーマに、ゆず、やまいも、柿といった秋を代表する収穫物の墨画などが展示されていた。

二階では、藤井達吉を敬愛し、碧南に縁のある作家の方々による作品が展示されていたので、上がっていくと、受付に座っていた方に、「どこでこの展示を知られましたか?」と声をかけられた。「藤井達吉が好きで、一階の常設展示を見に来たんです」と応えると、「私の父は藤井先生の弟子だったんです」とおっしゃる。この方のお父さんは、小原村の研究会で指導を受けており、子どもの眼に先生は、にこにこ笑って気のいい好々爺だったそうだ。「作品を見ていると、とても丁寧に自然を見ていたのだなと、よく分かります」と伝えると、「父が話していたのですが、夜寝ていると急に先生に起こされたそうです。『こんな良い月が出ているのになんで寝てるんだ!』って」と、笑いながら、エピソードを教えてくださった。いつでも身近な自然の変化を観察し、その美しさを敏感に感じ取っていたのだろう。

さて、前述の「やまいも」の墨画には達吉による歌が書き込んである。「や末非東駕 も傳来て久連し い母乃な駕左餘 面都羅し美尓川ゝ い久日見傳を理(山人が 持て来てくれし 芋の長さよ 珍らし見につつ 幾日見てをり)」。

達吉は歌や言葉を作品に書き入れることがよくあり、墨画だけでなく、絵巻、色紙などの作品も数多く残している。1500点近い作品を所蔵する愛知県美術館には、それらの絵巻、色紙が所蔵されている。通常の変体仮名だけでなく、独自の変体仮名も用いて書いているため、時間はかかりながらも、読み下しはかなり進んでいるそうだ。それらの題は、絵巻「和紙漉込」、絵巻「はるの野路」など、自然の風景や藤井達吉らしい言葉が並んでいるので、いつか展覧会で大きく展示していただけると、とても嬉しい。

達吉が影響を受けた色紙は、継色紙と呼ばれる古筆。ブリタニカ国際大百科事典によると「もとは白、紫、藍、黄、茶などに染めた料紙を粘葉装にした冊子であったが、1906年に1首ずつ分割されて現在の形になった。色紙を2枚継ぎ合せたような見開きの2ページに短歌1首を散らし書きにしているのでこの名がある」というもので、平安時代の能書家である小野道風(894~966)が書いたとされるが、確証はないそうだ。

春日井市は小野道風ゆかりの地である。11月上旬、春日井文化フォーラムで開催していた展覧会「金子みすゞの詩 100年の時を越えて」を観たあと、時間があったので、春日井市道風記念館に立ち寄った。小野道風というと、「柳に跳び付く蛙」の話がよく知られている。柳の枝へ何回もあきらめずに跳び、とうとう柳に跳び付いた蛙を見て、あきらめずに努力すれば、自分も書の道で大成できると気づいた、という逸話だが、江戸時代に創作された話だろうと考えられている。二階の展示室では、市内の小中学生の書道展が開かれており、自分にはとても書けないだろう、きれいな楷書の文字が書かれた半紙が、部屋いっぱいに展示されていた。ほのかに墨の匂いがして、懐かしく、心地よかった。

平安時代は、中国由来の漢字による文化から発展し、日本独自のかな書きによる文化を築いていこうという気運が生まれ、道風は和様の書を創始して、最前線で文化をけん引していく。和様の書は、藤原佐理、藤原行成へと受け継がれ、以降の書道に大きな影響を与えた。

万葉の時代は、身近な自然の様子に心を重ねて、純粋で素朴な歌が数多く作られていた。しかしまだ、かな文字が無かったため、漢字(万葉仮名)で書き残した。平安時代になり、文字はより言葉を使う人々に寄り添うようになるが、歌自体は技巧が先行し、自然との関りは薄らぐ。道風はどのような自然観で、書の道を歩んでいたのだろうか。

亀崎の風景を漢詩にした浅野醒堂は、江戸末期、尾張国に生まれた漢学者で、明治から昭和のはじめまで、愛知師範学校(現在の愛知教育大学)で漢文、書道を教えていた。漢詩人としては、全国的に認められる存在だったという。また、小野道風の顕彰活動にもかかわっていたそうだ。さらにその生まれた場所が、七里の渡しのそばにあった熱田旧浜御殿屋敷というのも興味深い話だが、浅野醒堂についての詳しい話は、また別の機会に。

 

 

漢字と風景(上)

昨年11~12月にかけて、色んな場所を訪ねていた。せっかくなので、備忘録的に場所だけ列記してみると、半田市、武豊町、常滑市、日進市、名古屋市緑区、阿久比町、知多市、南知多町、名古屋市北区、浜松市、恵那市、美浜町、名古屋市東区、中津川市、飯田市、春日井市、名古屋市昭和区、名古屋市南区、安城市、碧南市、名古屋市天白区、いなべ市、名古屋市中区、東京都墨田区、横浜市都筑区、名古屋市千種区。並べてみると、熱田を真ん中に東西南北を訪ねている。移動することは多いが、これだけ短期間に集中して移動するのもめずらしい。知多半島の各市町や西味鋺のある北区など、観察や撮影で複数回訪ねている場所もあるので、延べだともう少し多い。ずいぶん方々、行ったものだと思う。

この時期、興味が生まれてきて、気にし始めたものに、漢詩がある。きっかけは、安城市の丈山苑を訪ねたとき、石川丈山(1602~74)という江戸初期の漢詩人について知ったこと。丈山は徳川家康に仕えており、単騎で敵将の陣に討ち入り武勲を上げる。だが、他の近習を差し置いて、討ち入る行為は禁じられていたため、任を解かれ、その後は広島での浪人生活ののち、京都の一条寺に詩仙堂という山荘を造営し、隠遁生活を送る。

出生地である安城の丈山苑は、その詩仙堂を模してつくられた庭園。訪ねた日は、紅葉がきれいで、庭園に建てられている詩仙閣までの石畳では、石畳と小川に散った紅葉を撮影している人もいた。詩仙閣のなかには漢詩の掛け軸があり、庭園には、石碑がいくつも建てられている。掛け軸にしても、石碑にしても、一見して読むことは、私にはできないのだが、漢字は表意文字。文字の連なりを追うだけでも、なんとなく、こういう情景を詠んでいるのだろうと想像できるものもある。

庭園を奥まで行くと、丈山の石像が建てられていて、そのすぐそばに、「立園蝶止肩」と彫られた石碑があった。微笑ましくなって、家に帰ってから、もらった解説文を読むと、読み下し文は、「園に立てば蝶肩に止まる」。四季を通して観察会をしていると、鞄にトンボが止まったり、子どもたちの服にホタルが止まったりという場面に、よく出会う。南知多で鳥の観察をされている方は、じっとしていたら頭にジョウビタキが乗ったそうだ。

武士の世の武勲や隠遁生活に想いを馳せるのは難しいけれど、漢詩にあらわれた自然へのまなざしから、時代は違えども、私たちも目にしているような身近な自然に、自分の心境や思索を重ねていた人だったのだろうと考えた。

年が明けて、2025年になり、半田市の亀崎を訪ねた。古くは海運業、水産業、醸造業で栄えたが、現在は静かな港町である。知多半島と西三河を分ける境川の河口付近にあり、その突端には神前神社という神社がある。

ここでちょっと、鳥になった気分で空に上昇し、北へ4キロほど視線を移すと、東浦町の衣ヶ浦の藤江越し跡碑がある。亀崎のすぐ北の衣浦大橋ができるまでは、ここから対岸の吉浜まで渡し船が出ていた。この辺りは、明治時代まで塩づくりがされていた塩田地帯。東浦の塩は古くから知られ、重宝されていたそうだ。

当時に想いを馳せてみる。現在、私が暮らしている熱田の宮宿のお隣り、鳴海宿から大府を通り、緒川へと向う。境川沿いに師崎街道を歩くと、低湿地に塩田が広がって、その向こうに川をはさみ、先には西三河が見える。海に近づくと、その突端に小高い岬の港町、亀崎がにぎわっている。周辺には干潟があって、生息する生きものを獲るために、千鳥や鷺などの野鳥も、干潟にやってきていたかもしれない。そんな風景を想像した。

亀崎を歩いていると、そこここに「亀崎十景」という立札が立っている。たとえば北浦坂の立札には「北浦烟雨」という題で「濛濛連極浦/稍稍濕漁蓑/午寒魚不出/網裏落花多」という五言絶句が書かれている。読み下し文は、「濛濛極浦に連なり/稍稍漁蓑を湿らす/午寒くして、魚出でず/網裏、落花多し」。意訳も一緒に書かれており、「遠くの水辺まで雨が暗く垂れ込め、だんだんと漁師の服を濡らす。昼でも寒く魚は潜んだまま。網の中にはいっぱいの花」という内容と分かる。いくつかの立札を読みながら、かつては景勝地だったことが分かり、漢詩の作者に興味が湧いた。立札の端には「作者 浅野醒堂(一八五七~一九三四)」と記されていた。<下に続く>