SCENE in the pen. 101

“Deep pink oxalis”

As December arrived, the colors of the flowers began to fade from view. The shrine I visited had ginkgo leaves turning yellow, and on the ground, oxalis flowers were blooming. This oxalis, known in Japanese as “Imo-katabami”, produces deep pink flowers in spring and autumn. [December 2025]

Oxalis articulata 

 

12月になると、花の色が目に留まることは、少なくなります。そんな中でも、よく見かける濃いピンク色のオキザリスは、イモカタバミ。春にも花を咲かせます。ムラサキカタバミに比べると花の色が濃く、植物全体のサイズもかなり大きいです。

 

<Traduction en français>

SCÈNE dans la pen. 101  Oxalis rose foncé

En décembre, les couleurs des fleurs ont commencé à desparaître. Le sanctuaire que j’ai visité était parsemé de feuilles de ginkgo jaunies, et des fleurs d’oxalis fleurissaient sur le sol. Cet oxalis, appelé ≪imokatabami≫ en japonais, fleurit au printemps et à l’automne avec des fleurs d’un rose profond. [Décembre 2025]

 

繋・宮沢賢治(下)

追悼会に出席したもう一人の女性は、八重樫祈美子という。花巻から来たこの女性が賢治や宮沢家の人たちについて語るのを、永瀬清子は、とても快く聞いたそうだ。気になったので、少しだけ調べてみると、八重樫祈美子は、ジャーナリスト・徳富蘇峰の秘書で、彼女もまた、39歳という若さで亡くなったということだった。

今年の2月、東京に行ったことを想い出す。新宿の写真展を訪ね、向った先は、京王線の八幡山駅。千葉に住んでいた頃、東京へ行くことは多かったが、世田谷まで足を伸ばすことは、ほとんど無かった。初めて降りる駅というのは、楽しい。駅の大きさや駅前の風景。歩く人々。目新しくても、どこかの駅と似ていても、どちらも楽しい。駅は出発点である。案内板で目的地への道を確認して、歩きだす。途中、有名な雑誌図書館「大宅壮一文庫」を発見。住宅街の細い道を歩き進むと、大きな通りがあって、広い公園に辿り着いた。

この公園は、蘆花恒春園という。もともとは、文学者である徳冨蘆花・愛子夫妻が暮らしていた場所だった。1927(昭和2)年に蘆花が亡くなり、1936(昭和11)年、土地や家屋などの財産を愛子夫人が東京市に寄贈した。現在は、公園が拡張整備され、もともとの恒春園は、西側の一角に夫妻の墓地とともに保存されており、記念館も併設されている。蘆花・愛子夫妻がこの土地、千歳村粕谷に引っ越してきたのは、1907(明治40)年のこと。この前に、海を渡り、ロシアまで文豪トルストイを訪ねている。

徳冨健次郎(蘆花)は、1968(明治元)年、現在の水俣市に生まれた。民友社、國民新聞社を創立し、明治から昭和に至るまで、激動の時代の先頭に立っていたジャーナリスト・徳富蘇峰は、一つ年上の実兄。幼いころから、聡明な兄・猪一郎(蘇峰)とは性格が異なり、厳格な家風にもなじめず、自然に心の慰めをもとめた。成人して以降も、兄の存在に自暴自棄になることもあったが、自然を観察し、文章にすることに活路を見出す。随筆「自然と人生」は、自分の人生観を、目前の自然風景に重ね合わせながら、文学として成立させ、広く愛読された。フランスの風景画家・コローを紹介し、後の文学者たちにも大きな影響を与えた。武蔵野の雑木林を愛し、農作業に汗を流しながら文筆活動をする、「美的百姓」と呼んでいた生活は、後に、随筆「みみずのたはこと」にまとめられた。

徳冨夫妻が暮らしていた茅葺きの母屋に入る。きしむ廊下を歩き、隣の書院へ行く。窓の外を見ると、雑木の林立する武蔵野の林という印象は、だいぶ薄れてしまってはいるが、背の高い木々が生えていた。歩いてきた公園は、子どもたちが走り回り、散歩する人たちも多かったのだが、恒春園は、訪ねる人も少ないようで、閑寂な様子だった。

賢治の追悼会の出席者に端を発して思索が巡り、東京に行ったときの記憶に流れ着いた。賢治にしても、蘆花にしても、ロシア文学、とくに、トルストイから大きな人生の指針を得ていたことは、確かだろう。徳冨蘆花は、恒春園という庭と畑と雑木林において、人の生活の理想を体現しようとした。宮沢賢治は、もっと広い範囲を、イーハトーヴという理想郷と捉えて、農に生きる人々とともに生活の精神的、文化的な向上を目指した。

いわさきちひろのことも、少し記しておく。「いわさきちひろ若き日の日記『草穂』」(松本由理子編/講談社、2002)という本がある。これは、ちひろが1945(昭和20)年の8月16日、つまり、終戦の翌日から付けていた日記をまとめたものである。突如として終わった戦争に対する複雑な思いを、少しずつ自分に溶け込ませるように日記は綴られる。この中で、「宮沢賢治の詩をもっと読んでおけばよかった」と書いている。後年、戦争中に出会った賢治の童話が描く東北の風景は外のことを聞こえなくするほどだったことを語っており、賢治の童話に絵を描いた「花の童話集」(童心社、1969)が出版されている。

ちひろは、日記を書いていた時期からしばらくして、共産党の演説を聞き、彼らの戦中の活動を知り、入党する。演説を聞きに来ていた女性は、ちひろ一人だったという。たった一人で詩人たちの中にいた、永瀬清子。同じように一人で入党した、いわさきちひろ。

宮沢賢治をめぐって、時間と人が交錯する。文学は、作品に親しむだけでなく、脈々と繋がる想いの束をほどきながら、解釈していくことも魅力の一つである。そして、今、自分が立っている時間的、地理的な位置を知り、次の歩みを考える。私たちの時代が抱える諸問題を解決するための糸口は、きっと、文学を紐解くことで明確になると、私は思う。

 

 

繋・宮沢賢治(上)

宮沢賢治は、日本でもっとも知られた童話作家の一人といっても過言ではない。「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」「よだかの星」「銀河鉄道の夜」など代表作を挙げてみれば、多くの人が「ああ」と思うタイトルが並び出る。賢治は、1896(明治29)年に生まれ、1933(昭和8)年に37歳で亡くなる。一時、東京で暮らした以外は、その生涯のほとんどを岩手で暮らす。盛岡高等農林学校で学んだ知識をもとに、やませによる冷害に苦しむ農家を助け、自身も畑仕事をしながら、詩や童話を書いた。農民も芸術によって心豊かになるべきだと考え、「羅須地人協会」を作り、農業についての勉強会をしながら、音楽や演劇などの芸術活動を積極的に生活に取り入れた。しかし、その想いが十分に伝わる前に、もともと弱かった体に、過労がたたり、夭折する。生前に刊行された作品集は、「心象スケッチ 春と修羅」、「イーハトヴ童話 注文の多い料理店」の二つだけである。

自然と文学というテーマを設定し、過去の文学者たちの自然観に迫ろうという試みを始めてから、この冬で2年になる。漠然と自然のことを書いた文学者について考えていた時期も含めるならば、4年くらいだろうか。この間、エッセイなどでよく取り上げている文学者以外にも、さまざまな文学者、表現者について関心を持ってきたのだが、宮沢賢治は、彼らの人生の一場面に登場することが、とても多い。

読書会などでもよく話題にしているのは、「雨ニモマケズ」が書かれた手帖が発見された追悼会のこと。賢治が亡くなった翌年、1934(昭和9)年の2月。場所は、新宿の喫茶店「モナミ」。賢治の弟であり、賢治の作品を世に出すために奔走する宮沢清六や、賢治の描く世界や詩に共感した詩人たちが集まった。郷里の花巻からやってきた人たちは、賢治の魅力的な人柄を語り、「星めぐりの歌」を歌って、追悼した。

会に参加していた巽聖歌は、賢治と同じ岩手出身。花巻と盛岡のあいだ、紫波町の生まれである。賢治と面識は無かったが、表現者として魅かれるところがあったのだろう、1970(昭和45)年に、文学仲間とともに賢治ゆかりの地を訪ねている。聖歌と追悼会に来ていた新美南吉は、賢治のことをとても尊敬していた。

賢治が亡くなった翌年、最初の全集が出版される。家族や名の知られた詩人たちが尽力することで、文学者・宮沢賢治は世に出るのだが、その陰で作品の整理や版元との調整など事務作業を引き受けていた人物がいる。賢治の友人であり「セロ弾きのゴーシュ」のモデルともいわれる、藤原嘉藤治である。嘉藤治は、賢治の没後、その作品を広めるため、すぐに音楽教師をやめて東京に行こうとするが、周囲に止められ、一年後、家族とともに上京する。戦時下の十年間を東京で過ごし、宮沢賢治全集の刊行に大きく貢献。全集の仕事が一段落した終戦直前、岩手に帰郷。岩手に戻ってからは、東根山麓に開拓農民として入る。過酷な労働環境にあっても、農業とともに生き、賢治の教えをまっとうした。

賢治の文学に触発される表現者の中には、嘉藤治のように土を耕し生きることを選ぶ人がいる。追悼会に出席していた数少ない女性である永瀬清子もその一人。永瀬清子は、1906(明治39)年、現在の赤磐市に生まれる。父の仕事の都合で、金沢、名古屋と転居し、名古屋の高等女学校に通っていた頃、詩を自分の一生の仕事にしようと決意する。この時期に出会った詩は、カール・ブッセ「山のあなたに」。そして、自分の詩を見てもらうため送った先は、同人誌「詩之家」を始めるため作品を募集していた佐藤惣之助であった。

カール・ブッセ、佐藤惣之助という名前が登場し、思い浮かぶのは、やはり椋鳩十だろう。鳩十は、1905(明治40)年生まれ。清子の一つ年上である。鳩十もまた、天竜川を越えて飯田まで通っていた高校(旧制中学)時代に「山のあなたに」と出会う。法政大学の学生として上京した後、惣之助の「詩之家」の同人になる。惣之助は、自費出版で作られた賢治の「春と修羅」を読み、新聞に詩評を書き絶賛した詩人。鳩十も、かなり早い段階で、賢治のことを知っていたのではないだろうか。

「女が詩なんて」と言われた時代。詩の会ではいつも、女性は清子だけだったが、信念を貫き生きた。戦中は、大阪、東京と暮らす場所を変え、戦後は、夫の地元である熊山(赤磐市)に戻る。農地改革の混乱の中、地元で農業に従事することになり、それは生涯続いた。農作業をするときは、ノートを持ち歩き、言葉や詩を書き留めていたという。<下に続く>

 

 

「冬の観察会」のお知らせ

冬の観察会のお知らせです。2025年を締めくくる観察会は、内海で開催します。観察する場所は、座頭畑の海岸です。御嶽神社・秋葉神社の森を訪ね、春には海浜植物の花が咲く浜を散策します。(写真は、10月撮影)

 

〇日程/2025年12月7日(日)

〇時間/13:30集合~15:30頃、終了予定 ※場合によっては30分ほど延長することもあります。余裕をもってご参加ください。

〇集合場所/南知多町民グラウンド・駐車場(予定) 地図はこちら

※自動車の場合は、町民グラウンド駐車場にお越しください。南知多ICから国道247号を目指していただき、国道を美浜町方面に向かうと、右側に、学校跡地の町民グラウンド(町民会館)があります(「内海南浜田」交差点から1分)。

※電車の場合は、最寄りが「内海」駅になります。12:51着の電車でお越しいただけましたら迎えに行きます。駅からは車で4分ほどです。

〇費用/無料

〇その他/観察会の前に昼食をとられる方は、各自ご用意ください。トイレは、町民グラウンドにあります。長い距離を歩きながらの観察となりますので、歩きやすい靴でお越しください。メモを取る場合は、筆記用具をご用意ください。

★予定の変更など/開催日の前に、予定の変更など、ご連絡をする事があります。その場合は、お申し込みいただいたメールアドレスにご連絡しますので、お手数ですが、当日の前に一度メールをご確認ください。よろしくお願い致します。

 

※都合により観察会は中止します。 11/28更新

 

「秋の観察会」のお知らせ

美浜町での「秋の観察会」のお知らせです。今回は、美浜町町民の森で初めての観察会です。この場所は、恋の水神社から1キロほど東にある雑木林で、小高い山(黒山)になっています。秋も深まり、枯れ葉の積もる森を山頂まで歩いて、草木の様子などを観察します。(写真は、9月撮影)

 

〇日程/2025年11月22日(土)

〇時間/13:30集合~15:30頃、終了予定 ※場合によっては30分ほど延長することもあります。余裕をもってご参加ください。

〇集合場所/恋の水神社・駐車場 地図はこちら

※自動車の場合は、「恋の水神社」駐車場にお越しください。知多半島道路「美浜IC」を出て5分ほどです。

※電車の場合は、最寄りが「知多奥田」駅になります。13:13着の列車でお越しいただけましたら迎えに行きますので、その旨お知らせください。駅からは車で5分ほどです。

〇費用/無料

〇その他/観察会の前に昼食をとられる方は、各自ご用意ください。トイレは、恋の水神社にあります。長い距離を歩きながらの観察となりますので、歩きやすい靴でお越しください。メモを取る場合は、筆記用具をご用意ください。

★予定の変更など/開催日の前に、予定の変更など、ご連絡をする事があります。その場合は、お申し込みいただいたメールアドレスにご連絡しますので、お手数ですが、当日の前に一度メールをご確認ください。よろしくお願い致します。

 

終了しました。ご参加いただきありがとうございました。

 

十月の日誌(下)

10月19日。武豊の自然公園で観察会。前日まで、小雨が降りはっきりとしない天気が続いていて、この日も朝から灰色の雲が空を覆っていた。駐車場から公園の入口へ向かうと、ホトトギスの花が咲いていた。林縁でひらひらと飛んでいたのは、アサギマダラ。今年はなかなか出会わないなと思っていたが、ようやく見つけた。遅れてきた方たちと合流し、雑木林を奥へと進む。ワレモコウなどの咲く田んぼへ行こうと思っていたのだが、道を間違えてしまい、ジョロウグモの巣がところどころに待つ暗い道を歩く。キノコがたくさん出ているが、種類は分からない。広場に到着すると、フユノハナワラビの群生を発見。ハナヤスリ科のシダ植物である。東屋でまとめの話をして、駐車場へ引き返す。雑木林は、ずっと暗く、途中小雨も降ったが、最後まで大降りになることは無かったので、よかった。

10月20日。畑でアキザキヤツシロランを見つける。昨年は10月21日に最初の株を見つけ、28日には、およそ70株が出ていた。今年も同じ時期にあらわれたということになる。出ていた株数は9つで、すべて蕾。1つの株についた花の数は、5つが最大。

10月24日。深草子どもの家に研修に行っている父を迎えに行くため、朝から母とともに京都に向った。この週は、安定しない天気が続いた。新名神を走りながら、薄曇りの空にくっきりと描かれた鈴鹿山脈の稜線が見えてきれいだった。大津サービスエリアで休憩し、京都東インターで下りる。市内に入るころには、すっかり晴れて暑くなった。

東大路通を北へと進み、一乗寺に到着。一乗寺には、母の古くからのお友だちが住んでいて、八尾に住むお友だちも、せっかく名古屋から京都まで来るんだからと、一乗寺までやってきてくれていた。お二人と合流し、詩仙堂丈山寺へ移動。

詩仙堂は、江戸時代の漢詩人であり、作庭家でもあった、石川丈山が隠居した場所。出身地である安城の丈山苑は、この詩仙堂を模したものである。書院に掛けられた、六勿の銘、福禄寿の書などに見る丈山の書は隷書で書かれている。人を寄せ付けないような字ではなく、丸みがあり親しみやすい字だと思う。庭に出て、嘯月楼を見上げる。「カコーン」と僧都の音が聞こえた。庭の木々には秋らしく赤い実が目立つ。フジバカマには、アサギマダラが来ていて、花びらが散り始めたシュウメイギクの閑かな佇まいにも、風情があった。

近所の蕎麦屋で食事をし、出てくると、オオアオイトトンボがいた。この辺りは、比叡山の麓で大通りからは急な坂道の上になる。山の木々も豊かで心地よい。通り沿いの民家の前の砂地に、すり鉢状の巣を見つける。小枝で少し掘ってみると、アリジゴクがいた。宮本武蔵に縁のある八大神社では、カゲロウが飛んでいた。最後に二十代の頃に京都に来るとよく訪ねていた本屋、恵文社一乗寺店を訪ねて、お二人とはここで別れた。

深草は、山科の少し南にあり、地形では伏見稲荷のある稲荷山より南の山麓になる。16時過ぎに父を迎えに行くことにしていたので、先に近くの大岩山に登った。山の下の方は、竹林が続く。そばに小川が流れていて、足元が不安定なところもある。ふと、竹林の地面に目をやると、ヤツシロランがあった。目を凝らしてよく見る。アキザキヤツシロランよりも、明らかに黒く、花の形も少し違った。これがクロヤツシロランだろうか。少し先では、コケの間から生えた黄色いひょろ長いものを見つけた。子嚢菌類かなと思ったが、はっきりしない。いくつかの鳥居をくぐり、登って行くと、森が明るくなってきた。30分ほどで登頂。大岩山は比叡山から南に続く山並みの先端に位置する。同じように山を登ってきた男性が「空から見ると、亀の形にみえるそうやね」と教えてくれた。下山し、子どもの家に立ち寄って、名古屋に戻る。家に帰ると、鳩十会の方から、永瀬清子についての手紙が届いていた。

10月27日。畑のアキザキヤツシロランは、いくつか新しい蕾を見つけたが、数は昨年より少ない。これから増えるだろうか。それとも、今年は出現が少ないのだろうか。

10月29日。内海四天王像めぐり、秋4回目。最後となる持国天の森は、内福寺の森の少し手前。十月がそろそろ終わるので、虫も少なくなってきた。地面から聞き慣れないコオロギの音(クサヒバリに少し似ている)が聞こえたが、何の音か分からない。何度も来ている場所でも、すぐに分からない事の方が多い。明神池には、カルガモが十羽ほど来ていた。毎年赤い実を付けるヤブコウジは、まだ葉が出たところ。セイタカアワダチソウに覆われた休耕田ではヒゲシロスズが鳴いていて、軽やかな音が静かな谷筋に響いていた。

 

 

十月の日誌(中)

10月12日。気温が30度近くまで上がるなか、春に続き、八事裏山で観察会をする。10時に集合。コインパーキングから通りを歩いて、竹林に向かう。手の入っている竹林と、放棄されている竹林の様子を比較しながら進む。竹林の先には草むらが続き、秋を代表する草花のイヌタデがある。ここでは、赤花のほかに白花もたくさん出ている。林縁の木には、コバノガマズミの赤い実がなっていた。ほかにも草花を丁寧に観察し、一時間ほどかけて、雑木林の入口に到着。9月下旬に裏山を下見したときは、テングタケが何種類も出ていたが、すでに黒く老熟している。池に水が無くて、今年の水不足を実感。礫がむき出しのでこぼこ道をのぼりながら、ムヨウランの枯れ残りを確認する。コアラの餌用に栽培されているユーカリ畑まで行き、まとめる。同じ道を引き返して、12時半頃、解散。

10月13日。碧南の藤井達吉現代美術館に「川端龍子展」を観に行く。川端龍子のことは、藤井達吉と同時代の日本画家で、達吉が東京で住んでいた大井町庚塚の近隣に、たしか記念館があったなというくらいの知識だった。展示を見ると、迫力ある日本画である。「草の実」という六曲一双の屏風の右隻は、ススキが垂れて、オヒシバ、ヤマノイモ、ヤブガラシなど枯れ草が大胆に描かれている。その下にハハコグサが描かれているのが目に留まった。年譜を読んでいたら、現在は記念館となっている自宅のことを、画家は「御形荘」と呼んでいたそうだ。ハハコグサに何か思い入れがあったのだろう。草花に思い入れをもつところに、達吉との共通点を見つけ、川端龍子がぐっと身近になる。

代表作の「爆弾散華」は、終戦の年の夏に爆撃を受けた自宅の庭について、飛び散るカボチャとトマトを象徴的に描いて表現した絵であるが、端に描いてあるナスの花が印象的だった。なんとなく、菜園をしていた庭は、野草もいっぱいだったのだろうと想像した。

こちらも代表作である「夢」は、亡くなった人が納まる棺桶の周りを、たくさんのガが飛んでいる。それらのガの種類が、すべて異なる。ミズアオ、スカシバ、クスサン、ホタルガ、スズメガ、エダシャクなど、身近に見かけるガである。数えてみると34種類。自然をよく観察していた人だったのだろう。展示を見た後、館長の木本文平さんの講演を聞いた。当時の美術界の様子、龍子のこと、達吉との共通項などがよく分かり、とても勉強になった。

10月17日。内海四天王像めぐり、秋3回目。訪ねたのは、多聞天。オガタマノキの神明社に車を止めて、歩く。田んぼの稲は刈りとられていて、赤とんぼが飛んでいた。かつて岡部城があった城山の道を登りながら、春の観察会で、この滑りやすい道をみんなで登ったことを思い出した。海へ向かう道沿いは、果樹畑が続く。民家のバナナの木には青い実がなっていた。浜はハマゴウの花が咲き残っていて、ウラナミシジミが吸蜜していた。ウラナミシジミがあらわれる時期は、アサギマダラが飛来する時期と重なる。今年はアサギマダラをまだ見ていないなと思いながら、浜の植物を観て歩く。岩場に腰を落ち着け、波の音を録る。崖上まで直線で上がれる古い梯子を上りながら、冬の観察会はここにしようと決めた。

10月18日。小雨のなか、半田に行く。ミツカンミュージアムは人がたくさん来ていた。「ピエゾグラフによるいわさきちひろ展」は観覧無料。土産物コーナーの奥のギャラリースペースに、「窓ぎわのトットちゃん」をテーマにして、いわさきちひろの絵が飾られていた。

ピエゾグラフとは、水彩画は厳密な管理のもとであっても退色してしまうので、デジタル情報を保存して精密に再現した絵のこと。ギャラリートークをされた、ちひろ美術館の学芸員さんによると、原画展と同じようにピエゾグラフの展示も大切にしていますとのこと。「トットちゃん」の舞台であるトモエ学園は、子どもたち一人一人に、その子の木があったそうで、それは、とても楽しそうだと思った。少し前に、至光社の絵雑誌「こどものせかい」に使われた原画が、新たに見つかったというニュースがあった。「こどものせかい」には、巽聖歌も詩を寄せているが、聖歌とちひろは面識があったのだろうか。

名古屋に戻りながら、乙川にある半田ハリストス正教会を見に行く。明治から大正にかけて、知多半島にも正教会の伝道所が数か所あった。現在はここだけである。木造聖堂は地元の宮大工の方たちが手伝って建てられ、民家のような造りをしている。こうした聖堂は全国にあったが、現在は、ごくわずかしか残っていないようだ。かつてはカトリックに次ぐ数の信仰者が日本にいた正教会。当時のことを考えてみる必要がある気がした。<下に続く>

 

 

十月の日誌(上)

十月も、もう終わり。思い返してみると、今月は上旬から天気が安定せず、断続的に雨が降った。長々と続いた残暑は、収まるや否や一気に気温が下がり、富士山では昨年よりも15日早く初冠雪が確認されたそうだ。湿気も多く、霧雨のような細かい雨と朝晩の気温差が着るものを迷わせて、引きかけた風邪は、早めに対処したのでこじらせることは無かったけれども、なんとなく心も体も気怠さを引きずった月だったと思う。

そんな毎日ではあったが、訪ねた場所は方々多く、長い間、放ってあった考えが少し進展したり、新しく考え始めたことがらも多かった。ただ、頭の中に入った情報量が、ちょっと多すぎるので、大事な部分を精選し、関連付けてまとめるには時間がかかりそうである。とりあえず、忘れないよう日誌的に書き留めておこうと思う。

10月1日。熱田神宮にオニフスベを見に行く。途中、激しい雨が降ってきたので、5月に花のとうの人形が飾られる西楽所で雨宿りをしながら、雨の音を録る。

10月2日。内海四天王像めぐり、秋1回目。今年は、1月から三カ月ごとに、四天王像のある森を訪ねている。この日はフォレストパーク跡地のそばの増長天を訪ねた。海岸沿いでは、ヒメマダラナガカメムシという赤いカメムシがいた。昼間も咲くようになったツユクサや、普段は葉だけが目立つアシタバの花などが目に留まった。

10月4日。子どもの家の行事に参加させていただき、明智にリンゴ狩りに行く。思い出してみると、リンゴが果樹園でなっているところを、間近で見るのは初めてかもしれない。無農薬のリンゴをもいで、かじる。紅玉は、小ぶりで甘く、美味しかった。リンゴをそのままかじるなんて、いつ以来だろう。雨がだいぶ降ってきてしまったので、午前中で終了。

大正ロマン館に立ち寄る。一階には大正時代の建物のミニチュアが飾られていて、その中に豊橋ハリストス正教会の模型があった。豊橋の代表的な文化財でもある、この教会の設計をしたのは、内海出身の正教徒・河村伊蔵。明治時代、日本に正教を広めたニコライについて教会建築を学び、ニコライの没後は、全国の正教会建築に関わった人物である。

二階にはオルガンの展示や、洋画家で明智出身の山本芳翠の絵が展示されていた。代表作は岐阜県立美術館に所蔵されているため、模写が飾られている。山本芳翠は、洋画が日本に紹介されて間もない明治の初めに、絵を学ぶためフランスに渡り、10年間、滞在した。フランスでもその絵を認められた洋画の先駆者の一人である。芳翠はフランスで生活しながら、日本で洋画を勉強する人たちのことを考え、ルーブル美術館に通い、たくさんの作品を模写していた。そして帰国の際、完成したばかりの日本の巡視艦に300枚以上の絵を載せて運ぼうとした。だが、その巡視艦は、日本に辿り着くこと無く行方不明になってしまった。そのため、芳翠の滞仏時の作品は、ごくわずかしか現存していない。もし、巡視艦が行方不明になることなく、絵が日本に届いたなら、西洋美術を大々的に紹介した歴史的な展覧会が日本で開催されていたかもしれないなと思った。小原和紙の里に立ち寄り、名古屋に戻る。

10月6日。畑に、アキザキヤツシロランが出ていないか、確認しに行く。アキザキヤツシロランは、昨年見つけた腐生植物の一種で、竹林に生える。この日は、まだ出ていなかった。

10月8日。内海四天王像めぐり、秋2回目。二十四節気では寒露だが、まだ残暑。南知多中学校の裏山の多聞天を訪ねる。終わりかけのヒガンバナに、ナガサキアゲハやアゲハチョウが吸蜜にきていた。森の中はジョロウグモの巣が多い。目前の巣を払うことばかり考えていると、観察に集中できないが、下ばかり見ていると、何度でも巣に引っかかる。頭に引っかかった糸を取りながら、糸が黄金色であることに気づく。多聞天の森を抜けて、秋葉神社に向かう道沿いは、みかん畑。まだ青いミカンが、たくさんなっていた。そばでは、タンキリマメやアオツヅラフジの実も色づいていた。秋葉神社の森では、数羽のカラスが鳴きながら行き来しており、なんとなく、心に不穏なものを感じた。

10月9日。半田のクラシティと赤レンガ建物に「みんなの南吉展」を観に行く。どの展示からも南吉への親しみが感じられ、時代を越えて普遍的な物語の大切さを想った。読んだ人のイマジネーションにはたらきかけて、何か表現したくなる物語。帰る前に、ツメサキの世界さんの原画展を見るため、記念館のカフェに立ち寄った。メモ帳を買う。<中に続く>

 

 

椋鳩十を読む会・11月

奇数月第3土曜日に開催している「椋鳩十を読む会」。椋鳩十の文学作品を読み解きながら楽しく活動しています。今回は、以下の内容で行います。

〇日程/2025年11月15日(土)13:00~16:30

〇場所/昭和生涯学習センター・美術室

〇アクセス/名古屋市営地下鉄「御器所」駅下車。2番出口を出て、御器所ステーションビルを右折し真っすぐ5分ほど歩くと着きます。有料駐車場有り(1回300円)。

地図はこちら → 昭和生涯学習センターの場所

〇参加費/大人500円、子ども(小学生以下)250円 ※資料代、会場代に使用

〇内容/①話題「近況報告など」 ②課題図書「底なし谷のカモシカ」 ③歌の練習 ④読解「椋鳩十と戦争」~第四章

〇備考/・「底なし谷のカモシカ」は「椋鳩十のシカ物語」(理論社)に収録されています。・「椋鳩十と戦争」(多胡吉郎/書肆侃侃房)は昨年出版された本です。椋鳩十の生涯を追いながら、本書の内容について考えます。「第三章」は先に送り、今回は「第四章」を読み解きます。・歌の練習は、新しい曲を歌います。楽譜は当日お渡しします。・初めての方もお気軽にご参加ください。

 

11月・12月の観察会スケジュール

早いもので、今年の観察会も残りわずかとなってきました。11月・12月の観察会のお知らせです。

 

<11月の観察会スケジュール>

「第12回 椋鳩十を読む会」

日時:11/15(土) 13:00~16:30

場所:昭和生涯学習センター・美術室

◇奇数月第三土曜日に開催している「椋鳩十を読む会」。11月の課題図書は「底なし谷のカモシカ」です。「椋鳩十のシカ物語」(理論社)に収録されています。「椋鳩十と戦争」(書肆侃侃房)は、第3章を先に送って、第4章から読みます。歌の練習もあります。初めての方も、お気軽にご参加ください。

 

「秋の観察会」

日時:11/22(土) 13:30~15:30

場所:美浜町・町民の森

◇初めての観察地となる美浜町町民の森は、恋の水神社から東に1キロほどの場所にあります。神社周辺の秋の様子も観察しながら、小高い山の山頂を目指します。

 

「第29回 西味鋺観察会」

日時:11/29(土) 10:00~12:00

場所:西味鋺コミュニティセンター

◇年内最後の西味鋺観察会は、西八龍社、味鋺神社・護国院、東八龍社の三社をめぐり、木の実を観察します。

 

<12月の観察会スケジュール>

「冬の観察会 in 内海」

日時:12/7(日) 13:00~16:30

場所:南知多町内海・座頭畑の海岸

◇年内最後の知多半島での観察会です。春の観察会では、時間が足りず、訪ねられなかった南知多町内海の海岸周辺を歩きます。冬の海を眺めながら、一年を締めくくります。

 

「モンテッソーリ読書会・準備会」

日時:12/14(日) 13:00~16:30

場所:昭和生涯学習センター・第1集会室

◇来年から始める新しい読書会の準備会です。取り上げる本は「人間らしき進化のための教育」(マリオ・M・モンテッソーリ著・周郷博訳/ナツメ社、1978)。モンテッソーリ教育について関心のある方は、内容の詳細をご覧いただき、是非ご参加ください。

内容の詳細はこちら