椋鳩十を読む会・7月

奇数月第3土曜日に開催している「椋鳩十を読む会」。椋鳩十の文学作品を読み解きながら楽しく活動しています。今回は、以下の内容で行います。

〇日程/2025年7月19日(土)13:00~16:30

〇場所/昭和生涯学習センター・美術室

〇アクセス/名古屋市営地下鉄「御器所」駅下車。2番出口を出て、御器所ステーションビルを右折し真っすぐ5分ほど歩くと着きます。有料駐車場有り(1回300円)。

地図はこちら → 昭和生涯学習センターの場所

〇参加費/大人500円、子ども(小学生以下)250円 ※資料代、会場代に使用

〇内容/①話題「9月の『椋鳩十を読む会』について」 ②課題図書「椋鳩十と戦争」 ③読み聞かせ「ぎんいろの巣」 ④歌の練習

〇備考/・「椋鳩十と戦争」(多胡吉郎/書肆侃侃房)は昨年出版された本です。椋鳩十の生涯を追いながら、本書の内容について考えます。事前に読んでご参加ください。・熱田図書館、読み聞かせの会「ピッピの会」のみなさんに「ぎんいろの巣」を読んでもらいます。・歌の練習は、これまでに覚えた曲を歌います。楽譜の無い方は当日お渡しします。・初めての方もお気軽にご参加ください。

 

参加のご連絡は、mail(a)hanayasuribooks.com(相地透)にお願い致します。

 

「知多半島をめぐる」写真販売

「知多半島をめぐる」シリーズの新しい写真(PHOTOS vol.5)を公開しました。つきましては、4週間の期間限定で、「知多半島をめぐる PHOTOS vol.5」写真をプリント販売します。合わせて、1月に開催した写真展の写真も販売します(※PHOTOS vol.4の写真です。こちらは「〇」のあるものの販売となります)。

私たちが暮らす、そのすぐ隣りで、静かに息づいている自然の写真を、楽しんで頂けましたら幸いです。

 

〇販売期間/2025年6月24日(火)~2025年7月21日(月・祝)

〇販売内容/「知多半島をめぐる PHOTOS vol.5」の写真、および「知多半島をめぐる PHOTOS vol.4」の写真。

〇写真仕様/B4 正寸(257mm × 364mm)・インクジェット印刷・竹和紙

〇写真代金/1点につき、13,000円(プリントのみ)

〇額を購入される場合/1点につき、5,500円

〇送料/プリントのみの場合、840円 額装1点の場合、1,270円 ※定形外郵便+簡易書留の料金となります。額装2点以上をご注文される場合は、注文確認メールでお知らせします。

 

―ご注文からお届けまで—

①「ポートフォリオ」内「PHOTOS vol.4~5」より写真をお選びいただき、フォームよりご注文ください。

ポートフォリオはこちら

②フォーム送信後、数日以内に書肆花鑢より注文確認メールを送らせて頂きます。

③メールが届きましたら、注文内容に間違いが無いかご確認いただき、指定の振込口座に代金をお支払いください。

④お振込み後、注文確認メールに、発送先ご住所とお電話番号をご返信ください。

⑤「PHOTOS vol.5」の写真は、ご注文後の制作となります。7/7までにご注文いただいた場合、写真のお届けは7/20頃になります。7/8以降のご注文は、8/4頃のお届けになります。「PHOTOS vol.4」の写真は、ご注文を承り次第、すぐに発送させていただきます。

 

ご注文フォームはこちら

 

SCENE in the pen. 090

“Light purple little stars”

There were little flowers in the grass in the park along the muddy canal. They are called “Hinagikyou(means small balloon-flower)” because their flowers resemble Japanese ballon-flower(means Kikyou). The little flowers, shaped like stars and swaying in the sea breeze, made me feel that summer had arrived. [JUNE 2025]

Wahlenbergia marginata

 

夏がやって来ると、草むらで細い茎を揺らしている、ヒナギキョウ。1センチほどの小さな花を咲かせます。その色はうす紫色ですが、よく見ると趣深い色合いで、色名で言うなら「紅碧」が近そうです。

 

名古屋、野歩き(四)新地蔵川

3年前に始めた西味鋺観察会も、今月、矢田川での生きもの探しで27回目となる。この観察会は、地域の方々のご協力のもと、ある地域の自然の様子を通年で観察するというテーマで開催してきた。私たちが日々生活する環境には、どのような自然の変化があり、それらがどのようにつながり合っているのか、少しずつ分かってきた気がする。

西味鋺学区で特徴的な環境というと、「川」だろう。学区の南端を流れる、川幅の広い一級河川、庄内川と矢田川。それと、北端を流れ、農業排水や治水に利用される新地蔵川。

毎年夏に行う川の生きもの探しでは、ハグロトンボやコヤマトンボのヤゴ、テナガエビ、川の魚などが棲んでいることを確認してきた。調査場所の川岸に咲く花は、特徴的な外来の植物があらわれて、消える。オオカワジシャ、セイヨウヒキヨモギなど。川岸の昆虫では、クズの根元に虫こぶを作って育つ、フェモラータオオモモブトハムシなどを見つけた。矢田川、庄内川は、西味鋺学区の代表的な観察地になっている。秋には、庄内川の河畔林にいる虫たちを知るため、灯火採集も予定している。

一方、新地蔵川は、住宅街を流れる水路である。護岸された川には、柵もあり、容易には川辺まで下りられない。これまでの観察会では、川周辺の草花を調べてきた。タンポポ、スミレ、ノジシャ、カラスムギ、ヤグルマギクなど。観察会のとき、「一度、川の中に入って調べたいね」という声があり、観察会とは別に、調査をしてみることにした。

6月8日の午後、コミュニティセンターに集合し、新地蔵川へ向かう。上から川の様子を見ると、深そうである。春にはコイがたくさん来ていて、産卵行動をしていた。産卵場所にはセキショウモが繁茂しているのだが、写真を確認してみたところ、3年前には川に無かった。この2年の間に一気に増えたようだ。

東の思清橋近くの階段は、イタドリやヤブガラシが繫茂しており、道を歩いているだけでは、階段があることにも気づかない。狭い階段を一人ずつ下りる。階段の中ほどで、ハグロトンボが飛ぶ。上で待っている小学生たちが、この後ハグロトンボを捕まえていた。

胴長を履いた生まれも育ちも西味鋺のIさんと、先生が代表して川に入る。水の深さは膝上くらい。5~60センチ。川の流れは、緩やかである。川底の感触を聞くと、石の粒が矢田川よりも小さく、歩きやすいとのこと。対岸まで歩き、川底の砂利をすくいながら、生きものがいないか確認していく。「お、大きいのがいた!」と、声が上がる。見つかったのは、甲長7~8センチのモクズガニ。上からは、コイとアカミミガメくらいしか見かけることがない、街中の水路である。「矢田川にはいるけれど、新地蔵川にもいましたね」と驚きながら調査を続ける。この場所ですくえた生きものは、ほかに、ウナギの稚魚、ヌマエビ(スジエビ?)、ザリガニの子ども、ヒル。季節が変われば、まだ何か見つかりそうである。

40分ほど調べて、西側、川の下流へ移動する。西味鋺小学校近くの橋は慈恩橋という。こちらは護岸ブロックがむき出しで、階段も分かりやすい。ふたたび柵の鍵を開けてもらい、川へと降りる。今回は大人だけでの調査なので、水に入れない子どもたちから、「近くまで下りてもいいですか?」と声が掛かる。大人からのOKが出ると、嬉しそうに下りてきて、バケツを覗き込む。大人も、子どもたちも、それぞれの興味に従い自由に観察する、いつもの会とは異なり、調査や下見の際には、時間内にすべき仕事がある。年齢に幅のある小学生たちが、水に入るのは難しそうである。だが、自分たちが暮らす川に何がいるのか知りたいという気持ちは強いはず。中学生になったら、調査にも参加させてあげたい。

慈恩橋下で見つかった生きものは、ウナギの稚魚とミシシッピアカミミガメの子ども、ゴクラクハゼ。ゴクラクハゼは、ヨシノボリの仲間。河口付近の汽水に棲むが、ダム湖やため池など淡水にも棲むそう。河口からここまでやってきたのだろうか。調査のあいだに見つけた陸の生きものは、ハグロトンボ、アゲハチョウ、モンシロチョウ、ダンゴムシ、アリ、カメ7匹、ゴマダラカミキリ、セマダラコガネ、ヤマトシジミ、ガガンボ。確認した花は、ユウゲショウ、ノハカタカラクサ、オオキンケイギク、ランタナ、ムラサキカタバミ、オオカワジシャ、コセンダングサ、テリハノイバラ、クロガネモチ、コバンソウ、名前の分からない紫色の合弁花。そして水際にたくさん生えるイグサの仲間。

次回も楽しみな、第一回目の新地蔵川調査だった。

 

 

SCENE in the pen. 089

“Crab moving forward”

I went to the mouth of the river that runs near the industrial road. The sea had receded and turned into mudflat. Walked on mudflats with stones and puddles. There were many round-bodied crabs. On closer inspection, those crabs were walking forward. They didn’t notice me and hide under stones like other crabs, but moved around looking for food. [2025 JUNE]

Pyrhila pisum 

 

マメコブシガニは、潮間帯に生息するカニの一種です。その特徴は、甲羅が丸く盛り上がっており、また、歩脚の関節が自由に動くので、前に歩きます。貝などを食べる肉食性です。

 

観察会「磯の生きものをみる」のお知らせ

南知多町内海のつぶてヶ浦で観察会「磯の生きものをみる」を開催します。この場所は、知多半島でもわりと広く岩礁が残る海岸です。干潮時にあらわれる岩場や潮だまりでは、カニや小魚など、海の生きものが活動しています。海風を感じながら、のんびりと歩いて、生きものの様子を観察します。(写真は、ヒライソガニ。2022年6月撮影)

 

〇日程/2025年6月15日(日)

〇時間/13:30集合~15:30頃、終了予定 ※場合によっては30分ほど延長することもあります。余裕をもってご参加ください。

〇集合場所/南知多町内海・つぶてヶ浦鳥居駐車場 地図はこちら

※自動車でお越しの場合は、直接、駐車場にお越しください。名古屋方面からは、知多半島道路「南知多IC」で下りて頂き、内海方面へ進みます。県道52号を進み、「内海駅東」で右折。突き当りの「内海南浜田」の信号を左折。国道247号を、師崎方面へ4分ほど走ると、日本料理「大徳」さんの隣りに「つぶてヶ浦鳥居駐車場」(無料)があります。近隣には、よく似た名前の有料駐車場がいくつかありますので、ご注意ください。道のりが不安な方は、内海駅での合流も可能です。

※電車でお越しの場合は、最寄りが「内海」駅になります。13:21着の電車(内海行き)でお越しいただけましたら迎えに行きますので、その旨お知らせください。駅からは車で5~6分ほどです。

〇費用/無料

〇その他/観察会の前に、昼食をとられる方は、各自ご用意ください。トイレは近隣にありませんので、済ませてからお越しください。磯を歩きますので、ぬれても良い靴でお越しください。帽子、飲み物など、暑さ対策をお願いします。魚をすくうための網や、バケツなどがあると便利ですが、無くても大丈夫です。メモを取る場合は、筆記用具をご用意ください。

★予定の変更など/開催日の前に、予定の変更など、ご連絡をする事があります。その場合は、お申し込みいただいたメールアドレスにご連絡しますので、お手数ですが、当日の前に一度メールをご確認ください。よろしくお願い致します。

 

終了しました。ご参加いただきありがとうございました。

 

一枚の写真から(下)

6年後、病床の南吉から作品の取り扱いを託された聖歌は、戦争が終わると、すぐに南吉の童話集を刊行し始める。1948年には、疎開先の岩手から日野に引っ越して、散逸していた書簡、日記、原稿なども積極的に収集し始める。56年に大日本図書の教科書編集委員になり、「ごんぎつね」を推薦。初めて教科書に掲載される。

南吉がまだ東京にいた頃、聖歌は北原白秋の弟・北原鐵雄が社長を務める出版社・アルスに勤めていた。日野市郷土資料館が編纂した「たきびの詩人 巽聖歌資料集 一」(2020)には、1933~34年に、聖歌がつけていた日記が載っている。この日記は、アルスでの業務日誌で、日々の業務内容が端的に記されていて、毎日忙しく仕事をしていたことが、よく分かる。紙の発注や経理なども担当していたため、取引先の名前や取引額、用紙や部数など、出版に必要な具体的な数字や現実的な言葉が記されている。当時、南吉は学生だったが、聖歌は社会人だったのだなと、当たり前のことを実感する。

南吉作品を世に出すと決めてからの奔走ぶりからして、元来、聖歌は編集者気質なのだろう。編集者の仕事は、ただ文章を読んで本にすることではなく、出すべき本を出版するために、些細なことでもきちんと考えて手を抜かないことだと思う。千春たち家族の協力もあって、南吉の作品は、世の中で広く読まれるようになっていく。

聖歌が南吉に関して編集に携わった主な本は、1960年「新美南吉童話全集(全3巻)」(大日本図書)、62年「墓碑銘 新美南吉詩集」「新美南吉の手紙と生涯」(ともに英宝社)、65年から「新美南吉全集(全8巻)」(牧書店)、71年「新美南吉 十七歳の作品日記」(牧書店)など。もちろん南吉の仕事だけでなく、児童詩や作文教育の発展に寄与する仕事をいくつも掛け持っている。全国の学校から依頼されて、校歌の作詩も数多く手掛けた。

聖歌は、1973年の春に亡くなる。全集を刊行したときに新聞記事などを切り抜いていたスクラップ帳には、「南吉よ 遅い春だったなあ けれど おれはこれで せいいっぱいだったんだよ 四十年秋 花咲ける日の南吉へ」と記されていた。

聖歌が亡くなり、しばらくして、親しい友人たちから巽聖歌全集を作る声が挙がる。準備も進められたが、出版不況のあおりを受けて全集刊行は困難となってしまう。その前段階として、詩と短歌をまとめた「巽聖歌作品集(上・下)」と、別冊の回想録が制作された。没後50年が過ぎ、全集制作再開の機運が、再び高まっていくとよいな、と思う。

作品集で詩の部分を担当したのは、聖歌の活動を友人として支えた、清水たみ子。上野公園の写真に写る女性で、彼女もまた、2010年に亡くなるまで、生涯にわたり、詩・童謡などを発表し、戦後の児童文学界の発展に貢献した。90年に発表された詩集「かたつむりの詩」(かど創房)に収録された詩には、聖歌や南吉と重なるものが感じられる詩も多い。小さな生きものたちも登場する。詩を作るために大切な事柄を、自然と共有していたのだろう。80年から刊行が始まる「校定 新美南吉全集(全12巻、別冊2巻)」(大日本図書)にも貢献。雑誌のインタビューでは、ハキハキと物を言う千春と南吉はとても気があっていた、というエピソードを、楽しげに語っている。

聖歌の没後、千春は悲しみに暮れる。「野村千春展」図録に寄せられた文章で、長女の中川やよひさんは、このように回想している。「昭和48年に父を亡くして、母は自分の絵も人生も終わったと思い、先が分からなくなっておりました時にも中川一政先生に『千春の絵が本当の絵だよ』と励ましていただき『絵を描くことは生きること、生きることは絵を描くこと』として自負をし、死ぬまで筆を持ち続けることが出来たのだと思います」。毎年、春陽会と創立時から参加している女流画家協会展に出品し続けた。

土とともに、花の絵も描いていた千春であるが、亡くなった年の春陽会展に出品された絵は「吾亦紅と女郎花」だった。一見、花なのかどうかも分かりづらい、地味ではあるが昔から親しまれているワレモコウと、華やかで女性的なオミナエシ。千春の絵では、方々に大胆に伸びるワレモコウが、寄り添うオミナエシを包み込んでいるように見える。オミナエシの別名には、想い草というものもあるそうだ。

2000年12月12日、千春は、91歳で逝去する。聖歌の誕生日と同じ日に、巡り合わせのように、天国へと旅立っていった。

 

 

一枚の写真から(中)

12月26日のことは日記にも書かれている。野村家で原稿整理を手伝う南吉。年末の帰省は、中央線で帰ろうと思っていると話すと、それなら実家に泊っていったらいいと千春は南吉に提案する。日記の記述から想像すると、そんな感じである。「手袋を買いに」を書き上げて、実際に雪景色を見たいと思い、中央線で帰ると言ったのだろうか。それとも、これから訪ねる信州の雪景色を想って、物語が浮かび上がってきたのだろうか。

南吉は、翌日未明に東京を出発し、中央線に揺られて長野に至る。千春の先生でもある彫刻家の家に挨拶にいき、実家の武居家で一泊する。

東京に戻ってから、「赤い鳥」の投稿仲間であり、蒲郡に住む、歌見誠一に手紙を書く。その手紙には、帰省中に訪ねられなかったこと、雑誌の創刊を考えていたが、とん挫したことなどとともに、信州で体験した、冬の雪国の美しさが綴られていた。「白樺と、粉雪と、からまつと、谷底の人家と、あらし(山から木をすべり落とす道)と、そりと、下駄のスケートと、諏訪湖の波音と、山の星の美しさと、太いつららの灰色の空と――限りなく美しい高原の冬に、心を針のようにとがらし、感じ、悲しみ、わびぬれ、よろこび、明るみ、私は渡鳥のようないたいたしく小さい魂をともして、旅したのでした」。

1934(昭和9)年1月、野村七蔵と千春の長男・圦彦がうまれる。その知らせを聞いた南吉は、どのような想いだったのだろう。家族のように親しくする二人のあいだに生まれた男の子である。だが、2月。聖歌とともに出席した、宮沢賢治を追悼する集まりの9日後に、南吉は最初のかっ血をし、療養のため一時的に、岩滑に帰ることになる。

ふたたび東京に戻ってからの日記は、断片的に書かれていて、1935(昭和10)年の記述は3月13日から始まる。「長い間、私は日誌を怠ってきた。その間、私は、つけなければいけないと、常に、心の中でいってきた。そして、それをつけないでいる自分を、非難してきた。私がそのように、日記を重大視するのは、一つは功利的な目的のためである。それは、将来私が、小説を書くとき、私の日記が、なにかの役にたつようにと思うがためである。もう一つの理由は、日記をつけることによって、そうでもしなければ、一瞬の火花のように私の心の上に咲いて、すぐ忘却の闇に消滅する、かずかずの思想の断片を、私の意識にはっきりとのぼせ、さらにそれによって、私の生活に意義づけようとすることである(中略)。私は近ごろ、もっと真実を、せめて自分だけにでも言いたいと思っている(後略)」。

このあと、身辺の細かなエピソードや自身の悩みを日記に綴っているが、4月16日に一旦止まる。止まる直前は、家庭生活や結婚のことを考えている。再開するのは、6月5日。全集口絵の写真の話に戻ると、この年の春陽会の会期は、4月28日~5月20日。上野公園で写真を撮ったのは、この、日記が書かれていない期間である。

野村夫妻に誘われて、上野公園の春陽会展を訪ねる。晴れた公園では、親たちに連れられた子どもたちが遊んでいる。1歳になった男の子は、聖歌が手を引いていたのだろうか。千春がおんぶしていたのだろうか。春陽会は、従来の洋画の会とは一線を画し、画家個人の考えや表現を重んじて、十年ほど前に創立した。展示された400点の絵は、南吉の目に、どのように映っただろう。ゆっくりと会場を歩きながら、千春の絵を探す。飾られていたのは、雪国の絵。一年前の冬に南吉も訪ねた長野の絵である。どれくらいの時間、その絵を観ていたのだろうか。彼らはきっと、絵について、楽しげに言葉を交わしたのだろう。

このあと、南吉は一気に20篇ほどの幼年童話を書き上げる。「ひとつの火」「飴だま」「デンデンムシノカナシミ」などである。南吉は、どんなことを想って、小さな子どもたちが読むための物語を書いたのだろうか。再開後の日記は、子ども時代の思い出から始まる。

私は南吉の作品や日記すべてに目を通してはいないし、なんとなくの想像でしかないのだが、芸術家、文学者になるための物語創作ではなく、子どものために物語を書くことを、本質的な意味で意識したのは、このときだったのではないだろうか。

翌年、東京外国語学校を卒業。東京土産品協会に勤め先が決まる。卒業直前に起きた二二六事件の現場は、聖歌と見に行ったそうだ。世間に戦争の足音が聞こえ始めていた。

東京で働き始めた南吉であったが、10月に二度目のかっ血。千春の献身的な看病によって小康状態になった南吉は、四年半暮らした東京を去り、岩滑に帰郷した。<下に続く>

 

一枚の写真から(上)

巽聖歌が編集に携わった「新美南吉全集」(牧書店、1965)の第7巻の口絵に、一枚の写真が載っている。1935(昭和10)年の春、南吉が聖歌たちと一緒に、上野の東京府美術館へ春陽会展を観にいった時のものである。公園の芝生にしゃがんで座る、5人の大人と1人の男の子。聖歌は、優しい表情で男の子の腕をとって、抱っこしている。男の子は、1年前に生まれた聖歌の長男である。南吉は、写真の左端、聖歌の隣りに座って、柔らかな表情をしている。学生服に外套を羽織り、ハンチング帽をかぶって、眼鏡を掛けている。ほかの3人は、聖歌の妻である野村千春、千春の妹の夫である周郷博、童謡雑誌「チチノキ」などで聖歌や南吉とは同人仲間である、清水たみ子。写真は白黒だけれども、後ろでは子どもたちが芝生の上で遊んでいるので、天気のよい日だったのだろう。

巽聖歌の本名は、野村七蔵という。男の子の母親である千春は、長野の諏訪湖近くの出身(現在の岡谷市)。諏訪の高校を卒業した後、画家になることを目指して上京し、春陽会洋画研究所で、中川一政に師事していた。

この日、東京府美術館に展示されていた千春の絵の題は「雪景」。2009年に長野で開催された回顧展「野村千春展」(八十二文化財団)の図録に載っている。場所は、ふるさと岡谷の村だろうか。家にも地面にも、雪が積もり、家々はにぶい土色で描かれている。後に春陽会では二人目の女性会員となるが、その作風は力強く、ためらうことなく、暗い色を使う。2023年、夫妻が暮らしていた日野市で、巽聖歌の特別展が開催されたときには、「丘の上の日野ヂーゼル」という絵が展示されていた。戦後しばらくして、日野で暮らし始めたころの家の周りの風景を描いているのだが、画面の大半は、黒や茶褐色の土や畑である。絵の前に立つと荒々しい質感に驚くが、その中にぽつぽつと色が見える。中川一政は、暗さの中に銀や青や黄色を散りばめる千春を、色彩家(コロリスト)と高く評価したそうだ。

南吉の日記にも千春は登場し、最初は千春さん、結婚してからは、奥さんと呼んでいたことが分かる。聖歌に宛てて書いた数々の手紙でも、春陽会や絵のことに、よく触れていて、南吉が東京を去ったあとも、家族のように仲が良かったことが伝わってくる。

千春の絵に、ストーブを前にして座る二人の青年を描いた「ストーブをかこむ(若い人たち)」という作品がある。座る青年は、南吉をモデルにしている。後年、長女の中川やよひさんが、「どっちが南吉なの?」と聞くと、「どっちもよ」と言って、笑ったそうだ。

1932(昭和7)年に、南吉は上京した。聖歌は、遠くからやってくる弟のような南吉のために、わざわざ学校に通いやすい場所に家を借り、一緒に暮らし始める。4か月後、聖歌と千春が結婚することになり、二人を気づかった南吉は学校の寮に移る。幾たびか住むところを替えるが、野村家には頻繁に顔を出し、家族同様の生活を送っていた。

南吉は、自分の文学を理解し、相談できる兄のような聖歌と、地方から芸術家になるために上京し、熱心に絵の勉強をする千春に、この上ない刺激を受けていたことだろう。志半ばにして、地元に帰らなくてはならなくなった南吉は、東京で暮らしていた頃が、自分がもっとも良かった時代と回顧する。何もかもが真新しく、自分と同じような将来を想い描く仲間たちに囲まれた青春時代が、最良の時代と思えるのは、現代でもそれほど変わらないような気がする。多くの時代に日記を残した南吉だが、東京時代の日記は、完全には見つかっておらず、断片的である。上京した年の日記は、見つかっていない。残っているものには、上京して2年目、1933(昭和8)年の日記がある。この年の12月、男の子がうまれる、ひと月前の千春のことが、日記に書かれている。「小雨の中を巽のとこへ行った。奥さん一人が、生まれてくる赤ん坊の着物やふとんを拵えていた。真赤な着物がうつむいた若い奥さんの顔に映えていた。自分の体内から生まれてくる赤ん坊の為に用意をする気持ちは一体どんなものであろうかと思った。外套のボタンをつけて貰って帰った」。

同じ月に、南吉はある物語を書き上げる。「手袋を買いに」である。雪の降る夜に、子狐が手袋を買いに街へ行く。母狐は、人間は危ないから、手袋を買うときにはこちらの手を出しなさいと言い、子狐の片手を人間の手に変える。心温まるお話でもあり、人と動物の関係についても考えさせられる。書き上げたとされる日は、12月26日。クリスマスの翌日。「手袋を買いに」は、南吉の物語の中で、もっとも翻訳されている物語でもある。<中に続く>

 

SCENE in the pen. 088

“Grasshopper with buzzing sounds”

It is now early summer and firefly season. Some time after sunset, I went to the rice fields and saw more 20 fireflies flying around. A very intense grasshopper noise was heard, along with a chorus of many frogs. The species that appear in autumn are often encountered. It was pleasing to find that the species that appear in early summer have not yet been lost. [JUNE 2025]

Xestophrys javanicus

 

ヘイケボタルがあらわれる田んぼのそばで、耳に痛いほどの激しさで鳴いていたのは、シブイロカヤキリ。カヤキリが秋に鳴くのに対し、シブイロカヤキリは、晩秋に羽化してすぐ越冬し、春から初夏にかけて鳴きます。