三輪神社から揖斐川沿いの国道417号線を山の方へと向かう。しばらく走ると、道の駅「星のふるさとふじはし」に到着。そのまま道を進めば奥いび湖があり、徳山ダムがある。県境である冠山トンネルを越えると、福井県池田町に入る。その先は越前市がある。山を抜けて和紙のふる里を過ぎると武生盆地。かつては徒歩で山道を歩いていくしかなかったことは容易に想像できる。現在は、車で一時間ほど走れば越前まで行ける。
道の駅に着いたのはお昼時で、日帰り温泉に来た人たちや、行楽の家族、年配のご夫婦、バイクでツーリング中の人たちなど、にぎやかだった。目的地の徳山民俗資料収蔵庫は昼休憩中だった。入ることができるのは13時から。屋台でおにぎりを買ってきて、ロビーに置いてあった少し懐かしい感じのするアップライト・ピアノの前で食べながら待つことにした。
収蔵庫の入口には徳山村のかつての生活の様子や水が溜まっていく過程が、写真パネルで展示されていた。受付にいた職員の方が声を掛けてくださったので収蔵庫の中に入る。
ここに収蔵されているのは、国の重要民俗文化財である徳山の山村生産用具5890点。その一つ一つが木製の棚に丁寧に分類されて並べられている。狩猟の用具、漁労の用具、生活のための用具。農具や鋸。紙漉きの道具も漉き舟や干し板があった。他には、養蚕が盛んだったので、養蚕用具や紡織用具も収蔵されていた。そうした用具の一つずつには使用された木の名前が記してある。思い出してみると、地元で使われていた用具をひと揃え置いてある展示はよく見かける。それはそれで当時の生活が伝わり、素朴でよいのだけれども、この収蔵庫の量と保存状態のきれいさは圧巻である。ずっと見ていたくなる。
用具に使われている樹種は多様である。代表的なのは、トチノキ。他の木では、クリ、スギ、ヒノキ、ブナ、ケヤキ、ミズナラ、ミズメ、ホオノキ、カツラ、サワグルミ、シナノキ、クロモジ、マンサク、サクラ、イタヤカエデなど。曲げ物の代りとなるケヤキの樹皮は、一年のうちでもごくわずかな時期にしか取ることができない。木に水が一番よく上がってくる6月頃。根から枝葉へと運ばれる水が、樹皮との間に層をつくり、うく。そうすると樹皮が幹から離れやすくなり、きれいに樹皮をはぎ取ることができる。木材だけでなく、藁も用途によって数種類あるわらじや雪靴など、さまざまな用具に使われた。
広い収蔵庫内をひと通り歩いたが、紙漉きの様子を具体的に伝える展示は見あたらなかった。帰ってから調べてみると、滋賀との県境にある坂内(さかうち)村に坂内民俗資料館があり、ここは和紙の生産が盛んだったので、紙漉きの部屋が保存されているそうだ。けれども、現在も資料館があるのかどうかは、よく分からなかった。
坂内での紙の生産は、美濃和紙よりも早くから行われていて、こちらから美濃へと和紙の製造方法は伝播していったと言われている。地図を確認してみる。越前から伝わってきたとしたら、徳山経由で南下したということだろう。坂内よりも西から入ってきたとしたら、滋賀方面の紙漉きの里から伝わったということになる。徳山では、坂内の北にあるホハレ峠を越えて、昭和の頃まで近江の托鉢僧がやって来ていたという話なので、交流はかなりあっただろうが、近江方面で現在も伝わる和紙の里を知らない。となると、そもそも紙漉きの発祥が坂内ということなのだろうか。雪深い土地の苛酷な環境下で漉かれた美しい紙が、その製造技術とともに越前や美濃へと伝わったということなのかもしれない。
徳山村のルーツは旧石器時代に遡る。1万年前のナイフ形石器が見つかっており、黒曜石製のものも出土している。縄文遺跡は多数見つかっている。土器の系統は、北陸系、瀬戸内系、東海系、信濃系が混在。さまざまな土地から人が集まってきたことが分かる。同じように旧石器から縄文にかけて人が暮らしていた伊那谷では、天竜川沿いに弥生、古墳時代の遺跡が見つかっているが、徳山では、弥生前期の遺跡が見つかってはいるが、古墳時代の遺跡は無く、人が暮らしていたという明確な証拠はそこで一旦、途絶える。
江戸時代以前は、木を伐り倒すということは、決してしなかったそうだ。木の一部を生活の材とした。そうした話から思い浮かぶのは、山の民という言葉。弥生以降の明らかな人の営みが残っていなくても、人々はそこに暮らし続けていたのではないだろうか。かつての山の暮らしに想いを馳せ、職員の方にお礼を言い、外に出る。早くも傾き始めた陽射しのもと、行楽日和の道の駅を後にして、春日村へと向かった。<下に続く>
