ルーツ・オブ・ソルト(下)

年魚市潟(あゆちがた)は、かつて、熱田の南から知多半島の付け根にかけて広がっていた干潟。万葉集にも詠われている。「年魚市潟潮干にけらし知多の浦に朝こぐ舟も沖による見ゆ」「桜田へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る」。桜田は、名古屋市南区に地名が残る。年魚市潟は、名古屋市緑区の鳴海の宿では、鳴海潟とも呼ばれていた。

知多半島の塩田というと、三河湾側の東浦町での塩づくりがよく知られている。平安時代から知られた生道塩(いくじしお)の産地とされ、江戸時代には知多半島と西三河の境である境川沿いに塩田が広がっていた。対岸の吉浜との渡しがあった藤江にも塩田があったが、西三河と同じように東浦町の塩田も、19世紀から20世紀へと流れる時代において、水田になっていった。

伊勢湾側はどうかというと、東海市にも海沿いに塩田があったようだ。鳴海から知多半島西側の海沿いを通って南知多町大井に至る、常滑街道という道がある。常滑街道沿いの横須賀にある諏訪神社には、「年魚市潟潮干にけらし~」の江戸時代の歌碑があるが、すぐそばの地名に高横須賀塩田とある。江戸時代、干潟と塩田の風景に心惹かれた人が、さらに1000年の昔に、同じように年魚市潟の風景に心惹かれた万葉歌人の歌を残したいと思ったのだろう。境内に祀られている香良洲(からす)神社も干潟に縁のある神社。

熱田区、南区、緑区、東海市。年魚市潟がどれだけ広かったかが、よく分かる。忘れてはいけないのは、荒立つ波の海ではなく、穏かに波が寄せ、満干を繰り返す潟ということ。現在、日本全国を見渡しても、広い干潟が見られる場所は、ごくわずかである。

塩付街道は、御器所辺りから南下する。熱田台地から見ると、真東になる。この街道は、笠寺台地と呼ばれる緩やかな台地の上にある。笠寺台地には、旧石器時代に始まり、弥生時代から古墳時代にかけて大きなムラが栄えた見晴台(みはらしだい)遺跡がある。名古屋市見晴台考古資料館では、遺跡の成り立ちや、市内の遺跡の発掘情報などを知ることができる。

見晴台からもう少し南下したところ、笠寺台地の縁にある星崎が街道の終点であり、塩の道としては始点となる。塩付街道は、この星崎周辺の村々に暮らす人たちが、年魚市潟でつくった塩を伊那谷に運ぶための道なのである。

江戸時代の尾張名所図会に「星の宮」として描かれている星宮社は、星崎の旧村社である古い社。創建年代は、よく分かっていないようだが、飛鳥時代とも言われるそうだ。尾張名所図会をよく見ると、社の裏手の小高い丘に「イナツチヲキナノ社」と記されている。イナツチヲキナは、伊奈突智老翁と書くそうで、名古屋市の公式ウェブサイトには、「縁起によればこの地に塩づくりを教えた人である」と説明されている。

伊那は、伊奈とも書く。文字から素直に考えたら、「伊奈から来た土のことをよく知る翁」ということではないだろうか。つまり、江戸時代に名所図会に描かれるほど、美しく広大な塩田風景のルーツとなった製塩技術をこの土地の人びとに伝えたのは、伊那谷から来た人だったと考えられる。自然の恩恵をかたちにする技術を、土地の人びとに伝授した人が、感謝の気持ちとともに神社に祀られるというのは、越前に紙漉きの技術を伝えた岡太(おかもと)神社の川上御前をはじめ、各地によく見られる。

そうなると、伊那谷には塩水から塩をつくる技術があったということになるが、思い出されるのは、大鹿村の塩。大鹿村のある中央構造線の谷には、塩水が湧き出る場所がいくつもある。近隣の遺跡からは、製塩土器も発掘されている。

ここまでが、フィールドワークと資料から見えてきた事柄をつなぎ合わせて考えた、塩についての思索である。古の海と山の民について考えられることは他にもあるが、筋道を立てて書くには、もう少し確認が必要になるので、そろそろ終わろうと思う。

なぜ老翁が星崎にやってきたのか、いつやってきたかは、私には知る由も無いけれど、思うのは、山と海の民の交流に主従関係は無かったのではないだろうか。自然の理をよく知っていて、村が豊かになる仕事を生み出してくれた山に住む人びとへのお礼から始まったのが塩の道だったのではないかと思う。争いに明け暮れた為政者の栄枯盛衰は、後世まで饒舌に語られるけれども、多くを語らない善意による交流が忘れ去られていくのは、世の常。そのような古の善意の欠片を、足を使って拾い集め、つなぎ合わせてみる。すると、語り継がれる歴史に寄り添う人間本来の精神文化が、浮かび上がるのではないだろうか。