今年の2月。ざぜん草を見るために嵯峨坂の自生地を訪ねた後、昨年、時間が足らず入ることが出来なかった飯田市考古資料館を、あらためて訪ねることにした。
飯田市考古資料館は、上郷(かみさと)地区にある。この周辺は、縄文時代から弥生時代の遺跡が密集しており、今も新しい発見が続いている。また、5世紀後半~6世紀前半にかけて造られた前方後円墳、帆立貝形古墳は、飯田古墳群として史跡指定されていて、全国の流れに違わず、この地にもヤマト王権による政治支配が及んでいたことが想像される。
古墳群が造られた時代の以前はどうかと言うと、4~5世紀の遺跡では、東海地域との繋がりが強いとされる前方後方墳が、3基確認されている。多くの墓は方形区画で盛り土が低いものであるため、弥生時代の暮らしがそのまま続いていたと考えられている。
展示室に入り、目を引くのは、野底山(のそこやま)で発見されたヒノキの古木。年輪年代法の結果、弥生時代のものということが分かっていて、近づくと、ほのかに匂いがする。弥生人も嗅いだヒノキの匂いを嗅ぎながら、伊那谷に人が住み始めたのは、いつからだろうと思う。答えはすぐに、展示解説が教えてくれた。3~5万年前。つまり旧石器時代からである。
飯田山本では、竹佐中原(たけさなかはら)遺跡、石子原(いしこばら)遺跡という旧石器時代の遺跡が隣り合って見つかっている。二つの遺跡は、同じ旧石器時代の遺跡なのだが、成立していた時代が異なる。それは、石器の材料となっている石の違いから分かる。石子原遺跡から見つかった石器は、赤石山脈の石が使われている。赤石山脈は、少し離れた天竜川を越え、伊那山地も越えた、さらに先。遺跡付近では採取できない。天竜川近辺から持ってきたのだろうと考えられている。一方、竹佐中原遺跡は、出土する石器の傾向によって遺跡Ⅰ、遺跡Ⅱと分類される。Ⅰの石器には遺跡から少し南に下った阿知川で採取されたと考えられる、ホルンフェルス(変成岩の一種)という石が使われている。Ⅱはより進んだ石器文化で、Ⅰでは見られない黒曜石を用いた局部磨製の石器や、石器を研いだ砥石も見つかっている。
人類が日本列島に至り定着するまでの流れを大まかに整理してみると、現生人類の祖先、ホモ・サピエンスの最も古い化石は、20万年前のものである。アフリカで暮らしていた人類は、5~6万年前に一部の集団がアフリカを出る。ユーラシア大陸を東進した人類は、大陸の端にたどり着く。最終氷期に海水面が低下したため、シベリアから地続きになっていた日本列島に入り定着したのは、およそ3万年前とされている。石器を改良しながら、狩猟採集を続けた人類は土器を作るようになり、その模様から縄文人と呼ばれ、日本独自の文化を生み出していった。集落を作り、貝塚を形成し、集団生活を営んでいた縄文人は、3000年ほど前に日本列島にやってきた弥生人たちとも交流を始める。そして文化や技術が混ざり合い、狩猟採集と稲作、両方からの恵みを享受する生活様式が確立されていく。
下伊那地域では、約5000年前、縄文中期の大規模集落や、拠点集落が数多く見つかっている。弥生時代の遺跡も含めると、約550か所。天竜川流域は河岸段丘なので、川のそばの低位段丘には弥生遺跡が分布しているなど、土地を活かした集落形成が見て取れる。
つまり、伊那谷という土地は、日本列島に人類が定着した最初期から人の営みがあり、現在に至るまで、脈々と暮らしがつながっている地域。縄文人・弥生人のルーツという点は、諸説あるだろうが、土地に常に人がいて、他地域と交流しながら、独自の文化を築き上げた土地であることは確かだろう。椋鳩十が魅かれた山の民・山窩についても、考古学的観点から考えてみると、どのような人々だったのか、より具体的に見えてくるかもしれない。
江戸時代、尾張・三河で作られた塩は、山間部の文化圏である伊那谷に運ばれていた。人びとの交流が始まったのは、いつ頃からなのだろう。知多半島の小桝遺跡、西三河の南霞浦遺跡で塩がつくられていた頃から、伊那谷にも運ばれていたのだろうか。
伊那谷から名古屋へ向かう塩の道を、運ぶときと逆向きに辿ってみる。伊那谷から足助までは、平谷、根羽、稲武を通る。根羽、稲武は古代、西三河の加茂郡に含まれていたそうなので、西三河は、ずいぶん広かったようだ。足助からは、巴川沿いには進まず、山の裾へ下りていくと、力石に出る。矢作川沿いを豊田市の中心地である挙母まで行き、濃尾平野を西へと進む。名古屋市天白区の平針を通って、天白川をわたり、観察会をしている八事裏山、音聞山を越えると川名に出る。塩の道は、ここで塩付(しおつけ)街道と交わる。〈下に続く〉
