名古屋、野歩き(一)

以前、長く編集の仕事をされている方に「HANAYASURI」を数冊お渡ししたところ、後日メールで感想をいただいた。「HANAYASURI」の内容と編集方針を読んで、地球環境に対する現代の矛盾を指摘して頂いた文章の中で、こんな言葉が印象的だった。「野歩きでの発見のように、あらかじめ計画されていない世界のなかで、意外な発見がある暮らしがふつうになれば、消費も抑えられるし、結果的に、地球環境に優しい世界になるはずなのに」。

今年から、名古屋のまだ緑が残っている場所を歩いてみる、というテーマを掲げた。地図を見ながら市内で緑が残っている場所を考える。人口220万人を超える大都市。住んでいると、あまり大都市を感じることがないのだが、東京23区、大阪市、横浜市に次いで人口が多い。西日本と東日本を、さまざまな側面において繋ぐ役割をもつ土地、とも言える中部。名古屋は、その経済的拠点都市。経済拠点となる都市周辺の宅地開発は、1970年代、高度経済成長期以降、変わらず続いている。名古屋も御多分に洩れず、である。

名古屋に残っている緑地について調べてみると、まず、私たちの拠点である熱田には熱田神宮の森がある。熱田区は2つの大きな国道が交わる交通の要所だが、神宮の森や高座結御子神社の森、断夫山古墳、白鳥古墳など、市内中心部にしては、まだ緑が残っている。ほかの地域を見ると、大きく緑が残っているのは東部丘陵と呼ばれる一帯。東部丘陵の緑は市内東部の南北にわたって残っている。北から見ていくと、守山区には東谷山と小幡緑地がある。昨年末に参加させて頂いた、ある研究会では、東谷山周辺の植生は絶滅が懸念される植物が見つかるなど、全体的に回復傾向にあるとのお話だった。一方で、小幡緑地の雑木林や田んぼのある一区画は、宅地開発の計画が進んでおり、そこを拠点に自然の観察をされている方たちが土地の稀少性を訴え、一部が残されることになった。少し南に下ると、千種区、名東区、天白区、昭和区と4区にまたがる、東山がある。ここには丘陵地を活かして市の植物園が整備されている。これだけ広大な面積を活かした公立の植物園は大都市では他に類を見ないそうだ。周辺には「一万歩コース」と名付けられ、東山の森の林縁を歩ける遊歩道があり、もともと名古屋や近郊に住む人々の身近にあった自然環境を感じることができる。名東区の東の端には猪高緑地がある。塚ノ杁池をはじめとする大小いくつかのため池があり、緑地の自然を守る取り組みも長い。地形を活かして、毎年、田植えもされている。市内南東部の天白区、緑区には、天白公園、相生山緑地、新海池公園、大高緑地、熱田神宮の摂社である氷上姉子神社といった、大小の緑地や森が点在する。

東部丘陵以外では、庄内川・矢田川流域に河畔林がまばらに残っている。また、街中の神社を訪ねてみると、小面積でも、市の特別緑地保全地区に指定されている雑木林を見かける。保全地区は立ち入ることができないところもあるが、周囲と境内を歩くだけでも、どのような木々が森をつくっているかが分かる。アラカシやシラカシ、シイ、アベマキなど森を育む糧となるドングリの木。エノキ、ケヤキ、クスノキなど人の暮らしのそばにある木。モチノキ、ヤマモモなど鳥が実をついばむ木。サカキ、ヒイラギ、マサキなど神事に縁のある木。周囲はアスファルトに覆われた道路。この小さな森を求めて、鳥がやってくる。だが小さな森は、カラスのねぐらになっていたり、体が大きく喧しいヒヨドリに小鳥たちが委縮していたり。点在する神社の森をつなぐ緑が、もっと増えると良いのだけれど、と歩きながら考える。市内で獣の生息地は、おそらくわずかだろうが、ある地域にはキツネが定住しているという話も聞く。人間優先の大都市でも、強かに生きる場所を見つけているのだろう。

大都市に暮らす身としては、安定した都市生活が営まれながらも、そこを十分な生息場所としていた昆虫や魚、は虫類や両生類、鳥や獣も一緒に生きられる環境を、どうすれば取り戻せるだろうと想う。昨年、名古屋市は、政令市として初となる「ネイチャーポジティブ宣言」を表明した。2030年までに自然環境の損失を食い止め、回復軌道に乗せることを掲げる。ネイチャーポジティブの理念が、早急にたくさんの人々に伝わり、損失を無くし、回復へと向かう取り組みが、積極的に実行されることを期待している。

 

奈良に漂う(下)

奈良に来る少し前に、入江泰吉記念奈良市写真美術館が編纂した「回顧 入江泰吉の仕事」(光村推古院、2015)を読んだ。未発表作品から代表作まで367点の写真が収録されており、写真家の仕事と生涯を辿ることができる、とても良い本だった。その中で「白毫寺村」という地名がたびたび登場し、なんとなく気になっていた。お寺があるのだろうということは分かるが、読み方も分からなかったので、調べてみると「びゃくごうじ」と読む。「白毫」とは、仏の眉間に生える白い巻き毛のことで、仏像では丸いふくらみで表現される。仏教美術では如来と菩薩につく、とのことだった。

新薬師寺を後にして、奈良盆地の東の端を南北に通る「山の辺のみち」を歩く。この道は奈良市から南の天理市、桜井市に至る。その先には万葉のふる里である飛鳥(明日香村)があり、今の時期は古より桜の名所として知られる、吉野の山が連なる。

白毫寺に至るまでの道を歩く。すぐそばの山並みは木々の新緑がパッチワーク状に色が重なり、青空を背景にして、目にやさしい。新緑は日に日に色を変えていくので、この時期にしか、この美しさを楽しむことはできない。白毫寺の集落に入っていく。観光客とも町の人ともすれ違わない、閑かな道。土塀をもつ民家が多く、ところどころ大きく崩れている。そこに新しい住宅も混ざっているため、崩れている壁は目立つ。お寺への看板があらわれたので、指示に従い、道を折れると、先に山を上る石段が見えた。石段に向かって歩いていると、鳥の鳴き声がして、目の前を二羽が過った。止まった民家の瓦屋根を見ると、青い色の羽にえんじ色のお腹。もう一羽は、灰色がかった茶色。イソヒヨドリのつがいだった。

白毫寺は高円山の山麓にある。石段を上った境内からは市街地が一望できた。椿の木が多く、「五色椿」と呼ばれる樹齢450年の木にも花が咲いていた。初夏を思わせるあたたかな陽光。ゆっくりと境内を散策する。小径に並ぶ石仏を眺め、本堂、宝蔵に入った。小一時間いて、立ち去る前に最奥にある万葉歌碑を見に行った。「高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに」。笠金村という人が詠んだ万葉の歌。白毫寺は秋になると萩の花が境内を彩る。この石碑を揮毫したのは国文学者である犬養孝。1200か所にのぼる万葉ゆかりの地を訪ねて歩き、各地の万葉の風土を守ることに生涯をかけた人物だった。

高畑に戻り車を動かして、写真記念館の駐車場に止めた。記念館に入ると、若手写真家の企画展と、入江泰吉の写真を紹介する展示「塔のある風景」の垂れ幕が目に飛び込む。階段を下りて、受付で入館料を支払い、展示室に入る。天井の高い広い展示空間に並ぶ「塔」の写真。写真のサイズは大きく、一点一点がゆとりをもって、展示されている。大仏殿の塔や室生寺の塔。奈良大和路を歩き続けた写真家が、四季折々に向けたまなざしが垣間見える。のんびりと、緩やかに鑑賞の時間が流れていく。若手写真家の企画展示を見て、図書室では棚に並ぶ古今東西たくさんの写真集を手に取る。これだけ写真集が揃う施設は稀である。

一般展示室では地元写真家の方たちが作品を発表していた。住所と名前を書くと、「写真を撮られているんですか?」と聞かれたので、知多半島で写真を撮っていることを話す。展示を見ると、女性のグループで、奈良を中心に写真を撮っているようだ。名古屋とは違う関西らしい商店街の雰囲気や、昨日訪ねた奈良公園の様子が見ていて楽しい。石見の神楽舞の写真を撮っている方もみえたので、自身のテーマをもとに各地で撮影しているのだろう。話しかけてくださった方は、すぐに検索したそうで、新美南吉の話や、詩の話、地域を決めて写真を撮ることなどの話をした。ふと思いついて「いろんなところで、『鹿に注意!』という看板を見たんですけれど、奈良公園以外でも出会うんですか?」と聞いてみると、少し笑いながら「どこにでもいます。春なので今はよく動いていると思います」。生きものとの共存共生を思うが、それだけ看板が多いということは、つまり、シカによる人への被害、経済的な被害も甚大なのだろう。来訪者アンケートを書いて、お礼を言い、部屋を出る。最後に学芸員の方に「in the pen.」を寄贈して、館を出ると、夕方の4時になろうとしていた。

帰りは、山を越えて三重県に至る県道で山添村まで行き、名阪国道に入った。伊賀上野、亀山、鈴鹿、四日市とインターの出口看板を見て、帰宅時で渋滞している伊勢湾岸道路の東海インターで下りる。いつも観察や撮影から帰る時間と同じ時刻に家に着いた。

 

奈良に漂う(上)

毎日生活をしていて、新聞や雑誌、本の表紙、商品のパッケージやインターネットの記事など、見ない日は無い、と言っても過言ではないほど、写真は身近に溢れている。しかし、ある有名な写真とともに「撮った人を知っていますか?」と聞かれると、なかなか、名前が思い浮かばないのではないだろうか。何かで知った写真家の名前を覚えていたとして、その写真家が撮った一枚を具体的に思い浮かべることも、やはり、なかなか難しいと思う。

日本全国を見渡しても、写真家を取り上げた公立の記念館や美術館は多くない。すぐに思い浮かぶのは、酒田市の土門拳記念館、鳥取県伯耆町の植田正治写真美術館、石元泰博フォトセンターを常設している高知県立美術館などがある。現在、写真を使った表現活動をしている人たちの作品を取り扱うギャラリーは、大都市、とくに東京に集中している。その一方で、かつて人々に愛された写真家たちの記念館は、大都市に近いとはとても言い難い、各地方の市町村にある印象だ。

奈良の仏像や風景写真を撮影した写真家・入江泰吉(1905~92)。奈良市には8万点を超す写真のほとんどを所蔵している入江泰吉記念奈良市写真美術館がある。終戦前の大空襲で焼け野原となった大阪から、出身地の奈良に戻り、生涯にわたり奈良大和路の写真を撮り続けた。それらの写真は、多くの書籍や観光用のポスターに使われ、古都・奈良のイメージを創り出し、人々の心に沁み込ませた。ただ、あまりにも広く用いられたため、現代では「ポスター写真」と揶揄されることもあるが、そのような言葉で括ってしまう感性が私には、よく分からない。間違いなく、「地域」を撮ったパイオニアの一人である。

4月、初夏を思わせるような日が続いていた。3月半ばから一ヶ月ほど慌ただしくしていたので、少し休息をとろうと思い、朝から車で奈良に向かった。目的地は入江泰吉旧居と写真美術館である。新名神高速道路を使い、滋賀県の草津から京都府へ入り、宇治の山々を越えると山城盆地に至る。開けた盆地を南に下り木津川を越える。途中、国立国会図書館関西館に立ち寄り、平城京跡を眺めて、奈良市街地に着いた時には、2時を過ぎていた。

外国人観光客で賑わう、ならまちは通らずに、近鉄奈良駅から北に歩く。奈良女子大学や県立美術館のある辺りを東へと折れる。東大寺の西の端、水門町と呼ばれる地区に旧居はあった。カメラを手に持った観光客が行き来する往来から瓦葺きの木戸をくぐり、庭へと入る。靴を脱ぎ、母屋に上がり、入館料を支払う。往来の喧騒は聞えなくなっていた。畳敷きのそれぞれの部屋は、どこにいても家の横を流れる水路のせせらぎが聞こえてくる。部屋に飾られた写真や、書棚にぎっしりと並ぶ所蔵本を眺めていると、鳥の声もよく聞こえてくる。家の建っている環境が、中にいても感じられて、とても心地よい。飾られた小さな額に写る写真家の表情は穏やかで、同時代に同じように仏像を撮影した土門拳を「剛」とするならば、入江泰吉は「柔」という言葉が合う気がする。ソファーに座って、76歳の時に発表した大型本の写真集「花大和」(保育社、1976)を1ページずつ、めくっていく。晩年は野に咲く花の写真を撮っていたそうだ。時代が流れても変わらない花の姿がきれいだった。母屋を後にして、庭を歩くと、スミレやムラサキケマンの花が咲いて、ネコノメソウはもう種子ができており、ウラシマソウは、まだ仏炎苞があらわれていなかった。

翌日、写真美術館に立ち寄る前に、周辺を歩くことにした。写真美術館があるのは春日大社の南側、新薬師寺や鏡神社などの寺社がある、高畑という地区。付近のコインパーキングに車を止めて歩き始める。閑静な住宅地の路地を歩く観光客はわずかで、青空の下、桜の花びらが風に舞っている。周辺の民家は石垣と土塀で囲まれている家が多く、その隙間ではスミレやヒメウズの花が咲いていた。

十年以上前に一度、訪ねたことがある新薬師寺の本堂に入る。本尊の薬師如来坐像は大らかではあるが、しっかりと意志を持った表情に見える。周囲には護衛する十二神将立像が囲んで並ぶ。それぞれの像は干支を象徴している。自分の干支である申の立像の前に立ってみる。兜をかぶり、両手で払子を持った立像がこちらを見ていた。観る者を鼓舞するように武具を持ったほかの立像とくらべて、一見地味でもある立ち姿に、自分の進む道を問われているような気がした。<下に続く>

 

 

ブログの内容について

月刊「HANAYASURI」休刊にともない、当面のあいだ、本ブログで以下の内容を更新していきます。

〇観察会情報=カテゴリー「イベントのお知らせ」

〇四季折々の知多の自然のこと=カテゴリー「SCENE in the pen.」

〇エッセイ=カテゴリー「エッセイ」

更新の頻度は時期によって変わりますが、観察会情報は下旬~翌月上旬にかけて、エッセイは1日頃と15日頃の更新を予定しています。ブログ版エッセイは、観察会やイベントなどで配布するプリント版から選んで掲載していきます。また、2022年にvol.72で中断していた「SCENE in the pen.」を再開します。知多半島における身近な自然の魅力を写真とともにお伝えしていきます。相地透ポートフォリオも更新していきますので、よければ覗いてみてください。引き続き、自然や文学について、楽しみながら考えていこうと思います。