塩について考え始めたのは、いつ頃からだろう。記憶の糸を手繰ってみる。
5~6年前、南知多町内海のつぶて浦で、磯の生きものの観察会をしていたとき、岩場の潮溜まりで、6~7センチくらいの棒状の土器の欠片を拾った。観察会に参加されていた方に、「製塩土器じゃないですか」と教えてもらい、知多半島では古代、海岸で塩づくりが行われていたことを知った。
東海市郷土資料館には、「知多式」と呼ばれる製塩土器が展示してある。見つけた土器の欠片を持って資料館を訪ねると、「きれいな状態ですね」と言われ、製塩土器や塩づくりのことを教えてくださった。拾った土器の欠片は、ろうとのような形をしている製塩土器の椀の下の棒状部分。棒状の部分があることで、砂地に土器を差し込んで安定させた。つぶて浦のすぐそばには、古墳時代から平安時代にかけての小枡(こます)遺跡があり、須恵器や製塩土器が、多数見つかっている。知多の海岸でつくられた塩は、奈良の都に税として納めるために運ばれていた。つぶて浦では、製塩土器の一部がよく見つかるそうだ。拾った土器は、日付を記した袋に入れて保管してある。
昨年の春、西尾市にある吉良饗庭塩(あいばじお)の里を訪ねることにした。その頃は、塩の道について調べていて、尾張・三河から伊那谷へつながる塩の道は、いくつかあることを知った。ただ、それよりもまず、そもそも塩は、海沿いのどこら辺で、どのようにして作られ、伊那谷まで運ばれて来るのだろうと思い、塩づくりについて知ることができる資料館を探していたところ、西三河の海沿いにあるこの施設を見つけたというわけである。
西尾市までは、まず新堀川をわたり、南区へ入り、国道23号線に乗る。星崎、大高、豊明を通過すると、西三河に入る。刈谷市、知立市、安城市を通過して、矢作川をわたると西尾市。伊那谷方面から続く三河山地の果て、幡豆(はず)山塊がすぐそばに見える。小山の緑を眺めながら田んぼの広がる道を行くと、海が見えてきて、塩の里があった。
西尾市の市域は広く、この辺りは、旧吉良町になる。吉良というと、吉良上野介が思い浮かぶ。一緒に来た方と話をしていると、「赤穂浪士の討ち入りも塩が原因でしたよね」と言われ、なるほどと納得する。赤穂は、瀬戸内の塩の産地。現在の自治体名で言うならば、兵庫県赤穂市。瀬戸内の塩づくりの起源は古く、弥生時代の藻塩(もしお)焼き(藻塩法とも言い、海藻を利用して塩をつくる)に始まる。知多半島で出土する知多式製塩土器も、形状からルーツは瀬戸内の製塩土器とされている。弥生から古墳時代へと時代が下るにつれて、製塩技法は伝播し、北は北陸、東では知多半島、渥美半島に伝わったというのが定説である。
西三河では、塩は入浜式(いりはましき)と呼ばれる塩田でつくられていた。入浜式塩田は、江戸時代に考案された大規模な塩田による塩づくり方式。潮の干満を利用し、海水を塩田に取り込む。潮が引き、水分が乾くと、塩の結晶が砂に付着する。その砂をオシエブリ、カキエブリと呼ばれる道具でつぼにかき集める。かき集めた砂に海水を掛けて、より濃い海水を採り、煮詰めると、塩ができる。入浜式は、潮の干満が一定で穏やかだからできる。三河湾、伊勢湾などの内海に面した地域は入浜式だが、波の荒い遠州灘沿岸では揚浜式(あげはましき)塩田になる。揚浜式は、人力で海から海水を汲み上げてきて、塩田に海水を撒く。
吉良でつくられた塩は伊那谷にも運ばれていた。山間地へと運ぶためには、矢作川、矢作古川を利用する。上流の巴川流域の平古あたりまで運び、陸路で、飯田街道の宿場である足助に運び、稲武、根羽を通って、阿智、そして飯田へと運ばれた。
江戸時代に各地で繁栄した塩田だが、明治後半から昭和の初めにかけて、全国の塩田が整理、廃止された。米の生産を増やすため、各地の塩田は水田へと姿を変えていった。
この辺りの古代の塩づくりはどうだったのか考えてみる。現在の矢作川下流域、碧南市にある南霞浦(みなみかほ)遺跡では製塩土器が見つかっている。遺跡は6~7世紀、古墳時代のものと考えられており、知多半島と渥美半島の土器の特徴があらわれているそうだ。知多、渥美の人びとと交流しながら、より良い塩づくりを模索していたのだろうか。矢作川の流路は、江戸時代に現在の流路に変更されていて、それ以前の海へ至る流路というのは、ずいぶん複雑だったようで、昔の河道跡が調査されている。その頃から川を使って山間地域にも塩が運ばれていたのだろうか。〈中に続く〉
