繋・宮沢賢治(上)

宮沢賢治は、日本でもっとも知られた童話作家の一人といっても過言ではない。「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」「よだかの星」「銀河鉄道の夜」など代表作を挙げてみれば、多くの人が「ああ」と思うタイトルが並び出る。賢治は、1896(明治29)年に生まれ、1933(昭和8)年に37歳で亡くなる。一時、東京で暮らした以外は、その生涯のほとんどを岩手で暮らす。盛岡高等農林学校で学んだ知識をもとに、やませによる冷害に苦しむ農家を助け、自身も畑仕事をしながら、詩や童話を書いた。農民も芸術によって心豊かになるべきだと考え、「羅須地人協会」を作り、農業についての勉強会をしながら、音楽や演劇などの芸術活動を積極的に生活に取り入れた。しかし、その想いが十分に伝わる前に、もともと弱かった体に、過労がたたり、夭折する。生前に刊行された作品集は、「心象スケッチ 春と修羅」、「イーハトヴ童話 注文の多い料理店」の二つだけである。

自然と文学というテーマを設定し、過去の文学者たちの自然観に迫ろうという試みを始めてから、この冬で2年になる。漠然と自然のことを書いた文学者について考えていた時期も含めるならば、4年くらいだろうか。この間、エッセイなどでよく取り上げている文学者以外にも、さまざまな文学者、表現者について関心を持ってきたのだが、宮沢賢治は、彼らの人生の一場面に登場することが、とても多い。

読書会などでもよく話題にしているのは、「雨ニモマケズ」が書かれた手帖が発見された追悼会のこと。賢治が亡くなった翌年、1934(昭和9)年の2月。場所は、新宿の喫茶店「モナミ」。賢治の弟であり、賢治の作品を世に出すために奔走する宮沢清六や、賢治の描く世界や詩に共感した詩人たちが集まった。郷里の花巻からやってきた人たちは、賢治の魅力的な人柄を語り、「星めぐりの歌」を歌って、追悼した。

会に参加していた巽聖歌は、賢治と同じ岩手出身。花巻と盛岡のあいだ、紫波町の生まれである。賢治と面識は無かったが、表現者として魅かれるところがあったのだろう、1970(昭和45)年に、文学仲間とともに賢治ゆかりの地を訪ねている。聖歌と追悼会に来ていた新美南吉は、賢治のことをとても尊敬していた。

賢治が亡くなった翌年、最初の全集が出版される。家族や名の知られた詩人たちが尽力することで、文学者・宮沢賢治は世に出るのだが、その陰で作品の整理や版元との調整など事務作業を引き受けていた人物がいる。賢治の友人であり「セロ弾きのゴーシュ」のモデルともいわれる、藤原嘉藤治である。嘉藤治は、賢治の没後、その作品を広めるため、すぐに音楽教師をやめて東京に行こうとするが、周囲に止められ、一年後、家族とともに上京する。戦時下の十年間を東京で過ごし、宮沢賢治全集の刊行に大きく貢献。全集の仕事が一段落した終戦直前、岩手に帰郷。岩手に戻ってからは、東根山麓に開拓農民として入る。過酷な労働環境にあっても、農業とともに生き、賢治の教えをまっとうした。

賢治の文学に触発される表現者の中には、嘉藤治のように土を耕し生きることを選ぶ人がいる。追悼会に出席していた数少ない女性である永瀬清子もその一人。永瀬清子は、1906(明治39)年、現在の赤磐市に生まれる。父の仕事の都合で、金沢、名古屋と転居し、名古屋の高等女学校に通っていた頃、詩を自分の一生の仕事にしようと決意する。この時期に出会った詩は、カール・ブッセ「山のあなたに」。そして、自分の詩を見てもらうため送った先は、同人誌「詩之家」を始めるため作品を募集していた佐藤惣之助であった。

カール・ブッセ、佐藤惣之助という名前が登場し、思い浮かぶのは、やはり椋鳩十だろう。鳩十は、1905(明治40)年生まれ。清子の一つ年上である。鳩十もまた、天竜川を越えて飯田まで通っていた高校(旧制中学)時代に「山のあなたに」と出会う。立教大学の学生として上京した後、惣之助の「詩之家」の同人になる。惣之助は、自費出版で作られた賢治の「春と修羅」を読み、新聞に詩評を書き絶賛した詩人。鳩十も、かなり早い段階で、賢治のことを知っていたのではないだろうか。

「女が詩なんて」と言われた時代。詩の会ではいつも、女性は清子だけだったが、信念を貫き生きた。戦中は、大阪、東京と暮らす場所を変え、戦後は、夫の地元である熊山(赤磐市)に戻る。農地改革の混乱の中、地元で農業に従事することになり、それは生涯続いた。農作業をするときは、ノートを持ち歩き、言葉や詩を書き留めていたという。<下に続く>