10月12日。気温が30度近くまで上がるなか、春に続き、八事裏山で観察会をする。10時に集合。コインパーキングから通りを歩いて、竹林に向かう。手の入っている竹林と、放棄されている竹林の様子を比較しながら進む。竹林の先には草むらが続き、秋を代表する草花のイヌタデがある。ここでは、赤花のほかに白花もたくさん出ている。林縁の木には、コバノガマズミの赤い実がなっていた。ほかにも草花を丁寧に観察し、一時間ほどかけて、雑木林の入口に到着。9月下旬に裏山を下見したときは、テングタケが何種類も出ていたが、すでに黒く老熟している。池に水が無くて、今年の水不足を実感。礫がむき出しのでこぼこ道をのぼりながら、ムヨウランの枯れ残りを確認する。コアラの餌用に栽培されているユーカリ畑まで行き、まとめる。同じ道を引き返して、12時半頃、解散。
10月13日。碧南の藤井達吉現代美術館に「川端龍子展」を観に行く。川端龍子のことは、藤井達吉と同時代の日本画家で、達吉が東京で住んでいた大井町庚塚の近隣に、たしか記念館があったなというくらいの知識だった。展示を見ると、迫力ある日本画である。「草の実」という六曲一双の屏風の右隻は、ススキが垂れて、オヒシバ、ヤマノイモ、ヤブガラシなど枯れ草が大胆に描かれている。その下にハハコグサが描かれているのが目に留まった。年譜を読んでいたら、現在は記念館となっている自宅のことを、画家は「御形荘」と呼んでいたそうだ。ハハコグサに何か思い入れがあったのだろうか。草花に思い入れをもつところに、達吉との共通点を見つけ、川端龍子がぐっと身近になる。
代表作の「爆弾散華」は、終戦の年の夏に爆撃を受けた自宅の庭について、飛び散るカボチャとトマトを象徴的に描いて表現した絵であるが、端に描いてあるナスの花が印象的だった。なんとなく、菜園をしていた庭は、野草もいっぱいだったのだろうと想像した。
こちらも代表作である「夢」は、亡くなった人が納まる棺桶の周りを、たくさんのガが飛んでいる。それらのガの種類が、すべて異なる。ミズアオ、スカシバ、クスサン、ホタルガ、スズメガ、エダシャクなど、身近に見かけるガである。数えてみると34種類。自然をよく観察していた人だったのだろう。展示を見た後、館長の木本文平さんの講演を聞いた。当時の美術界の様子、龍子のこと、達吉との共通項などがよく分かり、とても勉強になった。
10月17日。内海四天王像めぐり、秋3回目。訪ねたのは、多聞天。オガタマノキの神明社に車を止めて、歩く。田んぼの稲は刈りとられていて、赤とんぼが飛んでいた。かつて岡部城があった城山の道を登りながら、春の観察会で、この滑りやすい道をみんなで登ったことを思い出した。海へ向かう道沿いは、果樹畑が続く。民家のバナナの木には青い実がなっていた。浜はハマゴウの花が咲き残っていて、ウラナミシジミが吸蜜していた。ウラナミシジミがあらわれる時期は、アサギマダラが飛来する時期と重なる。今年はアサギマダラをまだ見ていないなと思いながら、浜の植物を観て歩く。岩場に腰を落ち着け、波の音を録る。崖上まで直線で上がれる古い梯子を上りながら、冬の観察会はここにしようと決めた。
10月18日。小雨のなか、半田に行く。ミツカンミュージアムは人がたくさん来ていた。「ピエゾグラフによるいわさきちひろ展」は観覧無料。土産物コーナーの奥のギャラリースペースに、「窓ぎわのトットちゃん」をテーマにして、いわさきちひろの絵が飾られていた。
ピエゾグラフとは、水彩画は厳密な管理のもとであっても退色してしまうので、デジタル情報を保存して精密に再現した絵のこと。ギャラリートークをされた、ちひろ美術館の学芸員さんによると、原画展と同じようにピエゾグラフの展示も大切にしていますとのこと。「トットちゃん」の舞台であるトモエ学園は、子どもたち一人一人に、その子の木があったそうで、それは、とても楽しそうだと思った。少し前に、至光社の絵雑誌「こどものせかい」に使われた原画が、新たに見つかったというニュースがあった。「こどものせかい」には、巽聖歌も詩を寄せているが、聖歌とちひろは面識があったのだろうか。
名古屋に戻りながら、乙川にある半田ハリストス正教会を見に行く。明治から大正にかけて、知多半島にも正教会の伝道所が数か所あった。現在はここだけである。木造聖堂は地元の宮大工の方たちが手伝って建てられ、民家のような造りをしている。こうした聖堂は全国にあったが、現在は、ごくわずかしか残っていないようだ。かつてはカトリックに次ぐ数の信仰者が日本にいた正教会。当時のことを考えてみる必要がある気がした。<下に続く>
