十月の日誌(上)

十月も、もう終わり。思い返してみると、今月は上旬から天気が安定せず、断続的に雨が降った。長々と続いた残暑は、収まるや否や一気に気温が下がり、富士山では昨年よりも15日早く初冠雪が確認されたそうだ。湿気も多く、霧雨のような細かい雨と朝晩の気温差が着るものを迷わせて、引きかけた風邪は、早めに対処したのでこじらせることは無かったけれども、なんとなく心も体も気怠さを引きずった月だったと思う。

そんな毎日ではあったが、訪ねた場所は方々多く、長い間、放ってあった考えが少し進展したり、新しく考え始めたことがらも多かった。ただ、頭の中に入った情報量が、ちょっと多すぎるので、大事な部分を精選し、関連付けてまとめるには時間がかかりそうである。とりあえず、忘れないよう日誌的に書き留めておこうと思う。

10月1日。熱田神宮にオニフスベを見に行く。途中、激しい雨が降ってきたので、5月に花のとうの人形が飾られる西楽所で雨宿りをしながら、雨の音を録る。

10月2日。内海四天王像めぐり、秋1回目。今年は、1月から三カ月ごとに、四天王像のある森を訪ねている。この日はフォレストパーク跡地のそばの増長天を訪ねた。海岸沿いでは、ヒメマダラナガカメムシという赤いカメムシがいた。昼間も咲くようになったツユクサや、普段は葉だけが目立つアシタバの花などが目に留まった。

10月4日。子どもの家の行事に参加させていただき、明智にリンゴ狩りに行く。思い出してみると、リンゴが果樹園でなっているところを、間近で見るのは初めてかもしれない。無農薬のリンゴをもいで、かじる。紅玉は、小ぶりで甘く、美味しかった。リンゴをそのままかじるなんて、いつ以来だろう。雨がだいぶ降ってきてしまったので、午前中で終了。

大正ロマン館に立ち寄る。一階には大正時代の建物のミニチュアが飾られていて、その中に豊橋ハリストス正教会の模型があった。豊橋の代表的な文化財でもある、この教会の設計をしたのは、内海出身の正教徒・河村伊蔵。明治時代、日本に正教を広めたニコライについて教会建築を学び、ニコライの没後は、全国の正教会建築に関わった人物である。

二階にはオルガンの展示や、洋画家で明智出身の山本芳翠の絵が展示されていた。代表作は岐阜県立美術館に所蔵されているため、模写が飾られている。山本芳翠は、洋画が日本に紹介されて間もない明治の初めに、絵を学ぶためフランスに渡り、10年間、滞在した。フランスでもその絵を認められた洋画の先駆者の一人である。芳翠はフランスで生活しながら、日本で洋画を勉強する人たちのことを考え、ルーブル美術館に通い、たくさんの作品を模写していた。そして帰国の際、完成したばかりの日本の巡視艦に300枚以上の絵を載せて運ぼうとした。だが、その巡視艦は、日本に辿り着くこと無く行方不明になってしまった。そのため、芳翠の滞仏時の作品は、ごくわずかしか現存していない。もし、巡視艦が行方不明になることなく、絵が日本に届いたなら、西洋美術を大々的に紹介した歴史的な展覧会が日本で開催されていたかもしれないなと思った。小原和紙の里に立ち寄り、名古屋に戻る。

10月6日。畑に、アキザキヤツシロランが出ていないか、確認しに行く。アキザキヤツシロランは、昨年見つけた腐生植物の一種で、竹林に生える。この日は、まだ出ていなかった。

10月8日。内海四天王像めぐり、秋2回目。二十四節気では寒露だが、まだ残暑。南知多中学校の裏山の多聞天を訪ねる。終わりかけのヒガンバナに、ナガサキアゲハやアゲハチョウが吸蜜にきていた。森の中はジョロウグモの巣が多い。目前の巣を払うことばかり考えていると、観察に集中できないが、下ばかり見ていると、何度でも巣に引っかかる。頭に引っかかった糸を取りながら、糸が黄金色であることに気づく。多聞天の森を抜けて、秋葉神社に向かう道沿いは、みかん畑。まだ青いミカンが、たくさんなっていた。そばでは、タンキリマメやアオツヅラフジの実も色づいていた。秋葉神社の森では、数羽のカラスが鳴きながら行き来しており、なんとなく、心に不穏なものを感じた。

10月9日。半田のクラシティと赤レンガ建物に「みんなの南吉展」を観に行く。どの展示からも南吉への親しみが感じられ、時代を越えて普遍的な物語の大切さを想った。読んだ人のイマジネーションにはたらきかけて、何か表現したくなる物語。帰る前に、ツメサキの世界さんの原画展を見るため、記念館のカフェに立ち寄った。メモ帳を買う。<中に続く>