巽聖歌が編集に携わった「新美南吉全集」(牧書店、1965)の第7巻の口絵に、一枚の写真が載っている。1935(昭和10)年の春、南吉が聖歌たちと一緒に、上野の東京府美術館へ春陽会展を観にいった時のものである。公園の芝生にしゃがんで座る、5人の大人と1人の男の子。聖歌は、優しい表情で男の子の腕をとって、抱っこしている。男の子は、1年前に生まれた聖歌の長男である。南吉は、写真の左端、聖歌の隣りに座って、柔らかな表情をしている。学生服に外套を羽織り、ハンチング帽をかぶって、眼鏡を掛けている。ほかの3人は、聖歌の妻である野村千春、千春の妹の夫である周郷博、童謡雑誌「チチノキ」などで聖歌や南吉とは同人仲間である、清水たみ子。写真は白黒だけれども、後ろでは子どもたちが芝生の上で遊んでいるので、天気のよい日だったのだろう。
巽聖歌の本名は、野村七蔵という。男の子の母親である千春は、長野の諏訪湖近くの出身(現在の岡谷市)。諏訪の高校を卒業した後、画家になることを目指して上京し、春陽会洋画研究所で、中川一政に師事していた。
この日、東京府美術館に展示されていた千春の絵の題は「雪景」。2009年に長野で開催された回顧展「野村千春展」(八十二文化財団)の図録に載っている。場所は、ふるさと岡谷の村だろうか。家にも地面にも、雪が積もり、家々はにぶい土色で描かれている。後に春陽会では二人目の女性会員となるが、その作風は力強く、ためらうことなく、暗い色を使う。2023年、夫妻が暮らしていた日野市で、巽聖歌の特別展が開催されたときには、「丘の上の日野ヂーゼル」という絵が展示されていた。戦後しばらくして、日野で暮らし始めたころの家の周りの風景を描いているのだが、画面の大半は、黒や茶褐色の土や畑である。絵の前に立つと荒々しい質感に驚くが、その中にぽつぽつと色が見える。中川一政は、暗さの中に銀や青や黄色を散りばめる千春を、色彩家(コロリスト)と高く評価したそうだ。
南吉の日記にも千春は登場し、最初は千春さん、結婚してからは、奥さんと呼んでいたことが分かる。聖歌に宛てて書いた数々の手紙でも、春陽会や絵のことに、よく触れていて、南吉が東京を去ったあとも、家族のように仲が良かったことが伝わってくる。
千春の絵に、ストーブを前にして座る二人の青年を描いた「ストーブをかこむ(若い人たち)」という作品がある。座る青年は、南吉をモデルにしている。後年、長女の中川やよひさんが、「どっちが南吉なの?」と聞くと、「どっちもよ」と言って、笑ったそうだ。
1932(昭和7)年に、南吉は上京した。聖歌は、遠くからやってくる弟のような南吉のために、わざわざ学校に通いやすい場所に家を借り、一緒に暮らし始める。4か月後、聖歌と千春が結婚することになり、二人を気づかった南吉は学校の寮に移る。幾たびか住むところを替えるが、野村家には頻繁に顔を出し、家族同様の生活を送っていた。
南吉は、自分の文学を理解し、相談できる兄のような聖歌と、地方から芸術家になるために上京し、熱心に絵の勉強をする千春に、この上ない刺激を受けていたことだろう。志半ばにして、地元に帰らなくてはならなくなった南吉は、東京で暮らしていた頃が、自分がもっとも良かった時代と回顧する。何もかもが真新しく、自分と同じような将来を想い描く仲間たちに囲まれた青春時代が、最良の時代と思えるのは、現代でもそれほど変わらないような気がする。多くの時代に日記を残した南吉だが、東京時代の日記は、完全には見つかっておらず、断片的である。上京した年の日記は、見つかっていない。残っているものには、上京して2年目、1933(昭和8)年の日記がある。この年の12月、男の子がうまれる、ひと月前の千春のことが、日記に書かれている。「小雨の中を巽のとこへ行った。奥さん一人が、生まれてくる赤ん坊の着物やふとんを拵えていた。真赤な着物がうつむいた若い奥さんの顔に映えていた。自分の体内から生まれてくる赤ん坊の為に用意をする気持ちは一体どんなものであろうかと思った。外套のボタンをつけて貰って帰った」。
同じ月に、南吉はある物語を書き上げる。「手袋を買いに」である。雪の降る夜に、子狐が手袋を買いに街へ行く。母狐は、人間は危ないから、手袋を買うときにはこちらの手を出しなさいと言い、子狐の片手を人間の手に変える。心温まるお話でもあり、人と動物の関係についても考えさせられる。書き上げたとされる日は、12月26日。クリスマスの翌日。「手袋を買いに」は、南吉の物語の中で、もっとも翻訳されている物語でもある。<中に続く>