これでよいの塩梅

12月に入った。10月から11月にかけて、さまざまな場所を訪問し、開催する行事も多かった。そんな慌ただしい日々の中でも、楽しい出会いがたくさんがあり、考えることに追われていながらも、充実感があって、今年のハイライトと思える二カ月間だった。

エッセイを書こうと思いながら、なかなか、まとまらずにいる。なので、なんとなく考えていることを、トレースしながら、そのまま、今年最後のエッセイにしようと思う。

少し前のことだが、ぼんやりと、こんなことを考えた。「『でんでんむしのかなしみ』のカタツムリが、ナメクジと出会ったら、どう思うだろう」。「でんでんむしのかなしみ」は、新美南吉が書いた幼年童話の一つ。一匹のカタツムリが、自分の背負っている殻には、悲しみが詰まっていることを知り、どうしたらよいか考える。友だちのカタツムリに、私は不幸せですと話すと、友だちは、私の背中にもいっぱいだと言う。別の友だちにも聞いていくが、同じ答えが返ってくる。そして気づく。悲しみは誰でも持っていて、私は自分の悲しみを堪えていかなくてはいけない。カタツムリは、不幸を嘆くことをやめる。

数年前、ある自然史博物館を訪ねた時に、陸生貝類についての展示があった。陸生貝類は、カタツムリやキセルガイなどが知られるが、ナメクジも陸生貝類に入る。解説をよく読んでいくと、イメージと異なり、ナメクジは、カタツムリより原始的な生物ではなくて、進化した生物と書いてあった。殻のなかにあった器官を体の方へと移し、殻に隠れることができるメリットよりも、背負わないメリットを追求し、殻を背負わずとも生きていけるようになったのがナメクジ、というような内容だったと思う。

おぼろげな記憶を思い出しながら、こんなことも考えた。「でんでんむしのかなしみ」のカタツムリに、ナメクジは、こう言うのではないか。「わたしはもうかなしみをせおうのをやめました。あなたもそうしたらどうですか」。

なんとなく糸口が生まれたので、その先のカタツムリとナメクジの対話を想像し始めたのだが、それ以上、考えるのはやめた。なぜかというと、自分なりの結論が、もう出ていることに気づいたからである。私が考えるカタツムリは、この後、どのような対話をナメクジと展開したとしても、悲しみを背負うことをやめない。なぜかと問われたら、上手く説明することは難しいのだけれど、たぶん、やめない。

進化は身の回りの環境に適応して、世代交代し続ける可能性をより高めることを目指すものだと思う。ナメクジは、身を軽くし、どのような場所にでも入っていけるように体を作り替えた。大きな、重たい殻を背負わず行動するさまは、カタツムリであった頃よりも、スマートになったと言えるかもしれない。カタツムリは、天敵がやってきたら、背負っている殻の中に隠れることができる。けれども、そこに詰まっているのは悲しみ。悲しみのなかに身を隠し、じっと過ぎ去るのを待つカタツムリよりも、自分を取り巻く環境に適応して、賢く動き回るナメクジの方が、周囲の危険と対峙する力があるようにも見える。

ナメクジの言葉を聞いたら、カタツムリは思うだろう。「自分もスマートになれたらどんなにいいだろう。私の背負っている殻は重いし、中には悲しみが詰まっているのだから」。だが一方で、こうも考える。「しかし、みんなが悲しみを背負うことをやめてしまったら、世の中に生まれる悲しみは、誰が背負うのだろう?」。カタツムリは考え続けるが、結論は出ない。進化を選んだら、再び戻ることはできない。生物の進化は不可逆。一度下ろした殻を再び背負うことは、できない。

ここまで書いてみて、いよいよ何かを言いたいような文章の流れになってきたので、この辺りでやめようと思う。この話もまた、よくある言葉遊びである。

さて、年内にまだ訪ねる場所、大事な会が、いくつか残っているが、そうしているうちに今年も大晦日を迎えるだろう。来年、2025年は、今世紀が始まり、四分の一が経過する節目の年。来年もまた、身近な自然をよく観察して、文学者・表現者たちが書き記してきた文章をよく考えながら、自分の為すべきことに、丁寧に取り組んでいこうと思う。

一年間、エッセイを読んでくださり、ありがとうございました。少し早いですが、みなさま、お身体に気をつけて、良い年末年始をお過ごしください。