積ん読

数年前の冬、東京駅から名古屋に帰って来るときに、夜8時の新幹線まで時間があったので、付近にある商業施設、「キッテ丸の内」に立ち寄った。洒落た落ち着きのあるビルディングで、高い吹き抜けを中心に、各フロア、選りすぐられたお店が並ぶ。それらのテナントは個性的で、名古屋でも見かけるチェーン店も入っているのだが、雑貨屋さんなどは、地方のお店が入っている。日本郵政が運営母体だからだろうか、石見、鯖江、高岡、豊岡、京都など、全国津々浦々だ。都市の名前を、頭の中で日本地図に置きながら、日本は職人の国なのだな、とあらためて実感する。ちょっと買うには、高価なものが多いが、丁寧に作られた商品が並んでいるので、1フロアずつゆっくり見て歩いているだけで、楽しく時間が過ぎていく。屋上にあがると、東京駅を一望できる庭園が設えてあり、数年前、開業当初の姿に再現された東京駅丸の内駅舎を上から見ることができる。訪ねたときは、工事が終わり公開されてから、まだ間もなかった時期で、大学生くらいのグループが三脚を立ててライトアップされた駅舎を撮影していて、楽しそうだった。

その折に、施設内の書店で購入した一冊の絵本がある。タイトルは「翻訳できない世界のことば」(エラ・フランシス・サンダース、前田まゆみ・訳/創元社、2016)。世界中の言語から選んだ、他国の言葉への翻訳が難しい独特な単語を、イラストレーターである著者が絵とともに紹介している。北欧フィンランドでは「トナカイが休憩なしで疲れず移動できる距離」のことを、「ポロンクセマ」という言葉で表すそうだ。お国柄が反映されたユニークな言葉の数々の中、日本語から選ばれた一つが「積ん読(つんどく)」である。「買ってきた本を、ほかのまだ読んでいない本といっしょに、読まずに積んでおくこと」と解説されている。

8月も終わりに差し掛かり、大型の台風がノロノロとやってきて、外に出掛けづらかったので、ひさしぶりに本棚を整理することにした。本棚の整理は数年おきに、気が向くとしている。本はたまに動かして空気に触れさせた方が良いと、ずいぶん昔に、たしか古書店主の方のエッセイで読み、それ以来、定期的に本棚から出している。「本はなかなか手放せない」という話をよく聞くが、私は、ある程度本が溜まったところで、今後読まないだろうと判断した本は、古本屋に持って行く。ただ、やはり一定の期間、自分の本棚に並び続けた本を手放すのは、それなりに気力も使い大変なので、数年に一度、ということになる。

千葉から名古屋に持ち帰ってきた本は、段ボールに数箱と大量にあったのだが、この十数年のあいだに、コツコツと減らしてきた。当然、その間に買い足す本もあるので、減ってもまた、増える。本棚からはみ出るほどに本がある状態が続くと、自分の脳内もパンパンに詰まっている気分になる。なので、「この十数年、本棚に残し続けたのに、ここに来て手放すのは忍び難いけれども、やはり、この先の計画を考えると、脳内スペースはある程度確保しておいた方がよいだろう」と決心し、2日間かけて本を選別した。

すっきりした本棚を眺めると、自分が本当に読みたかった本が、はっきりしてきた。「あれも、これも」と散漫だった意識が、「これだけで、良い」になると、途端、読む意欲が湧いてくる。数年間、しなくてはいけない事、考える事が多く、本を開いても、なかなか読み進められない時期が続いていたので、ようやく読む意欲が湧いてきたのは嬉しい。

積んどいてあった本のタイトルはというと、大学の講義で購入し、積読期間は25年になる「ロシアの妖怪たち」(斎藤君子、スズキコージ・絵/大修館書店、1999)。100年前に採取された植物標本と物語、「ポール・ヴァーゼンの植物標本」(ポールヴァーゼン、堀江敏幸/リトルモア、2022)。北アメリカ先住民の著者が語る、植物と先住民族文化にまつわる話、「植物と叡智の守り人」(ロビン・ウォール・キマラー、三木直子・訳/築地書館、2018)。ブックオフでふと目に留まって購入した、スペイン児童文学「太陽と月の大地」(コンチャ・ロペス=ナルバエス、宇野和美・訳、松本里美・絵/福音館書店、2017)。少し前から興味を持っている日本庭園についての解説書、「日本の庭ことはじめ」(岡田憲久/TOTO出版、2008)など。文庫や実用書なども含めると、まだ何冊もある。

9月に入り、台風は熱田の周辺からは離れたようだ。まだしばらくは安定しない日が続くだろうが、徐々に秋は深まっていく。読書の秋、そして、収穫の秋。人々が乾いた地面を耕し、ふかふかと肥えた土に種を撒いて育てた実を収穫する時期は、もうすぐだ。