歩く人

夏も真っ盛りとなり、連日うだるような暑さが続く。そろそろ髪を切ろうと思い、いつも行っている金山の散髪屋さんに行くことにした。金山は、熱田の北の端。JR、名鉄、地下鉄の各線が交わる金山総合駅があり、南北を結ぶコンコースは毎日、たくさんの人が行き交う。北口側には、若者たちでにぎわう商業施設があり、居酒屋や飲食店も多い。南口側は、やや歩く人の数が落ち着いているが、こちらも飲食店が並ぶ。かつてボストン美術館が入っていた高層ホテルも南口側にある。駅前広場では、物産展などのイベントが行われていることも多い。家から一番近くの繁華街が金山である。

熱田伝馬町の交差点から、熱田神宮東側を北へと走る。そのまま走っていけば、大須があり、パルコと松坂屋が並ぶ矢場町に着く。金山は、ずっと手前。10分かからず、到着する。

金山駅付近は、朝の交通で混雑していた。道路工事も重なって、なかなかスムーズに進まないなか、赤信号で止まった。何とはなしに道を歩く人たちを眺めていると、看護・福祉系の専門学生と思しき服装の女性が、マンションの入口に目を落とし、すっと道を逸れた。何かを拾いあげる。辺りを見回して、街路樹に目を向け、近づく。木に何かを引っ掛けているようだ。そのまま何事もなかったように、また歩き始めた。車道からは、掛けられた物が何か見えなかったが、たぶん、引っ掛けられる部分があったので、持ち主が探しに戻って来たときに気づき易いよう、木に掛けたのだろう。何かと気が回らない朝の時間帯に、ちょっとしたことに目が留まって、気遣える人。掛けてある落としものに出会うことはあっても、落としものを掛けている人に出会うことは、あまりないので、爽やかな気持ちになった。

毎日のように歩いていると、いろんな人に遭遇する。一番多いのは、道を聞かれること。神宮を参拝した後のご夫婦に地下鉄の駅を聞かれたり、中国人の若者が門に気づかず通り過ぎてしまって、神宮への入り方を聞かれたり。バス停の場所を聞かれることも、よくある。

近所には公的機関が多いので、場所を聞かれることもある。法務局、公証役場、年金事務所など。「どこだったかな?」と考える場合もあるが、頭の隅に家族や人との会話が残っていて、大体思い出す。場所の記憶はおもしろく、普段から見ていても、一向に記憶に定着しない場所もあれば、一回聞いただけなのに、すぐ覚える場所もある。場所の記憶力は、生きものが生をより充実したものにするために、必要な能力だと思う。動物や鳥、昆虫も、自分の生息場所周辺の環境の把握と、変化に合わせた適応は必須だ。場所を記憶に定着させる力と、人生における役割について、突き詰めて考えていくと、深い思索ができる気がする。

ある夜、いつもの散歩コースを歩いていると、道端で若い男性に、「あの、すいません」と声を掛けられた。近づくと、ポストの前で立ち止まっている。手に持った封筒をこちらに見せて、「どっちに入れればいいんでしょうか?」と聞く。「どっち? ええと、何か特別な郵便?」「いや、普通の封筒の」「速達?」「ちがいます」。「じゃあ、こっち。狭い方でいいと思いますよ」。若者は嬉しそうにお礼を言って、投函し、すぐに立ち去った。

こんなこともあった。学校の合唱コンクールなどでも使われる、名古屋市教育センターという施設が、通りを一本入った裏手にある。そこは鳴く虫の観察コースでもあり、一年を通して、よく歩く。夕方の帰宅時には専門学校の学生が駅に向って、たくさん歩いている。もう少し遅くには、近くの会社に勤めている人たちが歩いている。師走の午後8時頃、歩いていると、教育センターの駐車場で、会社員という感じの女の人が寝ていた。暗いので、一瞬、目を疑ったが、やっぱり寝ているので、近づく。大きなリュックを頭に敷いている。「大丈夫ですか?」。肩を軽く揺する。反応がない。もう一度「大丈夫ですか?」と声を掛けると、「はっ、ええ、らいじょうぶです……」とにこやかに、怪しい呂律で言い、目を閉じた。理解する。酔っ払いだ。かつて、どれだけ、この不毛な言葉のやり取りをしてきたことか。ため息をつきたくなるが、そうは分かっても、寒い冬に、このまま寝込んでしまっては、命にかかわると言えなくもない。近くの交番を思い出そうとしたが、一番近くにあった交番は、ずいぶん前に廃止された。仕方がないので、110番した。

熱田に限らず、町には、そこで生活をしている人たちの考えや営みが、良くも悪くも、必ずあらわれている。自分が暮らしている町を歩くのは、昼でも夜でも楽しい。だからこそ、誰にとっても、いつでも安心して、風と歩みを楽しめる町であってほしい。