伊那谷をめぐる(五) 大鹿村と中央構造線博物館(下)

中央構造線博物館は、手作り感にあふれ、中央構造線や地質という、説明がとても難しいテーマについて、来館者に丁寧に伝えようという工夫がなされていた。

最初に中央構造線の解説があり、衛星写真とともに、各地域ごとの中央構造線について地図に線を引いて説明がされている。中央構造線というと、信州から三河を通って渥美半島まで下り、紀伊半島、四国へ延びている方が印象にあるが、関東にも延びている。諏訪湖、岡谷の辺りから、東へ延びる。群馬の藤岡市には、三波川という川があり、ここが三波川変成帯の由来。埼玉の東松山市あたりから関東平野に入る。そこから先は、茨城の霞ケ浦の方へと延びているようだが、霞ケ浦の北東、那珂湊の方へ向かっているのか、南東の利根川河口の方へ向かっているのか、正確なところは分かっていないようだ。

平面的な地図だけではイメージしづらい大鹿村周辺の地形は、25万分の1の立体地勢図で見ると、よく分かる。地勢図は、長野県全体が立体的に盛り上がっていて、山脈、山地と谷合いの位置関係がよく分かる。北は白馬から諏訪湖までが広い谷だが、この辺りには大町市、安曇野市、松本市がある。地図の中央には、谷の合流点である諏訪湖。諏訪の南東は、八ヶ岳と赤石山脈に挟まれて、甲府盆地があり、富士山の裾野へと谷が続く。諏訪の北東に目を向けると、佐久平があり、新潟方面へ向かってカーブを描きながら、長野市、飯山市へと続いていく。伊那谷は、南西に延びる谷。天龍川が流れ、伊那市、駒ケ根市があり、飯田市の先は三河山地。天龍川沿いの谷のそばを並走している浅い筋が、中央構造線の谷である。

メインの展示室も岩石庭園と同じように中央構造線のラインを引いて分けてある。入口側は、外帯(赤石山脈)の岩石が並べられているので、緑色岩が多い。奥に進むと内帯(伊那山地)の花崗岩などの岩石が並ぶ。最奥の壁には、実際に掘り取った露頭(地質、岩石などが外にあらわれている場所)の標本が展示されていて、見ごたえがあり、実際にフィールドでどのように観察できるのかが分かった。

各展示室が広いわけではないのだが、他所では知ることのできない、地域の博物館ならではの展示なので、ひと通り見終わっても、なかなか館を出る気にならない。それでもキリを付けて外に出たのだが、展示で知った知識をもとに庭園の岩石を見ると、また違って見えてくる。次回は、もっと時間に余裕をもって訪ねようと思った。

博物館の隣りには、ろくべん館という郷土資料館がある。「ろくべん」は、歌舞伎見物などに持参する弁当箱のこと。大鹿村の歌舞伎は、全国的に有名である。こちらでは、大鹿村の歴史や文化、南アルプスの自然調査の歴史などについて、展示がされていた。

大鹿村は、平安時代から年貢として榑木を納めていた。榑木とは、ヒノキやサワラの良材のこと。伊那谷の大森林は、この地域に暮らす人々に恵みをもたらし、いつの世にあっても権力者たちは、大鹿村の豊富で貴重な木材に目を付けて、利用してきた。山の木を伐り出す仕事をする人たちは、杣人と呼ばれ、木は、人力で運び出された。

江戸時代には、豊かな木材を活用する技術を持った、木地師と呼ばれる職人集団がやってきて棲みついた。椋鳩十の「椋」は、この木地師たちの一族である小椋氏から、とられている。かつて伊那谷周辺は広葉樹の森だったが、時代が下るにつれて、早く大量に木材が必要となって、針葉樹が植林されるようになった。現在の針葉樹は植林されたもので、もともとあった針葉樹とはルーツが異なる。広葉樹では、大鹿村は栗の木が多かった。「代知らず」とも呼ばれる丈夫な栗材は、建物の柱や土台、屋根板、火の見やぐら、川の堤など耐久性を必要とするものすべてに用いられた。だが、人々の生活に身近だった栗の木は、今では少なくなり、栗拾いや秋の味覚を楽しむなどの風物誌も、昔語りとなっている。

ろくべん館を出て、大鹿村を流れるもう一つの川、鹿塩川を訪ねた。川は、小渋川よりも石がゴロゴロとしていて、流れが速い。岩をひっくり返すと、ナミカワゲラの幼虫がいた。

鹿塩川の周辺では、国内では珍しい山塩がとれる。日本で岩塩が獲れる場所は一応無いとされている。海沿いの塩田で塩はつくられ、内陸へと運ぶ道は「塩の道」と呼ばれた。大鹿村にもそんな塩の道の一つ、秋葉街道がある。その道中に、山中で塩水が湧き出ている場所があったということなので、偶然とはいえ、不思議なものを感じる。だがそれも、人が生きる場としての自然と考えたら、見つかったことは、必然なのかもしれない。

 

 

伊那谷をめぐる(四) 大鹿村と中央構造線博物館(上)

2025年6月、ずいぶん前から行ってみようと思っていた、大鹿村に行くことにした。大鹿村のことは、鳩十会で「アルプスのキジ」を読んだときに予習した。「アルプスのキジ」は、大鹿村の子どもが、大嵐で小渋川が氾濫してしまい、村にも濁流が押し寄せる中、自分たちが大切に見守っていた巣を守るキジと、キジが抱えていた卵を心配する、というお語。

この日は、梅雨の晴れ間だった。伊那谷に来るときに立ち寄る恵那峡サービスエリアにはツバメがたくさんやってきていた。サービスエリアの建物に巣を掛けて、子育てしている。親ツバメが忙しそうに巣と外を行き来し、ピーピーとにぎやかだった。

飯田インターを通過し、しばらく走ると、右手に、ひと際目立つ山並みが見えてきた。伊那山地の奥で雪をかぶっている、赤石山脈である。大鹿村を流れる二つの川、鹿塩川と小渋川のうち、小渋川の源流は赤石山脈。小渋川は、天竜川水系で一番の荒れ川と言われている。山脈を横目で見ながら、あの近くまで向かうのだなと思うと、気持ちも高揚してきた。

松川インターで降りる。この辺りは以前、椋鳩十記念館・記念図書館の館長、木下さんに連れて来ていただいた場所。喬木村ではゲンジボタルが見られなかったため、木下さんが毎年観察されている、ゲンジボタルの生息地に案内してくださったのだ。そこは、清流ではなく、河岸段丘の段丘崖から水が落ちてくる場所で、周りは田んぼ。以前は、あらわれなかったような場所で、大きくゆっくりと光を明滅させるゲンジボタルを見ながら、場所を変えながら適応し、世代をつないでいるのだなと感心した。

一昨年の印象的な体験を思い出しながら、天竜川を渡り、小渋川沿いを山の奥へと進む。途中、小渋ダムに出る。この辺りは、大きなトラックが出入りしている。広いダムを見ると、まったく水が無い。理由は分からなかったが、今年の深刻な水不足については、すでに報道がされていた。ダムの水が枯渇するほど、雨が降っていなかったのだろうか。その後、山道を走り、いくつかのトンネルを抜けると、大鹿村に到着した。

道の駅で食事をし、小渋川沿いを歩く。川の向こうに赤石岳の白い峰がある。小渋川の水は青い。川を見て、「青い」と思ったのは、美濃和紙の里会館に行く途中、板取川を見たとき以来だろうか。思い出すと、小原和紙のふるさとを訪ねたときに立ち寄った笹戸付近の矢作川もきれいで心地よいと感じたが、青いという印象は持たなかった気がする。深さや水に含まれる成分や透視度、川底の石の種類なども関係するのだろう。川の色については、いろいろ考えてみると、おもしろい気づきがありそうだ。

道の駅から移動して、大鹿村中央構造線博物館に行く。博物館の前には、岩石庭園があり、中央構造線の西側(内帯)と東側(外帯)を構成している石が大鹿村の地質通りに並べられている。簡単にいうと、谷を流れる川を挟んで、伊那山地側が領家変成帯といい、花崗岩が中心の地質。川と新しい集落を含む谷底は、鹿塩マイロナイト(かつては鹿塩片麻岩と呼ばれた)という、地下深くで断層によって岩石が水あめのように流動してできた、いまだ謎が多いが日本を代表する断層岩でできている。ここまでが内帯。中央構造線を挟み、南アルプス側は外帯で、三波川変成帯、秩父帯と地質が変わっていく。外帯を構成する岩は、おもに緑色岩で、その名の通り、緑色をしている。

庭園に並べられた岩々を、じっくりと眺めていると、岩の模様は、それぞれ違って美しく、おもしろい。だが、岩石ができるまでを、山から海に至る川の流れや森の遷移のように、イメージを描いて理解するのは難しい。動く時間が、途方もなくゆっくりだからだろう。

たとえば、153と番号がふられた、マイロナイトには、「断層深部で、再結晶による細粒多結晶化により延びるように変形。原岩の鉱物のうち再結晶しにくい長石が斑点状に残存したマイロナイト」と説明書きがある。原岩は、「トーナル岩(花崗岩類)」となっている。「再結晶作用」についてブリタニカ国際大百科事典の記述は、「固体のままで岩石中で新しい結晶が生じる現象。この現象は温度、圧力の外的条件が変化したとき、もとの岩石中の鉱物が不安定になり、新しい鉱物(結晶)が成長することによって起る。(中略)多くの場合、岩石は再結晶作用によって鉱物の粒径が大きくなり、ある鉱物が特定の方位に向くようになる」。なんとなくしか理解できていないが、これらの岩の複雑で美しい模様は、大地の成分のダイナミックな変化によって生まれた、ということは、分かった。〈下に続く〉

 

 

伊那谷をめぐる(三) 飯田市のこと 

遠山郷は、かつての上村と南信濃村からなり、現在の行政区分でいうと飯田市に入る。遠山郷が編入した2005年の市町村合併の結果、飯田市は、東西にかけて、南アルプス・聖岳、遠山郷のある遠山川の谷あい、伊那山地、天竜川と両岸の河岸段丘、風越山のある中央アルプス・木曽山脈までを含む、広大な市域となった。

飯田市では、南信教育事務所飯田事務所が主催して、年に数回、研修講座「赤門スクール」を開催している。この講座は、伊那谷の自然、文学、文化、歴史などについて学ぶもので、椋鳩十の講座をされている菅沼さんに声を掛けていただいた。2023年の講座「椋鳩十 戦後の活躍」では、双葉社が発行していた「讀切特撰集」に物語を掲載していた頃の事情、2024年の講座「椋鳩十と読書運動」では、鹿児島県立図書館長に就任した経緯や「母と子の20分間読書」を普及させるための奔走がよく分かり、とても勉強になった。

想い出してみると、2022年の秋、喬木村の福祉センターをお借りして、名古屋から人が集まって開催した講演会では「椋鳩十と戦争」をテーマにお話していただいた。その後も毎年夏に記念館の2階で開催される講座は、訪ねるのが楽しみである。学生時代、熱心だった詩作と詩集「駿馬」についての考察「若き日の椋鳩十」。ハイジやツルゲーネフなど青春時代に親しんだ海外の文学作品が、どのように処女作「山窩調」につながっていったかについての考察「椋鳩十 若き日の読書」。ともに深く考えさせられる講座だった。

私は、自然から表現することを大切にした文学者と彼らが生きた地域に寄り添った文学研究が、もっと普遍的になされてほしいと思う。そして、その地域に現在、暮らしている人たちが、彼らが生きて暮らしていた地域に、今、自分が暮らしていることを、楽しく、誇らしく思えると良いなと思う。文学に興味があって、学芸員や文学研究者を目指す人たちには、ぜひ菅沼さんの講座を聞いてほしい。

赤門スクールや記念館を訪ねる前には、飯田の特色を知ることができそうな場所に立ち寄ることが多い。2024年10月、訪ねたのは、竹佐の杵原学校。映画のロケ地にもなった懐かしさの漂う木造校舎で、1980(昭和60)年まで使われていた。春になると、満開の枝垂れ桜を見に、人が訪ねる場所なのだが、この日は、小雨ということもあり、寂しい雰囲気だった。きれいに磨かれた板張りの廊下を歩きながら、中庭を眺める。信州の人は、学校という場所をとても大切にしていると感じる。以前、椋鳩十記念図書館の本棚に、信州の学校について書かれた分厚い本があったので、手に取ってみたのだが、県内各地の小学校について、開校当時からの沿革などが、写真とともに説明されていた。子どもたちが通う学校は、地域コミュニティにおいて、もっとも考慮されるべき中心施設。昨今の学校にまつわる報道などを思い出しながら、そのことを、もう一度、みんなで考えないといけないと感じた。

12月には、下久堅の和紙の里を訪ねた。長野で和紙の里というと、飯山市の内山紙がよく知られている。県内には、ほかにも数か所、和紙の里があり、下久堅もその一つ。飯田の紙は、元結(髷などを結うための紙紐)の紙として評判だった。落語の大ネタ「文七元結」は、江戸に元結を売りに来ていた飯田の商人・桜井文七がモデルになった噺。明治に入り、元結の需要が減ってからも、水引や障子紙など商品を変えながら、冬の閑農期の副業として、下久堅では全村で紙漉きに携わった。原材料となるコウゾは、遠山郷など近隣地域から、峠を越えて運んでいたそうだ。現在は、保存会の方が中心となって、技術を継承しており、近隣の小学校の子どもたちは、卒業証書の紙を自分たちで漉くそうである。

和紙産業は、地域の自然の産物を活かしながら、使われる材料すべてが植物由来であるため、土に返すことができる。土地の特徴を活かして、産物の異なる近隣地域をつなぐこともできる。自然の循環を活かした産業として、再び発展していくとよいなと思う。

阿島祭りに行く前に寄った座光寺のしだれ桜の前では、たくさんの人たちが記念写真を撮っていた。旧座光寺麻績学校校舎は、県内最古の木造校舎で、歌舞伎舞台を備えている。麻績という名前から、かつて麻布を織っていた人たちがいたのだろうかと考える。上郷の考古博物館は、縄文・弥生・古墳時代などの遺跡が集まっている地域にあり、古代の飯田について考えられる場所だが、訪問した日は、残念ながら時間が足りず、展示を見ることができなかった。また、ゆっくり時間をかけて、再訪したい。

 

 

伊那谷をめぐる(二) 鳩十会と遠山郷

「椋鳩十を読む会(以下、鳩十会)」は、名古屋の昭和生涯学習センターで開催している読書会である。2023年、喬木村にゲンジボタルを見に行った頃、熱田では「椋鳩十が描いた世界と命の連帯」というテーマで、3カ月連続のワークショップを開催していた。このワークショップは、最初から3回と決めていたのだが、終わって、「椋鳩十の作品を継続的に読んでいく会があると、楽しく勉強になるだろう」という考えが芽生えた。というわけで、11月に準備会を開催。翌年1月から本格的に読み始めた。

鳩十会で読むのは、基本的には、伊那谷が舞台となっている物語。椋鳩十というと一般的には鹿児島の作家という印象がある。けれども、幼少時から高校までを過ごした伊那谷での体験は、作家・椋鳩十の自然観の礎である。まずは、伊那谷という土地を知りながら、そこに生きる動物たちや、人々の生活がよく分かる作品を、毎回、選んでいる。

これまでに登場した生きものは、ツキノワグマ、シジュウカラ、キジ、クマバチ、遠山犬、カイツブリ、キツネなど。少年期の出来事を題材にした、自伝的物語「にせものの英雄」や喬木村を舞台にした兄妹の物語「ひかり子ちゃんの夕やけ」も一緒に読むことで、椋鳩十が暮らしていた時代の村の生活や、心の交流を知ることができる。

影響を受けた本や詩を通して、当時の文学的な潮流を知ったり、物語の背後に戦争の影を読み取ったり。魅力的な文学者について考えることは、そのまま、自然、地理、風俗や風習、歴史、産業といった人々の生活をとりまく、さまざまな事がらについて思索を巡らせることに発展していく。また、参加してくださっている方々の子どもの頃の体験や、物語に触発されてでてくる記憶や知識などは、毎回、とても楽しく、後日、録音した話し合いの文字起こしをしていると、当日の雰囲気を思い出し、思わず笑みがこぼれてしまう。

遠山郷は、椋鳩十が頻繁に取材に訪れていた場所であり、作品の舞台にもなっている。南アルプスと伊那山地に挟まれた地域で、天竜川の支流、遠山川が流れている。訪ねたのは9月。飯喬道路を走って喬木村に入り、山道を進む。矢筈ダムのそばから、長いトンネルを抜けると、程野という地域に出る。遠山郷がある谷あいは、北へ目を向けると大鹿村、高遠町まで続き、さらにその先に諏訪湖がある。ここは中央構造線という、東は霞ケ浦、西は四国の佐田岬、九州へと続く大断層の上にあたり、その露頭がこの近くにある。

まず訪ねたところは、上村地区にある「上村まつり伝承館 天伯(てんぱこ)」。この地域に伝承される神事、霜月祭りについての展示がされている。夜を徹して行われる湯立てと神楽は、遠山郷の冬の風物誌。館内には祭りで使われる独特な面が飾られていた。霜月祭りに携わっている方が丁寧に説明してくださったのだが、人口の減少や高齢化により、地域に暮らす人だけで伝承し続けるのは難しくなっている地区もあるそうだ。

伝承館の隣りには、この地に務めていた神社の神職である、禰宜(ねぎ)が住んでいた旧家が保存されている。上村は、秋葉街道の宿でもあった。天竜川沿い、南アルプスの南端に位置する秋葉神社をめざす旅人は、その歩をとめて休息した。一階には、囲炉裏があり、二階には養蚕の道具が展示されていて、かつての山あいの暮らしが、そのまま想像できた。

移動して、日本のチロルとも呼ばれる、下栗の里で食事。「このあたりで、蕎麦の花が咲いていると聞いたのですが」とお店の人に尋ねると、夏にジャガイモを収穫したあと、ソバの種を撒くため、もう1~2週間あとだろうとのこと。帰りに、もしかしたら咲いているかも、と教えてもらった畑に寄ってみると、小さな白い花が、さざ波のように咲いていた。畦では、キンエノコロやイネ科の草が、風に棚引き、コマツナギの花も咲いていた。雑木に垂れ下がる、ノブドウの色とりどりの実が、とても濃い色をしていて、きれいだった。

最後に旧木沢小学校を訪ねる。1932(昭和7)年に開校した木造校舎。2000(平成12)年に閉校。現在は、資料館として使われており、学校の古い備品や資料などが展示されている。階段には、褪せた白黒の写真が飾られていて、校庭や集落で遊ぶ、子どもたちが生き生きと写っていた。かつては、たくさんの子どもたちが広い校庭を走り回っていたのだろう。写真を撮った方の優しいまなざしが、伝わってくる。地域がにぎやかだった時代の写真を、ノスタルジーで括ってしまわず、未来への青写真とすることはできないだろうか。そんなことを考えさせる、印象的な写真と出会えたことも、大きな収穫だった。

 

 

伊那谷をめぐる(一) 喬木村の四季

2022年8月、最初に喬木村を訪問し、早いもので、この夏で3年になった。最初に訪問した日のことを想い出してみると、飯田市から阿島橋をわたって、喬木村に入ると、交通量の多い飯田とは違い、静かだった。椋鳩十記念館・記念図書館の裏手にある駐車場に車を止めて、大きな杉が立ち並ぶ八幡神社でおにぎりを食べた。目の前のグラウンドでは、数人の子どもたちと先生がサッカーをしていて、声が響いていた。神社のすぐそばに柿畑があって、この辺りが市田柿の産地であることを思い出した。

10月に、八幡神社からはじまる「椋文学ふれあい散策路」を歩いてみることにした。椋鳩十の言葉「道在雑草中」の碑を見て、小高い山の上にある、とろりんこ公園まで歩く。道の途中には、トチの実が落ちていて、ところどころ鳥の巣箱が掛けてあった。積もった落ち葉を踏むと、ザクザクと音がして心地よかった。この辺りで出会う昆虫は、オツネントンボやアキアカネなど、知多半島で出会う虫と大きく変わらない。自分がいる場所が変わっても、馴染みのある生きものと出会うのは、楽しいものである。

この時期、柿は赤く実っていて、収穫の真っ最中。木の根元には、その場で剝いた皮が堆く積もっていた。夕日が丘公園に向かう道では、農作業をしている方に、「どちらから来たの?」と声を掛けられた。「名古屋です」と応えると、「あら、遠いところから。持って行って」と言って、もいだ柿をいくつかくださった。

椋鳩十が、ハイジを読んで感動とともに発見した、中央アルプスの山並みを眺めると、「わぁ!」と思わず声が漏れた。子どもの頃、遊んだという安養寺の境内は、イチョウの葉が色付いていて、散策路の終点となる生家そばの諏訪社でも、大イチョウの黄葉が見事だった。記念館へと戻る道すがら、お地蔵さんの足元には、サフランの花が咲いていた。

喬木村の春といえば、阿島祭り。フクジュソウが咲く早春が過ぎると、楽しい季節がやってくる。全長15メートルを超す大獅子を30人ほどの若衆たちが曳き回す。獅子は加々須川に架かる橋の上で、舞い踊る。2024年に訪ねたときには、ちょうどツバメがやってきたばかりで、電線にとまり、お囃子に負けじと、ピーピー鳴いていた。遠い旅路を経て辿り着いた喬木村で、巣をかける場所を連絡し合っていたのかもしれないな、と思った。

阿島祭りは、4月第一週の土日に行われる。村内の別の地区でも春祭りが行われ、4月は毎週末、どこかで春祭りがある。村内では第一小学校や、目抜き通りである県道18号沿い、阿島祭りのハイライトである安養寺など、いろんなところで桜が咲いている。八幡神社の桜も毎年きれいで、必ず立ち止まって見上げる。桜だけでなく、芝桜や喇叭水仙、雪柳、桃の花も、祭りを華やかにする。足もとを見れば、白やうす紫のスミレの花。タンポポ、オオイヌノフグリ、コハコベなど、野草の花も、普段は静かな村の春の賑わいに彩りを添える。

5月に九十九谷(くじゅうくたに)森林公園を訪ねた。ここには、クリンソウの群落がある。クリンソウは、サクラソウ科の植物で、段々につける花が、寺の塔の頂上につくられる九輪に似ていることから、その名がある。訪ねたときには、ちょうど見頃の時期で、赤紫やピンク、黄色のクリンソウが木道の整備された林床の湿地に咲いていた。

この辺りは喬木村でも、山あいを実感できる場所である。クリンソウには、オナガアゲハが吸蜜にきていて、湿地や池には、カワトンボが飛んでいた。くりん草園の向かいに九十九谷治山歴史館がある。実際に使われていた小屋で、禿山だった九十九谷が現在のようになるまでの歴史について写真とともに知ることができる。常に開館しているわけではないのが、少し残念である。小屋のそばでは、ダイミョウセセリを見かけた。

喬木村役場沿いに、川が流れている。小川川といい、伊那山地から天竜川に注ぐ。記念図書館には伊那谷の本がたくさんあるので、訪ねると手に取ってみる。あるとき、喬木村の自然について書かれた本を見ていると、ゲンジボタル生息場所の印が小川川に付いていた。それは見てみたいと思い、6月下旬に訪ねた。そよ風を受けながら、川面を眺めていると、カジカガエルの「コロロロッ」と、きれいな鳴き声が聞こえてくる。ゲンジボタルの光には出会えなかったが、夏の夜の喬木村散策は、いいなと思った。秋にはきっと、虫たちがたくさん鳴いているのだろう。秋の夜に、虫の音を聞きに来るのも楽しそうだ。

喬木村では、自然との楽しい出会いが、まだたくさんありそうである。

 

 

マツムシの引っ越し

今年も7月下旬から熱田の鳴く虫たちの音が聞こえるようになった。8月半ばを過ぎて、コオロギの仲間は、おおむね出そろったようである。

代表的な秋の鳴く虫について、今年初めてその音を聞いた日を列記してみると(代表的というのは、秋の鳴く虫とされているものでも、タンボコオロギやシバスズは、ずっと早い季節から鳴いているので)、7月27日、カネタタキ初音。28日、ミツカドコオロギ初音。31日、エンマコオロギ初音。8月8日、アオマツムシ初音といった具合である。ほかには、ツヅレサセコオロギ、ハラオカメコオロギも同じ時期に鳴いているのを確認しており、今の時期はもう、熱田を歩いていると、どこかで聞くことができる。

8月15日には、お盆の精霊送りがあり、夕方、家の前で送り火を焚いたあと、仏前のお供え物を納めるため、家から歩いて1キロ半ほどの距離にある堀川沿いの法持寺に向かう。毎年のことではあるが、ちょうど精霊送りの頃は、神宮周辺の鳴く虫が出そろっていて、よい夜の自然観察になる。道すがら、よく聞こえたのは、エンマコオロギ、ツヅレサセコオロギ、そして、カネタタキ。

お寺さんの裏手には白鳥古墳があるのだが、古墳の木々ではアオマツムシが大きな音でリーリーと鳴いていて、にぎやかだ。少し北の断夫山古墳にもアオマツムシは多い。後日、堀川沿いの対岸を歩いてみると、そちら側には木々の多い白鳥庭園があるのだが、こちらでは、アオマツムシは鳴いていなかった。理由があるのだろうか。白鳥小学校の近くでは、タンボコオロギが鳴いていて、すっかり街中にも定着しているなと思う。「ジーッ、ジーッ」と尻上がりに鳴くマダラスズの音も聞こえた。

アオマツムシでにぎやかな熱田神宮西門の前を通って、南門側から伝馬町の交差点に向かう途中、少し離れたところで「チン、チロリン」と聞こえてきた。マツムシだ。民家の庭先で一頭で鳴いている。「こんなところで鳴いていたかな?」と思いながらも、新しいマツムシスポットが見つかって、嬉しくなる。家の近くまで戻ってきたので、ついでに、毎年虫の音を聞いている新堀川沿いの草むらを訪ねてみると、昨年は聞くことができなかったカンタンが鳴いていて、ほっとした。しかし、同じ場所で、たくさん鳴いていたマツムシは、どこかへと移動してしまったようで、昨年同様、聞くことはできなかった。

三日後の18日。夜の散歩に出かけると、熱田神宮の北西にあたる旗屋交差点で、マツムシが鳴いていた。3~4頭だろうか。よく通っている場所だが、ここで聞くのも初めて。今年はマツムシを初めて聞く場所が多いなと思いながら、コースを歩いて戻ってくると、教育センターの草むらでもマツムシが一頭、鳴いていた。ここも初めて。すぐ近くの会社の駐車場脇の草むらでは、数年前から3年ほど、5~6頭のマツムシが鳴いているのを聞いていたのだが、そういえば昨年は聞かなかった。教育センター脇の草むらまでは、50メートルほどしか離れていないので、もともとそっちにいた一群が、引っ越したのだろうか。そう考えてみると、以前、伝馬町交差点で鳴いていたマツムシの音は、聞けなくなって久しいが、15日に聞いたマツムシの庭までは、100メートルほどの距離。ルーツをたどれば、交差点の草むらで毎年鳴いていたマツムシかもしれないな、と想像した。

こうなってくると、ほかのマツムシスポットも確認しておきたくなる。翌日は、以前「鳴く虫さんぽ」で訪ねた、白鳥橋の草むらに行ってみた。一頭だけいたマツムシは鳴いておらず、堀川沿いを歩くと、遠くから「チン、チロリン」と聞こえた。耳を澄ますと、対岸の草むらのようである。橋をわたると、白鳥庭園のそばの川沿いで2頭鳴いていた。

そのまま旗屋橋方面へと川沿いを歩くことにした。川沿いは、少し風があって、公園には夏休みの学生たちや、散歩している家族がいる。酷暑の毎日だけに、夜の散歩は、みんな心地よいのだろう。立ち止まって耳を澄ませていると、汗だくのランナーが追い越していった。橋に近づくにつれて、草むらからマツムシの音が聞こえ始めた。公園側の草むらからも聞こえるし、川沿いの草むらからも聞こえる。少し歩けば、また「チン、チロリン」。「鳴く虫さんぽ」をした年は、木の上でアオマツムシがにぎやかだったが、今年は真上にいない。足元に散らばった星々が、音を立てて煌めくような、十数メートルのマツムシロードを歩き、橋に到着。車の走る橋をわたり始める頃には、音は小さくなり、聞えなくなった。

 

アカボシゴマダラの夏

アカボシゴマダラという、タテハチョウ科のチョウがいる。もともと大陸の暖かい地域に生息するチョウだが、近年、日本で生息地を拡大している。1998年に神奈川県で確認されて以降、定着。2010年頃からは、関東一円で確認されるようになった。最近では、静岡や愛知、長野など中部地方でも姿が確認されるようになっている。食草はエノキ。エノキは、街道の一里塚に植えられた木でもあり、日本人の生活に身近である。アカボシゴマダラは、かつての旅人たちが長い旅路の足休めに木陰を利用したエノキを、彼らの旅の道しるべにして、関東を起点に時間をかけて南下、北上。辿り着いた地域で定着している。

アカボシゴマダラと最初に出会ったのは、昨年8月22日に天白渓を歩いていたときのことである。この年は、夏の酷暑が厳しく、名古屋では7月後半からほぼ毎日、猛暑日だった。暑さに耐えかねたわけではないだろうが、アカボシゴマダラは地上に落ちて死んでいて、在来のゴマダラチョウには無い、目立つ赤い斑で、それと分かった。

翌月12日には、同じ天白渓の森で、林内を舞っているところに遭遇。目で追っていると、木の葉の上にとまり、ゆっくりと翅を閉じたり開いたりしながら、こちらを伺っていた。すぐには飛び去らなかったので、数枚、写真を撮る。一緒に観察していた方たちと、「大きくてきれいなチョウですね」と、初めての出会いを楽しんだ。

今年7月、知多半島でチョウの写真を撮られている、チョウ撮りとんぼ・宮原一明さんから写真展のご案内をいただき、半田のアイプラザに観に行った。施設内の喫茶スペースに、知多半島で撮影された、ゼフィルス(ミドリシジミの仲間)数種の写真が展示されていて、一つ一つのチョウについて、お話を聞く。ゼフィルスは、生息場所が局所的で、時期もおおむね決まっている。5月に武豊町自然公園で開催した春の観察会では、確認できなかったミドリシジミも、その後、他所のため池付近で確認されたそうだ。ハンノキの様子など、見つかりそうな場所についてお話しながら、あきらめずに探してみるといった粘りが、自分にはもっと必要かもしれない、と思い返す。同時に、まだ出会っていないチョウの存在も知ることできて、新鮮な心持ちになった。

アカボシゴマダラのことは、話題に上った。宮原さんも、今年は特にアカボシゴマダラを見かける回数が増えたそうで、半田市の緑地で、アカボシゴマダラとゴマダラチョウが、同じ樹の幹で吸蜜していたと教えてくださった。「仲良く棲み分けられると良いのですけれどね」と話しながら、ひと時の楽しいチョウ談議を終えて、帰宅した。

ちょうど同じタイミングで、母親から、「池田さんの畑にもアカボシゴマダラが来ていたみたいだよ」と話を聞く。池田さんにお話を聞いてみると、昨年までは来たことが無く、今年が初めてとのこと。畑のある緑区以外でも、熱田でも見かけますよと、教えてもらった。熱田での記憶を振り返ってみると、在来のゴマダラチョウは、これまでに数回、熱田神宮や熱田警察署付近で見かけている。

8月に入り、お盆も明けた17日。椋鳩十研究の第一人者である、菅沼利光さんの夏期講座を聴講するため、喬木村を訪ねた。喬木村の夏も、他所と変わらず、暑い。それでも、喬木村を訪ねると、暑さ以上に気持ちが緩むのはなぜだろう。記念館の周囲は、車や電車など交通の大きな音が無い。騒がしいクマゼミはおらず、アブラゼミのジーーという音が響く。日本の四季が、本来そなえている和かな夏の情緒を、まだ感じられる場所だからかもしれない。

菅沼さんの講座は、椋鳩十の青年期の読書体験が、処女作である「山窩調」に、どのように反映されているのかが内容の中心だった。当時、日本に入ってきたばかりの海外文学からの影響、伊那谷の環境、閉塞感のある時代に対する想いが重なり合い、山の民の物語は出来上がったのでは、というお話は、自分のなかに溶け込み、楽しく勉強になった。

帰り際、記念館の入口を出たところで、アカボシゴマダラを見かけた。2023年には、隣の飯田市で確認されているので、喬木村にも入ってきたのだろう。

二日後、夏休みの参拝客がまだ多い熱田神宮の本殿のそばにも、アカボシゴマダラがやってきていた。急がずに翅を羽ばたかせていたので、ミスジチョウかなと思ったが、砂利の地面に下りると、赤い斑がすぐに見えた。周囲の木々では、ツクツクボウシが鳴き始めていて、酷暑の終わりは見えずとも、季節が進んでいることを教えてくれていた。

 

 

パンセ・コティディエンヌ 1、2

パンセは、パスカルの思索思想集「パンセ」でおなじみ、フランス語で「思考、考え」の意味。コティディエンヌは、「日常の」という意味の形容詞「コティディアン」の女性形。日本語に訳すと「日々の考え」というような意味合いになる。アルファベで綴ると「Pansée quotidienne」。「パンセ」は、一般的な広い意味での「思考、考え」なので、筋道を立てて、より深く考える場合は、「レフレクシォン(réflection)」ということばを使う。

どうして急にフランス語なのかというと、しばらく前からフランス語を勉強しているからである。10代後半から20代前半にかけて、やってみようと思っていたことは、これまで、自分なりに勉強したり、挑戦してみたのだが、やり残しているものの一つが、語学。

実用的なことを考えて、共通語にもなりつつある英語は、ちゃんと話せるようになった方が良いだろうと思ったこともあったのだが、どうも、自分に合わないことが分かってきた。なので、話すのはさておき、読解は文学部相応に取り組んでいたフランス語を、きちんと身につけてみようと思ったのである。そうはいっても、当時とはちがい、時間が豊富にあるわけではない。とりあえず、寝る前にラジオ講座を聞いたり、完全に忘れてしまっている単語を覚え直しているのだけれども、身に付いてきている実感は、まだない。

というわけで、そんな勉強も兼ねて、ことばにかぎらず、フランスやヨーロッパの自然や文化、人や歴史などについて、さまざま考えてみたことを、この「パンセ・コティディエンヌ」では、書いていけたらと思う。

ちなみに、「エッセイ」の語源は「エセ(essai)」で、「試みる」を意味する動詞、「エセイエ(essayer)」から生まれたことばである。

(1)日本人の自然観とヨーロッパ人の自然観はちがう、という話を耳にする。日本は、八百万の神ということばに象徴されるように、身近な自然物や自然現象に神性を見出したのに対し、キリスト教に代表される西洋の神は人格化されている、というのが、おおまかではあるが、根拠とされていることのようだ。日本は一年を通し、自然の変化が豊かである(であった、かもしれない)。和歌などの、ことばの表現が代表するように、そういった四季の美に心情を託し、日本人共通の美意識として、表現様式が継承されてきた文化である。

一方、西洋の文化は、人間の身体、精神にもとづくようだ。人間という存在そのものが、表現者の興味の対象であり、ギリシア・ローマ彫刻にしても、宗教画にしても、中心にあるのは、人が兼ね備える美である。哲学・思想の歴史は、それを象徴している。

ヨーロッパ人と日本人の自然観は、異なるものだろうか。というよりも、まず、ヨーロッパに暮らす人々は、自然をどのように見て、関わってきたのだろう。人の存在と対比するもの、だろうか。人の移動や人同士の争いが絶えず起こってきた地域を構成している、海や山、川や森、沼や湖。そういった環境に生きる、動物や昆虫や植物などと、どのように関わってきたのだろう。また、都市や農村などにあって、日々の生活で目にする生命や自然現象は、人々の心にどのような感情の変化をもたらすものなのだろう。

当たり前のようなことであっても、まずは、考えてみたい。科学者たちの並々ならぬ努力と追究の歴史の成果でもある、46億年の地球史をベースにして。文化、地理、文学、産業といった、人々の生活に近しいことがらなどから想い出し、私たちが暮らす身近な自然と重ね合わせて考え、その先に、東西を問わず普遍的な自然観が生まれてくるとよいな、と思う。

(2)モンテッソーリ教育の創始者であるマリア・モンテッソーリは「コスミック・タスク」ということばで自然や生態学から学ぶことの大切さを説明している。コスミック・タスクとは、地球上の生きものが、生き残るためのよりどころとし、世代をつなげていくため、安全に維持していかなければならない「環境」に対して、それぞれの種を構成するものによって寄与される奉仕、のことである。

植物には植物の、動物には動物の、菌類には菌類のコスミック・タスクがある。では、ことばや道具を生み出し、考える能力に優れた、私たち人類のコスミック・タスクは、なんだろう。生命の揺籃である地球にあって、すべての生きものが、環境の急変によって生存と世代交代の継承が危ぶまれることのないよう、運営していくことではないだろうか。

 

 

名古屋、野歩き(四)新地蔵川

3年前に始めた西味鋺観察会も、今月、矢田川での生きもの探しで27回目となる。この観察会は、地域の方々のご協力のもと、ある地域の自然の様子を通年で観察するというテーマで開催してきた。私たちが日々生活する環境には、どのような自然の変化があり、それらがどのようにつながり合っているのか、少しずつ分かってきた気がする。

西味鋺学区で特徴的な環境というと、「川」だろう。学区の南端を流れる、川幅の広い一級河川、庄内川と矢田川。それと、北端を流れ、農業排水や治水に利用される新地蔵川。

毎年夏に行う川の生きもの探しでは、ハグロトンボやコヤマトンボのヤゴ、テナガエビ、川の魚などが棲んでいることを確認してきた。調査場所の川岸に咲く花は、特徴的な外来の植物があらわれて、消える。オオカワジシャ、セイヨウヒキヨモギなど。川岸の昆虫では、クズの根元に虫こぶを作って育つ、フェモラータオオモモブトハムシなどを見つけた。矢田川、庄内川は、西味鋺学区の代表的な観察地になっている。秋には、庄内川の河畔林にいる虫たちを知るため、灯火採集も予定している。

一方、新地蔵川は、住宅街を流れる水路である。護岸された川には、柵もあり、容易には川辺まで下りられない。これまでの観察会では、川周辺の草花を調べてきた。タンポポ、スミレ、ノジシャ、カラスムギ、ヤグルマギクなど。観察会のとき、「一度、川の中に入って調べたいね」という声があり、観察会とは別に、調査をしてみることにした。

6月8日の午後、コミュニティセンターに集合し、新地蔵川へ向かう。上から川の様子を見ると、深そうである。春にはコイがたくさん来ていて、産卵行動をしていた。産卵場所にはセキショウモが繁茂しているのだが、写真を確認してみたところ、3年前には川に無かった。この2年の間に一気に増えたようだ。

東の思清橋近くの階段は、イタドリやヤブガラシが繫茂しており、道を歩いているだけでは、階段があることにも気づかない。狭い階段を一人ずつ下りる。階段の中ほどで、ハグロトンボが飛ぶ。上で待っている小学生たちが、この後ハグロトンボを捕まえていた。

胴長を履いた生まれも育ちも西味鋺のIさんと、先生が代表して川に入る。水の深さは膝上くらい。5~60センチ。川の流れは、緩やかである。川底の感触を聞くと、石の粒が矢田川よりも小さく、歩きやすいとのこと。対岸まで歩き、川底の砂利をすくいながら、生きものがいないか確認していく。「お、大きいのがいた!」と、声が上がる。見つかったのは、甲長7~8センチのモクズガニ。上からは、コイとアカミミガメくらいしか見かけることがない、街中の水路である。「矢田川にはいるけれど、新地蔵川にもいましたね」と驚きながら調査を続ける。この場所ですくえた生きものは、ほかに、ウナギの稚魚、ヌマエビ(スジエビ?)、ザリガニの子ども、ヒル。季節が変われば、まだ何か見つかりそうである。

40分ほど調べて、西側、川の下流へ移動する。西味鋺小学校近くの橋は慈恩橋という。こちらは護岸ブロックがむき出しで、階段も分かりやすい。ふたたび柵の鍵を開けてもらい、川へと降りる。今回は大人だけでの調査なので、水に入れない子どもたちから、「近くまで下りてもいいですか?」と声が掛かる。大人からのOKが出ると、嬉しそうに下りてきて、バケツを覗き込む。大人も、子どもたちも、それぞれの興味に従い自由に観察する、いつもの会とは異なり、調査や下見の際には、時間内にすべき仕事がある。年齢に幅のある小学生たちが、水に入るのは難しそうである。だが、自分たちが暮らす川に何がいるのか知りたいという気持ちは強いはず。中学生になったら、調査にも参加させてあげたい。

慈恩橋下で見つかった生きものは、ウナギの稚魚とミシシッピアカミミガメの子ども、ゴクラクハゼ。ゴクラクハゼは、ヨシノボリの仲間。河口付近の汽水に棲むが、ダム湖やため池など淡水にも棲むそう。河口からここまでやってきたのだろうか。調査のあいだに見つけた陸の生きものは、ハグロトンボ、アゲハチョウ、モンシロチョウ、ダンゴムシ、アリ、カメ7匹、ゴマダラカミキリ、セマダラコガネ、ヤマトシジミ、ガガンボ。確認した花は、ユウゲショウ、ノハカタカラクサ、オオキンケイギク、ランタナ、ムラサキカタバミ、オオカワジシャ、コセンダングサ、テリハノイバラ、クロガネモチ、コバンソウ、名前の分からない紫色の合弁花。そして水際にたくさん生えるイグサの仲間。

次回も楽しみな、第一回目の新地蔵川調査だった。

 

 

一枚の写真から(下)

6年後、病床の南吉から作品の取り扱いを託された聖歌は、戦争が終わると、すぐに南吉の童話集を刊行し始める。1948年には、疎開先の岩手から日野に引っ越して、散逸していた書簡、日記、原稿なども積極的に収集し始める。56年に大日本図書の教科書編集委員になり、「ごんぎつね」を推薦。初めて教科書に掲載される。

南吉がまだ東京にいた頃、聖歌は北原白秋の弟・北原鐵雄が社長を務める出版社・アルスに勤めていた。日野市郷土資料館が編纂した「たきびの詩人 巽聖歌資料集 一」(2020)には、1933~34年に、聖歌がつけていた日記が載っている。この日記は、アルスでの業務日誌で、日々の業務内容が端的に記されていて、毎日忙しく仕事をしていたことが、よく分かる。紙の発注や経理なども担当していたため、取引先の名前や取引額、用紙や部数など、出版に必要な具体的な数字や現実的な言葉が記されている。当時、南吉は学生だったが、聖歌は社会人だったのだなと、当たり前のことを実感する。

南吉作品を世に出すと決めてからの奔走ぶりからして、元来、聖歌は編集者気質なのだろう。編集者の仕事は、ただ文章を読んで本にすることではなく、出すべき本を出版するために、些細なことでもきちんと考えて手を抜かないことだと思う。千春たち家族の協力もあって、南吉の作品は、世の中で広く読まれるようになっていく。

聖歌が南吉に関して編集に携わった主な本は、1960年「新美南吉童話全集(全3巻)」(大日本図書)、62年「墓碑銘 新美南吉詩集」「新美南吉の手紙と生涯」(ともに英宝社)、65年から「新美南吉全集(全8巻)」(牧書店)、71年「新美南吉 十七歳の作品日記」(牧書店)など。もちろん南吉の仕事だけでなく、児童詩や作文教育の発展に寄与する仕事をいくつも掛け持っている。全国の学校から依頼されて、校歌の作詩も数多く手掛けた。

聖歌は、1973年の春に亡くなる。全集を刊行したときに新聞記事などを切り抜いていたスクラップ帳には、「南吉よ 遅い春だったなあ けれど おれはこれで せいいっぱいだったんだよ 四十年秋 花咲ける日の南吉へ」と記されていた。

聖歌が亡くなり、しばらくして、親しい友人たちから巽聖歌全集を作る声が挙がる。準備も進められたが、出版不況のあおりを受けて全集刊行は困難となってしまう。その前段階として、詩と短歌をまとめた「巽聖歌作品集(上・下)」と、別冊の回想録が制作された。没後50年が過ぎ、全集制作再開の機運が、再び高まっていくとよいな、と思う。

作品集で詩の部分を担当したのは、聖歌の活動を友人として支えた、清水たみ子。上野公園の写真に写る女性で、彼女もまた、2010年に亡くなるまで、生涯にわたり、詩・童謡などを発表し、戦後の児童文学界の発展に貢献した。90年に発表された詩集「かたつむりの詩」(かど創房)に収録された詩には、聖歌や南吉と重なるものが感じられる詩も多い。小さな生きものたちも登場する。詩を作るために大切な事柄を、自然と共有していたのだろう。80年から刊行が始まる「校定 新美南吉全集(全12巻、別冊2巻)」(大日本図書)にも貢献。雑誌のインタビューでは、ハキハキと物を言う千春と南吉はとても気があっていた、というエピソードを、楽しげに語っている。

聖歌の没後、千春は悲しみに暮れる。「野村千春展」図録に寄せられた文章で、長女の中川やよひさんは、このように回想している。「昭和48年に父を亡くして、母は自分の絵も人生も終わったと思い、先が分からなくなっておりました時にも中川一政先生に『千春の絵が本当の絵だよ』と励ましていただき『絵を描くことは生きること、生きることは絵を描くこと』として自負をし、死ぬまで筆を持ち続けることが出来たのだと思います」。毎年、春陽会と創立時から参加している女流画家協会展に出品し続けた。

土とともに、花の絵も描いていた千春であるが、亡くなった年の春陽会展に出品された絵は「吾亦紅と女郎花」だった。一見、花なのかどうかも分かりづらい、地味ではあるが昔から親しまれているワレモコウと、華やかで女性的なオミナエシ。千春の絵では、方々に大胆に伸びるワレモコウが、寄り添うオミナエシを包み込んでいるように見える。オミナエシの別名には、想い草というものもあるそうだ。

2000年12月12日、千春は、91歳で逝去する。聖歌の誕生日と同じ日に、巡り合わせのように、天国へと旅立っていった。