話は一旦、丈山苑を訪ねた日に戻る。
安城市の丈山苑をあとにして、油ヶ淵を見ながら、車を碧南方面へと走らせる。目的地は藤井達吉現代美術館。常設展示は、第4期で「いただきます! 収穫の秋」をテーマに、ゆず、やまいも、柿といった秋を代表する収穫物の墨画などが展示されていた。
二階では、藤井達吉を敬愛し、碧南に縁のある作家の方々による作品が展示されていたので、上がっていくと、受付に座っていた方に、「どこでこの展示を知られましたか?」と声をかけられた。「藤井達吉が好きで、一階の常設展示を見に来たんです」と応えると、「私の父は藤井先生の弟子だったんです」とおっしゃる。この方のお父さんは、小原村の研究会で指導を受けており、子どもの眼に先生は、にこにこ笑って気のいい好々爺だったそうだ。「作品を見ていると、とても丁寧に自然を見ていたのだなと、よく分かります」と伝えると、「父が話していたのですが、夜寝ていると急に先生に起こされたそうです。『こんな良い月が出ているのになんで寝てるんだ!』って」と、笑いながら、エピソードを教えてくださった。いつでも身近な自然の変化を観察し、その美しさを敏感に感じ取っていたのだろう。
さて、前述の「やまいも」の墨画には達吉による歌が書き込んである。「や末非東駕 も傳来て久連し い母乃な駕左餘 面都羅し美尓川ゝ い久日見傳を理(山人が 持て来てくれし 芋の長さよ 珍らし見につつ 幾日見てをり)」。
達吉は歌や言葉を作品に書き入れることがよくあり、墨画だけでなく、絵巻、色紙などの作品も数多く残している。1500点近い作品を所蔵する愛知県美術館には、それらの絵巻、色紙が所蔵されている。通常の変体仮名だけでなく、独自の変体仮名も用いて書いているため、時間はかかりながらも、読み下しはかなり進んでいるそうだ。それらの題は、絵巻「和紙漉込」、絵巻「はるの野路」など、自然の風景や藤井達吉らしい言葉が並んでいるので、いつか展覧会で大きく展示していただけると、とても嬉しい。
達吉が影響を受けた色紙は、継色紙と呼ばれる古筆。ブリタニカ国際大百科事典によると「もとは白、紫、藍、黄、茶などに染めた料紙を粘葉装にした冊子であったが、1906年に1首ずつ分割されて現在の形になった。色紙を2枚継ぎ合せたような見開きの2ページに短歌1首を散らし書きにしているのでこの名がある」というもので、平安時代の能書家である小野道風(894~966)が書いたとされるが、確証はないそうだ。
春日井市は小野道風ゆかりの地である。11月上旬、春日井文化フォーラムで開催していた展覧会「金子みすゞの詩 100年の時を越えて」を観たあと、時間があったので、春日井市道風記念館に立ち寄った。小野道風というと、「柳に飛び付く蛙」の話がよく知られている。柳の枝へ何回もあきらめずに跳び、とうとう柳に跳び付いた蛙を見て、あきらめずに努力すれば、自分も書の道で大成できると気づいた、という逸話だが、江戸時代に創作された話だろうと考えられている。二階の展示室では、市内の小中学生の書道展が開かれており、自分にはとても書けないだろう、きれいな楷書の文字が書かれた半紙が、部屋いっぱいに展示されていた。ほのかに墨の香りがして、懐かしく、心地よかった。
平安時代は、中国由来の漢字による文化から発展し、日本独自のかな書きによる文化を築いていこうという気運が生まれ、道風は和様の書を創始して、最前線で文化をけん引していく。和様の書は、藤原佐理、藤原行成へと受け継がれ、以降の書道に大きな影響を与えた。
万葉の時代は、身近な自然の様子に心を重ねて、純粋で素朴な歌が数多く作られていた。しかしまだ、かな文字が無かったため、漢字(万葉仮名)で書き残した。平安時代になり、文字はより言葉を使う人々に寄り添うようになるが、歌自体は技巧が先行し、自然との関りは薄らぐ。道風はどのような自然観で、書の道を歩んでいたのだろうか。
椋鳩十を読む会に参加してくださっている方に、ご協力いただき調べたところ、亀崎の風景を漢詩にした浅野醒堂は、江戸末期、尾張国に生まれた漢学者で、明治から昭和のはじめまで、愛知師範学校(現在の愛知教育大学)で漢文、書道を教えていた。漢詩人としては、全国に知られる存在だったという。また、小野道風の顕彰活動にもかかわっていたそうだ。さらにその生まれた場所が、七里の渡しのそばにあった熱田旧浜御殿屋敷というのも興味深い話だが、浅野醒堂についての詳しい話は、また別の機会に。