自然を見る眼

宮本常一(1907~1981)は、現在の周防大島出身の民俗学者である。アカデミズムとは一線を画しながら、フィールドワークを重んじて、日本各地を歩き調査した。写真による記録の有用性にも着目。各地で撮影した写真の枚数は10万枚を超える。「みる」「きく」「あるく」をフィールドワークの基本とし、生涯にわたり、実践し続けた人物である。少し上の世代の民俗学者である柳田国男とともに、一般的にもよく知られていると思う。

宮本常一が53歳のときに書いた、「自然を見る眼」という文章がある。私たちの日々の観察にも通ずる、示唆に富んだこの文章について、自分を重ねて考えてみようと思う。この文章は、平凡社のスタンダードブックス・シリーズ「宮本常一」(2019)に収録されている。25ページほどの長くはない文章なので、是非、探して読んでみてほしい。

書かれたのは、1960年。当時の時代背景を簡単に記しておくと、45年に戦争が終わり、戦後復興の時代を迎える。55年頃から始まる高度経済成長期は、東京オリンピックが開催された64年に折り返し、73年頃まで続く。1960年は、海や河川の水、空気などの汚染による健康被害、いわゆる公害が全国的に表面化し始めた時期。また、カラーテレビが登場し、普及し始めたのも、この頃である。

文章の冒頭で、宮本常一はまず最初に、動物学者であり、大森貝塚の発見者であるモールスの観察を説明する。カラスが日本人の近くに寄ってくることに驚くモールスの話を引きながら、人間はかつて野鳥と仲が良かったことについて考える。地方の文化や伝承、神事、子どもたちが聞く昔話などに目を向けて、いくつかの例示をしながら、人と鳥との関わりを語る。人は親しみを持って鳥と接し、「人間につながるもの」として観察を深めていた。それは鳥に限らず、獣や昆虫、植物に対しても同様だった。翻って現代は、そういった生きものたちが、害虫、害獣といった駆除の対象となり、さらには対象ではない生きものまで、著しい減少を見せ始めていると憂慮する。

そこから60年、時代の進んだ現代に生きる自分の体験に重ねてみると、生きものが著しく減ったという実感は乏しい。つまり、私が観察を始めた頃には、減少しきったのである。「かつては、あそこにいた」という話を基に、四季を通じて同じ場所に通い、「まだ、いる。ある」ことを確認する。当たり前に、人の身近にあったものも、現代では、ある程度場所を知っていないと出会わなくなったのだ。かつて以上に増えたというケースは、あるのだろうか。

減少の背景には、「科学的」が意味することの変容があると、宮本常一は考える。対象を冷徹に見つめ、客観的事実を引き出し、法則や構造を見出すことが科学的なのではない。自然が激減している現状を見て、人間として貴重な何かが、「科学的」という名のもとに失われつつあるのではないか、と憂う。もっと自分自身の方法と努力によって生み出された知識で語られなくてはいけない。そのために、できるだけ自然そのものに多くふれる機会をもたなければならない。古来、人々は、自分たちの生活を取り巻いている自然を見る眼を、こまかに、切実にしていくことで、本質を見極めてきた。

私は文学畑の人間なので、科学的な態度に関しての明快な考えや言葉は、持ち合わせていない。けれども、宮本常一が伝えようとしたことは、よく理解できる。

日本人は、もともと自分で得た知識を大切にしてきた。日本の少年たちの自然観察のするどさにモールスは舌を巻いたそうだ。それが西欧に比しての文化の立ち遅れを取り戻すために、勇み足のような知識の習得を植え付け、資本主義的な経済のシステムがあおりたてている、と嘆く。宮本常一の言葉は、半世紀以上が経った今、どう受けとめられるだろうか。

それでは私はと言えば、身近な自然を考えるための「文学的アプローチ」を「椋鳩十を読む会」で実践している。椋鳩十の書いた物語を読み、自身の体験などと重ねながら、話し合う。観察会とは違った話が聞けて、新鮮な発見がある。自分が知らない時代や環境を知る方たちの話は、フィールドワークを通して得てきた知識とも、よく重なり合うのだ。

観察会では、本来の意味での「科学的アプローチ」を、参加した方たちと実践して行けたらと思っている。まずは自然そのものにふれること。観察地がどこであっても、同じ自然を見る眼で、本質に近づいていきたい。その積み重ねによって、20世紀でも、それ以前でもない、21世紀の自然観が私たちの中に培われると期待して。

 

鵜の隊列

熱田に暮らし、知多半島をめぐっていると、鵜が空を飛んでいるところをよく見かける。熱田に限らず、市内の川や海などに来るので、身近な鳥である。鵜の仲間には、カワウ、ウミウ、ヒメウがいるのだが、見分けるのは難しい。海鵜、川鵜という名前に従って、海で見かけるのでウミウと思ってしまうが、知多半島の海岸は、カワウが多い。また、岐阜の長良川の鵜飼いにはウミウが使われている。昨年、海で鳥の観察をしていて、「ヒメウも混ざっていますね」と教えていただき、冬にやって来る一回り小さい、ヒメウを知った。

鵜の仲間のなかでも、カワウは、人に身近な存在で、知多半島はカワウの繁殖地として知られている。大正時代に全国に広く分布していたカワウだが、エサとなる魚が川から姿を消したため、1970年代には、3000羽まで減少した。彼らの繁殖地(コロニー)は、知多半島を含め、全国に数か所しか無くなってしまう。だがその後、河川の水質が改善し、魚が川に戻ってくると、カワウたちは、たくましく増加していく。現在では全国にコロニーが確認されており、15万羽以上いるという話である。

確認している知多半島のカワウのコロニーは、3か所。一つは、1934(昭和9)年に鵜の繁殖地として天然記念物指定された、鵜ノ池。この地域では、鵜の糞が、リン酸を多く含んでおり、質の良い農業用の肥料になるということで、村全体で糞を集めて売却し、その収益を村の生活に還元し、臨時収入としても分け合ったそうだ。天然記念物指定を受けるための申請書にも、糞の肥料としての価値の高さが記されていたという。もう2か所は、鵜ノ池と知多半島道路を挟んだ反対側にある、菅田池と菅苅池。菅田池では、コロニーのすぐそばまで近づくことができる。2月頃になると、子育てが始まり、周辺の雑木林や池の畔は、糞で真っ白になる。雑木林を歩くと、大きな声で「グルルルッ」「ギュワッ、ギュワッ」という鳴き声が樹上から聞こえてくる。エサや、巣の材料を咥えて戻ってきて、再び飛び立っていく親鵜と、巣の中でエサを待つ、子ども鵜。冬から春にかけて、一番にぎやかな季節だ。

カワウは、留鳥または漂鳥とされ、一年中見かける。早朝にエサをとるために、隊列を組んで移動する。熱田の周辺では、七里の渡しや堀川によくやってきているが、その数がとても多い時が、たまにある。一昨年の春には、名古屋国際会議場で観察会報告会を開催した帰りに、数百羽のカワウが飛来していた。堀川の水面を覆う、鵜の群れ。ボラの群れが海から遡上していたのだろうか。潜水を繰り返し、魚を獲っていた。

留鳥とは、一年を通じて、同じ地域に暮らす鳥のことを指す。一方、漂鳥とは、季節によって国内で生活の場を変える鳥のことを言う。北日本から西日本へ移動したり、山から平地へ移動したり。ウグイスやモズなどが知られ、スズメにも、長距離を移動する個体群がある。

2021年12月。初夏に海浜植物の花を観察している常滑市の海岸で、冬の海を歩くという観察会を行った。風もあって寒い日だったが、子ども達も参加して、サクラガイやサルボウなどの貝殻を拾ったり、海岸に生える植物の、木の実や、冬越しの様子を観察した。観察会が始まる前、浜には、優に千羽を超えるカワウが集まっていた。百羽以上が一団となり波打ち際にいて、海沿いにいくつも一団の塊がある。カワウたちは一様に沖を見ている。最初に遠くの一団が沖へと飛び始めた。先には、始まったばかりの海苔養殖の粗朶(そだ)が立てられており、周囲を小舟が走る。粗朶の少し手前の海上すれすれを、黒い鵜の列が伸びていく。一団が飛び立ったら、それを追うように、次の一団が飛び始める。しばらくして、また次の一団が飛ぶ。そうして鵜の大群は、伊勢湾の沖へと飛び去って行った。

こういうことはよくあるのだろうかと、調べてみると、他の地域でも、まれに見られることがあるそうだ。ただ、頻繁にあるわけでは無く、毎年見る光景でも無いらしい。カワウは漂鳥でもあるので、暖かい南方へと集団で移動していったのだろうか、と考えている。

2月上旬、そろそろ本格的に観察シーズンが始まる。その前に、自然と文学についての見識を深めておくため、東京・世田谷にある文学資料館を訪ねることにした。日本橋、新宿、世田谷と丸一日、移動するため、朝、早めに家を出る。休日で人のいない教育センター前の道を、駅に向かって歩いていると、正面の空に、鵜の隊列があらわれた。菅田池では、子育てを始める時期だ。Ⅴ字を描いた隊列は、立ち止まって見上げた私の頭上を過ぎながら、直列に変わり、そのまま乱れること無く、後方の空へと消えていった。

 

 

南知多の風景

知多半島の最南端に位置する南知多町。人口はおよそ1万5000人。1958(昭和33)年に、愛知県で最初に指定された国定公園「三河湾国定公園」の一部であり、薪炭としても活用されたウバメガシを中心とする雑木林が、町の半分ほどの面積を占めている。沿岸部では水産業が盛んで、漁獲量は県内一。海浜植物が生育する砂浜や、海辺の生きものたちが生息する岩礁も、かつてに比べるとずいぶん減ってしまったが、まだ残っている。

町内の各地区は、三河湾側の北から時計回りに、豊丘、大井、片名と続き、半島先端に羽豆岬のある師崎。伊勢湾側に回って、豊浜、山海、内海。内海を過ぎると、観察会の開催地でもある美浜町の小野浦となる。島しょ部では、篠島、日間賀島が南知多町になる。

南知多町のなかでも、これまで縁のある地区が大井と内海だ。大井には、最近は滅多に見かけなくなってしまったシュンランが自生している森がある。海沿いでは、鳶ヶ崎という岬の名前が示すとおり、トビが営巣しており、一年中、空を見上げると飛んでいる。冬場は、ツルウメモドキなど木の実も豊富で、サネカズラの実は多く見かける。あちらこちらで真紅の実が垂れ下がっていて、寒風のなかを歩いていても、見ると少し明るい気持ちになる。

昨年の6月、以前からとてもお世話になっている味噌・たまり蔵の徳吉醸造さんを訪ねると、「ちょうど今の時期は、クサフグの産卵時期です」と教えていただいた。シーズンは6月いっぱい、新月と満月の頃、満潮の3時間ほど前が産卵ピークとのことだった。月齢を調べて、新月の日に、上陸大師像のある聖崎公園に行ってみた。岸壁沿いのテトラポット下の砂地で、数百匹のクサフグが波に揺られながら、産卵行動を繰り広げていた。毎年調査している研究者の方が来ていて、「以前は砂がもっとあったので、クサフグの数も多かったのですが」とおっしゃっていた。大井は、まだまだ自然の不思議と出会える土地だと思う。

もう一つの地区、内海も楽しい土地である。一般的には、夏に砂浜が海水浴客でにぎわうことで知られており、「砂時計の町」という看板もあちこちで見かける。

海水浴場のある浜から、東へしばらく行くと、つぶてヶ浦がある。海岸は岩礁が広がっているのだが、ここの岩には、対岸の伊勢から力比べで神さまが投げた岩が落ちたもの、という言い伝えがあり、鳥居が立つ。古くは浜で塩づくりが行われていたので、製塩土器の欠片もよく見つかる。夏場に岩礁にできたタイドプールをのぞくと、クロナマコやヒライソガニがいたり、ギンポが貝のなかに隠れていたり。砂浜ではスナガニが地面に穴をあけて生活していて、遠目に見ていると、砂団子を巣から運び出している。海浜植物も春から初夏にかけて花が咲き、ハマダイコン、ハマヒルガオ、ハマエンドウなどが彩る。

昨年の秋に、たまたま、同じようにこのつぶてヶ浦に魅かれて作品づくりをされている方と奥さまと、ギャラリー「ガルリラペ」で知り合いになったのだが、実は、私が子どもの頃にすでに出会っていたことが分かって、とても驚いた。縁というものは、本当に不思議なものだと、つくづく感じる。

内海の集落には、入見神社という神社があるのだが、ここものどかな雰囲気が漂う気持ちのいい神社だ。狛犬の姿形が個性的で楽しい。近所には、鳥の観察でお世話になっている方が住んでみえて、よく訪ねるのだが、名古屋から知多半島道路を走ってきて、集落に入ると、ふっと心のテンポが変わる。何が理由なのかはよく分からない。

忘れてはいけないのが、内海には「はじまりの森」がある。2019年8月、最初に訪ねた3か所の観察地のうちの一つ。スギとウバメガシの森で、この5年半で一番足を運んでいる場所。ここで出会った生きものや植物には印象的なものも多い。同じように、この谷筋と森をチョウの観察場所にしている方とも知り合い、また訪ねる楽しみが増えた。

南知多には興味のある場所が、まだまだ多くある。山海の海岸には、岩礁が続く場所がある。豊浜の小佐漁港の近くから急坂を上ると、山から海が一望でき、一面に畑が広がる。内海には、小高い場所を選んで石の四天王像が立てられているが、それぞれ興味深い森である。大井には湧水湿地があるという話も聞く。観察テーマは、まだまだ尽きない。

観察だけでなく、南知多の自然や土地に魅かれて訪れた人たちが、さまざまな表現活動を始める、そんな未来も想像してみる。世界を例にとれば、ブルターニュ、スケーエンなどが思い出される。なんだか、とても楽しそうだ。

 

 

これでよいの塩梅

12月に入った。10月から11月にかけて、さまざまな場所を訪問し、開催する行事も多かった。そんな慌ただしい日々の中でも、楽しい出会いがたくさんがあり、考えることに追われていながらも、充実感があって、今年のハイライトと思える二カ月間だった。

エッセイを書こうと思いながら、なかなか、まとまらずにいる。なので、なんとなく考えていることを、トレースしながら、そのまま、今年最後のエッセイにしようと思う。

少し前のことだが、ぼんやりと、こんなことを考えた。「『でんでんむしのかなしみ』のカタツムリが、ナメクジと出会ったら、どう思うだろう」。「でんでんむしのかなしみ」は、新美南吉が書いた幼年童話の一つ。一匹のカタツムリが、自分の背負っている殻には、悲しみが詰まっていることを知り、どうしたらよいか考える。友だちのカタツムリに、私は不幸せですと話すと、友だちは、私の背中にもいっぱいだと言う。別の友だちにも聞いていくが、同じ答えが返ってくる。そして気づく。悲しみは誰でも持っていて、私は自分の悲しみを堪えていかなくてはいけない。カタツムリは、不幸を嘆くことをやめる。

数年前、ある自然史博物館を訪ねた時に、陸生貝類についての展示があった。陸生貝類は、カタツムリやキセルガイなどが知られるが、ナメクジも陸生貝類に入る。解説をよく読んでいくと、イメージと異なり、ナメクジは、カタツムリより原始的な生物ではなくて、進化した生物と書いてあった。殻のなかにあった器官を体の方へと移し、殻に隠れることができるメリットよりも、背負わないメリットを追求し、殻を背負わずとも生きていけるようになったのがナメクジ、というような内容だったと思う。

おぼろげな記憶を思い出しながら、こんなことも考えた。「でんでんむしのかなしみ」のカタツムリに、ナメクジは、こう言うのではないか。「わたしはもうかなしみをせおうのをやめました。あなたもそうしたらどうですか」。

なんとなく糸口が生まれたので、その先のカタツムリとナメクジの対話を想像し始めたのだが、それ以上、考えるのはやめた。なぜかというと、自分なりの結論が、もう出ていることに気づいたからである。私が考えるカタツムリは、この後、どのような対話をナメクジと展開したとしても、悲しみを背負うことをやめない。なぜかと問われたら、上手く説明することは難しいのだけれど、たぶん、やめない。

進化は身の回りの環境に適応して、世代交代し続ける可能性をより高めることを目指すものだと思う。ナメクジは、身を軽くし、どのような場所にでも入っていけるように体を作り替えた。大きな、重たい殻を背負わず行動するさまは、カタツムリであった頃よりも、スマートになったと言えるかもしれない。カタツムリは、天敵がやってきたら、背負っている殻の中に隠れることができる。けれども、そこに詰まっているのは悲しみ。悲しみのなかに身を隠し、じっと過ぎ去るのを待つカタツムリよりも、自分を取り巻く環境に適応して、賢く動き回るナメクジの方が、周囲の危険と対峙する力があるようにも見える。

ナメクジの言葉を聞いたら、カタツムリは思うだろう。「自分もスマートになれたらどんなにいいだろう。私の背負っている殻は重いし、中には悲しみが詰まっているのだから」。だが一方で、こうも考える。「しかし、みんなが悲しみを背負うことをやめてしまったら、世の中に生まれる悲しみは、誰が背負うのだろう?」。カタツムリは考え続けるが、結論は出ない。進化を選んだら、再び戻ることはできない。生物の進化は不可逆。一度下ろした殻を再び背負うことは、できない。

ここまで書いてみて、いよいよ何かを言いたいような文章の流れになってきたので、この辺りでやめようと思う。この話もまた、よくある言葉遊びである。

さて、年内にまだ訪ねる場所、大事な会が、いくつか残っているが、そうしているうちに今年も大晦日を迎えるだろう。来年、2025年は、今世紀が始まり、四分の一が経過する節目の年。来年もまた、身近な自然をよく観察して、文学者・表現者たちが書き記してきた文章をよく考えながら、自分の為すべきことに、丁寧に取り組んでいこうと思う。

一年間、エッセイを読んでくださり、ありがとうございました。少し早いですが、みなさま、お身体に気をつけて、良い年末年始をお過ごしください。

 

 

三つの琅玕(下)

かつて東京に琅玕洞という画廊があった。つくったのは彫刻家である高村光太郎で、実弟が経営した。日本で初めての近代的な商業画廊だったが、経営が上手く行かず一年で閉店。しかし、実際には経営者と場所が替わり、20年以上存続していた。そして、経営が移って以降、より深く関わった芸術家の一人が、碧南出身の工芸家・藤井達吉である。

10月の終わり。瀬戸市で、ある現代美術のイベントがあり、藤井達吉の「無風庵」が公開されていると知り、観に行った。無風庵は小原村から移築された工房である。急な坂を上った小高い山の上に、茅葺きの庵はあった。縁側から覗くと、六畳間が二つつながっていて、片方の畳は外され、美術家によって、珪砂の山が築かれていた。部屋に上がる。天井はきれいな竹組で、奥の小さなふすまに、藤井達吉の墨画を見つけた。一枚は、野山の風景。あとの二枚は、野の花。花の一つは、キク科の花の綿毛だろうか。もう一枚は考えてみるが分からない。少し褪せてはいたが、素朴な絵で楽しい。土間の展示ケースには、きのこの掛け軸、七宝焼き、陶器の皿、花瓶、達吉が実際に使っていた画具が飾られていた。展示スタッフの方に聞くと、普段は一般公開されていないため、地元の方も訪ねてきているそうだが、藤井達吉の名は、よく知られている、ということでは無さそうだ。

瀬戸に行く前に、碧南市にある藤井達吉現代美術館を訪ねた。今年に入ってから、2回目の訪問。地元の秋祭りと重なって、美術館付近の道は、人でにぎわっていた。入館無料の日だったからか、館内も前回来たときより人の数が多い。2階の企画展示「没後100年 富岡鉄斎」を観覧して、1階に下りてくる。階段下では、藤井達吉翁像が笑顔で座っている。最奥の展示室に入ると、藤井達吉の年表が掲げてあり、作品が展示されていた。

コレクション展示は、第3期で、展示テーマは「自然へのまなざし」だった。一点ずつ、ゆっくり観ていく。森に生える羊歯の様子を描いた屏風絵「ぜんまい」。雑木林の林床には、シダがよく茂っているところがある。近くに小川があり、湿気があるような場所では、オシダの葉がこの絵のような様子で生えている。人が歩きやすい道よりも、少し森に踏み入ったところ。この絵のモデルとなった場所も、あまり人が立ち入らない森の中と思えるが、森に行くのが好きだったのだろうか。

知人の茶室の天井画として描かれた草木の花。全部で36枚あるが、そのうち5枚が展示されていた。春に来館したときに購入した「藤井達吉の全貌」展図録(2013)によると、植物図鑑と照らし合わせて、一点一点、植物の名前を調べ、だいぶ種名が判明したそうだ。そのうちの一枚、印象的な青い花のシラネアオイは、美術館のモニュメントとしても使用されることになった。よく目を惹く、素敵な図柄だと思う。

「羊歯文書棚」と題された棚も、おもしろい。高さが1メートル、幅が40センチ、奥行きが70センチほどの木の書棚全体をシダが包んでいる。眺めていると、シダの葉の統一された模様に目が離せなくなる。シダの葉が備える形体の美は、写真を撮っていても、楽しい。雑木林を観察していると、花の重なり合いや木の枝の絡み合いなど、偶然の美、規則的な並びでは無い部分に、美を感じることが多いのだが、シダは規則的である。そこに木々の間からこぼれた光があたると、また、美しい。規則的な美は、人工物だけの領分ではなく、自然の中にも整った美があることを分かりやすく実感するのが、シダなのだ。

後日、「藤井達吉の全貌」に付属していた、自筆自叙伝「矢作堤」を読んだ。原本は1961年の大晦日から、62年の新春、そして同年2月に書かれた散文である。81歳の達吉が人生を振り返って、誤字も気にせず、筆の向くままに言葉を綴っている。最後の方では当時の社会や、科学の発展について、憂いをもった言葉が続いていた。

「人間が政事だ、宗教だ、芸術だ、化学だといっても、大したことはない。(中略)化学の最後は地球中の生物 植物を絶やす丈けだ、一片の小石を見ても、小草の実を見ても何という自然の力よ、」。化学と科学を分けて書いていないが、言葉は、同時代のレイチェル・カーソンと重なる。62年に「沈黙の春」は発表され、64年に「生と死の妙薬」という邦題で日本でも出版された。カーソンは、この年の4月に亡くなる。藤井達吉の没年月は、同年8月。偶然である。けれども、時代が危機に直面する時、同じような危惧を抱く人たちはいて、普遍的な事柄を感じられたなら、国は関係ないのだろう。そんなことを考えた。

 

 

三つの琅玕(上)

10月下旬の西味鋺観察会。この日は、矢田川河川敷で虫を捕る予定だったのだが、水辺の広場に到着すると、川の水量が減っていて、いつもは川の中を歩かないと行くことができない中洲が、ほとんど繋がっていた。小さい子でも、ちょっと手を貸せば、中洲に渡れる。なかなか無い機会なので、虫捕りから変更し、中洲を観察することにした。

中洲の縁の砂を踏むとゆるめで、足がずぶっと埋まるところもある。中央にいくと、いろいろな色の石が落ちている。上流の瀬戸から流れ着いた陶片も混じっている。荒れた環境だからか、花の大きさが極端に小さいツユクサがあったり、荒れ地に強いタデが数種類あったりと、中洲の様子を観察して歩く。子どもたちは、思いがけず、川の近くに来ることができたので、小魚の群れを思い思いにすくい上げていた。

下流に向かって中洲の先端まで歩いてくると、先にそちらにいた方が、「カワセミがいましたよ」と教えてくれた。カワセミは清流にいると思われることが多いが、市内でもよく見かける。熱田の近くでは、堀川沿いの貯木場跡によくあらわれる。冬がやってきて、水辺を飛ぶカワセミの羽が、きらっと光るのを見つけると、嬉しい。この日は、すぐに飛び去ったようで、残念ながら私は見つけることはできなかった。

さて、カワセミは、漢字では「翡翠」と書く。宝石の「翡翠(ひすい)」は、カワセミの羽の色に似ていることから名前が付けられているのだが、その中でもとりわけ美しいものは「琅玕(ろうかん)」と呼ばれる。なかなか普段、生活をしていて耳にする言葉ではないが、自然を見つめていた文学者や表現者の足跡を調べるなかで、最近、三つの琅玕と出会った。

一つ目は、中勘助の第一詩集。「琅玕」と題されたこの詩集を読んでいると、さまざまな自然の情景が浮かび上がる。中勘助は、海で、野山で、沼のほとりで、田畑で思索を巡らせる。花や虫や鳥であっても、それらのある風景であっても、出会ったことで、言葉にしたいほど心の琴線に触れた自然の姿は、それだけで自分だけの宝石になる。さらに、詩集にすれば、読んだ人とも、そんな美しい石の数々を共有することができる。

二つ目は、金子みすゞについて調べているとき。金子みすゞは、童謡・詩を書いた手帖を数冊、残して亡くなったが、残された手帖の一冊が「琅玕集」である。この中には自分の詩ではなく、金子みすゞ自身が雑誌を通して出会った、さまざまな詩人たちの詩が記されている。書籍化されている(「琅玕集(上・下)」JULA出版局/2005)ので、当時、金子みすゞが宝物のように大切にしていた、詩の数々を現在でも読むことができる。

11月に新美南吉記念館の童話の森で「鳴く虫の観察会」を開催することになり、資料に金子みすゞと巽聖歌の詩を載せることにした。自然によく親しみながら詩を書いていた二人。金子みすゞのコオロギは、昼の月を見て鳴いていたり、ネコに片方の脚をとられてしまったり。巽聖歌は、山から吹き下ろす風の中、鳴いている虫を詩にしている。また、「糸ぎりす」という虫が登場する詩が日記の中にあったので、こちらも載せた。糸ぎりすは、クビキリギスのことだろう。赤い口をしていて、強く噛む。それこそ糸を切るくらいかもしれない。詩に登場する糸ぎりすは、越冬から目覚めるが、農夫たちもまだいない荒れた畑で、食べものを探し、ゆっくりと歩いている。畑の様子を、丁寧に観察しているから生まれる詩だと思う。

新美南吉は二人とは歳が離れているが、金子みすゞと巽聖歌は、ほぼ同世代。みすゞの方が2つだけ年上である。同時期に雑誌に投稿していた二人だが、面識があったかは知られていない。ただ、みすゞは「琅玕集」に聖歌の詩「水口」を記していて、聖歌は日記の住所録に、みすゞの名前と仙崎の住所を記していた。会ったことはなくても、雑誌に掲載された詩を通して、お互いのまなざしに、魅かれあっていたのだろう。

戦争が終わり、聖歌は作品を託された南吉とともに、みすゞのことも気に掛けていた。1954年に聖歌が編集し刊行した「日本幼年童話全集」(河出書房)には、みすゞの詩が10編掲載されている。みすゞは、80年代以降になって、ようやく、稀有な詩人として知られるようになった。73年に逝去した聖歌が、それを知ることはなかったが、きっと亡くなるまで気に掛けていたのではないかと想像する。

同時代の文学者たちに寄り添い、本を編集し、また、詩の楽しさをまだ知らない人たちに伝え続けた巽聖歌。その生涯と人となりを、多くの人に知ってもらいたい。〈下に続く〉

 

 

月刊誌、ふたたび

10月6日、秋晴れとなった武豊町自然公園で観察会を開催した。たくさんの生き物と出会うことができて、楽しい観察会だった。この日の会の始まりに、一つ、お知らせをした。月刊「はなやすり」を来年5月に復刊させようと考えている、という内容である。

4月号をもって休刊してから半年間、復刊した方が良いだろうという想いは頭のなかにあったのだが、一方で、もう復刊させなくても良いのではないかという考えもあった。今でも休刊を決めた時に思った、今、考えている大切な事柄は、すべてお伝えした、という気持ちは大きく変わっていない。この半年間、観察会を通して、写真を通して、また、さまざま訪ねた先で、たくさんの人たちと出会った。そうした出会いを繰り返していくうちに、本質的には同じことであっても、形を変えながら何度でも伝え続けるのが、定期刊行誌の役割である、という制作の原点に考えが巡って、想いが帰着した。

毎月楽しみにしてくださり、「また読みます」と言ってくださった方々、これから、どこかで存在を知り、読んでくださる方々。冊子の本質が変わらなくても、そういった方たちの生活は、時々刻々、変化していく。何かの縁あって「はなやすり」と出会った方たちが、日常生活や取り組みのヒントとなる誌面を、また制作していこう、それが出版社のあるべき姿だろう。編集者としての思考の流れをトレースしてみると、そんな感じだと思う。これまでも、大切なお知らせは、まず観察会で、というスタンスだったので、ちょうど休刊から半年となる10月最初の観察会でお伝えすることにした、というわけである。

ただ、そう考えていても、購読者数が見込めないと復刊は難しい。なので、復刊を決める前に、読んでくださる方を増やさないといけない。どれくらいの数が必要かというと、最低でも、500。安定して発行を継続していくためには、700以上が望ましい。復刊のお知らせをして、すぐにそれだけの数が集まることは考えにくいので、来年3月までの半年間、徐々に周知して、購読してくださる方を増やしていけたらと思っている。

復刊後の内容はというと、「6つの編集方針」は、そのまま継続する。ここまでの半年間、自分が訪れた場所や考えていたことは、エッセイにも書いてきたので、自分でもあらためて読み直し、その内容を掘り下げていくつもりである。

もう少し具体的なキーワードを書くと、まずは「自然」「文学」「子どもたちの未来」という大きなテーマがある。「はなやすり」において、それらが重なり合い、響き合っていることはもう、ご承知いただいていると思う。

「自然」は、これまでは、知多半島の自然にまつわる話題と、「ユスリカ」「水」といった個別テーマで、研究・調査をされている先生方に文章を寄せていただいた。これからも自然について、真摯な取り組みをされている方々と、出会っていきたい。観察会レポートは、自然との関わり方の共感を生んでいると思う。これまでに2度開催した観察会報告会も、定期的にできたらよいな、と考えている。

「地域」という視点で考えると、「知多半島」「熱田」それと「伊那谷」というキーワードが浮かび上がる。それらを、その土地を管理する自治体の行政区分で、分けて捉えるのではなく、自然の動きや人の動きに連動した一連の地域という捉え方で考えれば、その周辺の土地や、物理的には遠く離れた土地も、視野に入ってくる。

書肆花鑢が考える「文学」について、より深く知るためには、「椋鳩十を読む会」「出版文化を考える会」などの会に参加していただくことが一番だと思うが、これからの文学を考える入り口となる文章を、ご協力いただき、掲載していきたい。今のところ思い浮かんでいる具体的なキーワードは「椋鳩十」「新美南吉」「巽聖歌」「藤井達吉」などである。

日常エッセイ、詩、絵のコーナーは、編集していても毎回楽しいページである。復刊後もたくさんの人に登場していただき、楽しくにぎやかなページを作っていきたい。

最後に、子どもたちの「未来」については、私は明るいと思っている。そのために、大人の都合ではなく、子どもたちが学び育つ環境に本当に必要なことを考えて、整えていかなくてはいけないだろう。今年の秋、とても長い年月を、信念をもって取り組まれた活動が、大きく結実したニュースが続いた。コツコツと真面目に取り組んできた人々に温かく陽の光が注ぎ、花が咲き、結実する時代。社会は、これから大きく変わっていくはずだ。

 

 

武豊町自然公園を歩く

知多半島の中央より少し南に位置する、武豊町自然公園。昨年12月、例年のごとく新しい観察地を探して各地を回っていて、これまで気になっていたが訪ねたことが無かった、この自然公園を歩いてみた。その日は、広くて植物の変化に富んだ良い森だな、という印象だった。そのうちに、また来よう、と思いながらも、今年の5月まで再訪する機会がなかった。

春になり、5月に訪ねてみて、驚いた。松林でハルゼミが鳴いていたのである。ハルゼミは新美南吉の童話にも「松蝉」という名で登場し、春を代表する昆虫である。一斉に鳴いては消えてを繰り返す、柔らかな蝉しぐれは、かつて身近な「春の音」だったが、ハルゼミの生息する松林は、知多半島に限らず、松枯れや伐採によってずいぶん減少している。毎年気にしていて、ようやくここで音を聞くことができた。松の木の上の方で鳴いているので、なかなか姿を見ることができないが、たまたま生きているオスも下に落ちていた。

そんなきっかけが一つあると、途端に、その森が大切に思えてくる。これも、縁なのだと思う。そうしてこれまで、毎年のように、少しずつ観察地を増やしてきた。

半年近くが経ち、自然公園も親しみある観察地になってきた。訪ねる度に、その時々の発見があって、楽しい。これまでの印象的な出来事を記しておくと、5月には、ヒバカリと出会った。田んぼの近くに暮らす、体長40センチほどの小型のヘビで、オタマジャクシなどを食べる。家に連れて帰って来たが、近くにオタマジャクシがいるような場所は無い。思案していると、市内の緑地の水路に、ウシガエルのオタマジャクシがいるということで、大変有難いことに、それを持ってきて頂き、エサにした。だが、とにかく食べる量が多いので、武豊に返すまで大変だった。同じ日にルリタテハの幼虫も連れて帰ったが、こちらは家で蛹になった。だが、5カ月近く経った今も蛹のままである。羽化はもう難しいかもしれない。

6月の田んぼには、コオイムシがいたり、ゲンゴロウの仲間やマツモムシが泳ぎ回っていたり、にぎやかな田の風景があった。トンボも夏にかけて数多くあらわれた。「夏の観察会」では、「カブトムシを見つけたい」という小学2年生の男の子が参加してくれた。カブトムシは見つからなかったが、コナラの木にノコギリクワガタを見つけて、みんなで喜ぶ。アカガエルと出会い、海の見える展望台がある広場の東屋で、そろってお弁当を食べ、真っ赤なホシベニカミキリも見つけて、のどかで楽しい雑木林の散策となった。

7月。瀬戸で変形菌の調査をされている先生と一緒に変形菌を探した。森の環境、植生を気にしながら、落ち葉の積もる林床を確認して歩く。探している珍種、ツツスワリホコリは発見できなかったが、変形菌という、気にしていなかった存在に目が向くきっかけとなり、その後、ムラサキホコリの仲間、バークレイホネホコリ、エダナシツノホコリ、ツノホコリ、アカモジホコリ、シロウツボホコリ(?)、ムラサキカビモドキ(細胞性粘菌といい、変形菌ではないのだが、変形菌に似た存在)など、少しずつ見つけられるようになってきた。

8月には、たくさんの昆虫と出会った。とくに10日は多く、古窯跡付近では、木の上からスズメバチが絡み合いながら落ちてきて、驚いた。地面に落ちてからもしばらく組み合っていたのだが、喧嘩をしていたのだろうか? 木の幹にはヨコヅナサシガメの幼虫。ひらひらと透き通る翅で林内を舞っていたのは、クサカゲロウ科の最大種、アミメクサカゲロウ。他のクサカゲロウよりも明らかに大きいので、すぐに判別できる。

この日に確認したトンボの仲間は、ウスバキトンボ、ヒメアカネ、アキアカネ、コノシメトンボ、シオカラトンボ、オオシオカラトンボ、コシアキトンボ、ハグロトンボ、ギンヤンマ、カトリヤンマ、ホソミイトトンボ。チョウの仲間は、ルリシジミ、ムラサキシジミ、ウラギンシジミ、キアゲハ、アオスジアゲハ、キマダラヒカゲ、コノマチョウ、イシガケチョウ、コミスジ、イチモンジセセリ、テングチョウ、種は確認できなかったが黒いアゲハチョウ。ほかに、ヤブキリ、ツマグロバッタ、クサギカメムシなど。別の日には、直翅類ではあるが、鳴くための翅をもたないハネナシコロギスが草むらの葉の上にいた。

10月になり、林内ではツクツクボウシが、まだ鳴いている。昼間でもハラオカメコオロギやクチキコオロギ、カネタタキの音が聞こえてくる。クサヒバリの音も樹上から聞こえるようになった。秋の森。まだまだやぶ蚊が多いのが悩みどころであるが、晩秋から冬にかけて、どんな出会いがあるのか楽しみにして、また訪ねようと思う。

 

 

喬木村と日本橋

8月に、喬木村にある椋鳩十記念館・記念図書館を訪ねた。「はなやすり」にも文章を寄せてくださった前館長、菅沼利光さんによる文学講座「ああ! 椋鳩十は詩人だったんだ」を聞くことが目的だった。少し早く着いたので、記念館の裏山の上にある、とろりんこ公園まで登ることにした。ここには、椋鳩十の詩碑が建てられている。「夕陽がうすれていく 蜩が今日の終りを呼びとめてゐる」。毎年夏になると、「カナカナカナカナ……」と夕暮れに鳴くヒグラシの音が聞きたくなるのだが、名古屋や知多半島では聞くことができない。ここ数年、8月に下伊那に来ているのだが、こちらでも、まだ聞けていない。調べてみると、夏の終わりに鳴くイメージだったが、一番よく鳴いているのは7月とのことだった。

記念館に到着し、館長の木下さんと少しお話をする。階段下のテーブルでくつろいでいる猫館長のムクニャンにも挨拶して、2階の視聴覚室に上がる。次第に聴講の人たちが増えていき、部屋はいっぱいになった。

「椋鳩十の詩」についての講演が始まる。椋鳩十は「動物と人の関わりを描いた物語作家」というイメージが一般的に定着しているが、若い頃は詩に憧れて、自分でも詩集を作っていた。青年時代に、どのような詩に憧れ、自分の表現を目指していたのか、熱量が高く、それでいて、知的探求心を刺激される話が展開される。後年の物語に登場する美しい色や、個性的な擬音表現のベースが若き日の詩作によって生まれていることを実感でき、さらに、椋鳩十が生きた時代の詩人たちや当時の詩の状況も知れて、充実した2時間の講座だった。

終わった後、少し時間があったので、図書館の本棚を観たりしていると、チラシや案内などが置いてあるロビーの壁に掛けてある額が目に留まった。そこには中国のことわざと芭蕉の言葉を引いて、自然を観察する大切さを説いた、椋鳩十の言葉が書かれていた。

「中国の言葉に『方の外に遊ぶ』というのがある。芭蕉はこのことを『角(※格)に入って角(※格)に出でよ』と言った。方というのは四角四面、融通がきかないということ。ものを覚えたら、もうそれだけだ。(中略)山道を歩いていく。枯れた木がある。葉の落ちた木がある。雪が積もっている。その木の下に、指の先ほど赤い血がぽつんと落ちている。あら、血が落ちておるな、小指の先ほどの小さな血だな、そう思ってみただけでは目で見ただけで、これが、この木の枝の上に雀がいたのかな、鳩がいたのかもしれない、あるいは何か他の小鳥がいたのかな、その小鳥が昨晩のうちにフクロウに襲われたその残りの血かな、あるいはテンに襲われた残り血かな、そう思ってみただけでも、自然の摂理というものが浮かんでくる。方の外で遊ぶというのは、こういう広い心をもってものを見なければ、自然は本当の姿を、今目に見えている向こうにある姿を見せないぞ、こういうことを言っている」

9月に入り、日帰りで東京に行った。主な用事は午後からだったので、午前中は日本橋にある美術館を訪ねることにした。三連休で新幹線は混雑していたが、プラットフォームを先頭車両の先、日本橋方面の出口へと下りていく人は少ない。東京駅を出て永代通りを歩く。残暑ではあったが、名古屋よりも幾分カラッとしていて、ビル風も吹いていた。数分で石造りの日本橋が見えてきた。欄干では麒麟の像が、橋を見守っている。

年始の箱根駅伝でもよく知られている日本橋には、これまで縁が無く、東京駅の近郊にありながら、訪ねる機会が無かった。日本の東西をつなぐ交通の大動脈・東海道の東の起点である。ここから西の起点である京都の三条大橋に至るまでに53の宿場があり、東海道五十三次と呼ばれる。熱田の宮宿は、41番目にあたる。

現在でも日本橋は全国に伸びる国道の起点となっている。橋のたもとには、里程標の石碑が置かれて、主要都市までの距離が記してある。抜粋すると「千葉市 三七粁」「仙台市 三五〇粁」「名古屋市 三七〇粁」「京都市 五〇三粁」「鹿児島市 一、四六九粁」。

芭蕉は故郷である伊賀から上京し、江戸でもっともにぎわいのある日本橋で8年間暮らしていた。俳諧の師匠である宗匠として独り立ちした時、「発句也 松尾桃青 宿の春」という句をこの地で詠んだ。その後、隅田川の対岸、鄙びた土地である深川に居を構え、日本橋を拠点にして各地へ旅に出た。東の果ては、平泉。平泉で詠んだのは「夏草や兵どもが夢の跡」。西の果ては、明石。明石で詠んだのは「蛸壺やはかなき夢を夏の月」。若さ溢れる旅立ちの春、強者が去り、はかない香りが漂う夏。では、秋は……。

 

積ん読

数年前の冬、東京駅から名古屋に帰って来るときに、夜8時の新幹線まで時間があったので、付近にある商業施設、「キッテ丸の内」に立ち寄った。洒落た落ち着きのあるビルディングで、高い吹き抜けを中心に、各フロア、選りすぐられたお店が並ぶ。それらのテナントは個性的で、名古屋でも見かけるチェーン店も入っているのだが、雑貨屋さんなどは、地方のお店が入っている。日本郵政が運営母体だからだろうか、石見、鯖江、高岡、豊岡、京都など、全国津々浦々だ。都市の名前を、頭の中で日本地図に置きながら、日本は職人の国なのだな、とあらためて実感する。ちょっと買うには、高価なものが多いが、丁寧に作られた商品が並んでいるので、1フロアずつゆっくり見て歩いているだけで、楽しく時間が過ぎていく。屋上にあがると、東京駅を一望できる庭園が設えてあり、数年前、開業当初の姿に再現された東京駅丸の内駅舎を上から見ることができる。訪ねたときは、工事が終わり公開されてから、まだ間もなかった時期で、大学生くらいのグループが三脚を立ててライトアップされた駅舎を撮影していて、楽しそうだった。

その折に、施設内の書店で購入した一冊の絵本がある。タイトルは「翻訳できない世界のことば」(エラ・フランシス・サンダース、前田まゆみ・訳/創元社、2016)。世界中の言語から選んだ、他国の言葉への翻訳が難しい独特な単語を、イラストレーターである著者が絵とともに紹介している。北欧フィンランドでは「トナカイが休憩なしで疲れず移動できる距離」のことを、「ポロンクセマ」という言葉で表すそうだ。お国柄が反映されたユニークな言葉の数々の中、日本語から選ばれた一つが「積ん読(つんどく)」である。「買ってきた本を、ほかのまだ読んでいない本といっしょに、読まずに積んでおくこと」と解説されている。

8月も終わりに差し掛かり、大型の台風がノロノロとやってきて、外に出掛けづらかったので、ひさしぶりに本棚を整理することにした。本棚の整理は数年おきに、気が向くとしている。本はたまに動かして空気に触れさせた方が良いと、ずいぶん昔に、たしか古書店主の方のエッセイで読み、それ以来、定期的に本棚から出している。「本はなかなか手放せない」という話をよく聞くが、私は、ある程度本が溜まったところで、今後読まないだろうと判断した本は、古本屋に持って行く。ただ、やはり一定の期間、自分の本棚に並び続けた本を手放すのは、それなりに気力も使い大変なので、数年に一度、ということになる。

千葉から名古屋に持ち帰ってきた本は、段ボールに数箱と大量にあったのだが、この十数年のあいだに、コツコツと減らしてきた。当然、その間に買い足す本もあるので、減ってもまた、増える。本棚からはみ出るほどに本がある状態が続くと、自分の脳内もパンパンに詰まっている気分になる。なので、「この十数年、本棚に残し続けたのに、ここに来て手放すのは忍び難いけれども、やはり、この先の計画を考えると、脳内スペースはある程度確保しておいた方がよいだろう」と決心し、2日間かけて本を選別した。

すっきりした本棚を眺めると、自分が本当に読みたかった本が、はっきりしてきた。「あれも、これも」と散漫だった意識が、「これだけで、良い」になると、途端、読む意欲が湧いてくる。数年間、しなくてはいけない事、考える事が多く、本を開いても、なかなか読み進められない時期が続いていたので、ようやく読む意欲が湧いてきたのは嬉しい。

積んどいてあった本のタイトルはというと、大学の講義で購入し、積読期間は25年になる「ロシアの妖怪たち」(斎藤君子、スズキコージ・絵/大修館書店、1999)。100年前に採取された植物標本と物語、「ポール・ヴァーゼンの植物標本」(ポールヴァーゼン、堀江敏幸/リトルモア、2022)。北アメリカ先住民の著者が語る、植物と先住民族文化にまつわる話、「植物と叡智の守り人」(ロビン・ウォール・キマラー、三木直子・訳/築地書館、2018)。ブックオフでふと目に留まって購入した、スペイン児童文学「太陽と月の大地」(コンチャ・ロペス=ナルバエス、宇野和美・訳、松本里美・絵/福音館書店、2017)。少し前から興味を持っている日本庭園についての解説書、「日本の庭ことはじめ」(岡田憲久/TOTO出版、2008)など。文庫や実用書なども含めると、まだ何冊もある。

9月に入り、台風は熱田の周辺からは離れたようだ。まだしばらくは安定しない日が続くだろうが、徐々に秋は深まっていく。読書の秋、そして、収穫の秋。人々が乾いた地面を耕し、ふかふかと肥えた土に種を撒いて育てた実を収穫する時期は、もうすぐだ。