マツムシの引っ越し

今年も7月下旬から熱田の鳴く虫たちの音が聞こえるようになった。8月半ばを過ぎて、コオロギの仲間は、おおむね出そろったようである。

代表的な秋の鳴く虫について、今年初めてその音を聞いた日を列記してみると(代表的というのは、秋の鳴く虫とされているものでも、タンボコオロギやシバスズは、ずっと早い季節から鳴いているので)、7月27日、カネタタキ初音。28日、ミツカドコオロギ初音。31日、エンマコオロギ初音。8月8日、アオマツムシ初音といった具合である。ほかには、ツヅレサセコオロギ、ハラオカメコオロギも同じ時期に鳴いているのを確認しており、今の時期はもう、熱田を歩いていると、どこかで聞くことができる。

8月15日には、お盆の精霊送りがあり、夕方、家の前で送り火を焚いたあと、仏前のお供え物を納めるため、家から歩いて1キロ半ほどの距離にある堀川沿いの法持寺に向かう。毎年のことではあるが、ちょうど精霊送りの頃は、神宮周辺の鳴く虫が出そろっていて、よい夜の自然観察になる。道すがら、よく聞こえたのは、エンマコオロギ、ツヅレサセコオロギ、そして、カネタタキ。

お寺さんの裏手には白鳥古墳があるのだが、古墳の木々ではアオマツムシが大きな音でリーリーと鳴いていて、にぎやかだ。少し北の断夫山古墳にもアオマツムシは多い。後日、堀川沿いの対岸を歩いてみると、そちら側には木々の多い白鳥庭園があるのだが、こちらでは、アオマツムシは鳴いていなかった。理由があるのだろうか。白鳥小学校の近くでは、タンボコオロギが鳴いていて、すっかり街中にも定着しているなと思う。「ジーッ、ジーッ」と尻上がりに鳴くマダラスズの音も聞こえた。

アオマツムシでにぎやかな熱田神宮西門の前を通って、南門側から伝馬町の交差点に向かう途中、少し離れたところで「チン、チロリン」と聞こえてきた。マツムシだ。民家の庭先で一頭で鳴いている。「こんなところで鳴いていたかな?」と思いながらも、新しいマツムシスポットが見つかって、嬉しくなる。家の近くまで戻ってきたので、ついでに、毎年虫の音を聞いている新堀川沿いの草むらを訪ねてみると、昨年は聞くことができなかったカンタンが鳴いていて、ほっとした。しかし、同じ場所で、たくさん鳴いていたマツムシは、どこかへと移動してしまったようで、昨年同様、聞くことはできなかった。

三日後の18日。夜の散歩に出かけると、熱田神宮の北西にあたる旗屋交差点で、マツムシが鳴いていた。3~4頭だろうか。よく通っている場所だが、ここで聞くのも初めて。今年はマツムシを初めて聞く場所が多いなと思いながら、コースを歩いて戻ってくると、教育センターの草むらでもマツムシが一頭、鳴いていた。ここも初めて。すぐ近くの会社の駐車場脇の草むらでは、数年前から3年ほど、5~6頭のマツムシが鳴いているのを聞いていたのだが、そういえば昨年は聞かなかった。教育センター脇の草むらまでは、50メートルほどしか離れていないので、もともとそっちにいた一群が、引っ越したのだろうか。そう考えてみると、以前、伝馬町交差点で鳴いていたマツムシの音は、聞けなくなって久しいが、15日に聞いたマツムシの庭までは、100メートルほどの距離。ルーツをたどれば、交差点の草むらで毎年鳴いていたマツムシかもしれないな、と想像した。

こうなってくると、ほかのマツムシスポットも確認しておきたくなる。翌日は、以前「鳴く虫さんぽ」で訪ねた、白鳥橋の草むらに行ってみた。一頭だけいたマツムシは鳴いておらず、堀川沿いを歩くと、遠くから「チン、チロリン」と聞こえた。耳を澄ますと、対岸の草むらのようである。橋をわたると、白鳥庭園のそばの川沿いで2頭鳴いていた。

そのまま旗屋橋方面へと川沿いを歩くことにした。川沿いは、少し風があって、公園には夏休みの学生たちや、散歩している家族がいる。酷暑の毎日だけに、夜の散歩は、みんな心地よいのだろう。立ち止まって耳を澄ませていると、汗だくのランナーが追い越していった。橋に近づくにつれて、草むらからマツムシの音が聞こえ始めた。公園側の草むらからも聞こえるし、川沿いの草むらからも聞こえる。少し歩けば、また「チン、チロリン」。「鳴く虫さんぽ」をした年は、木の上でアオマツムシがにぎやかだったが、今年は真上にいない。足元に散らばった星々が、音を立てて煌めくような、十数メートルのマツムシロードを歩き、橋に到着。車の走る橋をわたり始める頃には、音は小さくなり、聞えなくなった。

 

アカボシゴマダラの夏

アカボシゴマダラという、タテハチョウ科のチョウがいる。もともと大陸の暖かい地域に生息するチョウだが、近年、日本で生息地を拡大している。1998年に神奈川県で確認されて以降、定着。2010年頃からは、関東一円で確認されるようになった。最近では、静岡や愛知、長野など中部地方でも姿が確認されるようになっている。食草はエノキ。エノキは、街道の一里塚に植えられた木でもあり、日本人の生活に身近である。アカボシゴマダラは、かつての旅人たちが長い旅路の足休めに木陰を利用したエノキを、彼らの旅の道しるべにして、関東を起点に時間をかけて南下、北上。辿り着いた地域で定着している。

アカボシゴマダラと最初に出会ったのは、昨年8月22日に天白渓を歩いていたときのことである。この年は、夏の酷暑が厳しく、名古屋では7月後半からほぼ毎日、猛暑日だった。暑さに耐えかねたわけではないだろうが、アカボシゴマダラは地上に落ちて死んでいて、在来のゴマダラチョウには無い、目立つ赤い斑で、それと分かった。

翌月12日には、同じ天白渓の森で、林内を舞っているところに遭遇。目で追っていると、木の葉の上にとまり、ゆっくりと翅を閉じたり開いたりしながら、こちらを伺っていた。すぐには飛び去らなかったので、数枚、写真を撮る。一緒に観察していた方たちと、「大きくてきれいなチョウですね」と、初めての出会いを楽しんだ。

今年7月、知多半島でチョウの写真を撮られている、チョウ撮りとんぼ・宮原一明さんから写真展のご案内をいただき、半田のアイプラザに観に行った。施設内の喫茶スペースに、知多半島で撮影された、ゼフィルス(ミドリシジミの仲間)数種の写真が展示されていて、一つ一つのチョウについて、お話を聞く。ゼフィルスは、生息場所が局所的で、時期もおおむね決まっている。5月に武豊町自然公園で開催した春の観察会では、確認できなかったミドリシジミも、その後、他所のため池付近で確認されたそうだ。ハンノキの様子など、見つかりそうな場所についてお話しながら、あきらめずに探してみるといった粘りが、自分にはもっと必要かもしれない、と思い返す。同時に、まだ出会っていないチョウの存在も知ることできて、新鮮な心持ちになった。

アカボシゴマダラのことは、話題に上った。宮原さんも、今年は特にアカボシゴマダラを見かける回数が増えたそうで、半田市の緑地で、アカボシゴマダラとゴマダラチョウが、同じ樹の幹で吸蜜していたと教えてくださった。「仲良く棲み分けられると良いのですけれどね」と話しながら、ひと時の楽しいチョウ談議を終えて、帰宅した。

ちょうど同じタイミングで、母親から、「池田さんの畑にもアカボシゴマダラが来ていたみたいだよ」と話を聞く。池田さんにお話を聞いてみると、昨年までは来たことが無く、今年が初めてとのこと。畑のある緑区以外でも、熱田でも見かけますよと、教えてもらった。熱田での記憶を振り返ってみると、在来のゴマダラチョウは、これまでに数回、熱田神宮や熱田警察署付近で見かけている。

8月に入り、お盆も明けた17日。椋鳩十研究の第一人者である、菅沼利光さんの夏期講座を聴講するため、喬木村を訪ねた。喬木村の夏も、他所と変わらず、暑い。それでも、喬木村を訪ねると、暑さ以上に気持ちが緩むのはなぜだろう。記念館の周囲は、車や電車など交通の大きな音が無い。騒がしいクマゼミはおらず、アブラゼミのジーーという音が響く。日本の四季が、本来そなえている和かな夏の情緒を、まだ感じられる場所だからかもしれない。

菅沼さんの講座は、椋鳩十の青年期の読書体験が、処女作である「山窩調」に、どのように反映されているのかが内容の中心だった。当時、日本に入ってきたばかりの海外文学からの影響、伊那谷の環境、閉塞感のある時代に対する想いが重なり合い、山の民の物語は出来上がったのでは、というお話は、自分のなかに溶け込み、楽しく勉強になった。

帰り際、記念館の入口を出たところで、アカボシゴマダラを見かけた。2023年には、隣の飯田市で確認されているので、喬木村にも入ってきたのだろう。

二日後、夏休みの参拝客がまだ多い熱田神宮の本殿のそばにも、アカボシゴマダラがやってきていた。急がずに翅を羽ばたかせていたので、ミスジチョウかなと思ったが、砂利の地面に下りると、赤い斑がすぐに見えた。周囲の木々では、ツクツクボウシが鳴き始めていて、酷暑の終わりは見えずとも、季節が進んでいることを教えてくれていた。

 

 

パンセ・コティディエンヌ 1、2

パンセは、パスカルの思索思想集「パンセ」でおなじみ、フランス語で「思考、考え」の意味。コティディエンヌは、「日常の」という意味の形容詞「コティディアン」の女性形。日本語に訳すと「日々の考え」というような意味合いになる。アルファベで綴ると「Pansée quotidienne」。「パンセ」は、一般的な広い意味での「思考、考え」なので、筋道を立てて、より深く考える場合は、「レフレクシォン(réflection)」ということばを使う。

どうして急にフランス語なのかというと、しばらく前からフランス語を勉強しているからである。10代後半から20代前半にかけて、やってみようと思っていたことは、これまで、自分なりに勉強したり、挑戦してみたのだが、やり残しているものの一つが、語学。

実用的なことを考えて、共通語にもなりつつある英語は、ちゃんと話せるようになった方が良いだろうと思ったこともあったのだが、どうも、自分に合わないことが分かってきた。なので、話すのはさておき、読解は文学部相応に取り組んでいたフランス語を、きちんと身につけてみようと思ったのである。そうはいっても、当時とはちがい、時間が豊富にあるわけではない。とりあえず、寝る前にラジオ講座を聞いたり、完全に忘れてしまっている単語を覚え直しているのだけれども、身に付いてきている実感は、まだない。

というわけで、そんな勉強も兼ねて、ことばにかぎらず、フランスやヨーロッパの自然や文化、人や歴史などについて、さまざま考えてみたことを、この「パンセ・コティディエンヌ」では、書いていけたらと思う。

ちなみに、「エッセイ」の語源は「エセ(essai)」で、「試みる」を意味する動詞、「エセイエ(essayer)」から生まれたことばである。

(1)日本人の自然観とヨーロッパ人の自然観はちがう、という話を耳にする。日本は、八百万の神ということばに象徴されるように、身近な自然物や自然現象に神性を見出したのに対し、キリスト教に代表される西洋の神は人格化されている、というのが、おおまかではあるが、根拠とされていることのようだ。日本は一年を通し、自然の変化が豊かである(であった、かもしれない)。和歌などの、ことばの表現が代表するように、そういった四季の美に心情を託し、日本人共通の美意識として、表現様式が継承されてきた文化である。

一方、西洋の文化は、人間の身体、精神にもとづくようだ。人間という存在そのものが、表現者の興味の対象であり、ギリシア・ローマ彫刻にしても、宗教画にしても、中心にあるのは、人が兼ね備える美である。哲学・思想の歴史は、それを象徴している。

ヨーロッパ人と日本人の自然観は、異なるものだろうか。というよりも、まず、ヨーロッパに暮らす人々は、自然をどのように見て、関わってきたのだろう。人の存在と対比するもの、だろうか。人の移動や人同士の争いが絶えず起こってきた地域を構成している、海や山、川や森、沼や湖。そういった環境に生きる、動物や昆虫や植物などと、どのように関わってきたのだろう。また、都市や農村などにあって、日々の生活で目にする生命や自然現象は、人々の心にどのような感情の変化をもたらすものなのだろう。

当たり前のようなことであっても、まずは、考えてみたい。科学者たちの並々ならぬ努力と追究の歴史の成果でもある、46億年の地球史をベースにして。文化、地理、文学、産業といった、人々の生活に近しいことがらなどから想い出し、私たちが暮らす身近な自然と重ね合わせて考え、その先に、東西を問わず普遍的な自然観が生まれてくるとよいな、と思う。

(2)モンテッソーリ教育の創始者であるマリア・モンテッソーリは「コスミック・タスク」ということばで自然や生態学から学ぶことの大切さを説明している。コスミック・タスクとは、地球上の生きものが、生き残るためのよりどころとし、世代をつなげていくため、安全に維持していかなければならない「環境」に対して、それぞれの種を構成するものによって寄与される奉仕、のことである。

植物には植物の、動物には動物の、菌類には菌類のコスミック・タスクがある。では、ことばや道具を生み出し、考える能力に優れた、私たち人類のコスミック・タスクは、なんだろう。生命の揺籃である地球にあって、すべての生きものが、環境の急変によって生存と世代交代の継承が危ぶまれることのないよう、運営していくことではないだろうか。

 

 

名古屋、野歩き(四)新地蔵川

3年前に始めた西味鋺観察会も、今月、矢田川での生きもの探しで27回目となる。この観察会は、地域の方々のご協力のもと、ある地域の自然の様子を通年で観察するというテーマで開催してきた。私たちが日々生活する環境には、どのような自然の変化があり、それらがどのようにつながり合っているのか、少しずつ分かってきた気がする。

西味鋺学区で特徴的な環境というと、「川」だろう。学区の南端を流れる、川幅の広い一級河川、庄内川と矢田川。それと、北端を流れ、農業排水や治水に利用される新地蔵川。

毎年夏に行う川の生きもの探しでは、ハグロトンボやコヤマトンボのヤゴ、テナガエビ、川の魚などが棲んでいることを確認してきた。調査場所の川岸に咲く花は、特徴的な外来の植物があらわれて、消える。オオカワジシャ、セイヨウヒキヨモギなど。川岸の昆虫では、クズの根元に虫こぶを作って育つ、フェモラータオオモモブトハムシなどを見つけた。矢田川、庄内川は、西味鋺学区の代表的な観察地になっている。秋には、庄内川の河畔林にいる虫たちを知るため、灯火採集も予定している。

一方、新地蔵川は、住宅街を流れる水路である。護岸された川には、柵もあり、容易には川辺まで下りられない。これまでの観察会では、川周辺の草花を調べてきた。タンポポ、スミレ、ノジシャ、カラスムギ、ヤグルマギクなど。観察会のとき、「一度、川の中に入って調べたいね」という声があり、観察会とは別に、調査をしてみることにした。

6月8日の午後、コミュニティセンターに集合し、新地蔵川へ向かう。上から川の様子を見ると、深そうである。春にはコイがたくさん来ていて、産卵行動をしていた。産卵場所にはセキショウモが繁茂しているのだが、写真を確認してみたところ、3年前には川に無かった。この2年の間に一気に増えたようだ。

東の思清橋近くの階段は、イタドリやヤブガラシが繫茂しており、道を歩いているだけでは、階段があることにも気づかない。狭い階段を一人ずつ下りる。階段の中ほどで、ハグロトンボが飛ぶ。上で待っている小学生たちが、この後ハグロトンボを捕まえていた。

胴長を履いた生まれも育ちも西味鋺のIさんと、先生が代表して川に入る。水の深さは膝上くらい。5~60センチ。川の流れは、緩やかである。川底の感触を聞くと、石の粒が矢田川よりも小さく、歩きやすいとのこと。対岸まで歩き、川底の砂利をすくいながら、生きものがいないか確認していく。「お、大きいのがいた!」と、声が上がる。見つかったのは、甲長7~8センチのモクズガニ。上からは、コイとアカミミガメくらいしか見かけることがない、街中の水路である。「矢田川にはいるけれど、新地蔵川にもいましたね」と驚きながら調査を続ける。この場所ですくえた生きものは、ほかに、ウナギの稚魚、ヌマエビ(スジエビ?)、ザリガニの子ども、ヒル。季節が変われば、まだ何か見つかりそうである。

40分ほど調べて、西側、川の下流へ移動する。西味鋺小学校近くの橋は慈恩橋という。こちらは護岸ブロックがむき出しで、階段も分かりやすい。ふたたび柵の鍵を開けてもらい、川へと降りる。今回は大人だけでの調査なので、水に入れない子どもたちから、「近くまで下りてもいいですか?」と声が掛かる。大人からのOKが出ると、嬉しそうに下りてきて、バケツを覗き込む。大人も、子どもたちも、それぞれの興味に従い自由に観察する、いつもの会とは異なり、調査や下見の際には、時間内にすべき仕事がある。年齢に幅のある小学生たちが、水に入るのは難しそうである。だが、自分たちが暮らす川に何がいるのか知りたいという気持ちは強いはず。中学生になったら、調査にも参加させてあげたい。

慈恩橋下で見つかった生きものは、ウナギの稚魚とミシシッピアカミミガメの子ども、ゴクラクハゼ。ゴクラクハゼは、ヨシノボリの仲間。河口付近の汽水に棲むが、ダム湖やため池など淡水にも棲むそう。河口からここまでやってきたのだろうか。調査のあいだに見つけた陸の生きものは、ハグロトンボ、アゲハチョウ、モンシロチョウ、ダンゴムシ、アリ、カメ7匹、ゴマダラカミキリ、セマダラコガネ、ヤマトシジミ、ガガンボ。確認した花は、ユウゲショウ、ノハカタカラクサ、オオキンケイギク、ランタナ、ムラサキカタバミ、オオカワジシャ、コセンダングサ、テリハノイバラ、クロガネモチ、コバンソウ、名前の分からない紫色の合弁花。そして水際にたくさん生えるイグサの仲間。

次回も楽しみな、第一回目の新地蔵川調査だった。

 

 

一枚の写真から(下)

6年後、病床の南吉から作品の取り扱いを託された聖歌は、戦争が終わると、すぐに南吉の童話集を刊行し始める。1948年には、疎開先の岩手から日野に引っ越して、散逸していた書簡、日記、原稿なども積極的に収集し始める。56年に大日本図書の教科書編集委員になり、「ごんぎつね」を推薦。初めて教科書に掲載される。

南吉がまだ東京にいた頃、聖歌は北原白秋の弟・北原鐵雄が社長を務める出版社・アルスに勤めていた。日野市郷土資料館が編纂した「たきびの詩人 巽聖歌資料集 一」(2020)には、1933~34年に、聖歌がつけていた日記が載っている。この日記は、アルスでの業務日誌で、日々の業務内容が端的に記されていて、毎日忙しく仕事をしていたことが、よく分かる。紙の発注や経理なども担当していたため、取引先の名前や取引額、用紙や部数など、出版に必要な具体的な数字や現実的な言葉が記されている。当時、南吉は学生だったが、聖歌は社会人だったのだなと、当たり前のことを実感する。

南吉作品を世に出すと決めてからの奔走ぶりからして、元来、聖歌は編集者気質なのだろう。編集者の仕事は、ただ文章を読んで本にすることではなく、出すべき本を出版するために、些細なことでもきちんと考えて手を抜かないことだと思う。千春たち家族の協力もあって、南吉の作品は、世の中で広く読まれるようになっていく。

聖歌が南吉に関して編集に携わった主な本は、1960年「新美南吉童話全集(全3巻)」(大日本図書)、62年「墓碑銘 新美南吉詩集」「新美南吉の手紙と生涯」(ともに英宝社)、65年から「新美南吉全集(全8巻)」(牧書店)、71年「新美南吉 十七歳の作品日記」(牧書店)など。もちろん南吉の仕事だけでなく、児童詩や作文教育の発展に寄与する仕事をいくつも掛け持っている。全国の学校から依頼されて、校歌の作詩も数多く手掛けた。

聖歌は、1973年の春に亡くなる。全集を刊行したときに新聞記事などを切り抜いていたスクラップ帳には、「南吉よ 遅い春だったなあ けれど おれはこれで せいいっぱいだったんだよ 四十年秋 花咲ける日の南吉へ」と記されていた。

聖歌が亡くなり、しばらくして、親しい友人たちから巽聖歌全集を作る声が挙がる。準備も進められたが、出版不況のあおりを受けて全集刊行は困難となってしまう。その前段階として、詩と短歌をまとめた「巽聖歌作品集(上・下)」と、別冊の回想録が制作された。没後50年が過ぎ、全集制作再開の機運が、再び高まっていくとよいな、と思う。

作品集で詩の部分を担当したのは、聖歌の活動を友人として支えた、清水たみ子。上野公園の写真に写る女性で、彼女もまた、2010年に亡くなるまで、生涯にわたり、詩・童謡などを発表し、戦後の児童文学界の発展に貢献した。90年に発表された詩集「かたつむりの詩」(かど創房)に収録された詩には、聖歌や南吉と重なるものが感じられる詩も多い。小さな生きものたちも登場する。詩を作るために大切な事柄を、自然と共有していたのだろう。80年から刊行が始まる「校定 新美南吉全集(全12巻、別冊2巻)」(大日本図書)にも貢献。雑誌のインタビューでは、ハキハキと物を言う千春と南吉はとても気があっていた、というエピソードを、楽しげに語っている。

聖歌の没後、千春は悲しみに暮れる。「野村千春展」図録に寄せられた文章で、長女の中川やよひさんは、このように回想している。「昭和48年に父を亡くして、母は自分の絵も人生も終わったと思い、先が分からなくなっておりました時にも中川一政先生に『千春の絵が本当の絵だよ』と励ましていただき『絵を描くことは生きること、生きることは絵を描くこと』として自負をし、死ぬまで筆を持ち続けることが出来たのだと思います」。毎年、春陽会と創立時から参加している女流画家協会展に出品し続けた。

土とともに、花の絵も描いていた千春であるが、亡くなった年の春陽会展に出品された絵は「吾亦紅と女郎花」だった。一見、花なのかどうかも分かりづらい、地味ではあるが昔から親しまれているワレモコウと、華やかで女性的なオミナエシ。千春の絵では、方々に大胆に伸びるワレモコウが、寄り添うオミナエシを包み込んでいるように見える。オミナエシの別名には、想い草というものもあるそうだ。

2000年12月12日、千春は、91歳で逝去する。聖歌の誕生日と同じ日に、巡り合わせのように、天国へと旅立っていった。

 

 

一枚の写真から(中)

12月26日のことは日記にも書かれている。野村家で原稿整理を手伝う南吉。年末の帰省は、中央線で帰ろうと思っていると話すと、それなら実家に泊っていったらいいと千春は南吉に提案する。日記の記述から想像すると、そんな感じである。「手袋を買いに」を書き上げて、実際に雪景色を見たいと思い、中央線で帰ると言ったのだろうか。それとも、これから訪ねる信州の雪景色を想って、物語が浮かび上がってきたのだろうか。

南吉は、翌日未明に東京を出発し、中央線に揺られて長野に至る。千春の先生でもある彫刻家の家に挨拶にいき、実家の武居家で一泊する。

東京に戻ってから、「赤い鳥」の投稿仲間であり、蒲郡に住む、歌見誠一に手紙を書く。その手紙には、帰省中に訪ねられなかったこと、雑誌の創刊を考えていたが、とん挫したことなどとともに、信州で体験した、冬の雪国の美しさが綴られていた。「白樺と、粉雪と、からまつと、谷底の人家と、あらし(山から木をすべり落とす道)と、そりと、下駄のスケートと、諏訪湖の波音と、山の星の美しさと、太いつららの灰色の空と――限りなく美しい高原の冬に、心を針のようにとがらし、感じ、悲しみ、わびぬれ、よろこび、明るみ、私は渡鳥のようないたいたしく小さい魂をともして、旅したのでした」。

1934(昭和9)年1月、野村七蔵と千春の長男・圦彦がうまれる。その知らせを聞いた南吉は、どのような想いだったのだろう。家族のように親しくする二人のあいだに生まれた男の子である。だが、2月。聖歌とともに出席した、宮沢賢治を追悼する集まりの9日後に、南吉は最初のかっ血をし、療養のため一時的に、岩滑に帰ることになる。

ふたたび東京に戻ってからの日記は、断片的に書かれていて、1935(昭和10)年の記述は3月13日から始まる。「長い間、私は日誌を怠ってきた。その間、私は、つけなければいけないと、常に、心の中でいってきた。そして、それをつけないでいる自分を、非難してきた。私がそのように、日記を重大視するのは、一つは功利的な目的のためである。それは、将来私が、小説を書くとき、私の日記が、なにかの役にたつようにと思うがためである。もう一つの理由は、日記をつけることによって、そうでもしなければ、一瞬の火花のように私の心の上に咲いて、すぐ忘却の闇に消滅する、かずかずの思想の断片を、私の意識にはっきりとのぼせ、さらにそれによって、私の生活に意義づけようとすることである(中略)。私は近ごろ、もっと真実を、せめて自分だけにでも言いたいと思っている(後略)」。

このあと、身辺の細かなエピソードや自身の悩みを日記に綴っているが、4月16日に一旦止まる。止まる直前は、家庭生活や結婚のことを考えている。再開するのは、6月5日。全集口絵の写真の話に戻ると、この年の春陽会の会期は、4月28日~5月20日。上野公園で写真を撮ったのは、この、日記が書かれていない期間である。

野村夫妻に誘われて、上野公園の春陽会展を訪ねる。晴れた公園では、親たちに連れられた子どもたちが遊んでいる。1歳になった男の子は、聖歌が手を引いていたのだろうか。千春がおんぶしていたのだろうか。春陽会は、従来の洋画の会とは一線を画し、画家個人の考えや表現を重んじて、十年ほど前に創立した。展示された400点の絵は、南吉の目に、どのように映っただろう。ゆっくりと会場を歩きながら、千春の絵を探す。飾られていたのは、雪国の絵。一年前の冬に南吉も訪ねた長野の絵である。どれくらいの時間、その絵を観ていたのだろうか。彼らはきっと、絵について、楽しげに言葉を交わしたのだろう。

このあと、南吉は一気に20篇ほどの幼年童話を書き上げる。「ひとつの火」「飴だま」「デンデンムシノカナシミ」などである。南吉は、どんなことを想って、小さな子どもたちが読むための物語を書いたのだろうか。再開後の日記は、子ども時代の思い出から始まる。

私は南吉の作品や日記すべてに目を通してはいないし、なんとなくの想像でしかないのだが、芸術家、文学者になるための物語創作ではなく、子どものために物語を書くことを、本質的な意味で意識したのは、このときだったのではないだろうか。

翌年、東京外国語学校を卒業。東京土産品協会に勤め先が決まる。卒業直前に起きた二二六事件の現場は、聖歌と見に行ったそうだ。世間に戦争の足音が聞こえ始めていた。

東京で働き始めた南吉であったが、10月に二度目のかっ血。千春の献身的な看病によって小康状態になった南吉は、四年半暮らした東京を去り、岩滑に帰郷した。<下に続く>

 

一枚の写真から(上)

巽聖歌が編集に携わった「新美南吉全集」(牧書店、1965)の第7巻の口絵に、一枚の写真が載っている。1935(昭和10)年の春、南吉が聖歌たちと一緒に、上野の東京府美術館へ春陽会展を観にいった時のものである。公園の芝生にしゃがんで座る、5人の大人と1人の男の子。聖歌は、優しい表情で男の子の腕をとって、抱っこしている。男の子は、1年前に生まれた聖歌の長男である。南吉は、写真の左端、聖歌の隣りに座って、柔らかな表情をしている。学生服に外套を羽織り、ハンチング帽をかぶって、眼鏡を掛けている。ほかの3人は、聖歌の妻である野村千春、千春の妹の夫である周郷博、童謡雑誌「チチノキ」などで聖歌や南吉とは同人仲間である、清水たみ子。写真は白黒だけれども、後ろでは子どもたちが芝生の上で遊んでいるので、天気のよい日だったのだろう。

巽聖歌の本名は、野村七蔵という。男の子の母親である千春は、長野の諏訪湖近くの出身(現在の岡谷市)。諏訪の高校を卒業した後、画家になることを目指して上京し、春陽会洋画研究所で、中川一政に師事していた。

この日、東京府美術館に展示されていた千春の絵の題は「雪景」。2009年に長野で開催された回顧展「野村千春展」(八十二文化財団)の図録に載っている。場所は、ふるさと岡谷の村だろうか。家にも地面にも、雪が積もり、家々はにぶい土色で描かれている。後に春陽会では二人目の女性会員となるが、その作風は力強く、ためらうことなく、暗い色を使う。2023年、夫妻が暮らしていた日野市で、巽聖歌の特別展が開催されたときには、「丘の上の日野ヂーゼル」という絵が展示されていた。戦後しばらくして、日野で暮らし始めたころの家の周りの風景を描いているのだが、画面の大半は、黒や茶褐色の土や畑である。絵の前に立つと荒々しい質感に驚くが、その中にぽつぽつと色が見える。中川一政は、暗さの中に銀や青や黄色を散りばめる千春を、色彩家(コロリスト)と高く評価したそうだ。

南吉の日記にも千春は登場し、最初は千春さん、結婚してからは、奥さんと呼んでいたことが分かる。聖歌に宛てて書いた数々の手紙でも、春陽会や絵のことに、よく触れていて、南吉が東京を去ったあとも、家族のように仲が良かったことが伝わってくる。

千春の絵に、ストーブを前にして座る二人の青年を描いた「ストーブをかこむ(若い人たち)」という作品がある。座る青年は、南吉をモデルにしている。後年、長女の中川やよひさんが、「どっちが南吉なの?」と聞くと、「どっちもよ」と言って、笑ったそうだ。

1932(昭和7)年に、南吉は上京した。聖歌は、遠くからやってくる弟のような南吉のために、わざわざ学校に通いやすい場所に家を借り、一緒に暮らし始める。4か月後、聖歌と千春が結婚することになり、二人を気づかった南吉は学校の寮に移る。幾たびか住むところを替えるが、野村家には頻繁に顔を出し、家族同様の生活を送っていた。

南吉は、自分の文学を理解し、相談できる兄のような聖歌と、地方から芸術家になるために上京し、熱心に絵の勉強をする千春に、この上ない刺激を受けていたことだろう。志半ばにして、地元に帰らなくてはならなくなった南吉は、東京で暮らしていた頃が、自分がもっとも良かった時代と回顧する。何もかもが真新しく、自分と同じような将来を想い描く仲間たちに囲まれた青春時代が、最良の時代と思えるのは、現代でもそれほど変わらないような気がする。多くの時代に日記を残した南吉だが、東京時代の日記は、完全には見つかっておらず、断片的である。上京した年の日記は、見つかっていない。残っているものには、上京して2年目、1933(昭和8)年の日記がある。この年の12月、男の子がうまれる、ひと月前の千春のことが、日記に書かれている。「小雨の中を巽のとこへ行った。奥さん一人が、生まれてくる赤ん坊の着物やふとんを拵えていた。真赤な着物がうつむいた若い奥さんの顔に映えていた。自分の体内から生まれてくる赤ん坊の為に用意をする気持ちは一体どんなものであろうかと思った。外套のボタンをつけて貰って帰った」。

同じ月に、南吉はある物語を書き上げる。「手袋を買いに」である。雪の降る夜に、子狐が手袋を買いに街へ行く。母狐は、人間は危ないから、手袋を買うときにはこちらの手を出しなさいと言い、子狐の片手を人間の手に変える。心温まるお話でもあり、人と動物の関係についても考えさせられる。書き上げたとされる日は、12月26日。クリスマスの翌日。「手袋を買いに」は、南吉の物語の中で、もっとも翻訳されている物語でもある。<中に続く>

 

想い出のニュースペーパー

朝起きてまずすることというのは、そう変わるものではない。たとえば、私は目が悪いので、朝起きてしばらくすると、コンタクトレンズを入れる。歯を磨く、食事をする、着替える、コンタクトレンズを入れるなどと並ぶ、毎朝の習慣の一つに、新聞を読む、がある。

私自身は、新聞との距離感がだいぶ近く、日常的なのだが、最近、読んだニュースによると、30代以下だけでなく、同世代の40代でも新聞から情報を得る人よりも、インターネットから情報を得る人の方が多かった。10代の終わりから20代の前半にかけて、自分が所属する社会に関する情報を一番必要とする時期に、インターネットが発展し始め、ニュースを掲載するサイトが登場した。当時のことを思い出してみると、積極的に新聞をとっていた人は少なかった気がする。ちなみに、SNSから情報を得るという人の割合は、下の世代が、かなり多く、テレビから得るという人の割合は、上の世代が、やや多かった。

もう少し思い出してみると、就職したり、結婚したり、子どもが生まれたり、という生活の変化があった人と会ったときに、「新聞、とってる?」と聞かれたことが何度かあった。大きな生活の変化があると、先の見通しを立てるため、生活に必要なものと削れるものを真剣に考えないといけなくなる。20代だった私たちが、まず、切り詰めることを考える選択肢の一つが、新聞だった。あとから聞くと、「結局とってるよ」という人もいたけれど、社会的な情報はインターネットからとればよい、と考えた人は、かなりの数いたのだろう。

新聞との付き合いを、思い出してみる。子どもの頃から、床に新聞を広げて、スポーツ欄なんかを読んでいて、中学、高校と上がるにつれて、社会面なども読むようになった。大学に進学し、一人暮らしを始めるときも、新聞はとるつもりだった。たまたま、アパートに荷物を運んでいる最中に通りがかった新聞屋さんと、その場で契約した。基本的には3カ月契約。3カ月目が近づくと、集金の人が、「また3カ月お願いできませんかね?」と言って、洗剤やなんやかんやと持ってくる。卒業して、しばらく経ち、そうしたやり取りも面倒になり、半年や一年でとるようになった。

その頃は、新聞を切り抜くことは、今に比べると、ほとんど無かった。あとからまとめて読みたい連載記事くらい。ただ、9・11同時多発テロ、近鉄バファローズ優勝など印象的な出来事があった日の新聞は、残っている。今は、和紙のことなど、自分が今、考えていることに直接関わる記事。たしかにそうだなと共感したコラム。これまでに知り合った方々が関わっている記事。投稿されたきれいな絵や、小中学生の作文を切り抜くこともある。切り抜くほどでも無いかな、というものは、スマホで撮っておく。

そんな毎日の付き合いである新聞だが、常にしっかり読んでいるのかというと、そんなことは無くて、見出しだけ、ぱっぱと読むだけのこともある。その方が、多いと思う。

学生の頃から、地方新聞も好きだった。友人たちと旅行に出掛けると、朝起きて、旅館のロビーに置いてある、その地域の新聞を読む。一人で読んでいると、旅館の人に声を掛けられて、世間話することもあった。帰省するときには、東京駅でスポーツ新聞を買って、新幹線の中で読んでいたし、新聞は夕刊の方が文化面が充実していることが多いので、アパート近くの駅のキオスクに、80円の夕刊を買いに行っていた時期もあった。仕事を探しているときに、業界紙というものがあることを知り、木材業界の日刊紙に応募したことも、そういえば、あった。

日本の離島についての記事を中心に書いている「離島経済新聞(リトケイ)」に興味を持ったことがあったり、語学学習のために丸善で英字新聞を買ったり、今はフランス在住の日本人が読むタブロイドを読んでいるし、自分はつくづく新聞が好きなのだなと実感する。他の情報媒体がどれだけ発展しても、新聞への信頼が揺らぐことは、今後も無いと思う。

最後に、新聞が好きな人ならきっと楽しめる映画を一つ。「クライマーズ・ハイ」(監督・原田眞人/2008)という、日航機墜落事故を題材にした小説を映画化した作品がある。物語の舞台は1980年代なので、今の時代には、合っていないかもしれないけれど、これは物語。私は、この映画に登場する記者たちの熱量に、頼もしさを覚える。

新聞じゃないとだめなんだ、という人たちが書いて作る。だから、新聞じゃないとだめなんだ、という読者が生まれるのだと思う。

 

 

名古屋、野歩き(三)八事裏山

名古屋市内では、これまでに、西味鋺観察会、熱田と矢田川河川敷での鳴く虫の観察会を開催してきて、少し前から、雑木林でも観察会をしてみようと考えていた。一昨年の冬に初めて訪ねた八事裏山は、2024年に9回、今年に入ってから2回、季節の様子を観察していて、4月29日に一回目の「天白渓観察会」を、無事、終えた。

この日は風が少し強かったが、雑木林の中では、風の強さを感じることは、あまりなかった。生えている木、モチツツジやツクバネウツギなどの木の花など、観察して歩く。クワガタがいたり、大きなナメクジがいたり。小学生の子どもたちは、目に留まったものや、気づいたことを思い思いに言葉にしていて、楽しんでいたようだ。

2歳と3歳のお子さんを連れて、初めて参加してくださったご夫婦は、大府から来られたということだった。「二ツ池の雑木林は、いろんなドングリが拾えますよ。マミズクラゲという淡水に棲むクラゲがいて、夏になると公園の施設で展示されるので、是非、見に行ってみてください」と、暮らしている地域の事柄を伝える。こういったことも、それぞれの地域から人がやってくる、観察会の醍醐味の一つ。3歳のお姉ちゃんは、花や実など、目に留まるものは何でも気になる様子で、赤い実を見つけて拾い上げると、お母さんが用意してくれていた袋に、分けて入れていた。持って帰って、家で分類するのだろう。

裏山の起伏を感じながら、動物園のコアラの餌を育てているユーカリ畑を訪ねて、終了。午前の光がさわやかな雑木林で、ツツドリの「ポポッ、ポポッ」と小鼓を打つような声も聞いて、初夏が始まっていることを感じられる観察会になった。

観察会も含めた、12回の散策では、季節の様子を観察するという目的で訪ねていたので、八事裏山の四季について感じたこと、考えたことを、簡単にまとめておこうと思う。

春。スミレの花が雑木林の道沿いにはたくさん咲く。シハイスミレとタチツボスミレが多い。他にも何種類かある印象。楮の花が咲くのも、春。樹皮の内側、靭皮という柔らかい部分の繊維が和紙の原料になる。山野に自生する種は、ヒメコウゾというそうである。栽培種のコウゾは、ヒメコウゾとカジノキの雑種とされるが、野生化もしている。裏山の楮は、コウゾだろうか、ヒメコウゾだろうか。

夏は、やぶ蚊が、とてもたくさん、あらわれる。天白渓湿地と呼ばれる場所があるので、湿気が多いのだろう。歩いていると水溜りも見かける。だが、両生類、ヤゴなどの水生昆虫など、水辺をライフサイクルの拠り所とする生きものが定着するような豊かな池、水溜まりは見あたらない。裏山の雑木林の水辺が、そうならない理由は、なんだろう。

ほかには、キノコの種類が多いという印象。夏になると木々の花が減るため、足元に視線がいく、ということもあるが、裏山のところどころで、あらわれているキノコが異なり、種数は多そうである。丁寧に調べている時間がないのが残念だけれども、今年は、できるだけ出会ったものを、まとめてみようと思う。変形菌も見つけた。

秋になると、ヤマハギの花が目立つようになる。秋の七草では、ススキも裏山にある。秋に赤い実のなる木では、ノイバラ、ガマズミなどがあったが、印象的なのは、ソヨゴだろう。裏山にはソヨゴの木が多い。ソヨゴは、葉が波打ち、長い柄の先に赤い実をつける。椋鳩十のふるさと喬木村のお祭りでは、サカキではなく、ソヨゴが神事に用いられている。私は、実の付いたソヨゴを見かけると、小舟と船頭を思い浮かべる。どこが人で、どこが櫂で、ということでは無いので、ただ、なんとなくである。見立てるのは、楽しい。

昨年の12月26日。2024年も残り一週間をきり、この日が年内最後の観察に行く日だった。裏山の道には落ち葉が積もる。まだ積もり始めのようで、歩くと「ガサッ、ガサッ」と乾いた心地よい音がする。靴の裏の感触から、雑木林の冬を感じる。見上げれば、澄んだ青空と朽葉の色がきれいである。そこに、ざぁっと風が吹くと、葉が散る。頭上を、ひらひらと葉が舞い落ちる。葉の一枚を目で追う。音も立てず、積もる落ち葉を一枚分、厚くする。雑木林の外では、車の往来する音が聞こえる。年末の忙しない日々の中、裏山に来てよかったと思った。「こっちで花が咲いていますよ」と声が聞こえて、行ってみると、ヒイラギの白い花が、尖った葉に隠れるように、咲いていた。

 

 

藤江の南吉、設楽の南吉(下)

新東名高速道路を走り、新城インターを降りて、豊川沿いに設楽町を目指す。途中からは支流の海老川沿いの方が、道路が整っており、そちらに進む。天気は晴れていたので、鳳来寺山方面へ向かう道路は、車が多かった。周囲の山を見ると、木々の新芽の淡い色合いがきれいで、そのあいだに、山桜のうす紅色が入る。パッチワークのような景色を横目に見ながら、トンネルをくぐる。抜けると、道路はふたたび、豊川と交わる。この辺りから、田峯(だみね)地区になる。郵便局のそばから、山道に入り、植林された杉の木に囲まれた山道を進む。ぐねぐねとした山道を走りながら、この道で合っているのだろうか、という一抹の不安が生まれ出したとき、空が明るく開けて、茶畑のある集落にたどり着いた。

田峯は、豊川の水源地である段戸山に包まれた地域。古くから茶葉を生産しており、田峯茶として販売されている。「だみねテラス」という休憩所に車を止めて、食事をする。郷土館まではもうすぐなので、駐車場の目の前にある田峰観音を歩いてみることにした。

少し急な石段を上って行くと、杉の大木があり、樹皮をコケや地衣類が覆っている。濃淡のある緑や、青灰色のまらだ模様を眺めていると、糸の塊のようなものが付着していた。サルオガセだった。標高が高めの森の木に着生する地衣類で、知多半島をめぐっていても、見かけることは無い。そんなところからも、普段観察している場所とは、環境が異なることを実感する。木の根元には、とうが立たったフキが、たくさん花を咲かせていた。

石段を上りきると、右手に寄棟の屋根の舞台が目に入った。田峰観音には「雪を降らせた観音様」という伝承があり、例大祭では、田楽とともに地狂言が奉納されるそうだ。さらに奥に行くと、入母屋の休み処がある。中に入ると、狂言や歌舞伎が描かれた、絵馬や額が所狭しとかけられている。見上げると、格天井になっていて、色褪せてはいたが、美しい花鳥画が描かれていた。目を奪われて、しばらくの間、佇む。美術館では見ることができない、土地に寄り添った芸術の美を見上げながら、地域の文化を後世に繋いでいくことの意味を想った。どのように残し、伝えていくのか。

田峯地区をあとにする前、閉校になったばかりの小学校に立ち寄った。近くの田んぼには水が張られて、強い風で水面が揺れている。田んぼからは、シュレーゲルアオガエルのコロコロとした声が聞こえた。ほかのカエルたちの声も混ざっている。静かな山の小学校に春を告げていた。小川沿いのヒメコブシは満開で、強風を受けて桃色の花びらが、閃いていた。

奥三河郷土館に到着する。曲線の屋根がきれいな、明るい木造の資料館だった。エントランスから、二階に上がると「南吉のあるいたしたら」のパネル展示がされていた。かつて豊橋と設楽を結んでいた豊橋鉄道・田口線のこと。鳳来寺山賢居院に滞在した時に作った、17の俳句のこと。塩津温泉を舞台に書かれた未完の小説「山の中」のこと。「山の中」の執筆についての苦悩を友人にあてて書いた手紙も展示されていた。物語の描写をもとに、南吉がたどっただろう道のりが、地図に線で示されているので、とても分かりやすい。山あいの駅を降りて、集落を散策しながら山奥の温泉を訪ねる、そんな南吉の姿が浮かび上がってくる。それにしても、地図を残しておくこと、写真を残しておくことは、とても大事だと実感する。暮らしている土地への想いのこもった眼と、地道な取り組みが、後世に文化をつないでいくのだろうと、ここでも感じた。

馴染みの無い奥三河の山中にいても、南吉の自然に寄り添う姿は変わらない。俳句には、兜虫、蝉時雨、葱の花、赤蟻、黄金虫といった言葉が並ぶ。そして、普段は出会うことができない声に感動したのだろう、仏法僧の句は、7つ作っていた。展示の終わりに、「山の中」の一節が紹介されていた。「蛍が渓流のこちらにも、底のあたりにも、向うの岸と思われる闇にも光っている。飛びながら光るのもあれば、じっとすわっている光もある」。ゲンジボタルは、今でも渓流の上を光りながら舞うのだろうか。

企画展示を見終わった後は、奥三河の自然や歴史、文化について、たくさんの収蔵品が並べられた、見ごたえのある常設展示を見て、郷土館を出た。せっかく来たので、隣接する道の駅にも立ち寄る。美味しそうだな、と思って手に取ったカレー粉の製造元を見ると、「名古屋市北区西味鋺」と書いてあった。地域は人の縁でつながる。