伊那谷をめぐる(七) 座禅草、花木、片栗(中)

ハナノキは、カエデ科の樹木である。3月になると湿地の周辺で、若葉の出る前に、赤い花を咲かせる。花のあとにできる種子はプロペラ状。くるくると風にのって分布を広げる。秋になると、イロハモミジなど、ほかの楓の仲間と同じように紅葉する。

ハナノキのルーツはとても古い。祖先種であるブラウンカエデの化石が、約1300万年前の地層から見つかっている。1300万年前というと、地質学的には新生代第三紀にあたる。現在、私たちが生きている時代は、新生代第四紀。恐竜がいたのは、新生代の一つ前の時代である中生代。第三紀は、恐竜が絶滅して長い年月が経ち、地球全体が暖かくなり、被子植物が大地を緑にし、ほ乳類が繫栄し始めた時代。北極周辺で繁栄していた祖先が、繰り返し訪れた氷河期を乗り越えて、形を変え、北米、ヨーロッパ、日本で生き残った。

ハナノキは日本固有種であり、恵那山周辺の長野、愛知、岐阜に自生地が集中している。愛知県では県の花になっているが、自生地は少ない。武豊町の自然公園にもハナノキはたくさん生えているのだが、ずいぶん昔に人が移し入れたものが増えたのだろう。

伊那谷の自生地は、飯田市、阿智村、阿南町に広がる。以前、飯田市美術博物館を訪ねたとき、ミュージアムショップに並んでいた「ハナノキ湿地の自然史 赤き楓のシンフォニー」(2008)という展覧会図録が目に留まった。ハナノキの紅葉と裏表紙には花の写真。地の色も赤い、真っ赤な装幀の図録。この図録の印象はとても強く、毎年ハナノキを見に行いたいなと思いつつも、春は訪ねる場所も多く、機会に恵まれなかった。そろそろ行ってみようと思い、この春に飯田市山本周辺のハナノキ湿地の一つを訪ねてみることにした。

2月、まずは場所を確認するため、ザゼンソウを観に行く前に立ち寄ることにした。目印の付けられた駐車場に車をとめて、周辺を歩いてみる。湿地にはどこから入るのだろうと思いながら、植林されたヒノキの道を歩いていく。道をしばらく進むと、目の前に山並みが開けた。伊那谷で観察していると、どこを歩いても、急に目の前が開けて、山並みが見える場所がある。河岸段丘による起伏に富んだ地形は、風景を絵にしている。

なだらかな崖をコケがおおっている。前日まで雨が降っていたこともあり、葉の開いたコケがきれい。ハイゴケ、シラガゴケの仲間は、見て分かる。地衣類のコアカミゴケもある。昨年の冬、足助で訪ねた、農村舞台のある諏訪神社の石垣も、ハイゴケ、シラガゴケ、コアカミゴケが目立っていたなと思い出す。少し歩くと、シダの仲間であるマンネンスギがあった。杉の葉によく似ている。そばには、ヒカゲノカズラの群落もあった。

入るところが分からなかったため、駐車場まで引き返す。戻って周辺をきょろきょろ見ていたら、100メートルほど先の道路沿いに入口があった。ずいぶん先まで歩いてしまったけれども、周辺散策だけでも十分満足したので、移動することにした。立ち去り際、ほんのり黄色いチョウが眠たそうに飛んでいたので、写真に撮り、帰ってから確認すると、スジボソヤマキチョウだった。伊那谷らしい昆虫と出会えたので、嬉しくなる。

3月24日。あらためてハナノキ湿地を訪ねた。気温も上がり、生きものも本格的に動き出していて、スジグロシロチョウ、コツバメが飛んでいた。ハナノキは、ほぼ満開。赤い花がよく見える。少し後に満開となる桜の趣とは、だいぶ違う。自然に流れる時間に身を任せられなければ、美しさに気づくのは難しそうである。季節によって、場所によって、時間の流れが異なるのなら、それぞれの季節に咲く花々に、心を重ねられるようにありたい。

ちょうど保全活動をされている方たちが来て作業をされていたので、車でお弁当を食べていたら、「見て行ってください」と声を掛けてくださった。道路から谷へ下る。背の高いハナノキを見上げながら、雄木と雌木のこと、ハナノキの分布のこと、湿地の植物のことなどを教えてもらった。定期的に観察会もされているそうだ。奥まで歩いてみると、迷いながら歩いていた道は、湿地の谷の上だったようだ。まだ花の色は少なかったが、ルリタテハ、テングチョウ、オナシカワゲラなど、春の虫たちがいて、気持ちの良いところだった。

家に帰って、あらためて図録を読み直していたら、滋賀県東近江市には、聖徳太子お手植えといわれるハナノキの古木があると書いてあった。伊那谷をめぐっていると、聖徳太子の碑をよく見かける。もしかしたら、1400年前、伊那谷を訪ねた聖徳太子が、ハナノキの美しさに魅かれ、幼木を持ち帰って植えたのかもしれないなと想像した。〈下に続く〉

 

 

伊那谷をめぐる(六) 座禅草、花木、片栗(上)

お彼岸に墓参りに行くと、手を合わせて、舎利礼文を唱える。これまで何回も唱えているし、短いので、これだけは最初から最後まで正確に覚えている。そういえば舎利礼文というお経のことをよく知らないなと思い、少し調べてみると、曹洞宗の開祖である道元が、火葬の際に唱えていた経文で、曹洞宗では重要視されているそうだ。

以前、曹洞宗の僧侶の方に「HANAYASURI」をお渡ししたところ、「座禅を組んでいるような気持ちになりました」と、感想をいただいたことがあった。だからということでは無いのだけれども、一度、ザゼンソウを観に行きたいなと思っていた。

伊那谷は、ザゼンソウが自生する地域である。ミズバショウなどと同じサトイモ科の植物で、雪国に生育する。冬が終わる頃、芽を出すときに発熱し、周囲の雪を融かす。自生地は日本海側に多く、長野では北部の高原に多い。伊那谷は、自生地の南限とされる。

2月下旬。飯田市の天然記念物に指定されている「嵯峨坂のざぜん草自生地」を訪ねるため、伊那谷へと向かった。2月に伊那谷を訪ねるのは初めてで、中央道を走っていると、伊那山地の向こうに雪をかぶった南アルプスが、大きく、眺められた。

嵯峨坂のざぜん草自生地は、飯田市虎岩という地域にある。虎岩は、和紙の里がある下久堅の隣の地域。飯田山本から三遠南信自動車道に入り、久堅インターで下りる。県道83号を右折。そのまま進むと喬木村第二小学校があり、もう少し先に行くと九十九谷森林公園がある。遠山郷に行くならば、途中で折れて、山道を進む。何度も来ているので、だいぶこの辺りの道を覚えてきた。右折して少し行くと、縄文時代の竪穴住居が復元されている北田遺跡があり、すぐに「嵯峨坂ざぜん草自生地」の道標があった。道標の方に折れる。山沿いの道をしばらく進み、谷あいの棚田に沿って急坂を上がる。目的地に到着。

棚田沿いには砂利の敷かれた駐車場があり、イスとテーブルが置かれた休憩所もある。置いてあったパンフレットをもらい、自生地を目指す。自生地は、もう少し上ったところにあるようだ。林縁の坂道を歩くと、周辺の植物を楽しめるようにされていて、植物の名前が書かれた札が立ててあった。「山葵沢」という札があったが、ワサビも生えるのだろうか。

白い枯れ草がおおう湿地沿いを林の端まで上ると、ここから、ざぜん草自生地。林床の湿地に、木道と物流に使うプラスチックのパレットが敷かれている。パレットは歩きやすかったが、木道は年季が入っていた。ザゼンソウが出ていないか、注意深く、湿地に目を向ける。芽出しはあるが、仏炎苞は見つからない。どうやら来るのが早すぎたかなと諦めかけていたら、一つだけ瑞々しい仏炎苞が出ていた。周りに雪は無いが、湿った土と落ち葉の間から出たばかりのザゼンソウは、黄金色にも見える緑色だった。ほっとして、数枚写真を撮り、林を出る。湿地と棚田の先に山並みが見えた。ウグイスの声を聞きながら、しばらくの間、のんびりする。駐車場のハナノキの枝に、越冬明けのヒメアカホシテントウがいた。少し触ると、まだ重そうな足取りで、もぞもぞ下へと移動していった。

3月下旬。山本の湿地を訪ねたあと、虎岩のザゼンソウはどうなっただろうと思い、訪ねてみた。一カ月前とは違い、大きくなった赤茶色の仏炎苞が出ていた。頭を出しているものもあれば、ほとんど埋まっているものもある。座禅を組み始めたばかりの修行僧も、時間が経ち、禅師の風格。株数は、数十ほどだろうか。

めだか池ではメダカが泳ぎ、テーブルでは、ルリタテハが翅を広げていた。たまたま来ていた方に話しかけると、この自生地の管理をされている方々のお一人だった。立ち話をしていると、虎岩の文化財施設である旧瀧澤医院の管理人でもあるそうで、「よければ観て行きませんか」と言ってくださった。せっかくなので、お言葉に甘えて案内していただくことにする。旧瀧澤医院は、明治時代の医師である瀧澤清顕が建てた擬洋風建築の病院。瀧澤清顕は、当時から白内障の手術を多数手掛けるほど、医師としての腕はよく知られ、美濃、三河、遠江からも頼ってくる人がいた。それぞれの街道が通る伊那谷は、来るのにも適していただろう。現在は、全国からお医者さんが、興味をもって訪ねて来るそう。資料の調査が進めば、これからその人柄も含めて知られていくだろう。立派な石垣を組んでまで虎岩に病院を作った理由に、絶えず湧き出る泉の存在がある。下久堅に和紙の里ができたのも、水と地形が理由の一つにある。自然の恵みに着目した先人が多い地域なのだなと実感した。〈中に続く〉

 

 

シエル・ブラン

歯医者からの帰り道。地下鉄の駅に向かって歩いていた。大通りの交差点では、お昼御飯を食べに行くのか、買いに行くのか、仕事着姿の人たちや近隣の大学生が信号待ちをしていた。見上げれば、高速道路の高架。近くには、改装中の国際会議場がある。この辺りは、気にしなければ、土も見つけられない都市部だが、街路樹の根元を見ると、銅板のツリーサークルの隙間にスミレが咲いていた。見るからに小さなスミレ。たぶん、ヒメスミレだろうと思い、近づいて確認する。葉の縁が軽く波打っている。距(きょ。花弁の中で前に垂れる唇弁の後方部分)を横から見ると、根元だけがややピンク色だが、白い。ヒメスミレで良さそうだ。ヒメスミレを最初に認識したのは、岩滑の八幡社の石垣だったなと思い出す。

毎年3月になると、「そろそろスミレが咲く時期だ」と、路傍に目がいく。今年も3月半ば頃から見かけるようになった。スミレは、とても種類が多い。それだけで分厚い図鑑ができるほどである。最初はどのスミレを見ても、同じように見える。スミレの花があることに気づけるようになると、今度は、どれも違う種のような気がしてくる。そうこうしながらも、毎年調べてきたからか、生活圏と観察場所で出会うスミレは、大体見分けられるようになってきた。覚えては忘れ、忘れては覚えてという繰り返しは、虫の音を覚えるのに似ている。

まず先に、有茎種(茎が地上に出ている)であるタチツボスミレの仲間だが、タチツボスミレ、ナガバノタチツボスミレ、ニオイタチツボスミレは見かけている。だが、タチツボスミレの仲間は種間交雑が多いようなので、とりあえずタチツボスミレの仲間としておく。

地上茎の無い、無茎種のスミレの仲間では、春先、最初に見つけるのは、マキノスミレ。花は赤紫色で、距がピンク色になる。葉の裏や葉柄は、赤みがかっている。まだ昆虫が動き出す前から咲き出すものもある。東海地方は、マキノスミレとシハイスミレの分布が交わる場所とされているが、これまで歩いてきた観察地で見かけるのは、マキノスミレがほとんど。シハイスミレは、よく似ているが、葉の形が異なる。

濃紫色のスミレは、植物体の大きい順に、スミレ、ノジスミレ、ヒメスミレ。そのうち、スミレ、ノジスミレは、距も花弁と同じ濃い紫色をしているが、ヒメスミレは距が白い。スミレとノジスミレの違いは、葉を見ると分かりやすい。スミレには、葉柄に目立つ翼(よく。柄から張り出している部分)があるが、ノジスミレは無い、もしくは目立たない。スミレは道路端でも野路でも、一塊になって生えている印象がある。葉も大きく、立ち上がる。

白いスミレは、紫色のスミレに比べて、見かけることが少ないので、出会ったときのことを記してみる。まずは、フモトスミレ。観察を始めたばかりの頃、大谷の高砂山公園で見たのが最初だった。葉脈の白さが目立つ葉に、ピンクに色付いた距。雑木林の道沿いに点々と咲く小さな花を探して、下を向いて歩いた。春がやってくるごとに、フモトスミレのある雑木林は見つかり、今では数か所で確認している。武豊自然公園には、フモトスミレのほかにニョイスミレ(ツボスミレとも)も咲く。ほとんど歩く人のいない湿気のある坂道で、葉を繁らせて、小さな白い花を一斉に咲かせている。

名古屋市内では、西味鋺の新地蔵川沿いを歩いて、小学校側から慈恩橋を越えたあたりに、白いスミレがたくさん咲く。シロスミレという種があったなと思い調べてみたが、シロスミレは分布と生育地が、この路傍と一致しない。葉には翼があるので、スミレの白花というのがあるのかなと思っていたら、アリアケスミレに白花があるそうだ。スミレとアリアケスミレの違いは花の色なので、このスミレもアリアケスミレで良いだろう。熱田神宮にはヒゴスミレがある。5裂した葉が特徴。この花は、ここでしか見たことが無い。

すべてではないと思うが、知多半島、名古屋でよく見かけるスミレは、大体これくらい。淡紫色で、早春に人家の近くで咲くコスミレは、まだ見かけていない。

カモのいなくなった堀川を渡り、地下鉄に乗って、熱田神宮伝馬町駅で降りる。地上に上がり空を見ると、白かった。ほのかに水色が見える部分もあるが、ほぼ真っ白。空が白くても、白い雲が分かるのは、陰影があるから。当たり前と言えばそうなのだが、陰影があると立体的に見える。空が白いと、街路樹のコブシは目立たない、だいぶ散ってきた。そういえば、観察会をしている天白渓も「白い天(そら)」だなと思いついたところで、家に着いた。

翌朝、白かった空は暗く灰色の雲に覆われて、待望の雨が降っていた。

 

 

水の湧き出すところ

先日、椋鳩十を読む会で、「大造じいさんとガン」の舞台となった池について、みんなで話をした。「大造じいさんとガン」の前文には、栗野岳で猟をしていた大造じいさんが、話し上手の人で、その中にあったガン狩りの話をもとに作ったとある。丁寧な観察と、入念な取材をもとに書くことが信条であった椋鳩十の物語なので、実際にあった話なのかと思ってしまう人もいるが、そうでは無く、老猟師から聞いた話に、想像力と戦時下に生きる子どもたちへの想いを加えて、真に迫る作品とした創作物語である。

物語は、作ったものだが、ガンと大造じいさんの知恵比べの場となった池は、実際に存在する。鹿児島県姶良郡湧水町にある、三日月池である。湧水町という名が示す通り、霧島連山の山麓に位置する、この地域では、湧き水がたくさん出る。霧島連山は、日本有数の火山地帯であり、西の端にある栗野岳も火山なので、温泉が出るところも多い。三日月池も湧き水によってできる池で、江戸時代の貴重な郷土資料である「栗野由来記」には、「形状半月に似て周廻十六町、冬は出水なく、夏五月に水出ず」とあるそうだ。つまり、雨水を溜めるために黒鍬衆によって掘削された知多半島のため池とは異なり、大地の仕組みにより季節ごとに水があらわれたり、消えたりする池。そのような水辺には、ため池を好む植物とはまた異なる植物が自生する。三日月池は、ノハナショウブの自生南限地なのだそうだ。

湧き水ということでいうと、名古屋や知多半島を含む東海地方には、湧水湿地が点在している。知られているところでは、「東海丘陵湧水湿地群」という名称で、豊田市にある3つの湿地がラムサール条約に登録されている。湿地や湿地周辺に生える植物は、東海地方特有の植物が多く、東海丘陵要素植物と呼ばれる。15種類と、それほど多くないので、種名を列記すると、木本は、シデコブシ、マメナシ、ヘビノボラズ、モンゴリナラ、ヒトツバタゴ、クロミノニシゴリ、ナガボナツハゼ、ハナノキの8種。草本は、ナガバノイシモチソウ、トウカイコモウセンゴケ、ヒメミミカキグサ、ミカワシオガマ、シラタマホシクサ、ミカワバイケイソウ、ウンヌケの7種。聞いたことのある名前もあるのではないだろうか。

湧水湿地は、湿原とはでき方が違う。地表近くを流れる地下水が斜面に流れ出ることで湿地になる。環境変化の影響を受けやすく、開発や崩壊によって無くなってしまった湿地は数知れない。逆にいうと、それくらい人の生活と身近な場所に湧水湿地はあって、その水辺には、季節ごとに花々が咲き、水生昆虫が暮らし、野生動物がやってきていた。ただ、身近に湿地があることの重要性が、きちんと知られていたのかというと、そうではなかった、ということだろう。各地には、湿地の重要性に早くから気づき、保全活動や周知の活動をされてきた方々がいる。そうした方たちの地道な活動を、もっと多くの人たちに知ってほしい。

椋鳩十が生まれ育った伊那谷にも、そんな湧水湿地がある。3月半ばから4月上旬にかけて、飯田市や周辺地域の湿地では、ハナノキが赤い花を咲かせる。3月下旬に訪ねてみたところ、まだ葉の出ていない木の枝を彩る赤い花は、小さいながらも鮮やかで、野の春を祝福しているようだった。年度の変わり目は、桜だけでなくハナノキやスミレも咲く季節だ。

3月上旬に、講座を聴講するため新美南吉記念館を訪ねた。内容は、2年前の春季企画展示「君は即ち春を吸い込んだのだ~南吉のセンス・オブ・ワンダー」をもとに、館長の遠山さんが、レイチェル・カーソンの語る「センス・オブ・ワンダー」と南吉の自然に対する感性を重ね合わせて論じたお話。南吉の創作姿勢、北原白秋の教えや宮沢賢治の表現といった文学に生きた人々の話と、科学者・レイチェル・カーソンの言葉が、心地よく融和していく。とくに、南吉が安城高女の生徒たちに伝えたかった想いについては、すんなり腑に落ち、とても楽しい講座だった。文学が好きな人たちだけでなく、子どもと関わる仕事をされている人たちにも、この講座の話を聞ける機会が、これからたくさんあると良いなと思う。

新美南吉は、「この泉の水を汲んでくれ」といった。学芸員である遠山さんは、南吉の泉の水を汲んだ。南吉に限らず、自然を観察し、表現の源泉としていた文学者はたくさんいる。泉は、勝手に水が湧き出てくる不思議な場所ではなく、自然の因果にもとづき、地下を流れている水が、雨の影響で地表にあらわれるところ。地表に出た水は、いつのまにか周囲を潤し、多くの人たちが水の恵みを知る。これから、地下水が流れ出すほどの雨が、きっと降るはずだ。雨を降らせる人、水を汲む人が、各地に増えていく未来を楽しみにして。

 

 

続・春を待ちながら

1月に一度、写真を整理したのだが、生きものについては、撮影データをすぐに確認できるようにしておこうと思い、2月半ばから撮影日や場所を表に記入していった。ついでに未確認にしてあったものも、できる範囲で確認していき、2週間かけてようやく終了。そうこうしているうちに、啓蟄になった。本格的に、生きもの達が動き出す。

観察場所に行き、時間をかけて歩きながら、出会った生きもの、植物、風景などを撮っていくという写真の撮り方をしているので、珍しい生きものは、それほど多くはない。どちらかというと、よく出会う生きものを何回も撮っていることが多い。一つの場所に時間をかけて、また、一年を通して何度も訪ねているので、一般的には、あまり注目されないような小さな生きものを撮っていることも、よくある。写真の整理をしながら、あらためて興味を引いた、そんな生きものについて、少し書いてみようと思う。

ユスリカ。「HANAYASURI」を作っているとき、ため池とユスリカをテーマに、近藤繫生先生に文章を寄せてもらった。観察会の報告会では、パワーポイントを使って解説していただき、誌面にもその内容を掲載した。ユスリカは、蚊に似た外見であるが、吸血しない。幼虫は、釣り餌にもされる赤虫で、水質浄化に役立っているという研究もある。どうしても大量発生した際の公害で注目されてしまうが、自然界においては、とても役に立つ存在と教えていただいた。日本には、高山から海岸まで、2000種以上いるくらい、種数も多い。四季を通してあらわれ、ある専門家の方は、「一年を通じて、われわれの生活の中で見かけない日はない」と書き記している。

観察をしていて、ユスリカと出会う機会は、たしかに多い。見かけると、少し時間をかけて葉などに止まるのを待ち、写真を撮る。撮った写真から後日、名前を調べようと試みるのだが、それぞれの種についての解説があまり見つからないため、ほとんど「ユスリカ類」に留めている。そのうち、知多半島のユスリカをテーマにした小冊子が作れないだろうかと考えながら、今は少しずつ、写真を撮り溜めている。

ザトウムシ。ザトウムシは、メクラグモという名前で呼ばれることが多かった。脚は8本あり、昆虫ではなく、クモガタ類に分類される。クモ、サソリ、ダニなどが近しい。ユスリカは、極地を含む世界中のあらゆるところに生息しているが、ザトウムシも極地、乾燥地以外のあらゆる陸地に棲んでいる。畑で土を掘ったり、枯れ草をどかしていると、サササッと素早く逃げていく。雑木林にもいて、赤い棘のあるゴホントゲザトウムシと出会うことが多い。以前、美浜町の海岸でザトウムシを見つけた。「おや、こんなところにザトウムシ」と、写真に撮ったのだが、海岸性のザトウムシは、ヒトハリザトウムシが唯一の種。自然海岸が減っているため、環境省のレッドデータで準絶滅危惧(NT)に指定されている。

ハエトリグモ。ハエトリグモは、巣を作らない徘徊性のクモの仲間で、種数も多く、日本では100種以上が確認されている。身近に出会うことも多い。家屋に棲み、黒い体に白い一本線が目立つアダンソンハエトリなどが、よく知られている。そういえば、家で飼っている黒猫の青葉が、拾ってきてすぐ、まだ手のひらに乗るくらいの大きさだった頃に、目の前をピョンピョンと跳ねるアダンソンハエトリを見つけて、遊んでいたことがあった。知多半島で観察していたとき、草むらでエサを捕獲していたハエトリグモがいたので調べてみると、ネコハエトリという種。体の毛並みや口元のモサモサした感じが、たしかにネコっぽいかなと思った。名古屋市では、2023年に生物多様性センターの主催で、市内と一部市外のハエトリグモを一斉調査したところ、市内で33種(市外を含むと35種)が見つかったそうだ。新しく見つかったものもあり、これまでに40種が確認されている。

最後に、イシノミについて。イシノミは、翅をもたない原始的な昆虫の仲間で、湿った土壌に棲む。古生代デボン紀の地層から化石が発掘されている、生きた化石。緑藻や地衣類を食べ、3年ほど生きる。知多半島でも、ため池近くの湿った地面や、雑木林の倒木近くで見かけるが、日本では、十数種しか知られていない。変化しないもの、単純なものをエネルギー源とし、自分たちも大きく変化せず、4億年という長い期間、世代交代を繰り返してきたということだろうか。激しい環境変化に身を変え続け、種数を増やし繁栄するものもいれば、単純で安定したものを選んだがゆえに、長く生き残るものもいるのだろう。

 

 

猛禽のこと

今年も美浜町でアカガエルのたまごを探す季節がやってきた。アカガエルのたまごは、田んぼにあらわれる。2月になると、田起こし後にできた土の凹凸に雨が溜まっていく。田の中だけでなく、田畑の間の溝にも同様に雨が溜まっていく。雨が降ってから次の雨まで日が空くと、雨水は田に浸み込み、表面には無くなる。アカガエルは、雨がやんでも水が溜まったままになるくらいに雨が降り続ける夜、冬眠から目覚め、カエル合戦の末、産卵する。翌日、田んぼを訪れると大小数十個の新鮮な卵塊があちこちにあらわれている。

昨年は冬の降雨量が例年にくらべて、目に見えて少なかった。その結果、観察地の田んぼでのたまごの初見日は、それまでが2月15~22日だったのが、昨年は3月4日と月をまたいでしまうほど遅かった。気になったので、美浜町の降雨量を調べてみると、2021~23年度の3年間の降雨量の平均が、12月67.5ミリ、1月23ミリ、2月62.5ミリであったのが、昨年は12月0.5ミリ、1月16.5ミリ、2月15ミリと、例年よりも圧倒的に少なかった。今年も、やはり雨は少ない。観察会までにまとまった雨が降ると良いのだが。

2月12日、奥田の田んぼにアカガエルのたまごを探しに行った。二日前に雨が降っていたのだが、田んぼの水の溜まり方は少ない。たまごは、まだ無かった。けれども少し離れた布土の田んぼでは、2つの卵塊が見つかった。春は、着実に近づいている。

田んぼの畦を歩いていると、林のすぐ上を一羽の猛禽が舞っていた。下から見ると羽の上部に黒い模様がある。ノスリ。そういえば、昨年11月の観察会でも恋の水神社から町民の森へと向かう途中で、見かけたことを思い出した。ノスリは、軽く旋回し、落葉樹にかこまれた常緑樹の葉叢の中に入っていった。巣があるのだろうか。

2年前の2月に、南知多町、美浜町を中心に鳥の観察を始め、これまで50種ほどの鳥の姿や鳴き声を確認してきた。観察で出会った猛禽を思い出してみると、まず一番見かけるのはトビ。南知多町大井には鳶ヶ崎という地名がある。その名が示す通り、大井一帯では、見上げればトビがいる。トビは知多半島の南北を問わず、海岸に行けば、一羽はいる印象である。内陸でもよく見かける。

数回出会ったのは、ミサゴ。陸の猛禽の代表格がタカであるのに対し、海の猛禽類といえば、ミサゴ。近年、鳥類の分類は、かつてと大きく変わってきているが、ミサゴ科はミサゴだけである。ミサゴは頭が白く、首から体に掛けて黒いバンドがある。他のワシタカと比べて羽が長く、スマートに見える。魚を狩猟するので、ため池にも来ている。

ノスリは、別の場所でも遭遇している。田んぼなどのカエルや小動物などをエサにするため、人の生活に近しい場所にいる。トビ、ミサゴ、ノスリは身近でもっともよく出会うワシタカである。ほかには、眺望の開けた高い丘でハイタカが遠くを飛んでいくのを見かけ、鳥の観察のときとは別になるが、ずいぶん前にツミとも出会った。オオタカは、私はまだ出会えていないが、30年前には、東海市の小学校に飛び込んできたことがあったそうだ。現在は周囲の環境が大きく変化しているため、そういったことは起こらないだろう。人々の生活のすぐ近くに、オオタカがいた頃のことを、今は想像するしかない。

ワシタカ以外の猛禽はというと、フクロウの仲間では、アオバズクが南知多町内海にはたくさんいたのだが、ほとんど姿を消している。夏の夜、ポッポッという声で鳴く。ホタルを探す時期とも重なってくるので、耳を澄まして、アオバズクの声も探してみようと思う。フクロウ、オオコノハズクもいた。オオコノハズクは、昨年末に熱田の神社でも目撃されている。名古屋市の真ん中にあっても、このフクロウの仲間はいて、ずっといるのか、それとも戻ってきたのかは分からないけれど、静かに生息している。

ハヤブサの仲間では、2月に名古屋市の平和公園でチョウゲンボウを見かけた。チョウゲンボウは都会のビルに巣を作ったりして、都市部でも強かに生きているそうだ。知多半島では、チゴハヤブサ、ハヤブサが、過去に目撃されている。

渥美半島の伊良湖岬では、タカの渡りが見られ、毎年そのピークの時期になると早朝から愛好家の方たちが集まって、その数を数えている。一昨年、観に行ったときには、全体の数は少なかったが、サシバが渡りの準備をしていた。伊良湖岬から飛び立った渡り鳥は、知多半島のそばを通っていく。今年こそは、知多半島で渡りの観察をしたい。

 

 

春を待ちながら

2026年が始まった。元日はゆっくり過ごし、2日の早朝、それほど人出が多くない時間に熱田神宮へ初詣。年末から新年は写真の整理をしようと決めていたので、家に帰って、まだファイリングしていない写真を一枚ずつ確認しながら、A4用紙にプリントし始めた。

最初に着手したのは、2024~25年に訪ねた各地の写真。普段から写真を撮ったらその日のうちにプリントアウトする。「知多半島をめぐる」はもちろん、「名古屋野歩き」(名古屋市内の緑地や川などで撮ったもの)、「伊那谷の四季」(喬木村や伊那谷で撮ったもの)、「家」(家で撮った生きものや花)は、ファイリングしてある。プリントしていないのは、それ以外に行った場所。和紙の里を訪ねた越前。変形菌について教えていただいた瀬戸。三河と伊那谷を結ぶ地域である設楽や明智。京都の深草にある大岩山などの写真である。ほとんどの場合、他の用事も兼ねているため、撮っている時間は長くない。けれども、それらの土地で出会った生きものや植物は、知多半島では見かけないものもある。当日のことを想い出しながら、ところ変われば、在るものが変わることをあらためて考えた。

5日は、上知我麻神社の初えびす。深夜からえびすのお札や、福熊手を買い求める人たちでにぎわう。この日を仕事始めにしているところも多い。午前中、「はたらきえびす」の札を買いに神宮へ向かう。子どもと一緒に来ている人たちもいるが、スーツ姿の人たちが多い。最近は着物姿で初詣をする人をほとんど見かけなくなったが、仕事柄だろうか、着物姿の人たちもそれなりに見かける。神社でお詣りし、熊手や札を買い求める列に並ぶ。となりの列のほうが、進みが早かったが、まあ仕方がない。並びながら、年末のある日暮れ前、上知我麻神社への道を聞かれたことを思い出した。伝馬町の交差点で女性に道を聞かれて、話を聞くと、お子さんが明日から海外に出掛けるので、お祓いをしてもらおうと思ったのだが、受付が16時までなので急いできたとのことだった。時計を見ると、あと15分ほど。道を教えると、急ぎ足で南門の方へと向かわれた。無事、間に合っているとよいけれど。

初えびすから家に帰ってくると、いよいよ新しい年が始まったという心持ちになる。早速、知多半島で撮った生きものの写真を整理し始める。写真による生きものの記録は、以前から考えていて、2020年2月から23年5月までのものは、「はなやすり観察会報告会」のときに整理して資料にした。それ以降の2年半分のファイルを、この日から一週間かけて再度確認していった。そろそろやらないと、と思っていたので、年初に出来てよかった。

さて、これまでに撮影してきた生きものの内訳は、昆虫246種。は虫類8種。両生類6種。鳥類28種。ほ乳類2種。クモ類10種。陸生貝類3種。貝類11種。カニ類10種。魚類5種。その他25種。イモムシなどの幼虫や、小さなハチ・ハエの仲間など、種が同定できていないものは数に入れていない。分かるように撮れている成体にかぎった数で、合計354種だった。ちなみに雌雄は、どちらかが撮れていればよいとしている。

観察会でも携帯しているポケット図鑑「日本の昆虫」(文一総合出版、2013)は、身近に出会う昆虫を中心に、2巻で1400種が紹介されている。246種は6分の1ほど。ポケット図鑑は知多半島では出会えない昆虫もたくさん含んでいるし、撮っていて、載っていない昆虫も数多い。身近な昆虫といっても、本当にたくさんいるのだ。身近にいるとされていたが、出会える機会がずいぶん減った昆虫も多いだろう。今年は、水生昆虫や、鳴く音は聞くが姿を見ていないコオロギやキリギリスの仲間、家畜の糞に集まるコガネムシ、出会えていないトンボやチョウなどを気にしながら、観察していこうと思っている。

昆虫以外では、まず両生類。ヒキガエル、サンショウウオ、イモリは、観察を始めた当初から探しているが、まだ出会えていない。ほ乳類は、イタチは春によく見かけるが、遠目にこちらを見つけると、すぐに隠れてしまう。タヌキも夜行性だからか、なかなか出会わない。ノウサギは一度だけ遭遇。キツネの親子も一度見かけている。鳥類では、フクロウの仲間が知多半島にもまだいるようなので、鳴き声だけでも聞いてみたい。ほかにも、川の調査も出来たらと思っている。海の魚を知るために、釣りをしてみるのも良さそうだ。昨年のトビハゼ探しでは、トビハゼは見つからなかったが、カニの仲間とは、たくさん出会った。

今年は、どんな生きものと出会えるだろうか。立春、そして生きものが動き出す季節、啓蟄の訪れを楽しみにしながら、まだしばらく、写真の整理を続けようと思う。

 

 

一年の終わりに

14日に「モンテッソーリ読書会」の準備会を開催した。マリア・モンテッソーリの孫である、マリオ・モンテッソーリが1970年代に行った講演を、アメリカのモンテッソーリ教育の実践者、ポーラ・P・リリヤードが編集した「人間らしき進化のための教育」(ナツメ社)を読むという会である。日本語に翻訳をしたのは、エッセイ「一枚の写真から」にも登場した、教育者・周郷博。さまざまな縁があって、モンテッソーリ教育にまつわる読書会を始めることにしたのだけれども、参加してくださる方と一緒に、丁寧に読み解いていけたらと思う。来年2月22日、第一回が、とても楽しみな準備会だった。

「コスミック・タスク」という言葉がある。これは、マリア・モンテッソーリが大切にしていた概念で、「地球全体のすべてのものがつながっていて、あらゆる生物は互いに関連を持ちながら、自立と調和と秩序という、実に複雑な課題をこなしながら、互いに成長・発達する『コスミックな仕事』をしている」というものである。

子どもは、自分たちが住んでいる土地を知るために、小学校に入ると、まず身近な地域から認識する。その前に、モンテッソーリ幼稚園では、地球誕生から現代に至るまでの時間的な「今」と、広い世界の中で自分が今、暮らしている、「ここ」に気づかせる。広い地球上で自分が今どこに生きているか、環境を認識してから地域の勉強をすると、自分が暮らしている土地と、その先にある地域を、つながりをもって捉えられそうである。

「コスミック・タスク」という考え方は、今の時代、とても大切だと私は思っていて、準備会でも、新聞記事を使って話した。翌日、話したことを思い出しながら書いたメモは、もう少し整理された文章になったので、参考までに、ここにも書いておこうと思う。

「地球が、あまたある循環の交わりによって成立していると考えてみる。小さな循環。大きな循環。狭い循環。広い循環。どこかで循環の乱れが生じる。その乱れによって、その環境を構成している要素に軋轢が生じる。その構成要素たる生物、植物だけでは、その軋轢を解消することができない。となると、循環の調整者であり、考える能力をもった人類の登場である。他所の循環における余剰物を検討する。両循環での効果を検討して、移動させて良いものを選び、循環構成物の引っ越しを担う。移動させた先で軋轢が解消されれば、環境は正常に保たれる。人類のコスミック・タスクは、軋轢の解消、環境の正常化。それらを、継続することなのだろう」(2025年12月15日)

具体的な何かを説明した言葉ではないので、イメージを描くのは難しいかもしれない。読み直しながら、自分でも、そう思う。準備会での話と重ねてみると、シカが増えて高山植物を食べてしまう状態は、シカの循環と高山植物の循環に軋轢が生じているから。なんとなく伝わるだろうか。もちろん、移動に細心の注意が必要なのは言うまでもないだろう。

23日、新美南吉記念館を訪ねた。来年1月までの企画展示は「絵に描かれた昔の岩滑」。南吉の後輩で日記にも登場する、石垣藤九郎さんが描いた岩滑の絵から、ふるさとの風景を紐解く、地元ならではの展示だった。ふるさとの人たちの南吉への愛情は、みな温かい。

展示では、子どもが世界を捉えていく、南吉の描写が紹介されていた。「かうして子供の外への第一歩が成功する。やがて、家の裏と横の樹木、向ひ側の家、その南にある井戸、更にその南の鍛冶屋、鍛冶屋の筋向ひの煎餅屋、煎餅屋の東の家鴨小屋、それらのものゝ間に通じてゐる、細いのや太いのや、石の多いのや砂の多いのや、草の生えるのや又生えないのや、様々の曲りくねつた道と、子供の世界は飽くことなく拡大されてゆく」(「家」より)。

子どもたちは、自分が生きていく環境を、こうして把握していくのだろう。

 

12月に入る直前、寒さのためか、急に腰を痛めてしまって、予定をキャンセルしないといけなかった。楽しみにしていた予定もあり、残念だったけれど、少し休んだ方がいいということだろうと解釈し、無理せず生活していた。痛めてから数日は、前屈ができず、靴下を履くのも一苦労だったが、2週間ほどで痛みは治まり、今は平気である。

冬になると、腰痛にかぎらず、体調を崩すという人は、案外多いのではないだろうか。新しい年の始まりを元気に迎えられるよう、無理せず、年末年始をお過ごしください。

今年も一年間、エッセイを読んでくださり、ありがとうございました。

 

 

繋・宮沢賢治(下)

追悼会に出席したもう一人の女性は、八重樫祈美子という。花巻から来たこの女性が賢治や宮沢家の人たちについて語るのを、永瀬清子は、とても快く聞いたそうだ。気になったので、少しだけ調べてみると、八重樫祈美子は、ジャーナリスト・徳富蘇峰の秘書で、彼女もまた、39歳という若さで亡くなったということだった。

今年の2月、東京に行ったことを想い出す。新宿の写真展を訪ね、向った先は、京王線の八幡山駅。千葉に住んでいた頃、東京へ行くことは多かったが、世田谷まで足を伸ばすことは、ほとんど無かった。初めて降りる駅というのは、楽しい。駅の大きさや駅前の風景。歩く人々。目新しくても、どこかの駅と似ていても、どちらも楽しい。駅は出発点である。案内板で目的地への道を確認して、歩きだす。途中、有名な雑誌図書館「大宅壮一文庫」を発見。住宅街の細い道を歩き進むと、大きな通りがあって、広い公園に辿り着いた。

この公園は、蘆花恒春園という。もともとは、文学者である徳冨蘆花・愛子夫妻が暮らしていた場所だった。1927(昭和2)年に蘆花が亡くなり、1936(昭和11)年、土地や家屋などの財産を愛子夫人が東京市に寄贈した。現在は、公園が拡張整備され、もともとの恒春園は、西側の一角に夫妻の墓地とともに保存されており、記念館も併設されている。蘆花・愛子夫妻がこの土地、千歳村粕谷に引っ越してきたのは、1907(明治40)年のこと。この前に、海を渡り、ロシアまで文豪トルストイを訪ねている。

徳冨健次郎(蘆花)は、1968(明治元)年、現在の水俣市に生まれた。民友社、國民新聞社を創立し、明治から昭和に至るまで、激動の時代の先頭に立っていたジャーナリスト・徳富蘇峰は、一つ年上の実兄。幼いころから、聡明な兄・猪一郎(蘇峰)とは性格が異なり、厳格な家風にもなじめず、自然に心の慰めをもとめた。成人して以降も、兄の存在に自暴自棄になることもあったが、自然を観察し、文章にすることに活路を見出す。随筆「自然と人生」は、自分の人生観を、目前の自然風景に重ね合わせながら、文学として成立させ、広く愛読された。フランスの風景画家・コローを紹介し、後の文学者たちにも大きな影響を与えた。武蔵野の雑木林を愛し、農作業に汗を流しながら文筆活動をする、「美的百姓」と呼んでいた生活は、後に、随筆「みみずのたはこと」にまとめられた。

徳冨夫妻が暮らしていた茅葺きの母屋に入る。きしむ廊下を歩き、隣の書院へ行く。窓の外を見ると、雑木の林立する武蔵野の林という印象は、だいぶ薄れてしまってはいるが、背の高い木々が生えていた。歩いてきた公園は、子どもたちが走り回り、散歩する人たちも多かったのだが、恒春園は、訪ねる人も少ないようで、閑寂な様子だった。

賢治の追悼会の出席者に端を発して思索が巡り、東京に行ったときの記憶に流れ着いた。賢治にしても、蘆花にしても、ロシア文学、とくに、トルストイから大きな人生の指針を得ていたことは、確かだろう。徳冨蘆花は、恒春園という庭と畑と雑木林において、人の生活の理想を体現しようとした。宮沢賢治は、もっと広い範囲を、イーハトーヴという理想郷と捉えて、農に生きる人々とともに生活の精神的、文化的な向上を目指した。

いわさきちひろのことも、少し記しておく。「いわさきちひろ若き日の日記『草穂』」(松本由理子編/講談社、2002)という本がある。これは、ちひろが1945(昭和20)年の8月16日、つまり、終戦の翌日から付けていた日記をまとめたものである。突如として終わった戦争に対する複雑な思いを、少しずつ自分に溶け込ませるように日記は綴られる。この中で、「宮沢賢治の詩をもっと読んでおけばよかった」と書いている。後年、戦争中に出会った賢治の童話が描く東北の風景は外のことを聞こえなくするほどだったことを語っており、賢治の童話に絵を描いた「花の童話集」(童心社、1969)が出版されている。

ちひろは、日記を書いていた時期からしばらくして、共産党の演説を聞き、彼らの戦中の活動を知り、入党する。演説を聞きに来ていた女性は、ちひろ一人だったという。たった一人で詩人たちの中にいた、永瀬清子。同じように一人で入党した、いわさきちひろ。

宮沢賢治をめぐって、時間と人が交錯する。文学は、作品に親しむだけでなく、脈々と繋がる想いの束をほどきながら、解釈していくことも魅力の一つである。そして、今、自分が立っている時間的、地理的な位置を知り、次の歩みを考える。私たちの時代が抱える諸問題を解決するための糸口は、きっと、文学を紐解くことで明確になると、私は思う。

 

 

繋・宮沢賢治(上)

宮沢賢治は、日本でもっとも知られた童話作家の一人といっても過言ではない。「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」「よだかの星」「銀河鉄道の夜」など代表作を挙げてみれば、多くの人が「ああ」と思うタイトルが並び出る。賢治は、1896(明治29)年に生まれ、1933(昭和8)年に37歳で亡くなる。一時、東京で暮らした以外は、その生涯のほとんどを岩手で暮らす。盛岡高等農林学校で学んだ知識をもとに、やませによる冷害に苦しむ農家を助け、自身も畑仕事をしながら、詩や童話を書いた。農民も芸術によって心豊かになるべきだと考え、「羅須地人協会」を作り、農業についての勉強会をしながら、音楽や演劇などの芸術活動を積極的に生活に取り入れた。しかし、その想いが十分に伝わる前に、もともと弱かった体に、過労がたたり、夭折する。生前に刊行された作品集は、「心象スケッチ 春と修羅」、「イーハトヴ童話 注文の多い料理店」の二つだけである。

自然と文学というテーマを設定し、過去の文学者たちの自然観に迫ろうという試みを始めてから、この冬で2年になる。漠然と自然のことを書いた文学者について考えていた時期も含めるならば、4年くらいだろうか。この間、エッセイなどでよく取り上げている文学者以外にも、さまざまな文学者、表現者について関心を持ってきたのだが、宮沢賢治は、彼らの人生の一場面に登場することが、とても多い。

読書会などでもよく話題にしているのは、「雨ニモマケズ」が書かれた手帖が発見された追悼会のこと。賢治が亡くなった翌年、1934(昭和9)年の2月。場所は、新宿の喫茶店「モナミ」。賢治の弟であり、賢治の作品を世に出すために奔走する宮沢清六や、賢治の描く世界や詩に共感した詩人たちが集まった。郷里の花巻からやってきた人たちは、賢治の魅力的な人柄を語り、「星めぐりの歌」を歌って、追悼した。

会に参加していた巽聖歌は、賢治と同じ岩手出身。花巻と盛岡のあいだ、紫波町の生まれである。賢治と面識は無かったが、表現者として魅かれるところがあったのだろう、1970(昭和45)年に、文学仲間とともに賢治ゆかりの地を訪ねている。聖歌と追悼会に来ていた新美南吉は、賢治のことをとても尊敬していた。

賢治が亡くなった翌年、最初の全集が出版される。家族や名の知られた詩人たちが尽力することで、文学者・宮沢賢治は世に出るのだが、その陰で作品の整理や版元との調整など事務作業を引き受けていた人物がいる。賢治の友人であり「セロ弾きのゴーシュ」のモデルともいわれる、藤原嘉藤治である。嘉藤治は、賢治の没後、その作品を広めるため、すぐに音楽教師をやめて東京に行こうとするが、周囲に止められ、一年後、家族とともに上京する。戦時下の十年間を東京で過ごし、宮沢賢治全集の刊行に大きく貢献。全集の仕事が一段落した終戦直前、岩手に帰郷。岩手に戻ってからは、東根山麓に開拓農民として入る。過酷な労働環境にあっても、農業とともに生き、賢治の教えをまっとうした。

賢治の文学に触発される表現者の中には、嘉藤治のように土を耕し生きることを選ぶ人がいる。追悼会に出席していた数少ない女性である永瀬清子もその一人。永瀬清子は、1906(明治39)年、現在の赤磐市に生まれる。父の仕事の都合で、金沢、名古屋と転居し、名古屋の高等女学校に通っていた頃、詩を自分の一生の仕事にしようと決意する。この時期に出会った詩は、カール・ブッセ「山のあなたに」。そして、自分の詩を見てもらうため送った先は、同人誌「詩之家」を始めるため作品を募集していた佐藤惣之助であった。

カール・ブッセ、佐藤惣之助という名前が登場し、思い浮かぶのは、やはり椋鳩十だろう。鳩十は、1905(明治40)年生まれ。清子の一つ年上である。鳩十もまた、天竜川を越えて飯田まで通っていた高校(旧制中学)時代に「山のあなたに」と出会う。法政大学の学生として上京した後、惣之助の「詩之家」の同人になる。惣之助は、自費出版で作られた賢治の「春と修羅」を読み、新聞に詩評を書き絶賛した詩人。鳩十も、かなり早い段階で、賢治のことを知っていたのではないだろうか。

「女が詩なんて」と言われた時代。詩の会ではいつも、女性は清子だけだったが、信念を貫き生きた。戦中は、大阪、東京と暮らす場所を変え、戦後は、夫の地元である熊山(赤磐市)に戻る。農地改革の混乱の中、地元で農業に従事することになり、それは生涯続いた。農作業をするときは、ノートを持ち歩き、言葉や詩を書き留めていたという。<下に続く>