三つの琅玕(下)

かつて東京に琅玕洞という画廊があった。つくったのは彫刻家である高村光太郎で、実弟が経営した。日本で初めての近代的な商業画廊だったが、経営が上手く行かず一年で閉店。しかし、実際には経営者と場所が替わり、20年以上存続していた。そして、経営が移って以降、より深く関わった芸術家の一人が、碧南出身の工芸家・藤井達吉である。

10月の終わり。瀬戸市で、ある現代美術のイベントがあり、藤井達吉の「無風庵」が公開されていると知り、観に行った。無風庵は小原村から移築された工房である。急な坂を上った小高い山の上に、茅葺きの庵はあった。縁側から覗くと、六畳間が二つつながっていて、片方の畳は外され、美術家によって、珪砂の山が築かれていた。部屋に上がる。天井はきれいな竹組で、奥の小さなふすまに、藤井達吉の墨画を見つけた。一枚は、野山の風景。あとの二枚は、野の花。花の一つは、キク科の花の綿毛だろうか。もう一枚は考えてみるが分からない。少し褪せてはいたが、素朴な絵で楽しい。土間の展示ケースには、きのこの掛け軸、七宝焼き、陶器の皿、花瓶、達吉が実際に使っていた画具が飾られていた。展示スタッフの方に聞くと、普段は一般公開されていないため、地元の方も訪ねてきているそうだが、藤井達吉の名は、よく知られている、ということでは無さそうだ。

瀬戸に行く前に、碧南市にある藤井達吉現代美術館を訪ねた。今年に入ってから、2回目の訪問。地元の秋祭りと重なって、美術館付近の道は、人でにぎわっていた。入館無料の日だったからか、館内も前回来たときより人の数が多い。2階の企画展示「没後100年 富岡鉄斎」を観覧して、1階に下りてくる。階段下では、藤井達吉翁像が笑顔で座っている。最奥の展示室に入ると、藤井達吉の年表が掲げてあり、作品が展示されていた。

コレクション展示は、第3期で、展示テーマは「自然へのまなざし」だった。一点ずつ、ゆっくり観ていく。森に生える羊歯の様子を描いた屏風絵「ぜんまい」。雑木林の林床には、シダがよく茂っているところがある。近くに小川があり、湿気があるような場所では、オシダの葉がこの絵のような様子で生えている。人が歩きやすい道よりも、少し森に踏み入ったところ。この絵のモデルとなった場所も、あまり人が立ち入らない森の中と思えるが、森に行くのが好きだったのだろうか。

知人の茶室の天井画として描かれた草木の花。全部で36枚あるが、そのうち5枚が展示されていた。春に来館したときに購入した「藤井達吉の全貌」展図録(2013)によると、植物図鑑と照らし合わせて、一点一点、植物の名前を調べ、だいぶ種名が判明したそうだ。そのうちの一枚、印象的な青い花のシラネアオイは、美術館のモニュメントとしても使用されることになった。よく目を惹く、素敵な図柄だと思う。

「羊歯文書棚」と題された棚も、おもしろい。高さが1メートル、幅が40センチ、奥行きが70センチほどの木の書棚全体をシダが包んでいる。眺めていると、シダの葉の統一された模様に目が離せなくなる。シダの葉が備える形体の美は、写真を撮っていても、楽しい。雑木林を観察していると、花の重なり合いや木の枝の絡み合いなど、偶然の美、規則的な並びでは無い部分に、美を感じることが多いのだが、シダは規則的である。そこに木々の間からこぼれた光があたると、また、美しい。規則的な美は、人工物だけの領分ではなく、自然の中にも整った美があることを分かりやすく実感するのが、シダなのだ。

後日、「藤井達吉の全貌」に付属していた、自筆自叙伝「矢作堤」を読んだ。原本は1961年の大晦日から、62年の新春、そして同年2月に書かれた散文である。81歳の達吉が人生を振り返って、誤字も気にせず、筆の向くままに言葉を綴っている。最後の方では当時の社会や、科学の発展について、憂いをもった言葉が続いていた。

「人間が政事だ、宗教だ、芸術だ、化学だといっても、大したことはない。(中略)化学の最後は地球中の生物 植物を絶やす丈けだ、一片の小石を見ても、小草の実を見ても何という自然の力よ、」。化学と科学を分けて書いていないが、言葉は、同時代のレイチェル・カーソンと重なる。62年に「沈黙の春」は発表され、64年に「生と死の妙薬」という邦題で日本でも出版された。カーソンは、この年の4月に亡くなる。藤井達吉の没年月は、同年8月。偶然である。けれども、時代が危機に直面する時、同じような危惧を抱く人たちはいて、普遍的な事柄を感じられたなら、国は関係ないのだろう。そんなことを考えた。

 

 

三つの琅玕(上)

10月下旬の西味鋺観察会。この日は、矢田川河川敷で虫を捕る予定だったのだが、水辺の広場に到着すると、川の水量が減っていて、いつもは川の中を歩かないと行くことができない中洲が、ほとんど繋がっていた。小さい子でも、ちょっと手を貸せば、中洲に渡れる。なかなか無い機会なので、虫捕りから変更し、中洲を観察することにした。

中洲の縁の砂を踏むとゆるめで、足がずぶっと埋まるところもある。中央にいくと、いろいろな色の石が落ちている。上流の瀬戸から流れ着いた陶片も混じっている。荒れた環境だからか、花の大きさが極端に小さいツユクサがあったり、荒れ地に強いタデが数種類あったりと、中洲の様子を観察して歩く。子どもたちは、思いがけず、川の近くに来ることができたので、小魚の群れを思い思いにすくい上げていた。

下流に向かって中洲の先端まで歩いてくると、先にそちらにいた方が、「カワセミがいましたよ」と教えてくれた。カワセミは清流にいると思われることが多いが、市内でもよく見かける。熱田の近くでは、堀川沿いの貯木場跡によくあらわれる。冬がやってきて、水辺を飛ぶカワセミの羽が、きらっと光るのを見つけると、嬉しい。この日は、すぐに飛び去ったようで、残念ながら私は見つけることはできなかった。

さて、カワセミは、漢字では「翡翠」と書く。宝石の「翡翠(ひすい)」は、カワセミの羽の色に似ていることから名前が付けられているのだが、その中でもとりわけ美しいものは「琅玕(ろうかん)」と呼ばれる。なかなか普段、生活をしていて耳にする言葉ではないが、自然を見つめていた文学者や表現者の足跡を調べるなかで、最近、三つの琅玕と出会った。

一つ目は、中勘助の第一詩集。「琅玕」と題されたこの詩集を読んでいると、さまざまな自然の情景が浮かび上がる。中勘助は、海で、野山で、沼のほとりで、田畑で思索を巡らせる。花や虫や鳥であっても、それらのある風景であっても、出会ったことで、言葉にしたいほど心の琴線に触れた自然の姿は、それだけで自分だけの宝石になる。さらに、詩集にすれば、読んだ人とも、そんな美しい石の数々を共有することができる。

二つ目は、金子みすゞについて調べているとき。金子みすゞは、童謡・詩を書いた手帖を数冊、残して亡くなったが、残された手帖の一冊が「琅玕集」である。この中には自分の詩ではなく、金子みすゞ自身が雑誌を通して出会った、さまざまな詩人たちの詩が記されている。書籍化されている(「琅玕集(上・下)」JULA出版局/2005)ので、当時、金子みすゞが宝物のように大切にしていた、詩の数々を現在でも読むことができる。

11月に新美南吉記念館の童話の森で「鳴く虫の観察会」を開催することになり、資料に金子みすゞと巽聖歌の詩を載せることにした。自然によく親しみながら詩を書いていた二人。金子みすゞのコオロギは、昼の月を見て鳴いていたり、ネコに片方の脚をとられてしまったり。巽聖歌は、山から吹き下ろす風の中、鳴いている虫を詩にしている。また、「糸ぎりす」という虫が登場する詩が日記の中にあったので、こちらも載せた。糸ぎりすは、クビキリギスのことだろう。赤い口をしていて、強く噛む。それこそ糸を切るくらいかもしれない。詩に登場する糸ぎりすは、越冬から目覚めるが、農夫たちもまだいない荒れた畑で、食べものを探し、ゆっくりと歩いている。畑の様子を、丁寧に観察しているから生まれる詩だと思う。

新美南吉は二人とは歳が離れているが、金子みすゞと巽聖歌は、ほぼ同世代。みすゞの方が2つだけ年上である。同時期に雑誌に投稿していた二人だが、面識があったかは知られていない。ただ、みすゞは「琅玕集」に聖歌の詩「水口」を記していて、聖歌は日記の住所録に、みすゞの名前と仙崎の住所を記していた。会ったことはなくても、雑誌に掲載された詩を通して、お互いのまなざしに、魅かれあっていたのだろう。

戦争が終わり、聖歌は作品を託された南吉とともに、みすゞのことも気に掛けていた。1954年に聖歌が編集し刊行した「日本幼年童話全集」(河出書房)には、みすゞの詩が10編掲載されている。みすゞは、80年代以降になって、ようやく、稀有な詩人として知られるようになった。73年に逝去した聖歌が、それを知ることはなかったが、きっと亡くなるまで気に掛けていたのではないかと想像する。

同時代の文学者たちに寄り添い、本を編集し、また、詩の楽しさをまだ知らない人たちに伝え続けた巽聖歌。その生涯と人となりを、多くの人に知ってもらいたい。〈下に続く〉

 

 

月刊誌、ふたたび

10月6日、秋晴れとなった武豊町自然公園で観察会を開催した。たくさんの生き物と出会うことができて、楽しい観察会だった。この日の会の始まりに、一つ、お知らせをした。月刊「はなやすり」を来年5月に復刊させようと考えている、という内容である。

4月号をもって休刊してから半年間、復刊した方が良いだろうという想いは頭のなかにあったのだが、一方で、もう復刊させなくても良いのではないかという考えもあった。今でも休刊を決めた時に思った、今、考えている大切な事柄は、すべてお伝えした、という気持ちは大きく変わっていない。この半年間、観察会を通して、写真を通して、また、さまざま訪ねた先で、たくさんの人たちと出会った。そうした出会いを繰り返していくうちに、本質的には同じことであっても、形を変えながら何度でも伝え続けるのが、定期刊行誌の役割である、という制作の原点に考えが巡って、想いが帰着した。

毎月楽しみにしてくださり、「また読みます」と言ってくださった方々、これから、どこかで存在を知り、読んでくださる方々。冊子の本質が変わらなくても、そういった方たちの生活は、時々刻々、変化していく。何かの縁あって「はなやすり」と出会った方たちが、日常生活や取り組みのヒントとなる誌面を、また制作していこう、それが出版社のあるべき姿だろう。編集者としての思考の流れをトレースしてみると、そんな感じだと思う。これまでも、大切なお知らせは、まず観察会で、というスタンスだったので、ちょうど休刊から半年となる10月最初の観察会でお伝えすることにした、というわけである。

ただ、そう考えていても、購読者数が見込めないと復刊は難しい。なので、復刊を決める前に、読んでくださる方を増やさないといけない。どれくらいの数が必要かというと、最低でも、500。安定して発行を継続していくためには、700以上が望ましい。復刊のお知らせをして、すぐにそれだけの数が集まることは考えにくいので、来年3月までの半年間、徐々に周知して、購読してくださる方を増やしていけたらと思っている。

復刊後の内容はというと、「6つの編集方針」は、そのまま継続する。ここまでの半年間、自分が訪れた場所や考えていたことは、エッセイにも書いてきたので、自分でもあらためて読み直し、その内容を掘り下げていくつもりである。

もう少し具体的なキーワードを書くと、まずは「自然」「文学」「子どもたちの未来」という大きなテーマがある。「はなやすり」において、それらが重なり合い、響き合っていることはもう、ご承知いただいていると思う。

「自然」は、これまでは、知多半島の自然にまつわる話題と、「ユスリカ」「水」といった個別テーマで、研究・調査をされている先生方に文章を寄せていただいた。これからも自然について、真摯な取り組みをされている方々と、出会っていきたい。観察会レポートは、自然との関わり方の共感を生んでいると思う。これまでに2度開催した観察会報告会も、定期的にできたらよいな、と考えている。

「地域」という視点で考えると、「知多半島」「熱田」それと「伊那谷」というキーワードが浮かび上がる。それらを、その土地を管理する自治体の行政区分で、分けて捉えるのではなく、自然の動きや人の動きに連動した一連の地域という捉え方で考えれば、その周辺の土地や、物理的には遠く離れた土地も、視野に入ってくる。

書肆花鑢が考える「文学」について、より深く知るためには、「椋鳩十を読む会」「出版文化を考える会」などの会に参加していただくことが一番だと思うが、これからの文学を考える入り口となる文章を、ご協力いただき、掲載していきたい。今のところ思い浮かんでいる具体的なキーワードは「椋鳩十」「新美南吉」「巽聖歌」「藤井達吉」などである。

日常エッセイ、詩、絵のコーナーは、編集していても毎回楽しいページである。復刊後もたくさんの人に登場していただき、楽しくにぎやかなページを作っていきたい。

最後に、子どもたちの「未来」については、私は明るいと思っている。そのために、大人の都合ではなく、子どもたちが学び育つ環境に本当に必要なことを考えて、整えていかなくてはいけないだろう。今年の秋、とても長い年月を、信念をもって取り組まれた活動が、大きく結実したニュースが続いた。コツコツと真面目に取り組んできた人々に温かく陽の光が注ぎ、花が咲き、結実する時代。社会は、これから大きく変わっていくはずだ。

 

 

武豊町自然公園を歩く

知多半島の中央より少し南に位置する、武豊町自然公園。昨年12月、例年のごとく新しい観察地を探して各地を回っていて、これまで気になっていたが訪ねたことが無かった、この自然公園を歩いてみた。その日は、広くて植物の変化に富んだ良い森だな、という印象だった。そのうちに、また来よう、と思いながらも、今年の5月まで再訪する機会がなかった。

春になり、5月に訪ねてみて、驚いた。松林でハルゼミが鳴いていたのである。ハルゼミは新美南吉の童話にも「松蝉」という名で登場し、春を代表する昆虫である。一斉に鳴いては消えてを繰り返す、柔らかな蝉しぐれは、かつて身近な「春の音」だったが、ハルゼミの生息する松林は、知多半島に限らず、松枯れや伐採によってずいぶん減少している。毎年気にしていて、ようやくここで音を聞くことができた。松の木の上の方で鳴いているので、なかなか姿を見ることができないが、たまたま生きているオスも下に落ちていた。

そんなきっかけが一つあると、途端に、その森が大切に思えてくる。これも、縁なのだと思う。そうしてこれまで、毎年のように、少しずつ観察地を増やしてきた。

半年近くが経ち、自然公園も親しみある観察地になってきた。訪ねる度に、その時々の発見があって、楽しい。これまでの印象的な出来事を記しておくと、5月には、ヒバカリと出会った。田んぼの近くに暮らす、体長40センチほどの小型のヘビで、オタマジャクシなどを食べる。家に連れて帰って来たが、近くにオタマジャクシがいるような場所は無い。思案していると、市内の緑地の水路に、ウシガエルのオタマジャクシがいるということで、大変有難いことに、それを持ってきて頂き、エサにした。だが、とにかく食べる量が多いので、武豊に返すまで大変だった。同じ日にルリタテハの幼虫も連れて帰ったが、こちらは家で蛹になった。だが、5カ月近く経った今も蛹のままである。羽化はもう難しいかもしれない。

6月の田んぼには、コオイムシがいたり、ゲンゴロウの仲間やマツモムシが泳ぎ回っていたり、にぎやかな田の風景があった。トンボも夏にかけて数多くあらわれた。「夏の観察会」では、「カブトムシを見つけたい」という小学2年生の男の子が参加してくれた。カブトムシは見つからなかったが、コナラの木にノコギリクワガタを見つけて、みんなで喜ぶ。アカガエルと出会い、海の見える展望台がある広場の東屋で、そろってお弁当を食べ、真っ赤なホシベニカミキリも見つけて、のどかで楽しい雑木林の散策となった。

7月。瀬戸で変形菌の調査をされている先生と一緒に変形菌を探した。森の環境、植生を気にしながら、落ち葉の積もる林床を確認して歩く。探している珍種、ツツスワリホコリは発見できなかったが、変形菌という、気にしていなかった存在に目が向くきっかけとなり、その後、ムラサキホコリの仲間、バークレイホネホコリ、エダナシツノホコリ、ツノホコリ、アカモジホコリ、シロウツボホコリ(?)、ムラサキカビモドキ(細胞性粘菌といい、変形菌ではないのだが、変形菌に似た存在)など、少しずつ見つけられるようになってきた。

8月には、たくさんの昆虫と出会った。とくに10日は多く、古窯跡付近では、木の上からスズメバチが絡み合いながら落ちてきて、驚いた。地面に落ちてからもしばらく組み合っていたのだが、喧嘩をしていたのだろうか? 木の幹にはヨコヅナサシガメの幼虫。ひらひらと透き通る翅で林内を舞っていたのは、クサカゲロウ科の最大種、アミメクサカゲロウ。他のクサカゲロウよりも明らかに大きいので、すぐに判別できる。

この日に確認したトンボの仲間は、ウスバキトンボ、ヒメアカネ、アキアカネ、コノシメトンボ、シオカラトンボ、オオシオカラトンボ、コシアキトンボ、ハグロトンボ、ギンヤンマ、カトリヤンマ、ホソミイトトンボ。チョウの仲間は、ルリシジミ、ムラサキシジミ、ウラギンシジミ、キアゲハ、アオスジアゲハ、キマダラヒカゲ、コノマチョウ、イシガケチョウ、コミスジ、イチモンジセセリ、テングチョウ、種は確認できなかったが黒いアゲハチョウ。ほかに、ヤブキリ、ツマグロバッタ、クサギカメムシなど。別の日には、直翅類ではあるが、鳴くための翅をもたないハネナシコロギスが草むらの葉の上にいた。

10月になり、林内ではツクツクボウシが、まだ鳴いている。昼間でもハラオカメコオロギやクチキコオロギ、カネタタキの音が聞こえてくる。クサヒバリの音も樹上から聞こえるようになった。秋の森。まだまだやぶ蚊が多いのが悩みどころであるが、晩秋から冬にかけて、どんな出会いがあるのか楽しみにして、また訪ねようと思う。

 

 

喬木村と日本橋

8月に、喬木村にある椋鳩十記念館・記念図書館を訪ねた。「はなやすり」にも文章を寄せてくださった前館長、菅沼利光さんによる文学講座「ああ! 椋鳩十は詩人だったんだ」を聞くことが目的だった。少し早く着いたので、記念館の裏山の上にある、とろりんこ公園まで登ることにした。ここには、椋鳩十の詩碑が建てられている。「夕陽がうすれていく 蜩が今日の終りを呼びとめてゐる」。毎年夏になると、「カナカナカナカナ……」と夕暮れに鳴くヒグラシの音が聞きたくなるのだが、名古屋や知多半島では聞くことができない。ここ数年、8月に下伊那に来ているのだが、こちらでも、まだ聞けていない。調べてみると、夏の終わりに鳴くイメージだったが、一番よく鳴いているのは7月とのことだった。

記念館に到着し、館長の木下さんと少しお話をする。階段下のテーブルでくつろいでいる猫館長のムクニャンにも挨拶して、2階の視聴覚室に上がる。次第に聴講の人たちが増えていき、部屋はいっぱいになった。

「椋鳩十の詩」についての講演が始まる。椋鳩十は「動物と人の関わりを描いた物語作家」というイメージが一般的に定着しているが、若い頃は詩に憧れて、自分でも詩集を作っていた。青年時代に、どのような詩に憧れ、自分の表現を目指していたのか、熱量が高く、それでいて、知的探求心を刺激される話が展開される。後年の物語に登場する美しい色や、個性的な擬音表現のベースが若き日の詩作によって生まれていることを実感でき、さらに、椋鳩十が生きた時代の詩人たちや当時の詩の状況も知れて、充実した2時間の講座だった。

終わった後、少し時間があったので、図書館の本棚を観たりしていると、チラシや案内などが置いてあるロビーの壁に掛けてある額が目に留まった。そこには中国のことわざと芭蕉の言葉を引いて、自然を観察する大切さを説いた、椋鳩十の言葉が書かれていた。

「中国の言葉に『方の外に遊ぶ』というのがある。芭蕉はこのことを『角(※格)に入って角(※格)に出でよ』と言った。方というのは四角四面、融通がきかないということ。ものを覚えたら、もうそれだけだ。(中略)山道を歩いていく。枯れた木がある。葉の落ちた木がある。雪が積もっている。その木の下に、指の先ほど赤い血がぽつんと落ちている。あら、血が落ちておるな、小指の先ほどの小さな血だな、そう思ってみただけでは目で見ただけで、これが、この木の枝の上に雀がいたのかな、鳩がいたのかもしれない、あるいは何か他の小鳥がいたのかな、その小鳥が昨晩のうちにフクロウに襲われたその残りの血かな、あるいはテンに襲われた残り血かな、そう思ってみただけでも、自然の摂理というものが浮かんでくる。方の外で遊ぶというのは、こういう広い心をもってものを見なければ、自然は本当の姿を、今目に見えている向こうにある姿を見せないぞ、こういうことを言っている」

9月に入り、日帰りで東京に行った。主な用事は午後からだったので、午前中は日本橋にある美術館を訪ねることにした。三連休で新幹線は混雑していたが、プラットフォームを先頭車両の先、日本橋方面の出口へと下りていく人は少ない。東京駅を出て永代通りを歩く。残暑ではあったが、名古屋よりも幾分カラッとしていて、ビル風も吹いていた。数分で石造りの日本橋が見えてきた。欄干では麒麟の像が、橋を見守っている。

年始の箱根駅伝でもよく知られている日本橋には、これまで縁が無く、東京駅の近郊にありながら、訪ねる機会が無かった。日本の東西をつなぐ交通の大動脈・東海道の東の起点である。ここから西の起点である京都の三条大橋に至るまでに53の宿場があり、東海道五十三次と呼ばれる。熱田の宮宿は、41番目にあたる。

現在でも日本橋は全国に伸びる国道の起点となっている。橋のたもとには、里程標の石碑が置かれて、主要都市までの距離が記してある。抜粋すると「千葉市 三七粁」「仙台市 三五〇粁」「名古屋市 三七〇粁」「京都市 五〇三粁」「鹿児島市 一、四六九粁」。

芭蕉は故郷である伊賀から上京し、江戸でもっともにぎわいのある日本橋で8年間暮らしていた。俳諧の師匠である宗匠として独り立ちした時、「発句也 松尾桃青 宿の春」という句をこの地で詠んだ。その後、隅田川の対岸、鄙びた土地である深川に居を構え、日本橋を拠点にして各地へ旅に出た。東の果ては、平泉。平泉で詠んだのは「夏草や兵どもが夢の跡」。西の果ては、明石。明石で詠んだのは「蛸壺やはかなき夢を夏の月」。若さ溢れる旅立ちの春、強者が去り、はかない香りが漂う夏。では、秋は……。

 

積ん読

数年前の冬、東京駅から名古屋に帰って来るときに、夜8時の新幹線まで時間があったので、付近にある商業施設、「キッテ丸の内」に立ち寄った。洒落た落ち着きのあるビルディングで、高い吹き抜けを中心に、各フロア、選りすぐられたお店が並ぶ。それらのテナントは個性的で、名古屋でも見かけるチェーン店も入っているのだが、雑貨屋さんなどは、地方のお店が入っている。日本郵政が運営母体だからだろうか、石見、鯖江、高岡、豊岡、京都など、全国津々浦々だ。都市の名前を、頭の中で日本地図に置きながら、日本は職人の国なのだな、とあらためて実感する。ちょっと買うには、高価なものが多いが、丁寧に作られた商品が並んでいるので、1フロアずつゆっくり見て歩いているだけで、楽しく時間が過ぎていく。屋上にあがると、東京駅を一望できる庭園が設えてあり、数年前、開業当初の姿に再現された東京駅丸の内駅舎を上から見ることができる。訪ねたときは、工事が終わり公開されてから、まだ間もなかった時期で、大学生くらいのグループが三脚を立ててライトアップされた駅舎を撮影していて、楽しそうだった。

その折に、施設内の書店で購入した一冊の絵本がある。タイトルは「翻訳できない世界のことば」(エラ・フランシス・サンダース、前田まゆみ・訳/創元社、2016)。世界中の言語から選んだ、他国の言葉への翻訳が難しい独特な単語を、イラストレーターである著者が絵とともに紹介している。北欧フィンランドでは「トナカイが休憩なしで疲れず移動できる距離」のことを、「ポロンクセマ」という言葉で表すそうだ。お国柄が反映されたユニークな言葉の数々の中、日本語から選ばれた一つが「積ん読(つんどく)」である。「買ってきた本を、ほかのまだ読んでいない本といっしょに、読まずに積んでおくこと」と解説されている。

8月も終わりに差し掛かり、大型の台風がノロノロとやってきて、外に出掛けづらかったので、ひさしぶりに本棚を整理することにした。本棚の整理は数年おきに、気が向くとしている。本はたまに動かして空気に触れさせた方が良いと、ずいぶん昔に、たしか古書店主の方のエッセイで読み、それ以来、定期的に本棚から出している。「本はなかなか手放せない」という話をよく聞くが、私は、ある程度本が溜まったところで、今後読まないだろうと判断した本は、古本屋に持って行く。ただ、やはり一定の期間、自分の本棚に並び続けた本を手放すのは、それなりに気力も使い大変なので、数年に一度、ということになる。

千葉から名古屋に持ち帰ってきた本は、段ボールに数箱と大量にあったのだが、この十数年のあいだに、コツコツと減らしてきた。当然、その間に買い足す本もあるので、減ってもまた、増える。本棚からはみ出るほどに本がある状態が続くと、自分の脳内もパンパンに詰まっている気分になる。なので、「この十数年、本棚に残し続けたのに、ここに来て手放すのは忍び難いけれども、やはり、この先の計画を考えると、脳内スペースはある程度確保しておいた方がよいだろう」と決心し、2日間かけて本を選別した。

すっきりした本棚を眺めると、自分が本当に読みたかった本が、はっきりしてきた。「あれも、これも」と散漫だった意識が、「これだけで、良い」になると、途端、読む意欲が湧いてくる。数年間、しなくてはいけない事、考える事が多く、本を開いても、なかなか読み進められない時期が続いていたので、ようやく読む意欲が湧いてきたのは嬉しい。

積んどいてあった本のタイトルはというと、大学の講義で購入し、積読期間は25年になる「ロシアの妖怪たち」(斎藤君子、スズキコージ・絵/大修館書店、1999)。100年前に採取された植物標本と物語、「ポール・ヴァーゼンの植物標本」(ポールヴァーゼン、堀江敏幸/リトルモア、2022)。北アメリカ先住民の著者が語る、植物と先住民族文化にまつわる話、「植物と叡智の守り人」(ロビン・ウォール・キマラー、三木直子・訳/築地書館、2018)。ブックオフでふと目に留まって購入した、スペイン児童文学「太陽と月の大地」(コンチャ・ロペス=ナルバエス、宇野和美・訳、松本里美・絵/福音館書店、2017)。少し前から興味を持っている日本庭園についての解説書、「日本の庭ことはじめ」(岡田憲久/TOTO出版、2008)など。文庫や実用書なども含めると、まだ何冊もある。

9月に入り、台風は熱田の周辺からは離れたようだ。まだしばらくは安定しない日が続くだろうが、徐々に秋は深まっていく。読書の秋、そして、収穫の秋。人々が乾いた地面を耕し、ふかふかと肥えた土に種を撒いて育てた実を収穫する時期は、もうすぐだ。

 

歩く人

夏も真っ盛りとなり、連日うだるような暑さが続く。そろそろ髪を切ろうと思い、いつも行っている金山の散髪屋さんに行くことにした。金山は、熱田の北の端。JR、名鉄、地下鉄の各線が交わる金山総合駅があり、南北を結ぶコンコースは毎日、たくさんの人が行き交う。北口側には、若者たちでにぎわう商業施設があり、居酒屋や飲食店も多い。南口側は、やや歩く人の数が落ち着いているが、こちらも飲食店が並ぶ。かつてボストン美術館が入っていた高層ホテルも南口側にある。駅前広場では、物産展などのイベントが行われていることも多い。家から一番近くの繁華街が金山である。

熱田伝馬町の交差点から、熱田神宮東側を北へと車で走る。そのまま走っていけば、大須があり、パルコと松坂屋が並ぶ矢場町に着く。金山は、ずっと手前。10分かからず、到着する。

金山駅付近は、朝の交通で混雑していた。道路工事も重なって、なかなかスムーズに進まないなか、赤信号で止まった。何とはなしに道を歩く人たちを眺めていると、看護・福祉系の専門学生と思しき服装の女性が、マンションの入口に目を落とし、すっと道を逸れた。何かを拾いあげる。辺りを見回して、街路樹に目を向け、近づく。木に何かを引っ掛けているようだ。そのまま何事もなかったように、また歩き始めた。車道からは、掛けられた物が何か見えなかったが、たぶん、引っ掛けられる部分があったので、持ち主が探しに戻って来たときに気づき易いよう、木に掛けたのだろう。何かと気が回らない朝の時間帯に、ちょっとしたことに目が留まって、気遣える人。掛けてある落としものに出会うことはあっても、落としものを掛けている人に出会うことは、あまりないので、爽やかな気持ちになった。

毎日のように歩いていると、いろんな人に遭遇する。一番多いのは、道を聞かれること。神宮を参拝した後のご夫婦に地下鉄の駅を聞かれたり、中国人の若者が門に気づかず通り過ぎてしまって、神宮への入り方を聞かれたり。バス停の場所を聞かれることも、よくある。

近所には公的機関が多いので、場所を聞かれることもある。法務局、公証役場、年金事務所など。「どこだったかな?」と考える場合もあるが、頭の隅に家族や人との会話が残っていて、大体思い出す。場所の記憶はおもしろく、普段から見ていても、一向に記憶に定着しない場所もあれば、一回聞いただけなのに、すぐ覚える場所もある。場所の記憶力は、生きものが生をより充実したものにするために、必要な能力だと思う。動物や鳥、昆虫も、自分の生息場所周辺の環境の把握と、変化に合わせた適応は必須だ。場所を記憶に定着させる力と、人生における役割について、突き詰めて考えていくと、深い思索ができる気がする。

ある夜、いつもの散歩コースを歩いていると、道端で若い男性に、「あの、すいません」と声を掛けられた。近づくと、ポストの前で立ち止まっている。手に持った封筒をこちらに見せて、「どっちに入れればいいんでしょうか?」と聞く。「どっち? ええと、何か特別な郵便?」「いや、普通の封筒の」「速達?」「ちがいます」。「じゃあ、こっち。狭い方でいいと思いますよ」。若者は嬉しそうにお礼を言って、投函し、すぐに立ち去った。

こんなこともあった。学校の合唱コンクールなどでも使われる、名古屋市教育センターという施設が、通りを一本入った裏手にある。そこは鳴く虫の観察コースでもあり、一年を通して、よく歩く。夕方の帰宅時には専門学校の学生が駅に向って、たくさん歩いている。もう少し遅くには、近くの会社に勤めている人たちが歩いている。師走の午後8時頃、歩いていると、教育センターの駐車場で、会社員という感じの女の人が寝ていた。暗いので、一瞬、目を疑ったが、やっぱり寝ているので、近づく。大きなリュックを頭に敷いている。「大丈夫ですか?」。肩を軽く揺する。反応がない。もう一度「大丈夫ですか?」と声を掛けると、「はっ、ええ、らいじょうぶです……」とにこやかに、怪しい呂律で言い、目を閉じた。理解する。酔っ払いだ。かつて、どれだけ、この不毛な言葉のやり取りをしてきたことか。ため息をつきたくなるが、そうは分かっても、寒い冬に、このまま寝込んでしまっては、命にかかわると言えなくもない。近くの交番を思い出そうとしたが、一番近くにあった交番は、ずいぶん前に廃止された。仕方がないので、110番した。

熱田に限らず、町には、そこで生活をしている人たちの考えや営みが、良くも悪くも、必ずあらわれている。自分が暮らしている町を歩くのは、昼でも夜でも楽しい。だからこそ、誰にとっても、いつでも安心して、風と歩みを楽しめる町であってほしい。

 

和紙と風景(下)

藤井達吉の随筆に端を発した、和紙の産地への訪問。昨年、「知多半島をめぐる」の写真を竹和紙にプリントして写真展を開いたことで、注目していた和紙であるが、徐々に自分のなかで、自然と寄り添う重要な伝統産業であるという実感を持ち始めてきた。引き続き、7月上旬に岐阜の美濃和紙の里を訪ねることにした。

越前市に行った時と同じように、都市高速から一宮に向かう。名神高速道路に入り、すぐに東海北陸自動車道へと進む。岐阜の山中、郡上八幡やひるがの高原に向かう道路で、さらに進むと白川村、そして富山へと至る。美濃和紙の里会館がある美濃市は、山地に入っていく入口あたりに位置する。美濃市の隣りは刃物の町として知られる関市だが、この二市の位置は少し複雑だ。関市は、長良川のいくつかの支流が合流する平地が市の中心。そこから東側は、津保川上流の谷あいを市域とする。西側は、しばらく武儀川沿いが市域となるが、武儀川上流は途中から山県市になる。さらに山をはさんで北側の谷あい、板取川の流れる洞戸地区も関市になり、「モネの池」と呼ばれる名所がある。板取川も長良川の支流で、板取川と長良川が合流するあたりが美濃市の中心地になる。古い町で紙屋が軒を並べる。板取川の流れは、関市から美濃市に入り長良川と合流し、再び関市を流れる。このあたりを車で走っていると、川のある風景はよく似ていて、気づかないうちに、市をまたいでいるのだ。

今の時期は、すでに鮎釣りが解禁されている。板取川沿いを走っていると、ターコイズとラピスラズリの中間といった色合いの川に入って、釣りをしている人が見えた。長良川の小瀬鵜飼も今がシーズンだ。爽やかな夏の風景を走りながら、美濃和紙の里会館に到着した。

美濃和紙は、1300年の歴史を誇る。中でも伝統的な製法や用具などの条件を満たしたものは「本美濃紙」と呼ばれる。2014年、ユネスコの無形文化遺産に島根県浜田市の「石州半紙」と埼玉県小川町と東秩父村の「細川紙」とともに「和紙:日本の手漉和紙技術」として登録された。ずいぶん前に、京都から山陰本線を鈍行に揺られて、数日間かけて旅したことがある。島根では宍道湖のある松江で宿泊し、翌日、大田市の石見銀山を訪ねた。その頃はまだ、ユネスコの世界遺産に登録申請している最中で、静かな町の至るところに、たくさんの幟が立っていたのを想い出す。浜田市はそこから、さらに西にあり、柿本人麻呂が人々に紙漉きの技術を伝えたとされるそうだ。

群馬県とのほぼ県境に位置する埼玉県の小川町や東秩父村には、まだ縁が無い。ただ、本を読んでいて偶然知ったのだが、生糸貿易で知られる明治の実業家であり、茶人でもあった原富太郎(三渓)の義理の祖父、善三郎の出生地がこのあたりにある。豪商の生まれで、和紙が村々で作られていた江戸末期、近隣の村に和紙を買い付けに行き、町へ持って行って売ることで商売を覚えたという。和紙の産地や、石材の産地に囲まれた環境に育ったことが、富岡製糸場を経営するという、後の縁に結びついたのかもしれない。

さて、和紙と一概に言っても、出来上がるまでの工程には土地ごとの特色がある。美濃和紙は、楮の黒皮を剝いで白皮にしたあと、自然による漂白と、不純物を取り除く目的で、板取川の清流にさらした。現在は、各工房の水槽でさらすそうだ。越前ではどうなのだろう。山あいの集落で、近くに清流が無いから、昔から、工房に水槽を作ってさらしていたのだろうか。もう一つは、漉いた紙を干す際に使う一枚板の素材。越前では、イチョウの板を用いるが、美濃はトチノキの板。使われる木材が異なるというのも面白い。展示の最後には、和紙を作るための道具がどのように作られているのか、映像で紹介されていた。美濃には、和紙を作るための道具を作る職人も、みな暮らしているそうだ。土地全域で環境を考え、自然の恵みをどのように活かしていくか考えながら、人々が繋がっている。かつては、それぞれの和紙の里に、土地ならではの自然を活かした工夫があったのだろう。だが、紙漉きを継承していくのは大変なようで、ラックには他地域の伝統工芸士募集のチラシが差してあった。

和紙産地の訪問は、生活を取り巻く自然を観察し、理解しながら、人が仕事を営むという、これからの時代を考えていくためのヒントが、たくさん詰まっていた。「自然を減らし過ぎずに、巡らせながら、何を、どのように活かし、人の生活を支える仕事にするのか」。日本が世界に誇る紙漉きの文化について、あらためてしっかりと知っていくことは、きっと、この問いに対する答えに繋がっていくはずだ。

 

 

和紙と風景(中)

6月下旬、少し足を伸ばして、越前市に行くことにした。目的地は三か所。「ちひろの生まれた家」記念館、梅花藻の自生地、そして越前和紙の里である。

福井県は、学生の頃に友人が住んでいた金沢を訪ね、京都に向かう途中、電車で通過したことがある程度。朝から家を出発し、都市高速で一宮へ抜けて、名神自動車道に入る。琵琶湖のほとり、米原から京都とは反対側に向かう、北陸自動車道に入る。道路の向こう側には青い田んぼが広がる。その先には伊吹山。岐阜の山々が平野へと広がっていくところを、ぐるっと回り込むように、日本海側へと向かっていることを実感する。長浜から余呉湖のほとり、賤ヶ岳を通過すると、福井県。敦賀ジャンクションを金沢方面へと進む。こちらも同じように田んぼが広がっている。路傍では高架下から伸びたネムノキが満開だ。やがて、眼下に、日野川が見えてきた。名古屋から走ること、2時間ちょっと。越前市に到着した。

武生の古い町並みは、飯田の町と雰囲気が、なんとなく似ていた。町が山に囲まれ、築何年だろうかと考える古い家々が並ぶ。高い建物は見あたらない。新しい住宅も多くない。懐かしさの漂う町。そういった町に実際に住んだことは無いのに「懐かしい」と思うのは、日本映画が好きだったからだろうか。それとも、長い年月、町に住む人々の移ろいを見てきた家々の記憶が、町を訪ねる人のルーツに働きかけるからだろうか。

「ちひろが生まれた家」記念館は、越前箪笥の職人町であるタンス通りのそばにあった。古い町屋がきれいに残されている。入館料を支払い、二階の企画展示を見て、町家を奥へと進む。廊下に、いわさきちひろの母・文江について、パネルで説明がされていた。文江は、奈良高等女学校で学んだ後、武生に出来たばかりの高等女学校に、博物、家事の教師として赴任した。聡明で面倒見も良く、女学生の憧れの的だったそうだ。ちひろが生まれ、東京へ引っ越すときには、その功績に、町長から感謝状が贈られた。後年、武生を訪ねた時の写真に、二人が写っていた。お母さんの眼は、若々しく輝いていて、隣のちひろは、お母さんのそばで、ちょっと恥ずかしそうに座る子どもの眼をしていて、印象的だった。

昼食をとって、梅花藻の自生する治佐川に向かう。広がる田園の道を走り、到着すると、カメラを水路に構えている人がいた。周りは工場。水路では、鮮やかな緑の梅花藻が緩やかな流れに揺れていて、白い梅に似た花が水面に顔を出していた。ここは、トゲウオの仲間の淡水魚、トミヨの生息地でもあるそうだ。トゲウオの仲間は、きれいな水に棲み、水草を利用して巣をつくり、産卵する。川を覗いてみたが、トミヨは見つけられなかった。

越前和紙は、五箇と呼ばれる五つの集落で作られている。産地としての特徴は、多くの産地の場合、清流に沿って工場が分散しているが、越前は狭い谷あいに工場が集中している。ほとんどが家人が営む少人数の製紙工場。専業なので、一年中、和紙が作られている。

もう一つは、和紙の種類が豊富ということ。紙の文化博物館では、実際に越前和紙が展示されている。書道や日本画に使われる画仙紙。懐紙などに使われる檀紙。はがきや封筒に使われる紙や出版に使われる印刷用紙。模様の付いた鳥の子紙は、襖紙などに用いられるが、これらの模様紙もとても種類が多く、「漉き掛け」「漉き入れ」「落水」「孔雀」「飛雲」など模様を出すための技法に名前がついている。日本銀行券、いわゆる、お札も越前和紙の技法が採用されているそうだ。

紙漉きを生業にしていた古い家屋を活かした、卯立の工芸館に入る。風格のある木造家屋。土間を上がると、畳に紙で作られたマットが敷いてある。乗ると、しっかりしていて丈夫。紙の印象が変わる。売店のトレイも紙製。手に取って軽くノックすると、コンコン、と固い反応。作業場では、若い伝統工芸士の方が、紙漉きの工程を見せてくれた。これまでにも説明の書かれたパネルや本も読んだが、実際の工程を目の前で見ると、よく分かる。簀桁を繊維と「ねり」の入った水に漬け、持ち上げる。繰り返すと、その度に白さが増す。漉くときは、その透明度で紙の厚さを見極めるそう。0.1ミリの単位で漉き分けるという。

最後に、越前和紙の由縁である紙祖神・川上御前を祀る岡太神社・大瀧神社を訪ねた。杉の樹高がとても高い。複雑な造りの社の縁の下を覗くと、アリジゴクの巣があった。干上がった池の低木には、モリアオガエルの泡のような卵塊。白い新鮮なものと、茶色がかり、濁ったもの。池の水は張り直すのだろうか。そんなことを考え、帰路についた。<下に続く>

 

 

和紙と風景(上)

5月上旬、豊田市にある小原和紙のふるさとを訪ねた。きっかけは一冊の本。少し前に、編み物・手芸の先生をしていた祖母の書棚に一冊の本を見つけた。濃い緑色の表紙をした薄手の冊子で「藤井達吉随筆集」と書いてあった。碧南市に、この人の名前を冠した現代美術館がある、ということは知っていて、パラパラとめくっていると、「芸術を志す者は、よく自然を見つめることが大切」という意味合いの言葉が書いてある。興味が湧いて、調べてみると、小原和紙を復活、普及させたことで知られる工芸家とのことだった。

旧小原村は矢作川の上流域にある。途中、笹戸温泉近くでカヌーをしている森下さんたちを訪ねる。矢作川の水はきれいで、強い陽射しを受けて川面が輝いている。風も心地よいので、カヌーを操り、瀬や淵を見極めながら川を下るのは、とても気持ちが良さそうだ。石をひっくり返すと、カワゲラの幼虫がいた。近くでは、翅が褐色のカワトンボが休んでいた。

笹戸から小原までは、車で10分ほどである。山あいの田んぼを横目に見ながら、走る。到着し、駐車場に車を止めて、雑木林が隣接する敷地を歩くと、和紙の原料となる木々が植えてあった。楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)。コウゾは、これまでも観察地で、よく出会っている。知多半島では、植大で観察会をしたとき、車を止めた草むらのそばにコウゾが生えていた。名古屋市内の雑木林でも見かける。クワ科の木で、葉が、桑の葉によく似ている。雌雄異株で、初夏、赤紫色の花火のような雌花を付ける。ミツマタは、枝が三つに分かれて伸びるので、「みつまた」と呼ばれるが、あまり出会っていない。市内では植物園に植えられている。飯田市の麻績神社の近くでも栽培されているのを見かけたが、知多半島では見かけない。生育環境として適していないのかもしれない。

小原和紙美術館に入る。建物は、昔は町ごとにあった広い公共施設が思い出されて、懐かしく感じた。一階では、全国各地の和紙の見本を見ることができる。和紙の産地は、現在、知られているだけでも70か所を越える。かつては、もっと多かったのだろう。日本文化は和紙産業とともに脈々と繋がって来た、と思えてくる。ちなみに、現在、和紙産業の中心で、全国に知られる三大和紙とされているのは、岐阜の「美濃和紙」、福井の「越前和紙」、高知の「土佐和紙」である。

二階では、常設展示がされていて、藤井達吉の工芸作品を見ることができた。展示説明には、旅の多かった生涯や、戦中、縁のあった小原村に疎開し、村人たちと交流したこと、戦後になり、村に小原総合芸術研究会を作り、廃れかけていた小原和紙を使った工芸品をつくることを勧め、工芸家たちを育てたことなどが記されていた。素朴な展示から、村の人たちが藤井達吉を慕っていたことが伝わってきた。

美術館を出て、和紙工芸体験館に立ち寄り、陽が傾き始めた道を駐車場へと引き返す。周辺には雑木林を歩く遊歩道が作られていて、崖に沿ってツツジの花が咲いていた。ゆっくり時間をかけて歩くと気持ちよさそうな場所。駐車場のヒトツバタゴは満開で真っ白だった。その傍の水路に、また、カワトンボがいた。矢作川で出会ったものよりも、翅が透き通っていて、赤い縁紋が目立つ。翅の縁は、うすく褐色がかっていた。

5月下旬、熱田神宮のそばにある、紙の専門店「紙の温度」で和紙に関するセミナーがあるということを店頭で知り、勉強しに行くことにした。家を出るのが遅くなってしまい、小雨のなか、時間ギリギリに到着すると、部屋は40人ほどの聴衆で満席だった。

「和紙と洋紙の違い」をテーマに、技術顧問をされている先生のお話が始まる。まずは、紙の歴史から話が進んでいく。江戸時代の職人は、献上のため紙の製法は教えられたが、使用目的は知らされず、漉いた紙を何に使うのか知らなかったこと。明治時代に入り、献上が無くなったため、和紙を作る地域が減ったこと。紙の製法についても、和紙と洋紙の違いを、丁寧に説明される。和紙を漉くときに「ねり」をつけるために使われるのはトロロアオイやノリウツギだが、美男蔓(サネカズラ)を使おうとした時代があったこと。18世紀に発明され広く使われていた、繊維を分散、叩解する機械、ビーダーのこと。ご自身の豊富な経験をもとに話をされるので、自分の日々の見聞と重なり合って深く伝わる。和紙は、使用目的をもたない「自然紙」、洋紙は、使用目的に合わせた「人工紙」というまとめで、充実した2時間のセミナーは終了した。<中に続く>