6年後、病床の南吉から作品の取り扱いを託された聖歌は、戦争が終わると、すぐに南吉の童話集を刊行し始める。1948年には、疎開先の岩手から日野に引っ越して、散逸していた書簡、日記、原稿なども積極的に収集し始める。56年に大日本図書の教科書編集委員になり、「ごんぎつね」を推薦。初めて教科書に掲載される。
南吉がまだ東京にいた頃、聖歌は北原白秋の弟・北原鐵雄が社長を務める出版社・アルスに勤めていた。日野市郷土資料館が編纂した「たきびの詩人 巽聖歌資料集 一」(2020)には、1933~34年に、聖歌がつけていた日記が載っている。この日記は、アルスでの業務日誌で、日々の業務内容が端的に記されていて、毎日忙しく仕事をしていたことが、よく分かる。紙の発注や経理なども担当していたため、取引先の名前や取引額、用紙や部数など、出版に必要な具体的な数字や現実的な言葉が記されている。当時、南吉は学生だったが、聖歌は社会人だったのだなと、当たり前のことを実感する。
南吉作品を世に出すと決めてからの奔走ぶりからして、元来、聖歌は編集者気質なのだろう。編集者の仕事は、ただ文章を読んで本にすることではなく、出すべき本を出版するために、些細なことでもきちんと考えて手を抜かないことだと思う。千春たち家族の協力もあって、南吉の作品は、世の中で広く読まれるようになっていく。
聖歌が南吉に関して編集に携わった主な本は、1960年「新美南吉童話全集(全3巻)」(大日本図書)、62年「墓碑銘 新美南吉詩集」「新美南吉の手紙と生涯」(ともに英宝社)、65年から「新美南吉全集(全8巻)」(牧書店)、71年「新美南吉 十七歳の作品日記」(牧書店)など。もちろん南吉の仕事だけでなく、児童詩や作文教育の発展に寄与する仕事をいくつも掛け持っている。全国の学校から依頼されて、校歌の作詩も数多く手掛けた。
聖歌は、1973年の春に亡くなる。全集を刊行したときに新聞記事などを切り抜いていたスクラップ帳には、「南吉よ 遅い春だったなあ けれど おれはこれで せいいっぱいだったんだよ 四十年秋 花咲ける日の南吉へ」と記されていた。
聖歌が亡くなり、しばらくして、親しい友人たちから巽聖歌全集を作る声が挙がる。準備も進められたが、出版不況のあおりを受けて全集刊行は困難となってしまう。その前段階として、詩と短歌をまとめた「巽聖歌作品集(上・下)」と、別冊の回想録が制作された。没後50年が過ぎ、全集制作再開の機運が、再び高まっていくとよいな、と思う。
作品集で詩の部分を担当したのは、聖歌の活動を友人として支えた、清水たみ子。上野公園の写真に写る女性で、彼女もまた、2010年に亡くなるまで、生涯にわたり、詩・童謡などを発表し、戦後の児童文学界の発展に貢献した。90年に発表された詩集「かたつむりの詩」(かど創房)に収録された詩には、聖歌や南吉と重なるものが感じられる詩も多い。小さな生きものたちも登場する。詩を作るために大切な事柄を、自然と共有していたのだろう。80年から刊行が始まる「校定 新美南吉全集(全12巻、別冊2巻)」(大日本図書)にも貢献。雑誌のインタビューでは、ハキハキと物を言う千春と南吉はとても気があっていた、というエピソードを、楽しげに語っている。
聖歌の没後、千春は悲しみに暮れる。「野村千春展」図録に寄せられた文章で、長女の中川やよひさんは、このように回想している。「昭和48年に父を亡くして、母は自分の絵も人生も終わったと思い、先が分からなくなっておりました時にも中川一政先生に『千春の絵が本当の絵だよ』と励ましていただき『絵を描くことは生きること、生きることは絵を描くこと』として自負をし、死ぬまで筆を持ち続けることが出来たのだと思います」。毎年、春陽会と創立時から参加している女流画家協会展に出品し続けた。
土とともに、花の絵も描いていた千春であるが、亡くなった年の春陽会展に出品された絵は「吾亦紅と女郎花」だった。一見、花なのかどうかも分かりづらい、地味ではあるが昔から親しまれているワレモコウと、華やかで女性的なオミナエシ。千春の絵では、方々に大胆に伸びるワレモコウが、寄り添うオミナエシを包み込んでいるように見える。オミナエシの別名には、想い草というものもあるそうだ。
2000年12月12日、千春は、91歳で逝去する。聖歌の誕生日と同じ日に、巡り合わせのように、天国へと旅立っていった。