繋・宮沢賢治(下)

追悼会に出席したもう一人の女性は、八重樫祈美子という。花巻から来たこの女性が賢治や宮沢家の人たちについて語るのを、永瀬清子は、とても快く聞いたそうだ。気になったので、少しだけ調べてみると、八重樫祈美子は、ジャーナリスト・徳富蘇峰の秘書で、彼女もまた、39歳という若さで亡くなったということだった。

今年の2月、東京に行ったことを想い出す。新宿の写真展を訪ね、向った先は、京王線の八幡山駅。千葉に住んでいた頃、東京へ行くことは多かったが、世田谷まで足を伸ばすことは、ほとんど無かった。初めて降りる駅というのは、楽しい。駅の大きさや駅前の風景。歩く人々。目新しくても、どこかの駅と似ていても、どちらも楽しい。駅は出発点である。案内板で目的地への道を確認して、歩きだす。途中、有名な雑誌図書館「大宅壮一文庫」を発見。住宅街の細い道を歩き進むと、大きな通りがあって、広い公園に辿り着いた。

この公園は、蘆花恒春園という。もともとは、文学者である徳冨蘆花・愛子夫妻が暮らしていた場所だった。1927(昭和2)年に蘆花が亡くなり、1936(昭和11)年、土地や家屋などの財産を愛子夫人が東京市に寄贈した。現在は、公園が拡張整備され、もともとの恒春園は、西側の一角に夫妻の墓地とともに保存されており、記念館も併設されている。蘆花・愛子夫妻がこの土地、千歳村粕谷に引っ越してきたのは、1907(明治40)年のこと。この前に、海を渡り、ロシアまで文豪トルストイを訪ねている。

徳冨健次郎(蘆花)は、1968(明治元)年、現在の水俣市に生まれた。民友社、國民新聞社を創刊し、明治から昭和に至るまで、激動の時代の先頭に立っていたジャーナリスト・徳富蘇峰は、一つ年上の実兄。幼いころから、聡明な兄・猪一郎(蘇峰)とは性格が異なり、厳格な家風にもなじめず、自然に心の慰めをもとめた。成人して以降も、兄の存在に自暴自棄になることもあったが、自然を観察し、文章にすることに活路を見出す。随筆「自然と人生」は、自分の人生観を、目前の自然風景に重ね合わせながら、文学として成立させ、広く愛読された。フランスの風景画家・コローを紹介し、後の文学者たちにも大きな影響を与えた。武蔵野の雑木林を愛し、農作業に汗を流しながら文筆活動をする、「美的百姓」と呼んでいた生活は、後に、随筆「みみずのたはこと」にまとめられた。

徳冨夫妻が暮らしていた茅葺きの母屋に入る。きしむ廊下を歩き、隣の書院へ行く。窓の外を見ると、雑木の林立する武蔵野の林という印象は、だいぶ薄れてしまってはいるが、背の高い木々が生えていた。歩いてきた公園は、子どもたちが走り回り、散歩する人たちも多かったのだが、恒春園は、訪ねる人も少ないようで、閑寂な様子だった。

賢治の追悼会の出席者に端を発して思索が巡り、東京に行ったときの記憶に流れ着いた。賢治にしても、蘆花にしても、ロシア文学、とくに、トルストイから大きな人生の指針を得ていたことは、確かだろう。徳冨蘆花は、恒春園という庭と畑と雑木林において、人の生活の理想を体現しようとした。宮沢賢治は、もっと広い範囲を、イーハトーヴという理想郷と捉えて、農に生きる人々とともに生活の精神的、文化的な向上を目指した。

いわさきちひろのことも、少し記しておく。「いわさきちひろ若き日の日記『草穂』」(松本由理子編/講談社、2002)という本がある。これは、ちひろが1945(昭和20)年の8月16日、つまり、終戦の翌日から付けていた日記をまとめたものである。突如として終わった戦争に対する複雑な思いを、少しずつ自分に溶け込ませるように日記は綴られる。この中で、「宮沢賢治の詩をもっと読んでおけばよかった」と書いている。後年、戦争中に出会った賢治の童話が描く東北の風景は外のことを聞こえなくするほどだったことを語っており、賢治の童話に絵を描いた「花の童話集」(童心社、1969)が出版されている。

ちひろは、日記を書いていた時期からしばらくして、共産党の演説を聞き、彼らの戦中の活動を知り、入党する。演説を聞きに来ていた女性は、ちひろ一人だったという。たった一人で詩人たちの中にいた、永瀬清子。同じように一人で入党した、いわさきちひろ。

宮沢賢治をめぐって、時間と人が交錯する。文学は、作品に親しむだけでなく、脈々と繋がる想いの束を紐解きながら、解釈していくことも魅力である。そして、今、自分の立っている時間的、地理的な位置を知り、次の歩みを考える。私たちの時代が抱える諸問題を解決するための糸口は、きっと、文学を紐解くことで明確になると、私は思う。

 

 

繋・宮沢賢治(上)

宮沢賢治は、日本でもっとも知られた童話作家の一人といっても過言ではない。「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」「よだかの星」「銀河鉄道の夜」など代表作を挙げてみれば、多くの人が「ああ」と思うタイトルが並び出る。賢治は、1896(明治29)年に生まれ、1933(昭和8)年に37歳で亡くなる。一時、東京で暮らした以外は、その生涯のほとんどを岩手で暮らす。盛岡高等農林学校で学んだ知識をもとに、やませによる冷害に苦しむ農家を助け、自身も畑仕事をしながら、詩や童話を書いた。農民も芸術によって心豊かになるべきだと考え、「羅須地人協会」を作り、農業についての勉強会をしながら、音楽や演劇などの芸術活動を積極的に生活に取り入れた。しかし、その想いが十分に伝わる前に、もともと弱かった体に、過労がたたり、夭折する。生前に刊行された作品集は、「心象スケッチ 春と修羅」、「イーハトヴ童話 注文の多い料理店」の二つだけである。

自然と文学というテーマを設定し、過去の文学者たちの自然観に迫ろうという試みを始めてから、この冬で2年になる。漠然と自然のことを書いた文学者について考えていた時期も含めるならば、4年くらいだろうか。この間、エッセイなどでよく取り上げている文学者以外にも、さまざまな文学者、表現者について関心を持ってきたのだが、宮沢賢治は、彼らの人生の一場面に登場することが、とても多い。

読書会などでもよく話題にしているのは、「雨ニモマケズ」が書かれた手帖が発見された追悼会のこと。賢治が亡くなった翌年、1934(昭和9)年の2月。場所は、新宿の喫茶店「モナミ」。賢治の弟であり、賢治の作品を世に出すために奔走する宮沢清六や、賢治の描く世界や詩に共感した詩人たちが集まった。郷里の花巻からやってきた人たちは、賢治の魅力的な人柄を語り、「星めぐりの歌」を歌って、追悼した。

会に参加していた巽聖歌は、賢治と同じ岩手出身。花巻と盛岡のあいだ、紫波町の生まれである。賢治と面識は無かったが、表現者として魅かれるところがあったのだろう、1970(昭和45)年に、文学仲間とともに賢治ゆかりの地を訪ねている。聖歌と追悼会に来ていた新美南吉は、賢治のことをとても尊敬していた。

賢治が亡くなった翌年、最初の全集が出版される。家族や名の知られた詩人たちが尽力することで、文学者・宮沢賢治は世に出るのだが、その陰で作品の整理や版元との調整など事務作業を引き受けていた人物がいる。賢治の友人であり「セロ弾きのゴーシュ」のモデルともいわれる、藤原嘉藤治である。嘉藤治は、賢治の没後、その作品を広めるため、すぐに音楽教師をやめて東京に行こうとするが、周囲に止められ、一年後、家族とともに上京する。戦時下の十年間を東京で過ごし、宮沢賢治全集の刊行に大きく貢献。全集の仕事が一段落した終戦直前、岩手に帰郷。岩手に戻ってからは、東根山麓に開拓農民として入る。過酷な労働環境にあっても、農業とともに生き、賢治の教えをまっとうした。

賢治の文学に触発される表現者の中には、嘉藤治のように土を耕し生きることを選ぶ人がいる。追悼会に出席していた数少ない女性である永瀬清子もその一人。永瀬清子は、1906(明治39)年、現在の赤磐市に生まれる。父の仕事の都合で、金沢、名古屋と転居し、名古屋の高等女学校に通っていた頃、詩を自分の一生の仕事にしようと決意する。この時期に出会った詩は、カール・ブッセ「山のあなたに」。そして、自分の詩を見てもらうため送った先は、同人誌「詩之家」を始めるため作品を募集していた佐藤惣之助であった。

カール・ブッセ、佐藤惣之助という名前が登場し、思い浮かぶのは、やはり椋鳩十だろう。鳩十は、1905(明治40)年生まれ。清子の一つ年上である。鳩十もまた、天竜川を越えて飯田まで通っていた高校(旧制中学)時代に「山のあなたに」と出会う。立教大学の学生として上京した後、惣之助の「詩之家」の同人になる。惣之助は、自費出版で作られた賢治の「春と修羅」を読み、新聞に詩評を書き絶賛した詩人。鳩十も、かなり早い段階で、賢治のことを知っていたのではないだろうか。

「女が詩なんて」と言われた時代。詩の会ではいつも、女性は清子だけだったが、信念を貫き生きた。戦中は、大阪、東京と暮らす場所を変え、戦後は、夫の地元である熊山(赤磐市)に戻る。農地改革の混乱の中、地元で農業に従事することになり、それは生涯続いた。農作業をするときは、ノートを持ち歩き、言葉や詩を書き留めていたという。<下に続く>

 

 

十月の日誌(下)

10月19日。武豊の自然公園で観察会。前日まで、小雨が降りはっきりとしない天気が続いていて、この日も朝から灰色の雲が空を覆っていた。駐車場から公園の入口へ向かうと、ホトトギスの花が咲いていた。林縁でひらひらと飛んでいたのは、アサギマダラ。今年はなかなか出会わないなと思っていたが、ようやく見つけた。遅れてきた方たちと合流し、雑木林を奥へと進む。ワレモコウなどの咲く田んぼへ行こうと思っていたのだが、道を間違えてしまい、ジョロウグモの巣がところどころに待つ暗い道を歩く。キノコがたくさん出ているが、種類は分からない。広場に到着すると、フユノハナワラビの群生を発見。ハナヤスリ科のシダ植物である。東屋でまとめの話をして、駐車場へ引き返す。雑木林は、ずっと暗く、途中小雨も降ったが、最後まで大降りになることは無かったので、よかった。

10月20日。畑でアキザキヤツシロランを見つける。昨年は10月21日に最初の株を見つけ、28日には、およそ70株が出ていた。今年も同じ時期にあらわれたということになる。出ていた株数は9つで、すべて蕾。1つの株についた花の数は、5つが最大。

10月24日。深草子どもの家に研修に行っている父を迎えに行くため、朝から母とともに京都に向った。この週は、安定しない天気が続いた。新名神を走りながら、薄曇りの空にくっきりと描かれた鈴鹿山脈の稜線が見えてきれいだった。大津サービスエリアで休憩し、京都東インターで下りる。市内に入るころには、すっかり晴れて暑くなった。

東大路通を北へと進み、一乗寺に到着。一乗寺には、母の古くからのお友だちが住んでいて、八尾に住むお友だちも、せっかく名古屋から京都まで来るんだからと、一乗寺までやってきてくれていた。お二人と合流し、詩仙堂丈山寺へ移動。

詩仙堂は、江戸時代の漢詩人であり、作庭家でもあった、石川丈山が隠居した場所。出身地である安城の丈山苑は、この詩仙堂を模したものである。書院に掛けられた、六勿の銘、福禄寿の書などに見る丈山の書は隷書で書かれている。人を寄せ付けないような字ではなく、丸みがあり親しみやすい字だと思う。庭に出て、嘯月楼を見上げる。「カコーン」と僧都の音が聞こえた。庭の木々には秋らしく赤い実が目立つ。フジバカマには、アサギマダラが来ていて、花びらが散り始めたシュウメイギクの閑かな佇まいにも、風情があった。

近所の蕎麦屋で食事をし、出てくると、オオアオイトトンボがいた。この辺りは、比叡山の麓で大通りからは急な坂道の上になる。山の木々も豊かで心地よい。通り沿いの民家の前の砂地に、すり鉢状の巣を見つける。小枝で少し掘ってみると、アリジゴクがいた。宮本武蔵に縁のある八大神社では、カゲロウが飛んでいた。最後に二十代の頃に京都に来るとよく訪ねていた本屋、恵文社一乗寺店を訪ねて、お二人とはここで別れた。

深草は、山科の少し南にあり、地形では伏見稲荷のある稲荷山より南の山麓になる。16時過ぎに父を迎えに行くことにしていたので、先に近くの大岩山に登った。山の下の方は、竹林が続く。そばに小川が流れていて、足元が不安定なところもある。ふと、竹林の地面に目をやると、ヤツシロランがあった。目を凝らしてよく見る。アキザキヤツシロランよりも、明らかに黒く、花の形も少し違った。これがクロヤツシロランだろうか。少し先では、コケの間から生えた黄色いひょろ長いものを見つけた。子嚢菌類かなと思ったが、はっきりしない。いくつかの鳥居をくぐり、登って行くと、森が明るくなってきた。30分ほどで登頂。大岩山は比叡山から南に続く山並みの先端に位置する。同じように山を登ってきた男性が「空から見ると、亀の形にみえるそうやね」と教えてくれた。下山し、子どもの家に立ち寄って、名古屋に戻る。家に帰ると、鳩十会の方から、永瀬清子についての手紙が届いていた。

10月27日。畑のアキザキヤツシロランは、いくつか新しい蕾を見つけたが、数は昨年より少ない。これから増えるだろうか。それとも、今年は出現が少ないのだろうか。

10月29日。内海四天王像めぐり、秋4回目。最後となる持国天の森は、内福寺の森の少し手前。十月がそろそろ終わるので、虫も少なくなってきた。地面から聞き慣れないコオロギの音(クサヒバリに少し似ている)が聞こえたが、何の音か分からない。何度も来ている場所でも、すぐに分からない事の方が多い。明神池には、カルガモが十羽ほど来ていた。毎年赤い実を付けるヤブコウジは、まだ葉が出たところ。セイタカアワダチソウに覆われた休耕田ではヒゲシロスズが鳴いていて、軽やかな音が静かな谷筋に響いていた。

 

 

十月の日誌(中)

10月12日。気温が30度近くまで上がるなか、春に続き、八事裏山で観察会をする。10時に集合。コインパーキングから通りを歩いて、竹林に向かう。手の入っている竹林と、放棄されている竹林の様子を比較しながら進む。竹林の先には草むらが続き、秋を代表する草花のイヌタデがある。ここでは、赤花のほかに白花もたくさん出ている。林縁の木には、コバノガマズミの赤い実がなっていた。ほかにも草花を丁寧に観察し、一時間ほどかけて、雑木林の入口に到着。9月下旬に裏山を下見したときは、テングタケが何種類も出ていたが、すでに黒く老熟している。池に水が無くて、今年の水不足を実感。礫がむき出しのでこぼこ道をのぼりながら、ムヨウランの枯れ残りを確認する。コアラの餌用に栽培されているユーカリ畑まで行き、まとめる。同じ道を引き返して、12時半頃、解散。

10月13日。碧南の藤井達吉現代美術館に「川端龍子展」を観に行く。川端龍子のことは、藤井達吉と同時代の日本画家で、達吉が東京で住んでいた大井町庚塚の近隣に、たしか記念館があったなというくらいの知識だった。展示を見ると、迫力ある日本画である。「草の実」という六曲一双の屏風の右隻は、ススキが垂れて、オヒシバ、ヤマノイモ、ヤブガラシなど枯れ草が大胆に描かれている。その下にハハコグサが描かれているのが目に留まった。年譜を読んでいたら、現在は記念館となっている自宅のことを、画家は「御形荘」と呼んでいたそうだ。ハハコグサに何か思い入れがあったのだろう。草花に思い入れをもつところに、達吉との共通点を見つけ、川端龍子がぐっと身近になる。

代表作の「爆弾散華」は、終戦の年の夏に爆撃を受けた自宅の庭について、飛び散るカボチャとトマトを象徴的に描いて表現した絵であるが、端に描いてあるナスの花が印象的だった。なんとなく、菜園をしていた庭は、野草もいっぱいだったのだろうと想像した。

こちらも代表作である「夢」は、亡くなった人が納まる棺桶の周りを、たくさんのガが飛んでいる。それらのガの種類が、すべて異なる。ミズアオ、スカシバ、クスサン、ホタルガ、スズメガ、エダシャクなど、身近に見かけるガである。数えてみると34種類。自然をよく観察していた人だったのだろう。展示を見た後、館長の木本文平さんの講演を聞いた。当時の美術界の様子、龍子のこと、達吉との共通項などがよく分かり、とても勉強になった。

10月17日。内海四天王像めぐり、秋3回目。訪ねたのは、多聞天。オガタマノキの神明社に車を止めて、歩く。田んぼの稲は刈りとられていて、赤とんぼが飛んでいた。かつて岡部城があった城山の道を登りながら、春の観察会で、この滑りやすい道をみんなで登ったことを思い出した。海へ向かう道沿いは、果樹畑が続く。民家のバナナの木には青い実がなっていた。浜はハマゴウの花が咲き残っていて、ウラナミシジミが吸蜜していた。ウラナミシジミがあらわれる時期は、アサギマダラが飛来する時期と重なる。今年はアサギマダラをまだ見ていないなと思いながら、浜の植物を観て歩く。岩場に腰を落ち着け、波の音を録る。崖上まで直線で上がれる古い梯子を上りながら、冬の観察会はここにしようと決めた。

10月18日。小雨のなか、半田に行く。ミツカンミュージアムは人がたくさん来ていた。「ピエゾグラフによるいわさきちひろ展」は観覧無料。土産物コーナーの奥のギャラリースペースに、「窓ぎわのトットちゃん」をテーマにして、いわさきちひろの絵が飾られていた。

ピエゾグラフとは、水彩画は厳密な管理のもとであっても退色してしまうので、デジタル情報を保存して精密に再現した絵のこと。ギャラリートークをされた、ちひろ美術館の学芸員さんによると、原画展と同じようにピエゾグラフの展示も大切にしていますとのこと。「トットちゃん」の舞台であるトモエ学園は、子どもたち一人一人に、その子の木があったそうで、それは、とても楽しそうだと思った。少し前に、至光社の絵雑誌「こどものせかい」に使われた原画が、新たに見つかったというニュースがあった。「こどものせかい」には、巽聖歌も詩を寄せているが、聖歌とちひろは面識があったのだろうか。

名古屋に戻りながら、乙川にある半田ハリストス正教会を見に行く。明治から大正にかけて、知多半島にも正教会の伝道所が数か所あった。現在はここだけである。木造聖堂は地元の宮大工の方たちが手伝って建てられ、民家のような造りをしている。こうした聖堂は全国にあったが、現在は、ごくわずかしか残っていないようだ。かつてはカトリックに次ぐ数の信仰者が日本にいた正教会。当時のことを考えてみる必要がある気がした。<下に続く>

 

 

十月の日誌(上)

十月も、もう終わり。思い返してみると、今月は上旬から天気が安定せず、断続的に雨が降った。長々と続いた残暑は、収まるや否や一気に気温が下がり、富士山では昨年よりも15日早く初冠雪が確認されたそうだ。湿気も多く、霧雨のような細かい雨と朝晩の気温差が着るものを迷わせて、引きかけた風邪は、早めに対処したのでこじらせることは無かったけれども、なんとなく心も体も気怠さを引きずった月だったと思う。

そんな毎日ではあったが、訪ねた場所は方々多く、長い間、放ってあった考えが少し進展したり、新しく考え始めたことがらも多かった。ただ、頭の中に入った情報量が、ちょっと多すぎるので、大事な部分を精選し、関連付けてまとめるには時間がかかりそうである。とりあえず、忘れないよう日誌的に書き留めておこうと思う。

10月1日。熱田神宮にオニフスベを見に行く。途中、激しい雨が降ってきたので、5月に花のとうの人形が飾られる西楽所で雨宿りをしながら、雨の音を録る。

10月2日。内海四天王像めぐり、秋1回目。今年は、1月から三カ月ごとに、四天王像のある森を訪ねている。この日はフォレストパーク跡地のそばの増長天を訪ねた。海岸沿いでは、ヒメマダラナガカメムシという赤いカメムシがいた。昼間も咲くようになったツユクサや、普段は葉だけが目立つアシタバの花などが目に留まった。

10月4日。子どもの家の行事に参加させていただき、明智にリンゴ狩りに行く。思い出してみると、リンゴが果樹園でなっているところを、間近で見るのは初めてかもしれない。無農薬のリンゴをもいで、かじる。紅玉は、小ぶりで甘く、美味しかった。リンゴをそのままかじるなんて、いつ以来だろう。雨がだいぶ降ってきてしまったので、午前中で終了。

大正ロマン館に立ち寄る。一階には大正時代の建物のミニチュアが飾られていて、その中に豊橋ハリストス正教会の模型があった。豊橋の代表的な文化財でもある、この教会の設計をしたのは、内海出身の正教徒・河村伊蔵。明治時代、日本に正教を広めたニコライについて教会建築を学び、ニコライの没後は、全国の正教会建築に関わった人物である。

二階にはオルガンの展示や、洋画家で明智出身の山本芳翠の絵が展示されていた。代表作は岐阜県立美術館に所蔵されているため、模写が飾られている。山本芳翠は、洋画が日本に紹介されて間もない明治の初めに、絵を学ぶためフランスに渡り、10年間、滞在した。フランスでもその絵を認められた洋画の先駆者の一人である。芳翠はフランスで生活しながら、日本で洋画を勉強する人たちのことを考え、ルーブル美術館に通い、たくさんの作品を模写していた。そして帰国の際、完成したばかりの日本の巡視艦に300枚以上の絵を載せて運ぼうとした。だが、その巡視艦は、日本に辿り着くこと無く行方不明になってしまった。そのため、芳翠の滞仏時の作品は、ごくわずかしか現存していない。もし、巡視艦が行方不明になることなく、絵が日本に届いたなら、西洋美術を大々的に紹介した歴史的な展覧会が日本で開催されていたかもしれないなと思った。小原和紙の里に立ち寄り、名古屋に戻る。

10月6日。畑に、アキザキヤツシロランが出ていないか、確認しに行く。アキザキヤツシロランは、昨年見つけた腐生植物の一種で、竹林に生える。この日は、まだ出ていなかった。

10月8日。内海四天王像めぐり、秋2回目。二十四節気では寒露だが、まだ残暑。南知多中学校の裏山の多聞天を訪ねる。終わりかけのヒガンバナに、ナガサキアゲハやアゲハチョウが吸蜜にきていた。森の中はジョロウグモの巣が多い。目前の巣を払うことばかり考えていると、観察に集中できないが、下ばかり見ていると、何度でも巣に引っかかる。頭に引っかかった糸を取りながら、糸が黄金色であることに気づく。多聞天の森を抜けて、秋葉神社に向かう道沿いは、みかん畑。まだ青いミカンが、たくさんなっていた。そばでは、タンキリマメやアオツヅラフジの実も色づいていた。秋葉神社の森では、数羽のカラスが鳴きながら行き来しており、なんとなく、心に不穏なものを感じた。

10月9日。半田のクラシティと赤レンガ建物に「みんなの南吉展」を観に行く。どの展示からも南吉への親しみが感じられ、時代を越えて普遍的な物語の大切さを想った。読んだ人のイマジネーションにはたらきかけて、何か表現したくなる物語。帰る前に、ツメサキの世界さんの原画展を見るため、記念館のカフェに立ち寄った。メモ帳を買う。<中に続く>

 

 

セッカ、ヤブサメ、センダイムシクイ

9月の最終日。2階の仕事場で文章を書いていると、玄関から母親の大きな声が聞こえてきた。どうやら靴を履こうとして、何かあったようである。どうしたのだろうと、階段の上から階下を覗くと、「鳥! えー、なんで靴のなかに!?」と驚いている。靴のなかに鳥が入っていたようだ。「青葉だね、きっと」と話していると、仕事場の資料ケースのなかに丸く収まって寝ていた黒猫の青葉が、いつの間にかそばにやってきて、「やっと、見つけてくれたにゃんね」とでも言わんばかりに、大あくびをした。

青葉が捕まえてきた鳥は、すでに死んでいた。体には、まったく傷が無かったので、弱っていたところを咥えてきたのだろうか。判然としないが、全体的に褐色でスズメよりも小さい鳥である。何の鳥だろうということになり、いつも通り、調べてみることにした。いつも通りというのは、鳥を捕まえてくるのは、これが初めてではなく、すでに2回、同じように捕まえてきからである。

一度は、ヒヨドリの幼鳥だった。このときは、元気なヒヨドリをばくっと咥えたらしく、興奮した様子で勢いよく庭から駆け込んできた。「つかまえたにゃっ! つかまえたにゃっ!」。表情と行動で、そう思っているのだと分かる。机の下に隠そうとしたのだが、ここでヒヨドリが大暴れ。羽根をまき散らして、なんとか逃げ出す。追っかける青葉。家を飛び回りどこに行ったかと思ったら、服などが掛けてある部屋に来ていた。ヒヨドリは、ハンガーに掛けてあるスーツにとまって、どうしようかと思案中。青葉が見失っているうちに放してあげようと、捕虫網で捕まえた。ちゃんと飛べるだろうかと心配だったが、玄関を出て放す場所を探している隙に、ぱっと飛び立っていった。

最初に捕まえてきたのは一昨年。今回と同じような秋で、似たような褐色の小鳥だった。このときは調べてみて、セッカでいいんじゃないだろうか、ということにした。その一件で、セッカという鳥を認識したのだが、初夏のある日、南知多町で鳥の観察をしていると「ヒッヒッヒッ……」という高い声が、田んぼのそばの茂みから聞こえて、「セッカの声です」と教えてもらった。「ヒッヒッヒッ……」と鳴きながら高く空に飛び、「チャチャチャ」と声音を変えて、下りてくる。鳴き方に特徴があるので、すぐに覚えると、数日後、トビハゼを探しに東浦町の干潟を訪ねたときにも、田んぼのそばで鳴いていた。

だが、まてよ? こんなに分かりやすい声で鳴いているのに、家の付近でこれまでにセッカの声を聞いた記憶がない。近所には、1キロほど離れた七里の渡し付近に小さなヨシ帯はあるけれども、草丈の長い茂みは無い。どこで青葉はセッカを捕まえてきたのだろう? なんとなく疑問には思っていたのだが、あらためて調べてみると、セッカではなかった。青葉が一昨年と今年、同じ時期に捕まえてきたのは、ヤブサメだった。

8月下旬、大府市にある二ツ池公園を訪ねた。目的は、淡水に棲むマミズクラゲ。このため池では、夏から秋にかけて、マミズクラゲがあらわれる。昨年は、大量発生していたが、訪ねた時期が10月と、少し遅かったためか、たくさんのクラゲを池で見ることはできず、自然観察施設セレトナの水槽で、ゆらゆら泳ぐマミズクラゲを観察した。今年は、逆に時期が早すぎたようで、まだ見つかっていないとのことだった。

マミズクラゲがいないかなと思い、建物の外に設置されたウッドデッキに出てみる。水面に目を凝らすが、見つからない。館内に戻ろうとすると、緑がかった羽の小鳥が落ちて死んでいた。館の方に聞くと、「センダイムシクイですね」と教えてくださった。

今回のエッセイに登場した、3種の小鳥はよく似ている。特徴を簡単に整理しておくと、セッカは体長12センチほど。体は淡い褐色でスズメのような黒い縦斑がある。ヤブサメは10センチほどで、セッカより小さい。全体的に褐色で羽は暗く、お腹の辺りは明るい。目を真っすぐ通る黒い斑と、眉のような白い斑が目立つ。尾羽はセッカのように長くない。センダイムシクイは、セッカと同じくらいの大きさ。尾羽も長いが、羽は暗緑色。ほかにもくちばしなどにも違いがある。ちなみに、街中で見かけることが減ってきたスズメと、大きさを比較してみると、スズメは、これら3種よりもう少し大きく、14センチくらいである。

鳥を見分けるのは難しいが、鳴き声にしても、体の特徴にしても、分かってくると、とても楽しい。一つ一つ、繰り返し丁寧に覚えていこうと思う。

 

 

伊那谷をめぐる(五) 大鹿村と中央構造線博物館(下)

中央構造線博物館は、手作り感にあふれ、中央構造線や地質という、説明がとても難しいテーマについて、来館者に丁寧に伝えようという工夫がなされていた。

最初に中央構造線の解説があり、衛星写真とともに、各地域ごとの中央構造線について地図に線を引いて説明がされている。中央構造線というと、信州から三河を通って渥美半島まで下り、紀伊半島、四国へ延びている方が印象にあるが、関東にも延びている。諏訪湖、岡谷の辺りから、東へ延びる。群馬の藤岡市には、三波川という川があり、ここが三波川変成帯の由来。埼玉の東松山市あたりから関東平野に入る。そこから先は、茨城の霞ケ浦の方へと延びているようだが、霞ケ浦の北東、那珂湊の方へ向かっているのか、南東の利根川河口の方へ向かっているのか、正確なところは分かっていないようだ。

平面的な地図だけではイメージしづらい大鹿村周辺の地形は、25万分の1の立体地勢図で見ると、よく分かる。地勢図は、長野県全体が立体的に盛り上がっていて、山脈、山地と谷合いの位置関係がよく分かる。北は白馬から諏訪湖までが広い谷だが、この辺りには大町市、安曇野市、松本市がある。地図の中央には、谷の合流点である諏訪湖。諏訪の南東は、八ヶ岳と赤石山脈に挟まれて、甲府盆地があり、富士山の裾野へと谷が続く。諏訪の北東に目を向けると、佐久平があり、新潟方面へ向かってカーブを描きながら、長野市、飯山市へと続いていく。伊那谷は、南西に延びる谷。天龍川が流れ、伊那市、駒ケ根市があり、飯田市の先は三河山地。天龍川沿いの谷のそばを並走している浅い筋が、中央構造線の谷である。

メインの展示室も岩石庭園と同じように中央構造線のラインを引いて分けてある。入口側は、外帯(赤石山脈)の岩石が並べられているので、緑色岩が多い。奥に進むと内帯(伊那山地)の花崗岩などの岩石が並ぶ。最奥の壁には、実際に掘り取った露頭(地質、岩石などが外にあらわれている場所)の標本が展示されていて、見ごたえがあり、実際にフィールドでどのように観察できるのかが分かった。

各展示室が広いわけではないのだが、他所では知ることのできない、地域の博物館ならではの展示なので、ひと通り見終わっても、なかなか館を出る気にならない。それでもキリを付けて外に出たのだが、展示で知った知識をもとに庭園の岩石を見ると、また違って見えてくる。次回は、もっと時間に余裕をもって訪ねようと思った。

博物館の隣りには、ろくべん館という郷土資料館がある。「ろくべん」は、歌舞伎見物などに持参する弁当箱のこと。大鹿村の歌舞伎は、全国的に有名である。こちらでは、大鹿村の歴史や文化、南アルプスの自然調査の歴史などについて、展示がされていた。

大鹿村は、平安時代から年貢として榑木を納めていた。榑木とは、ヒノキやサワラの良材のこと。伊那谷の大森林は、この地域に暮らす人々に恵みをもたらし、いつの世にあっても権力者たちは、大鹿村の豊富で貴重な木材に目を付けて、利用してきた。山の木を伐り出す仕事をする人たちは、杣人と呼ばれ、木は、人力で運び出された。

江戸時代には、豊かな木材を活用する技術を持った、木地師と呼ばれる職人集団がやってきて棲みついた。椋鳩十の「椋」は、この木地師たちの一族である小椋氏から、とられている。かつて伊那谷周辺は広葉樹の森だったが、時代が下るにつれて、早く大量に木材が必要となって、針葉樹が植林されるようになった。現在の針葉樹は植林されたもので、もともとあった針葉樹とはルーツが異なる。広葉樹では、大鹿村は栗の木が多かった。「代知らず」とも呼ばれる丈夫な栗材は、建物の柱や土台、屋根板、火の見やぐら、川の堤など耐久性を必要とするものすべてに用いられた。だが、人々の生活に身近だった栗の木は、今では少なくなり、栗拾いや秋の味覚を楽しむなどの風物誌も、昔語りとなっている。

ろくべん館を出て、大鹿村を流れるもう一つの川、鹿塩川を訪ねた。川は、小渋川よりも石がゴロゴロとしていて、流れが速い。岩をひっくり返すと、ナミカワゲラの幼虫がいた。

鹿塩川の周辺では、国内では珍しい山塩がとれる。日本で岩塩が獲れる場所は一応無いとされている。海沿いの塩田で塩はつくられ、内陸へと運ぶ道は「塩の道」と呼ばれた。大鹿村にもそんな塩の道の一つ、秋葉街道がある。その道中に、山中で塩水が湧き出ている場所があったということなので、偶然とはいえ、不思議なものを感じる。だがそれも、人が生きる場としての自然と考えたら、見つかったことは、必然なのかもしれない。

 

 

伊那谷をめぐる(四) 大鹿村と中央構造線博物館(上)

2025年6月、ずいぶん前から行ってみようと思っていた、大鹿村に行くことにした。大鹿村のことは、鳩十会で「アルプスのキジ」を読んだときに予習した。「アルプスのキジ」は、大鹿村の子どもが、大嵐で小渋川が氾濫してしまい、村にも濁流が押し寄せる中、自分たちが大切に見守っていた巣を守るキジと、キジが抱えていた卵を心配する、というお語。

この日は、梅雨の晴れ間だった。伊那谷に来るときに立ち寄る恵那峡サービスエリアにはツバメがたくさんやってきていた。サービスエリアの建物に巣を掛けて、子育てしている。親ツバメが忙しそうに巣と外を行き来し、ピーピーとにぎやかだった。

飯田インターを通過し、しばらく走ると、右手に、ひと際目立つ山並みが見えてきた。伊那山地の奥で雪をかぶっている、赤石山脈である。大鹿村を流れる二つの川、鹿塩川と小渋川のうち、小渋川の源流は赤石山脈。小渋川は、天竜川水系で一番の荒れ川と言われている。山脈を横目で見ながら、あの近くまで向かうのだなと思うと、気持ちも高揚してきた。

松川インターで降りる。この辺りは以前、椋鳩十記念館・記念図書館の館長、木下さんに連れて来ていただいた場所。喬木村ではゲンジボタルが見られなかったため、木下さんが毎年観察されている、ゲンジボタルの生息地に案内してくださったのだ。そこは、清流ではなく、河岸段丘の段丘崖から水が落ちてくる場所で、周りは田んぼ。以前は、あらわれなかったような場所で、大きくゆっくりと光を明滅させるゲンジボタルを見ながら、場所を変えながら適応し、世代をつないでいるのだなと感心した。

一昨年の印象的な体験を思い出しながら、天竜川を渡り、小渋川沿いを山の奥へと進む。途中、小渋ダムに出る。この辺りは、大きなトラックが出入りしている。広いダムを見ると、まったく水が無い。理由は分からなかったが、今年の深刻な水不足については、すでに報道がされていた。ダムの水が枯渇するほど、雨が降っていなかったのだろうか。その後、山道を走り、いくつかのトンネルを抜けると、大鹿村に到着した。

道の駅で食事をし、小渋川沿いを歩く。川の向こうに赤石岳の白い峰がある。小渋川の水は青い。川を見て、「青い」と思ったのは、美濃和紙の里会館に行く途中、板取川を見たとき以来だろうか。思い出すと、小原和紙のふるさとを訪ねたときに立ち寄った笹戸付近の矢作川もきれいで心地よいと感じたが、青いという印象は持たなかった気がする。深さや水に含まれる成分や透視度、川底の石の種類なども関係するのだろう。川の色については、いろいろ考えてみると、おもしろい気づきがありそうだ。

道の駅から移動して、大鹿村中央構造線博物館に行く。博物館の前には、岩石庭園があり、中央構造線の西側(内帯)と東側(外帯)を構成している石が大鹿村の地質通りに並べられている。簡単にいうと、谷を流れる川を挟んで、伊那山地側が領家変成帯といい、花崗岩が中心の地質。川と新しい集落を含む谷底は、鹿塩マイロナイト(かつては鹿塩片麻岩と呼ばれた)という、地下深くで断層によって岩石が水あめのように流動してできた、いまだ謎が多いが日本を代表する断層岩でできている。ここまでが内帯。中央構造線を挟み、南アルプス側は外帯で、三波川変成帯、秩父帯と地質が変わっていく。外帯を構成する岩は、おもに緑色岩で、その名の通り、緑色をしている。

庭園に並べられた岩々を、じっくりと眺めていると、岩の模様は、それぞれ違って美しく、おもしろい。だが、岩石ができるまでを、山から海に至る川の流れや森の遷移のように、イメージを描いて理解するのは難しい。動く時間が、途方もなくゆっくりだからだろう。

たとえば、153と番号がふられた、マイロナイトには、「断層深部で、再結晶による細粒多結晶化により延びるように変形。原岩の鉱物のうち再結晶しにくい長石が斑点状に残存したマイロナイト」と説明書きがある。原岩は、「トーナル岩(花崗岩類)」となっている。「再結晶作用」についてブリタニカ国際大百科事典の記述は、「固体のままで岩石中で新しい結晶が生じる現象。この現象は温度、圧力の外的条件が変化したとき、もとの岩石中の鉱物が不安定になり、新しい鉱物(結晶)が成長することによって起る。(中略)多くの場合、岩石は再結晶作用によって鉱物の粒径が大きくなり、ある鉱物が特定の方位に向くようになる」。なんとなくしか理解できていないが、これらの岩の複雑で美しい模様は、大地の成分のダイナミックな変化によって生まれた、ということは、分かった。〈下に続く〉

 

 

伊那谷をめぐる(三) 飯田市のこと 

遠山郷は、かつての上村と南信濃村からなり、現在の行政区分でいうと飯田市に入る。遠山郷が編入した2005年の市町村合併の結果、飯田市は、東西にかけて、南アルプス・聖岳、遠山郷のある遠山川の谷あい、伊那山地、天竜川と両岸の河岸段丘、風越山のある中央アルプス・木曽山脈までを含む、広大な市域となった。

飯田市では、南信教育事務所飯田事務所が主催して、年に数回、研修講座「赤門スクール」を開催している。この講座は、伊那谷の自然、文学、文化、歴史などについて学ぶもので、椋鳩十の講座をされている菅沼さんに声を掛けていただいた。2023年の講座「椋鳩十 戦後の活躍」では、双葉社が発行していた「讀切特撰集」に物語を掲載していた頃の事情、2024年の講座「椋鳩十と読書運動」では、鹿児島県立図書館長に就任した経緯や「母と子の20分間読書」を普及させるための奔走がよく分かり、とても勉強になった。

想い出してみると、2022年の秋、喬木村の福祉センターをお借りして、名古屋から人が集まって開催した講演会では「椋鳩十と戦争」をテーマにお話していただいた。その後も毎年夏に記念館の2階で開催される講座は、訪ねるのが楽しみである。学生時代、熱心だった詩作と詩集「駿馬」についての考察「若き日の椋鳩十」。ハイジやツルゲーネフなど青春時代に親しんだ海外の文学作品が、どのように処女作「山窩調」につながっていったかについての考察「椋鳩十 若き日の読書」。ともに深く考えさせられる講座だった。

私は、自然から表現することを大切にした文学者と彼らが生きた地域に寄り添った文学研究が、もっと普遍的になされてほしいと思う。そして、その地域に現在、暮らしている人たちが、彼らが生きて暮らしていた地域に、今、自分が暮らしていることを、楽しく、誇らしく思えると良いなと思う。文学に興味があって、学芸員や文学研究者を目指す人たちには、ぜひ菅沼さんの講座を聞いてほしい。

赤門スクールや記念館を訪ねる前には、飯田の特色を知ることができそうな場所に立ち寄ることが多い。2024年10月、訪ねたのは、竹佐の杵原学校。映画のロケ地にもなった懐かしさの漂う木造校舎で、1980(昭和60)年まで使われていた。春になると、満開の枝垂れ桜を見に、人が訪ねる場所なのだが、この日は、小雨ということもあり、寂しい雰囲気だった。きれいに磨かれた板張りの廊下を歩きながら、中庭を眺める。信州の人は、学校という場所をとても大切にしていると感じる。以前、椋鳩十記念図書館の本棚に、信州の学校について書かれた分厚い本があったので、手に取ってみたのだが、県内各地の小学校について、開校当時からの沿革などが、写真とともに説明されていた。子どもたちが通う学校は、地域コミュニティにおいて、もっとも考慮されるべき中心施設。昨今の学校にまつわる報道などを思い出しながら、そのことを、もう一度、みんなで考えないといけないと感じた。

12月には、下久堅の和紙の里を訪ねた。長野で和紙の里というと、飯山市の内山紙がよく知られている。県内には、ほかにも数か所、和紙の里があり、下久堅もその一つ。飯田の紙は、元結(髷などを結うための紙紐)の紙として評判だった。落語の大ネタ「文七元結」は、江戸に元結を売りに来ていた飯田の商人・桜井文七がモデルになった噺。明治に入り、元結の需要が減ってからも、水引や障子紙など商品を変えながら、冬の閑農期の副業として、下久堅では全村で紙漉きに携わった。原材料となるコウゾは、遠山郷など近隣地域から、峠を越えて運んでいたそうだ。現在は、保存会の方が中心となって、技術を継承しており、近隣の小学校の子どもたちは、卒業証書の紙を自分たちで漉くそうである。

和紙産業は、地域の自然の産物を活かしながら、使われる材料すべてが植物由来であるため、土に返すことができる。土地の特徴を活かして、産物の異なる近隣地域をつなぐこともできる。自然の循環を活かした産業として、再び発展していくとよいなと思う。

阿島祭りに行く前に寄った座光寺のしだれ桜の前では、たくさんの人たちが記念写真を撮っていた。旧座光寺麻績学校校舎は、県内最古の木造校舎で、歌舞伎舞台を備えている。麻績という名前から、かつて麻布を織っていた人たちがいたのだろうかと考える。上郷の考古博物館は、縄文・弥生・古墳時代などの遺跡が集まっている地域にあり、古代の飯田について考えられる場所だが、訪問した日は、残念ながら時間が足りず、展示を見ることができなかった。また、ゆっくり時間をかけて、再訪したい。

 

 

伊那谷をめぐる(二) 鳩十会と遠山郷

「椋鳩十を読む会(以下、鳩十会)」は、名古屋の昭和生涯学習センターで開催している読書会である。2023年、喬木村にゲンジボタルを見に行った頃、熱田では「椋鳩十が描いた世界と命の連帯」というテーマで、3カ月連続のワークショップを開催していた。このワークショップは、最初から3回と決めていたのだが、終わって、「椋鳩十の作品を継続的に読んでいく会があると、楽しく勉強になるだろう」という考えが芽生えた。というわけで、11月に準備会を開催。翌年1月から本格的に読み始めた。

鳩十会で読むのは、基本的には、伊那谷が舞台となっている物語。椋鳩十というと一般的には鹿児島の作家という印象がある。けれども、幼少時から高校までを過ごした伊那谷での体験は、作家・椋鳩十の自然観の礎である。まずは、伊那谷という土地を知りながら、そこに生きる動物たちや、人々の生活がよく分かる作品を、毎回、選んでいる。

これまでに登場した生きものは、ツキノワグマ、シジュウカラ、キジ、クマバチ、遠山犬、カイツブリ、キツネなど。少年期の出来事を題材にした、自伝的物語「にせものの英雄」や喬木村を舞台にした兄妹の物語「ひかり子ちゃんの夕やけ」も一緒に読むことで、椋鳩十が暮らしていた時代の村の生活や、心の交流を知ることができる。

影響を受けた本や詩を通して、当時の文学的な潮流を知ったり、物語の背後に戦争の影を読み取ったり。魅力的な文学者について考えることは、そのまま、自然、地理、風俗や風習、歴史、産業といった人々の生活をとりまく、さまざまな事がらについて思索を巡らせることに発展していく。また、参加してくださっている方々の子どもの頃の体験や、物語に触発されてでてくる記憶や知識などは、毎回、とても楽しく、後日、録音した話し合いの文字起こしをしていると、当日の雰囲気を思い出し、思わず笑みがこぼれてしまう。

遠山郷は、椋鳩十が頻繁に取材に訪れていた場所であり、作品の舞台にもなっている。南アルプスと伊那山地に挟まれた地域で、天竜川の支流、遠山川が流れている。訪ねたのは9月。飯喬道路を走って喬木村に入り、山道を進む。矢筈ダムのそばから、長いトンネルを抜けると、程野という地域に出る。遠山郷がある谷あいは、北へ目を向けると大鹿村、高遠町まで続き、さらにその先に諏訪湖がある。ここは中央構造線という、東は霞ケ浦、西は四国の佐田岬、九州へと続く大断層の上にあたり、その露頭がこの近くにある。

まず訪ねたところは、上村地区にある「上村まつり伝承館 天伯(てんぱこ)」。この地域に伝承される神事、霜月祭りについての展示がされている。夜を徹して行われる湯立てと神楽は、遠山郷の冬の風物誌。館内には祭りで使われる独特な面が飾られていた。霜月祭りに携わっている方が丁寧に説明してくださったのだが、人口の減少や高齢化により、地域に暮らす人だけで伝承し続けるのは難しくなっている地区もあるそうだ。

伝承館の隣りには、この地に務めていた神社の神職である、禰宜(ねぎ)が住んでいた旧家が保存されている。上村は、秋葉街道の宿でもあった。天竜川沿い、南アルプスの南端に位置する秋葉神社をめざす旅人は、その歩をとめて休息した。一階には、囲炉裏があり、二階には養蚕の道具が展示されていて、かつての山あいの暮らしが、そのまま想像できた。

移動して、日本のチロルとも呼ばれる、下栗の里で食事。「このあたりで、蕎麦の花が咲いていると聞いたのですが」とお店の人に尋ねると、夏にジャガイモを収穫したあと、ソバの種を撒くため、もう1~2週間あとだろうとのこと。帰りに、もしかしたら咲いているかも、と教えてもらった畑に寄ってみると、小さな白い花が、さざ波のように咲いていた。畦では、キンエノコロやイネ科の草が、風に棚引き、コマツナギの花も咲いていた。雑木に垂れ下がる、ノブドウの色とりどりの実が、とても濃い色をしていて、きれいだった。

最後に旧木沢小学校を訪ねる。1932(昭和7)年に開校した木造校舎。2000(平成12)年に閉校。現在は、資料館として使われており、学校の古い備品や資料などが展示されている。階段には、褪せた白黒の写真が飾られていて、校庭や集落で遊ぶ、子どもたちが生き生きと写っていた。かつては、たくさんの子どもたちが広い校庭を走り回っていたのだろう。写真を撮った方の優しいまなざしが、伝わってくる。地域がにぎやかだった時代の写真を、ノスタルジーで括ってしまわず、未来への青写真とすることはできないだろうか。そんなことを考えさせる、印象的な写真と出会えたことも、大きな収穫だった。