(3)「モンテッソーリ・メソッド」と呼ばれる教育法は、1900年代、イタリア・ローマの貧民街であるサン・ロレンツォで確立される。19世紀後半、急速に近代都市化していくローマでは、アパートやビルが次々と建てられ、空き地が無くなるほどだった。サン・ロレンツォにもビルの建設計画があったのだが、計画がとん挫し、ビルは骨格だけが残された。残されたビルは、犯罪者たちの隠れ家となり、貧しい人々が何千人と住むようになる。巨大なスラム街となったサン・ロレンツォは、ローマの恥と言われるようになってしまう。
それらのビルやアパートを銀行家グループが買い取り、都市再生計画が始まる。ビルの経営者は、水回りを整え、風通しを良くした。ビルの住人には、職のある夫婦を選んだ。そうした家族が地域の人口を支える要素になると考えた。住民たちは、修復されたアパートに移り住み、生活を始めた。しかし、経営者たちを悩ませる問題があった。住民たちの子どもである。就学前の子どもたちは、両親が働きに出ている間、ビル内を自由に駆け回り、思いつく限りのいたずらをしたのだ。手を焼いた経営者たちは、子どもを一か所に集めて、一日中閉じ込めておけばよい、という結論に達する。空っぽの部屋を一室設け、子どもたちを監視する女性を一人雇えばいい。この計画の適役と考えられ、選ばれたのが、マリア・モンテッソーリだった。当時、子どもの精神障害に関する専門家として、国際的な名声を得ていたモンテッソーリは、この計画に大きな可能性を感じ、承諾した。子どもたちの部屋は、「子どもの家(Casa dei Bambini)」と名づけられ、1907年に開所式が行われた。
モンテッソーリが「子どもの家」で目的としたことは、子どもの行動をよく観察し、自分のことは自分でできるようにする、自立させることだった。体操、草木や動物の世話、みんなで食べる昼食の準備や盛り付け。服にボタンやレースを付けることを学び、掃除をし、洗濯する。それも自ら進んでその仕事をし、仕事をしたことに充足感を得られるように。感覚教具として知られるようになる教具はすでにあったが、使っているところを観察しながら、子どもたちが興味を持つものは何かを突き詰め、改良が加えられていった。
「子どもの家」は評判を呼び、同年にサン・ロレンツォで二つ目の「子どもの家」ができる。国内に着々とモンテッソーリの学校は増えていった。飛躍となったのは、チッタ・ディ・カステッロでの集まりである。フランチェッティ男爵は、当時、イタリア南部の後進地域における農地改革運動を指導していた。夫人は領地内の農民の子どもたちのために小学校をつくろうとしていた。二人はモンテッソーリに出会うと、同じ信念を持っていることを確信し、支援を申し出るため、別荘に招く。アンナ・マッケローニ、アンナ・フェデーリといったモンテッソーリを生涯にわたり支えた助手であり、友人たちも同席した。
チッタ・ディ・カステッロで、モンテッソーリは最初の養成コースを教える。自らモンテッソーリ・スクールを開校する修了生もあらわれた。フランチェッティ夫妻は、モンテッソーリの仕事を大いに助け、モンテッソーリに本を書くよう勧めた。モンテッソーリは、すぐに自分の仕事や思想をまとめた「子どもの家における幼児教育のための科学的教育法」(以下、「モンテッソーリ・メソッド」)を書き上げる。この本は、英語に始まり、フランス語、スペイン語、ドイツ語、ロシア語、ポーランド語、ルーマニア語、デンマーク語、オランダ語、日本語、中国語に翻訳される。数年後には20か国語以上に翻訳され、世界中で読まれるようになる。そして、さまざまな批評がなされた。ローマの「子どもの家」には、世界中から見学者が訪れ、「メソッド」について尋ねる手紙が、たくさん届くようになった。
1909年、「モンテッソーリ・メソッド」がアメリカで紹介されると、1910年代の初めに大きな運動が起こる。しかし、その勢いは数年で衰え、その後50年近く忘れ去られる。衰退した理由の一つは、アメリカ社会に適合した形でメソッドを広めたい支援者たちと、モンテッソーリ・メソッドは、ヨーロッパ各国でもなされているように、そのまま受け入れられなくては認められない、モンテッソーリ本人との考え方の対立だった。最終的にモンテッソーリは、自身の目の届かないところでメソッドだけが独り歩きすることを拒んだ。
この部分のことについて、今のところ明確な自分の考えは持ち合わせていないが、現代に通じるテーマだと思う。少し時間を置いて、文化、社会、歴史、宗教なども包み込む、ヨーロッパやアメリカの自然観を知ってから、あらためて考えてみたい。
