伊那谷をめぐる(六) 座禅草、花木、片栗(上)

お彼岸に墓参りに行くと、手を合わせて、舎利礼文を唱える。これまで何回も唱えているし、短いので、これだけは最初から最後まで正確に覚えている。そういえば舎利礼文というお経のことをよく知らないなと思い、少し調べてみると、曹洞宗の開祖である道元が、火葬の際に唱えていた経文で、曹洞宗では重要視されているそうだ。

以前、曹洞宗の僧侶の方に「HANAYASURI」をお渡ししたところ、「座禅を組んでいるような気持ちになりました」と、感想をいただいたことがあった。だからということでは無いのだけれども、一度、ザゼンソウを観に行きたいなと思っていた。

伊那谷は、ザゼンソウが自生する地域である。ミズバショウなどと同じサトイモ科の植物で、雪国に生育する。冬が終わる頃、芽を出すときに発熱し、周囲の雪を融かす。自生地は日本海側に多く、長野では北部の高原に多い。伊那谷は、自生地の南限とされる。

2月下旬。飯田市の天然記念物に指定されている「嵯峨坂のざぜん草自生地」を訪ねるため、伊那谷へと向かった。2月に伊那谷を訪ねるのは初めてで、中央道を走っていると、伊那山地の向こうに雪をかぶった南アルプスが、大きく、眺められた。

嵯峨坂のざぜん草自生地は、飯田市虎岩という地域にある。虎岩は、和紙の里がある下久堅の隣の地域。飯田山本から三遠南信自動車道に入り、久堅インターで下りる。県道83号を右折。そのまま進むと喬木村第二小学校があり、もう少し先に行くと九十九谷森林公園がある。遠山郷に行くならば、途中で折れて、山道を進む。何度も来ているので、だいぶこの辺りの道を覚えてきた。右折して少し行くと、縄文時代の竪穴住居が復元されている北田遺跡があり、すぐに「嵯峨坂ざぜん草自生地」の道標があった。道標の方に折れる。山沿いの道をしばらく進み、谷あいの棚田に沿って急坂を上がる。目的地に到着。

棚田沿いには砂利の敷かれた駐車場があり、イスとテーブルが置かれた休憩所もある。置いてあったパンフレットをもらい、自生地を目指す。自生地は、もう少し上ったところにあるようだ。林縁の坂道を歩くと、周辺の植物を楽しめるようにされていて、植物の名前が書かれた札が立ててあった。「山葵沢」という札があったが、ワサビも生えるのだろうか。

白い枯れ草がおおう湿地沿いを林の端まで上ると、ここから、ざぜん草自生地。林床の湿地に、木道と物流に使うプラスチックのパレットが敷かれている。パレットは歩きやすかったが、木道は年季が入っていた。ザゼンソウが出ていないか、注意深く、湿地に目を向ける。芽出しはあるが、仏炎苞は見つからない。どうやら来るのが早すぎたかなと諦めかけていたら、一つだけ瑞々しい仏炎苞が出ていた。周りに雪は無いが、湿った土と落ち葉の間から出たばかりのザゼンソウは、黄金色にも見える緑色だった。ほっとして、数枚写真を撮り、林を出る。湿地と棚田の先に山並みが見えた。ウグイスの声を聞きながら、しばらくの間、のんびりする。駐車場のハナノキの枝に、越冬明けのヒメアカホシテントウがいた。少し触ると、まだ重そうな足取りで、もぞもぞ下へと移動していった。

3月下旬。山本の湿地を訪ねたあと、虎岩のザゼンソウはどうなっただろうと思い、訪ねてみた。一カ月前とは違い、大きくなった赤茶色の仏炎苞が出ていた。頭を出しているものもあれば、ほとんど埋まっているものもある。座禅を組み始めたばかりの修行僧も、時間が経ち、禅師の風格。株数は、数十ほどだろうか。

めだか池ではメダカが泳ぎ、テーブルでは、ルリタテハが翅を広げていた。たまたま来ていた方に話しかけると、この自生地の管理をされている方々のお一人だった。立ち話をしていると、虎岩の文化財施設である旧瀧澤医院の管理人でもあるそうで、「よければ観て行きませんか」と言ってくださった。せっかくなので、お言葉に甘えて案内していただくことにする。旧瀧澤医院は、明治時代の医師である瀧澤清顕が建てた擬洋風建築の病院。瀧澤清顕は、当時から白内障の手術を多数手掛けるほど、医師としての腕はよく知られ、美濃、三河、遠江からも頼ってくる人がいた。それぞれの街道が通る伊那谷は、来るのにも適していただろう。現在は、全国からお医者さんが、興味をもって訪ねて来るそう。資料の調査が進めば、これからその人柄も含めて知られていくだろう。立派な石垣を組んでまで虎岩に病院を作った理由に、絶えず湧き出る泉の存在がある。下久堅に和紙の里ができたのも、水と地形が理由の一つにある。自然の恵みに着目した先人が多い地域なのだなと実感した。〈中に続く〉