繋・宮沢賢治(下)

追悼会に出席したもう一人の女性は、八重樫祈美子という。花巻から来たこの女性が賢治や宮沢家の人たちについて語るのを、永瀬清子は、とても快く聞いたそうだ。気になったので、少しだけ調べてみると、八重樫祈美子は、ジャーナリスト・徳富蘇峰の秘書で、彼女もまた、39歳という若さで亡くなったということだった。

今年の2月、東京に行ったことを想い出す。新宿の写真展を訪ね、向った先は、京王線の八幡山駅。千葉に住んでいた頃、東京へ行くことは多かったが、世田谷まで足を伸ばすことは、ほとんど無かった。初めて降りる駅というのは、楽しい。駅の大きさや駅前の風景。歩く人々。目新しくても、どこかの駅と似ていても、どちらも楽しい。駅は出発点である。案内板で目的地への道を確認して、歩きだす。途中、有名な雑誌図書館「大宅壮一文庫」を発見。住宅街の細い道を歩き進むと、大きな通りがあって、広い公園に辿り着いた。

この公園は、蘆花恒春園という。もともとは、文学者である徳冨蘆花・愛子夫妻が暮らしていた場所だった。1927(昭和2)年に蘆花が亡くなり、1936(昭和11)年、土地や家屋などの財産を愛子夫人が東京市に寄贈した。現在は、公園が拡張整備され、もともとの恒春園は、西側の一角に夫妻の墓地とともに保存されており、記念館も併設されている。蘆花・愛子夫妻がこの土地、千歳村粕谷に引っ越してきたのは、1907(明治40)年のこと。この前に、海を渡り、ロシアまで文豪トルストイを訪ねている。

徳冨健次郎(蘆花)は、1968(明治元)年、現在の水俣市に生まれた。民友社、國民新聞社を創刊し、明治から昭和に至るまで、激動の時代の先頭に立っていたジャーナリスト・徳富蘇峰は、一つ年上の実兄。幼いころから、聡明な兄・猪一郎(蘇峰)とは性格が異なり、厳格な家風にもなじめず、自然に心の慰めをもとめた。成人して以降も、兄の存在に自暴自棄になることもあったが、自然を観察し、文章にすることに活路を見出す。随筆「自然と人生」は、自分の人生観を、目前の自然風景に重ね合わせながら、文学として成立させ、広く愛読された。フランスの風景画家・コローを紹介し、後の文学者たちにも大きな影響を与えた。武蔵野の雑木林を愛し、農作業に汗を流しながら文筆活動をする、「美的百姓」と呼んでいた生活は、後に、随筆「みみずのたはこと」にまとめられた。

徳冨夫妻が暮らしていた茅葺きの母屋に入る。きしむ廊下を歩き、隣の書院へ行く。窓の外を見ると、雑木の林立する武蔵野の林という印象は、だいぶ薄れてしまってはいるが、背の高い木々が生えていた。歩いてきた公園は、子どもたちが走り回り、散歩する人たちも多かったのだが、恒春園は、訪ねる人も少ないようで、閑寂な様子だった。

賢治の追悼会の出席者に端を発して思索が巡り、東京に行ったときの記憶に流れ着いた。賢治にしても、蘆花にしても、ロシア文学、とくに、トルストイから大きな人生の指針を得ていたことは、確かだろう。徳冨蘆花は、恒春園という庭と畑と雑木林において、人の生活の理想を体現しようとした。宮沢賢治は、もっと広い範囲を、イーハトーヴという理想郷と捉えて、農に生きる人々とともに生活の精神的、文化的な向上を目指した。

いわさきちひろのことも、少し記しておく。「いわさきちひろ若き日の日記『草穂』」(松本由理子編/講談社、2002)という本がある。これは、ちひろが1945(昭和20)年の8月16日、つまり、終戦の翌日から付けていた日記をまとめたものである。突如として終わった戦争に対する複雑な思いを、少しずつ自分に溶け込ませるように日記は綴られる。この中で、「宮沢賢治の詩をもっと読んでおけばよかった」と書いている。後年、戦争中に出会った賢治の童話が描く東北の風景は外のことを聞こえなくするほどだったことを語っており、賢治の童話に絵を描いた「花の童話集」(童心社、1969)が出版されている。

ちひろは、日記を書いていた時期からしばらくして、共産党の演説を聞き、彼らの戦中の活動を知り、入党する。演説を聞きに来ていた女性は、ちひろ一人だったという。たった一人で詩人たちの中にいた、永瀬清子。同じように一人で入党した、いわさきちひろ。

宮沢賢治をめぐって、時間と人が交錯する。文学は、作品に親しむだけでなく、脈々と繋がる想いの束を紐解きながら、解釈していくことも魅力である。そして、今、自分の立っている時間的、地理的な位置を知り、次の歩みを考える。私たちの時代が抱える諸問題を解決するための糸口は、きっと、文学を紐解くことで明確になると、私は思う。