中央構造線博物館は、手作り感にあふれ、中央構造線や地質という、説明がとても難しいテーマについて、来館者に丁寧に伝えようという工夫がなされていた。
最初に中央構造線の解説があり、衛星写真とともに、各地域ごとの中央構造線について地図に線を引いて説明がされている。中央構造線というと、信州から三河を通って渥美半島まで下り、紀伊半島、四国へ延びている方が印象にあるが、関東にも延びている。諏訪湖、岡谷の辺りから、東へ延びる。群馬の藤岡市には、三波川という川があり、ここが三波川変成帯の由来。埼玉の東松山市あたりから関東平野に入る。そこから先は、茨城の霞ケ浦の方へと延びているようだが、霞ケ浦の北東、那珂湊の方へ向かっているのか、南東の利根川河口の方へ向かっているのか、正確なところは分かっていないようだ。
平面的な地図だけではイメージしづらい大鹿村周辺の地形は、25万分の1の立体地勢図で見ると、よく分かる。地勢図は、長野県全体が立体的に盛り上がっていて、山脈、山地と谷合いの位置関係がよく分かる。北は白馬から諏訪湖までが広い谷だが、この辺りには大町市、安曇野市、松本市がある。地図の中央には、谷の合流点である諏訪湖。諏訪の南東は、八ヶ岳と赤石山脈に挟まれて、甲府盆地があり、富士山の裾野へと谷が続く。諏訪の北東に目を向けると、佐久平があり、新潟方面へ向かってカーブを描きながら、長野市、飯山市へと続いていく。伊那谷は、南西に延びる谷。天龍川が流れ、伊那市、駒ケ根市があり、飯田市の先は三河山地。天龍川沿いの谷のそばを並走している浅い筋が、中央構造線の谷である。
メインの展示室も岩石庭園と同じように中央構造線のラインを引いて分けてある。入口側は、外帯(赤石山脈)の岩石が並べられているので、緑色岩が多い。奥に進むと内帯(伊那山地)の花崗岩などの岩石が並ぶ。最奥の壁には、実際に掘り取った露頭(地質、岩石などが外にあらわれている場所)の標本が展示されていて、見ごたえがあり、実際にフィールドでどのように観察できるのかが分かった。
各展示室が広いわけではないのだが、他所では知ることのできない、地域の博物館ならではの展示なので、ひと通り見終わっても、なかなか館を出る気にならない。それでもキリを付けて外に出たのだが、展示で知った知識をもとに庭園の岩石を見ると、また違って見えてくる。次回は、もっと時間に余裕をもって訪ねようと思った。
博物館の隣りには、ろくべん館という郷土資料館がある。「ろくべん」は、歌舞伎見物などに持参する弁当箱のこと。大鹿村の歌舞伎は、全国的に有名である。こちらでは、大鹿村の歴史や文化、南アルプスの自然調査の歴史などについて、展示がされていた。
大鹿村は、平安時代から年貢として榑木を納めていた。榑木とは、ヒノキやサワラの良材のこと。伊那谷の大森林は、この地域に暮らす人々に恵みをもたらし、いつの世にあっても権力者たちは、大鹿村の豊富で貴重な木材に目を付けて、利用してきた。山の木を伐り出す仕事をする人たちは、杣人と呼ばれ、木は、人力で運び出された。
江戸時代には、豊かな木材を活用する技術を持った、木地師と呼ばれる職人集団がやってきて棲みついた。椋鳩十の「椋」は、この木地師たちの一族である小椋氏から、とられている。かつて伊那谷周辺は広葉樹の森だったが、時代が下るにつれて、早く大量に木材が必要となって、針葉樹が植林されるようになった。現在の針葉樹は植林されたもので、もともとあった針葉樹とはルーツが異なる。広葉樹では、大鹿村は栗の木が多かった。「代知らず」とも呼ばれる丈夫な栗材は、建物の柱や土台、屋根板、火の見やぐら、川の堤など耐久性を必要とするものすべてに用いられた。だが、人々の生活に身近だった栗の木は、今では少なくなり、栗拾いや秋の味覚を楽しむなどの風物誌も、昔語りとなっている。
ろくべん館を出て、大鹿村を流れるもう一つの川、鹿塩川を訪ねた。川は、小渋川よりも石がゴロゴロとしていて、流れが速い。岩をひっくり返すと、ナミカワゲラの幼虫がいた。
鹿塩川の周辺では、国内では珍しい山塩がとれる。日本で岩塩が獲れる場所は一応無いとされている。海沿いの塩田で塩はつくられ、内陸へと運ぶ道は「塩の道」と呼ばれた。大鹿村にもそんな塩の道の一つ、秋葉街道がある。その道中に、山中で塩水が湧き出ている場所があったということなので、偶然とはいえ、不思議なものを感じる。だがそれも、人が生きる場としての自然と考えたら、見つかったことは、必然なのかもしれない。