伊那谷をめぐる(三) 飯田市のこと 

遠山郷は、かつての上村と南信濃村からなり、現在の行政区分でいうと飯田市に入る。遠山郷が編入した2005年の市町村合併の結果、飯田市は、東西にかけて、南アルプス・聖岳、遠山郷のある遠山川の谷あい、伊那山地、天竜川と両岸の河岸段丘、風越山のある中央アルプス・木曽山脈までを含む、広大な市域となった。

飯田市では、南信教育事務所飯田事務所が主催して、年に数回、研修講座「赤門スクール」を開催している。この講座は、伊那谷の自然、文学、文化、歴史などについて学ぶもので、椋鳩十の講座をされている菅沼さんに声を掛けていただいた。2023年の講座「椋鳩十 戦後の活躍」では、双葉社が発行していた「讀切特撰集」に物語を掲載していた頃の事情、2024年の講座「椋鳩十と読書運動」では、鹿児島県立図書館長に就任した経緯や「母と子の20分間読書」を普及させるための奔走がよく分かり、とても勉強になった。

想い出してみると、2022年の秋、喬木村の福祉センターをお借りして、名古屋から人が集まって開催した講演会では「椋鳩十と戦争」をテーマにお話していただいた。その後も毎年夏に記念館の2階で開催される講座は、訪ねるのが楽しみである。学生時代、熱心だった詩作と詩集「駿馬」についての考察「若き日の椋鳩十」。ハイジやツルゲーネフなど青春時代に親しんだ海外の文学作品が、どのように処女作「山窩調」につながっていったかについての考察「椋鳩十 若き日の読書」。ともに深く考えさせられる講座だった。

私は、自然から表現することを大切にした文学者と彼らが生きた地域に寄り添った文学研究が、もっと普遍的になされてほしいと思う。そして、その地域に現在、暮らしている人たちが、彼らが生きて暮らしていた地域に、今、自分が暮らしていることを、楽しく、誇らしく思えると良いなと思う。文学に興味があって、学芸員や文学研究者を目指す人たちには、ぜひ菅沼さんの講座を聞いてほしい。

赤門スクールや記念館を訪ねる前には、飯田の特色を知ることができそうな場所に立ち寄ることが多い。2024年10月、訪ねたのは、竹佐の杵原学校。映画のロケ地にもなった懐かしさの漂う木造校舎で、1980(昭和60)年まで使われていた。春になると、満開の枝垂れ桜を見に、人が訪ねる場所なのだが、この日は、小雨ということもあり、寂しい雰囲気だった。きれいに磨かれた板張りの廊下を歩きながら、中庭を眺める。信州の人は、学校という場所をとても大切にしていると感じる。以前、椋鳩十記念図書館の本棚に、信州の学校について書かれた分厚い本があったので、手に取ってみたのだが、県内各地の小学校について、開校当時からの沿革などが、写真とともに説明されていた。子どもたちが通う学校は、地域コミュニティにおいて、もっとも考慮されるべき中心施設。昨今の学校にまつわる報道などを思い出しながら、そのことを、もう一度、みんなで考えないといけないと感じた。

12月には、下久堅の和紙の里を訪ねた。長野で和紙の里というと、飯山市の内山紙がよく知られている。県内には、ほかにも数か所、和紙の里があり、下久堅もその一つ。飯田の紙は、元結(髷などを結うための紙紐)の紙として評判だった。落語の大ネタ「文七元結」は、江戸に元結を売りに来ていた飯田の商人・桜井文七がモデルになった噺。明治に入り、元結の需要が減ってからも、水引や障子紙など商品を変えながら、冬の閑農期の副業として、下久堅では全村で紙漉きに携わった。原材料となるコウゾは、遠山郷など近隣地域から、峠を越えて運んでいたそうだ。現在は、保存会の方が中心となって、技術を継承しており、近隣の小学校の子どもたちは、卒業証書の紙を自分たちで漉くそうである。

和紙産業は、地域の自然の産物を活かしながら、使われる材料すべてが植物由来であるため、土に返すことができる。土地の特徴を活かして、産物の異なる近隣地域をつなぐこともできる。自然の循環を活かした産業として、再び発展していくとよいなと思う。

阿島祭りに行く前に寄った座光寺のしだれ桜の前では、たくさんの人たちが記念写真を撮っていた。旧座光寺麻績学校校舎は、県内最古の木造校舎で、歌舞伎舞台を備えている。麻績という名前から、かつて麻布を織っていた人たちがいたのだろうかと考える。上郷の考古博物館は、縄文・弥生・古墳時代などの遺跡が集まっている地域にあり、古代の飯田について考えられる場所だが、訪問した日は、残念ながら時間が足りず、展示を見ることができなかった。また、ゆっくり時間をかけて、再訪したい。