12月26日のことは日記にも書かれている。野村家で原稿整理を手伝う南吉。年末の帰省は、中央線で帰ろうと思っていると話すと、それなら実家に泊っていったらいいと千春は南吉に提案する。日記の記述から想像すると、そんな感じである。「手袋を買いに」を書き上げて、実際に雪景色を見たいと思い、中央線で帰ると言ったのだろうか。それとも、これから訪ねる信州の雪景色を想って、物語が浮かび上がってきたのだろうか。
南吉は、翌日未明に東京を出発し、中央線に揺られて長野に至る。千春の先生でもある彫刻家の家に挨拶にいき、実家の武居家で一泊する。
東京に戻ってから、「赤い鳥」の投稿仲間であり、蒲郡に住む、歌見誠一に手紙を書く。その手紙には、帰省中に訪ねられなかったこと、雑誌の創刊を考えていたが、とん挫したことなどとともに、信州で体験した、冬の雪国の美しさが綴られていた。「白樺と、粉雪と、からまつと、谷底の人家と、あらし(山から木をすべり落とす道)と、そりと、下駄のスケートと、諏訪湖の波音と、山の星の美しさと、太いつららの灰色の空と――限りなく美しい高原の冬に、心を針のようにとがらし、感じ、悲しみ、わびぬれ、よろこび、明るみ、私は渡鳥のようないたいたしく小さい魂をともして、旅したのでした」。
1934(昭和9)年1月、野村七蔵と千春の長男・圦彦がうまれる。その知らせを聞いた南吉は、どのような想いだったのだろう。家族のように親しくする二人のあいだに生まれた男の子である。だが、2月。聖歌とともに出席した、宮沢賢治を追悼する集まりの9日後に、南吉は最初のかっ血をし、療養のため一時的に、岩滑に帰ることになる。
ふたたび東京に戻ってからの日記は、断片的に書かれていて、1935(昭和10)年の記述は3月13日から始まる。「長い間、私は日誌を怠ってきた。その間、私は、つけなければいけないと、常に、心の中でいってきた。そして、それをつけないでいる自分を、非難してきた。私がそのように、日記を重大視するのは、一つは功利的な目的のためである。それは、将来私が、小説を書くとき、私の日記が、なにかの役にたつようにと思うがためである。もう一つの理由は、日記をつけることによって、そうでもしなければ、一瞬の火花のように私の心の上に咲いて、すぐ忘却の闇に消滅する、かずかずの思想の断片を、私の意識にはっきりとのぼせ、さらにそれによって、私の生活に意義づけようとすることである(中略)。私は近ごろ、もっと真実を、せめて自分だけにでも言いたいと思っている(後略)」。
このあと、身辺の細かなエピソードや自身の悩みを日記に綴っているが、4月16日に一旦止まる。止まる直前は、家庭生活や結婚のことを考えている。再開するのは、6月5日。全集口絵の写真の話に戻ると、この年の春陽会の会期は、4月28日~5月20日。上野公園で写真を撮ったのは、この、日記が書かれていない期間である。
野村夫妻に誘われて、上野公園の春陽会展を訪ねる。晴れた公園では、親たちに連れられた子どもたちが遊んでいる。1歳になった男の子は、聖歌が手を引いていたのだろうか。千春がおんぶしていたのだろうか。春陽会は、従来の洋画の会とは一線を画し、画家個人の考えや表現を重んじて、十年ほど前に創立した。展示された400点の絵は、南吉の目に、どのように映っただろう。ゆっくりと会場を歩きながら、千春の絵を探す。飾られていたのは、雪国の絵。一年前の冬に南吉も訪ねた長野の絵である。どれくらいの時間、その絵を観ていたのだろうか。彼らはきっと、絵について、楽しげに言葉を交わしたのだろう。
このあと、南吉は一気に20篇ほどの幼年童話を書き上げる。「ひとつの火」「飴だま」「デンデンムシノカナシミ」などである。南吉は、どんなことを想って、小さな子どもたちが読むための物語を書いたのだろうか。再開後の日記は、子ども時代の思い出から始まる。
私は南吉の作品や日記すべてに目を通してはいないし、なんとなくの想像でしかないのだが、芸術家、文学者になるための物語創作ではなく、子どものために物語を書くことを、本質的な意味で意識したのは、このときだったのではないだろうか。
翌年、東京外国語学校を卒業。東京土産品協会に勤め先が決まる。卒業直前に起きた二二六事件の現場は、聖歌と見に行ったそうだ。世間に戦争の足音が聞こえ始めていた。
東京で働き始めた南吉であったが、10月に二度目のかっ血。千春の献身的な看病によって小康状態になった南吉は、四年半暮らした東京を去り、岩滑に帰郷した。<下に続く>