この半年ほど、半田を訪ねることがあると、近所に南吉の記念碑を見つけることが多かった。たとえば、かつてはカブトビールの工場だった、半田赤レンガ建物のそばには、住吉神社と、宮池という池がある。池のほとりには、「一年生たちとひよめ」に登場する、カイツブリ(ひよめ)の歌の碑が立てられている。亀崎を訪ねたときには、神前神社の春祭りである潮干祭で、海の中に山車を曳き下ろす会場となる浜のそばに、「煙の好きな若君の話」の碑を見つけた。ほかにもあって、半田市は南吉の町なのだなと、あらためて実感する。
2月に東浦町の中央図書館を訪ねた。目的は、南吉が学生(半田中学)時代の友人である久米常民にあてた手紙についてまとめた本、「南吉さんから常民さんへ 六通の手紙」を読むため。郷土資料は、その土地に行かなければ読むことが出来ないことも多い。だが、訪ねる時間はかかっても、図書館には地域ごとの特色があらわれるので、その土地に暮らしている人たちが、どのようなことを大切にしているのかが少し分かり、それもまた楽しい。
久米常民は、東浦町藤江出身の国文学者である。万葉集の誦詠歌としての性格を追求することを研究の柱とした。また、江戸時代の僧、良寛の歌を注釈した。南吉の日記には四年時に初めて名前が登場する。六通の手紙の内容からも、良き友人でありながら、同じように文学の道を先に見る、良きライバルでもあったことが分かる。
南吉は、16歳の4月に、常民の住む藤江の村を童謡で描いている。「藤江の村は/遠いだナ/藤江の村は/坂ばかり/坂から坂へ/白い道/段々下って/行ったらナ、/小さな家が/あるばかり、/お背戸にむくれん/花ばかり。/藤江の村は/小いだナ」。坂の多い村に咲く木蓮の花。のんびりとした春の風景が浮かんでくる。
半田中学を卒業し、二人は疎遠になっていくが、心の抽斗には、若き日に文学論を交わし合った想い出が、ずっと、しまわれていたのだろう。後年、久米常民は、南吉の創作活動の素晴らしさを認めて、このように語っている。「筆者は、文学の研究が、その創作と同じ意義と価値をもつようにさせたいと願ってきた。その念願は、まだ遂げられているとは言えない。(中略)筆者は文学の研究で、まだ少しがんばってみるぞ。(中略)君とライバル関係はまだ終わっていないぞと叫びたい気持ちでいっぱいである」。
この本は、郷土の本ではあるが、東浦町中央図書館ホームページにある「よむらび電子図書館」にアクセスすると、誰でも読むことができる。レイアウトやデザインもきれいで、読んでいて楽しい本なので、もう少し手に入りやすいとよいなあと思う。
4月4日。暦では、清明となる日。辞書によると「清明」の意味は、「清く明らかなこと。また、そのさま」とあり、二十四節気としての意味合いでは、「このころ、天地がすがすがしく明るい空気に満ちるという」(デジタル大辞泉より)とのことである。名古屋の桜は、この日、満開になった。家の前のスミレも、紫の花が満開だ。土曜日の西味鋺観察会では、新地蔵川の水面をツバメが飛んでいた。身の回りの自然の変化を丁寧に観察していると、昔から使われている言葉の意味が、生活に馴染んでくる。
この日は、足を伸ばして、奥三河の設楽町まで行くことにした。三河山地の山あいの土地は、「奥三河」と呼ばれ、大まかに三川の水系からなる。「三河」の由来にもなっている、矢作川と豊川(もう一つは、乙川とされる)。そして、静岡の遠州灘へと流れる天竜川。同じ地域ではあるが、この三川に沿って、文化や自然の様子が変わる。例としては、奥三河の民俗芸能である、花祭を伝承する土地は、天竜川沿いだけなのだそうだ。
奥三河の北は、飯田市や喬木村のある南信州の伊那谷。伊那谷へと続く路は、三河では伊那街道と呼ばれる。伊那谷では、三河へと続く路なので、三州街道と呼ばれる。同じ路ではあるが、人々の生活に合わせて、名前が変化する。
設楽町の手前には、新城市があり、信仰の山でもある鳳来寺山が聳える。「ぶっぽうそう」と鳴くことで知られる猛禽類、コノハズクの生息地でもある。南吉は、1938(昭和13)年、25歳の時、勤め始めたばかりの安城高等女学校の研修で、夏の10日間、鳳来寺山賢居院に滞在した。今年の2月から、奥三河郷土資料館では「南吉のあるいたしたら」という企画展示がされていて、終わる前に、観に行くことにしたのだった。<下に続く>