漢字と風景(上)

昨年11~12月にかけて、色んな場所を訪ねていた。せっかくなので、備忘録的に場所だけ列記してみると、半田市、武豊町、常滑市、日進市、名古屋市緑区、阿久比町、知多市、南知多町、名古屋市北区、浜松市、恵那市、美浜町、名古屋市東区、中津川市、飯田市、春日井市、名古屋市昭和区、名古屋市南区、安城市、碧南市、名古屋市天白区、いなべ市、名古屋市中区、東京都墨田区、横浜市都筑区、名古屋市千種区。並べてみると、熱田を真ん中に東西南北を訪ねている。移動することは多いが、これだけ短期間に集中して移動するのもめずらしい。知多半島の各市町や西味鋺のある北区など、観察や撮影で複数回訪ねている場所もあるので、延べだともう少し多い。ずいぶん方々、行ったものだと思う。

この時期、興味が生まれてきて、気にし始めたものに、漢詩がある。きっかけは、安城市の丈山苑を訪ねたとき、石川丈山(1602~74)という江戸初期の漢詩人について知ったこと。丈山は徳川家康に仕えており、単騎で敵将の陣に討ち入り武勲を上げる。だが、他の近習を差し置いて、討ち入る行為は禁じられていたため、任を解かれ、その後は広島での浪人生活ののち、京都の一条寺に詩仙堂という山荘を造営し、隠遁生活を送る。

出生地である安城の丈山苑は、その詩仙堂を模してつくられた庭園。訪ねた日は、紅葉がきれいで、庭園に建てられている詩仙閣までの石畳では、石畳と小川に散った紅葉を撮影している人もいた。詩仙閣のなかには漢詩の掛け軸があり、庭園には、石碑がいくつも建てられている。掛け軸にしても、石碑にしても、一見して読むことは、私にはできないのだが、漢字は表意文字。文字の連なりを追うだけでも、なんとなく、こういう情景を詠んでいるのだろうと想像できるものもある。

庭園を奥まで行くと、丈山の石像が建てられていて、そのすぐそばに、「立園蝶止肩」と彫られた石碑があった。微笑ましくなって、家に帰ってから、もらった解説文を読むと、読み下し文は、「園に立てば蝶肩に止まる」。四季を通して観察会をしていると、鞄にトンボが止まったり、子どもたちの服にホタルが止まったりという場面に、よく出会う。南知多で鳥の観察をされている方は、じっとしていたら頭にジョウビタキが乗ったそうだ。

武士の世の武勲や隠遁生活に想いを馳せるのは難しいけれど、漢詩にあらわれた自然へのまなざしから、時代は違えども、私たちも目にしているような身近な自然に、自分の心境や思索を重ねていた人だったのだろうと考えた。

年が明けて、2025年になり、半田市の亀崎を訪ねた。古くは海運業、水産業、醸造業で栄えたが、現在は静かな港町である。知多半島と西三河を分ける境川の河口付近にあり、その突端には神前神社という神社がある。

ここでちょっと、鳥になった気分で空に上昇し、北へ4キロほど視線を移すと、東浦町の衣ヶ浦の藤江越し跡碑がある。亀崎のすぐ北の衣浦大橋ができるまでは、ここから対岸の吉浜まで渡し船が出ていた。この辺りは、明治時代まで塩づくりがされていた塩田地帯。東浦の塩は古くから知られ、重宝されていたそうだ。

当時に想いを馳せてみる。現在、私が暮らしている熱田の宮宿のお隣り、鳴海宿から大府を通り、緒川へと向う。境川沿いに師崎街道を歩くと、低湿地に塩田が広がって、その向こうに川をはさみ、先には西三河が見える。海に近づくと、その突端に小高い岬の港町、亀崎がにぎわっている。周辺には干潟があって、生息する生きものを獲るために、千鳥や鷺などの野鳥も、干潟にやってきていたかもしれない。そんな風景を想像した。

亀崎を歩いていると、そこここに「亀崎十景」という立札が立っている。たとえば北浦坂の立札には「北浦烟雨」という題で「濛濛連極浦/稍稍濕漁蓑/午寒魚不出/網裏落花多」という五言絶句が書かれている。読み下し文は、「濛濛極浦に連なり/稍稍漁蓑を湿らす/午寒くして、魚出でず/網裏、落花多し」。意訳も一緒に書かれており、「遠くの水辺まで雨が暗く垂れ込め、だんだんと漁師の服を濡らす。昼でも寒く魚は潜んだまま。網の中にはいっぱいの花」という内容と分かる。いくつかの立札を読みながら、かつては景勝地だったことが分かり、漢詩の作者に興味が湧いた。立札の端には「作者 浅野醒堂(一八五七~一九三四)」と記されていた。<下に続く>