鵜の隊列

熱田に暮らし、知多半島をめぐっていると、鵜が空を飛んでいるところをよく見かける。熱田に限らず、市内の川や海などに来るので、身近な鳥である。鵜の仲間には、カワウ、ウミウ、ヒメウがいるのだが、見分けるのは難しい。海鵜、川鵜という名前に従って、海で見かけるのでウミウと思ってしまうが、知多半島の海岸は、カワウが多い。また、岐阜の長良川の鵜飼いにはウミウが使われている。昨年、海で鳥の観察をしていて、「ヒメウも混ざっていますね」と教えていただき、冬にやって来る一回り小さい、ヒメウを知った。

鵜の仲間のなかでも、カワウは、人に身近な存在で、知多半島はカワウの繁殖地として知られている。大正時代に全国に広く分布していたカワウだが、エサとなる魚が川から姿を消したため、1970年代には、3000羽まで減少した。彼らの繁殖地(コロニー)は、知多半島を含め、全国に数か所しか無くなってしまう。だがその後、河川の水質が改善し、魚が川に戻ってくると、カワウたちは、たくましく増加していく。現在では全国にコロニーが確認されており、15万羽以上いるという話である。

確認している知多半島のカワウのコロニーは、3か所。一つは、1934(昭和9)年に鵜の繁殖地として天然記念物指定された、鵜ノ池。この地域では、鵜の糞が、リン酸を多く含んでおり、質の良い農業用の肥料になるということで、村全体で糞を集めて売却し、その収益を村の生活に還元し、臨時収入としても分け合ったそうだ。天然記念物指定を受けるための申請書にも、糞の肥料としての価値の高さが記されていたという。もう2か所は、鵜ノ池と知多半島道路を挟んだ反対側にある、菅田池と菅苅池。菅田池では、コロニーのすぐそばまで近づくことができる。2月頃になると、子育てが始まり、周辺の雑木林や池の畔は、糞で真っ白になる。雑木林を歩くと、大きな声で「グルルルッ」「ギュワッ、ギュワッ」という鳴き声が樹上から聞こえてくる。エサや、巣の材料を咥えて戻ってきて、再び飛び立っていく親鵜と、巣の中でエサを待つ、子ども鵜。冬から春にかけて、一番にぎやかな季節だ。

カワウは、留鳥または漂鳥とされ、一年中見かける。早朝にエサをとるために、隊列を組んで移動する。熱田の周辺では、七里の渡しや堀川によくやってきているが、その数がとても多い時が、たまにある。一昨年の春には、名古屋国際会議場で観察会報告会を開催した帰りに、数百羽のカワウが飛来していた。堀川の水面を覆う、鵜の群れ。ボラの群れが海から遡上していたのだろうか。潜水を繰り返し、魚を獲っていた。

留鳥とは、一年を通じて、同じ地域に暮らす鳥のことを指す。一方、漂鳥とは、季節によって国内で生活の場を変える鳥のことを言う。北日本から西日本へ移動したり、山から平地へ移動したり。ウグイスやモズなどが知られ、スズメにも、長距離を移動する個体群がある。

2021年12月。初夏に海浜植物の花を観察している常滑市の海岸で、冬の海を歩くという観察会を行った。風もあって寒い日だったが、子ども達も参加して、サクラガイやサルボウなどの貝殻を拾ったり、海岸に生える植物の、木の実や、冬越しの様子を観察した。観察会が始まる前、浜には、優に千羽を超えるカワウが集まっていた。百羽以上が一団となり波打ち際にいて、海沿いにいくつも一団の塊がある。カワウたちは一様に沖を見ている。最初に遠くの一団が沖へと飛び始めた。先には、始まったばかりの海苔養殖の粗朶(そだ)が立てられており、周囲を小舟が走る。粗朶の少し手前の海上すれすれを、黒い鵜の列が伸びていく。一団が飛び立ったら、それを追うように、次の一団が飛び始める。しばらくして、また次の一団が飛ぶ。そうして鵜の大群は、伊勢湾の沖へと飛び去って行った。

こういうことはよくあるのだろうかと、調べてみると、他の地域でも、まれに見られることがあるそうだ。ただ、頻繁にあるわけでは無く、毎年見る光景でも無いらしい。カワウは漂鳥でもあるので、暖かい南方へと集団で移動していったのだろうか、と考えている。

2月上旬、そろそろ本格的に観察シーズンが始まる。その前に、自然と文学についての見識を深めておくため、東京・世田谷にある文学資料館を訪ねることにした。日本橋、新宿、世田谷と丸一日、移動するため、朝、早めに家を出る。休日で人のいない教育センター前の道を、駅に向かって歩いていると、正面の空に、鵜の隊列があらわれた。菅田池では、子育てを始める時期だ。Ⅴ字を描いた隊列は、立ち止まって見上げた私の頭上を過ぎながら、直列に変わり、そのまま乱れること無く、後方の空へと消えていった。