かつて東京に琅玕洞という画廊があった。つくったのは彫刻家である高村光太郎で、実弟が経営した。日本で初めての近代的な商業画廊だったが、経営が上手く行かず一年で閉店。しかし、実際には経営者と場所が替わり、20年以上存続していた。そして、経営が移って以降、より深く関わった芸術家の一人が、碧南出身の工芸家・藤井達吉である。
10月の終わり。瀬戸市で、ある現代美術のイベントがあり、藤井達吉の「無風庵」が公開されていると知り、観に行った。無風庵は小原村から移築された工房である。急な坂を上った小高い山の上に、茅葺きの庵はあった。縁側から覗くと、六畳間が二つつながっていて、片方の畳は外され、美術家によって、珪砂の山が築かれていた。部屋に上がる。天井はきれいな竹組で、奥の小さなふすまに、藤井達吉の墨画を見つけた。一枚は、野山の風景。あとの二枚は、野の花。花の一つは、キク科の花の綿毛だろうか。もう一枚は考えてみるが分からない。少し褪せてはいたが、素朴な絵で楽しい。土間の展示ケースには、きのこの掛け軸、七宝焼き、陶器の皿、花瓶、達吉が実際に使っていた画具が飾られていた。展示スタッフの方に聞くと、普段は一般公開されていないため、地元の方も訪ねてきているそうだが、藤井達吉の名は、よく知られている、ということでは無さそうだ。
瀬戸に行く前に、碧南市にある藤井達吉現代美術館を訪ねた。今年に入ってから、2回目の訪問。地元の秋祭りと重なって、美術館付近の道は、人でにぎわっていた。入館無料の日だったからか、館内も前回来たときより人の数が多い。2階の企画展示「没後100年 富岡鉄斎」を観覧して、1階に下りてくる。階段下では、藤井達吉翁像が笑顔で座っている。最奥の展示室に入ると、藤井達吉の年表が掲げてあり、作品が展示されていた。
コレクション展示は、第3期で、展示テーマは「自然へのまなざし」だった。一点ずつ、ゆっくり観ていく。森に生える羊歯の様子を描いた屏風絵「ぜんまい」。雑木林の林床には、シダがよく茂っているところがある。近くに小川があり、湿気があるような場所では、オシダの葉がこの絵のような様子で生えている。人が歩きやすい道よりも、少し森に踏み入ったところ。この絵のモデルとなった場所も、あまり人が立ち入らない森の中と思えるが、森に行くのが好きだったのだろうか。
知人の茶室の天井画として描かれた草木の花。全部で36枚あるが、そのうち5枚が展示されていた。春に来館したときに購入した「藤井達吉の全貌」展図録(2013)によると、植物図鑑と照らし合わせて、一点一点、植物の名前を調べ、だいぶ種名が判明したそうだ。そのうちの一枚、印象的な青い花のシラネアオイは、美術館のモニュメントとしても使用されることになった。よく目を惹く、素敵な図柄だと思う。
「羊歯文書棚」と題された棚も、おもしろい。高さが1メートル、幅が40センチ、奥行きが70センチほどの木の書棚全体をシダが包んでいる。眺めていると、シダの葉の統一された模様に目が離せなくなる。シダの葉が備える形体の美は、写真を撮っていても、楽しい。雑木林を観察していると、花の重なり合いや木の枝の絡み合いなど、偶然の美、規則的な並びでは無い部分に、美を感じることが多いのだが、シダは規則的である。そこに木々の間からこぼれた光があたると、また、美しい。規則的な美は、人工物だけの領分ではなく、自然の中にも整った美があることを分かりやすく実感するのが、シダなのだ。
後日、「藤井達吉の全貌」に付属していた、自筆自叙伝「矢作堤」を読んだ。原本は1961年の大晦日から、62年の新春、そして同年2月に書かれた散文である。81歳の達吉が人生を振り返って、誤字も気にせず、筆の向くままに言葉を綴っている。最後の方では当時の社会や、科学の発展について、憂いをもった言葉が続いていた。
「人間が政事だ、宗教だ、芸術だ、化学だといっても、大したことはない。(中略)化学の最後は地球中の生物 植物を絶やす丈けだ、一片の小石を見ても、小草の実を見ても何という自然の力よ、」。化学と科学を分けて書いていないが、言葉は、同時代のレイチェル・カーソンと重なる。62年に「沈黙の春」は発表され、64年に「生と死の妙薬」という邦題で日本でも出版された。カーソンは、この年の4月に亡くなる。藤井達吉の没年月は、同年8月。偶然である。けれども、時代が危機に直面する時、同じような危惧を抱く人たちはいて、普遍的な事柄を感じられたなら、国は関係ないのだろう。そんなことを考えた。