10月下旬の西味鋺観察会。この日は、矢田川河川敷で虫を捕る予定だったのだが、水辺の広場に到着すると、川の水量が減っていて、いつもは川の中を歩かないと行くことができない中洲が、ほとんど繋がっていた。小さい子でも、ちょっと手を貸せば、中洲に渡れる。なかなか無い機会なので、虫捕りから変更し、中洲を観察することにした。
中洲の縁の砂を踏むとゆるめで、足がずぶっと埋まるところもある。中央にいくと、いろいろな色の石が落ちている。上流の瀬戸から流れ着いた陶片も混じっている。荒れた環境だからか、花の大きさが極端に小さいツユクサがあったり、荒れ地に強いタデが数種類あったりと、中洲の様子を観察して歩く。子どもたちは、思いがけず、川の近くに来ることができたので、小魚の群れを思い思いにすくい上げていた。
下流に向かって中洲の先端まで歩いてくると、先にそちらにいた方が、「カワセミがいましたよ」と教えてくれた。カワセミは清流にいると思われることが多いが、市内でもよく見かける。熱田の近くでは、堀川沿いの貯木場跡によくあらわれる。冬がやってきて、水辺を飛ぶカワセミの羽が、きらっと光るのを見つけると、嬉しい。この日は、すぐに飛び去ったようで、残念ながら私は見つけることはできなかった。
さて、カワセミは、漢字では「翡翠」と書く。宝石の「翡翠(ひすい)」は、カワセミの羽の色に似ていることから名前が付けられているのだが、その中でもとりわけ美しいものは「琅玕(ろうかん)」と呼ばれる。なかなか普段、生活をしていて耳にする言葉ではないが、自然を見つめていた文学者や表現者の足跡を調べるなかで、最近、三つの琅玕と出会った。
一つ目は、中勘助の第一詩集。「琅玕」と題されたこの詩集を読んでいると、さまざまな自然の情景が浮かび上がる。中勘助は、海で、野山で、沼のほとりで、田畑で思索を巡らせる。花や虫や鳥であっても、それらのある風景であっても、出会ったことで、言葉にしたいほど心の琴線に触れた自然の姿は、それだけで自分だけの宝石になる。さらに、詩集にすれば、読んだ人とも、そんな美しい石の数々を共有することができる。
二つ目は、金子みすゞについて調べているとき。金子みすゞは、童謡・詩を書いた手帖を数冊、残して亡くなったが、残された手帖の一冊が「琅玕集」である。この中には自分の詩ではなく、金子みすゞ自身が雑誌を通して出会った、さまざまな詩人たちの詩が記されている。書籍化されている(「琅玕集(上・下)」JULA出版局/2005)ので、当時、金子みすゞが宝物のように大切にしていた、詩の数々を現在でも読むことができる。
11月に新美南吉記念館の童話の森で「鳴く虫の観察会」を開催することになり、資料に金子みすゞと巽聖歌の詩を載せることにした。自然によく親しみながら詩を書いていた二人。金子みすゞのコオロギは、昼の月を見て鳴いていたり、ネコに片方の脚をとられてしまったり。巽聖歌は、山から吹き下ろす風の中、鳴いている虫を詩にしている。また、「糸ぎりす」という虫が登場する詩が日記の中にあったので、こちらも載せた。糸ぎりすは、クビキリギスのことだろう。赤い口をしていて、強く噛む。それこそ糸を切るくらいかもしれない。詩に登場する糸ぎりすは、越冬から目覚めるが、農夫たちもまだいない荒れた畑で、食べものを探し、ゆっくりと歩いている。畑の様子を、丁寧に観察しているから生まれる詩だと思う。
新美南吉は二人とは歳が離れているが、金子みすゞと巽聖歌は、ほぼ同世代。みすゞの方が2つだけ年上である。同時期に雑誌に投稿していた二人だが、面識があったかは知られていない。ただ、みすゞは「琅玕集」に聖歌の詩「水口」を記していて、聖歌は日記の住所録に、みすゞの名前と仙崎の住所を記していた。会ったことはなくても、雑誌に掲載された詩を通して、お互いのまなざしに、魅かれあっていたのだろう。
戦争が終わり、聖歌は作品を託された南吉とともに、みすゞのことも気に掛けていた。1954年に聖歌が編集し刊行した「日本幼年童話全集」(河出書房)には、みすゞの詩が10編掲載されている。みすゞは、80年代以降になって、ようやく、稀有な詩人として知られるようになった。73年に逝去した聖歌が、それを知ることはなかったが、きっと亡くなるまで気に掛けていたのではないかと想像する。
同時代の文学者たちに寄り添い、本を編集し、また、詩の楽しさをまだ知らない人たちに伝え続けた巽聖歌。その生涯と人となりを、多くの人に知ってもらいたい。〈下に続く〉